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千葉県横芝光町で11C前半金将墨書土器(長さん)

今回は、南関東の遺跡で、11世紀前半成立と
みられる遺物に、漢字で金将と書かれたような、
煤模様が有る例を紹介する。

碁石が共出土し、囲碁も将棋も同時に指された

としか、考えようも無い。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
22324_4_芝崎遺跡群.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
千葉県(当時)匝瑳郡光町(現山武郡横芝光町)
芝崎遺跡群、西暦2006年、千葉県道路公社・
財団法人東総文化財センター。
 なお芝崎遺跡群の中に、芝崎遺跡・中島遺跡
等の遺跡が在る。東西1km、南北500メー
トル前後の田畑地域に、点々と4箇所程度の遺
跡が在るようである。問題の遺物は碁石も含め
て西側の芝崎遺跡で出土した。
 発掘報告書、第1本文pdfの冒頭例言によ
ると、遺跡の場所は千葉県山武郡横芝光町芝崎
(当時:匝瑳郡光町芝崎)字沖ノ内。話題とす
る遺物が出土したのは、調査の概要の本文第2
ページ付近の記載から、西暦2000年~
2001年前後の事と読み取れる。
 遺物の成立年代は発掘報告書第1本文pdf
の、第49ページの記載から、金将墨書土器が、
第173号住居跡、碁石が第4号住居跡から
出土したが、何れも10世紀後半から11世紀
前半の間と、出土遺物の形と住居跡の切り合い
等から見られているようである。遺跡の中では
比較的新しい方の住居跡で、ここの古い住居跡
は、飛鳥時代末の7世紀末成立と見られている
との事である。ここでは11世紀前半だと仮定
し、以下議論する。
 遺物の写真は発掘報告書、第4pdfのスケッ
チ図・写真図版合体図第208:”住居跡出土
の遺物”の下カラム”第173号住居跡①”の、
第1段右に在り、第3番:”土師器 杯”との
旨のナンバリングが在る。

芝崎173金将.gif

 上図のように、不揃いで金だけ濃いが、漢字
で側面に、右から左に金将と書いて有るように
も見える。将棋駒の名称が、確かに書いて有る
ようにも見え、正しいとすると大発見であり、

将棋が伝来した直後の、金将墨書と解釈できる。

 冒頭の記載の繰り返しになるが、字が不明確
なので、遺跡の別の住居跡の遺物を調べると、
第3遺物図pdfの、スケッチ図・写真図版合
体図第21:”住居跡出土の遺物”の上カラム
”第4号住居跡②”に3個並んで、

碁石であると発掘報告書で説明された遺物

(12・13・14)の写真が有る。

芝崎碁石.gif


芝崎遺跡では11世紀初めに、遊戯が盛んで、
囲碁を打つ習慣があったところに、将棋が伝来

してきたと取れるようにも思える。
囲碁に比べて、8升目32枚制原始平安小将棋
(取り捨て)は、ゲームが出来として原始的で
あり、裸玉の自殺手優先で、何とか様になる状
態だったが、

何らかの事情で、千葉県でも囲碁と並立して
無理にでも遊ばれたとしか、解釈出来ない

であろう。平将門の乱の増幅を防止するため、
将棋を指すことが東国の体制側豪族の嗜みとし
て妥当と考えられ、中央からも推奨されたので
はないかというのが、本ブログの見方である。
囲碁が少し停滞したのは、藤原道長も囲碁盤を
所持していた11世紀初頭ではなくて白河天皇
の時代である、11世紀末程度に限定されてい
たとする本ブログの論と、一応のツジツマは合っ
ていると考える。
 上の方の遺物の墨書の読みがもし、金将で本
当に正しければ、何れにしても、将棋は伝来し
てから、瞬く間に本州全体・青森県までは広がっ
たとしか、解釈出来ないと考えられる。
(2022/04/24)

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