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新安沖沈没船内でモンゴル密偵が居ても大将棋を指す方法(長さん)

以前述べたように、本ブログでは、13升目型と見る
本ブログの普通唱導集大将棋が、敵国降伏の呪術的意味
を込めたゲームであったと見ている。そのためモンゴル
帝国所属の船員が乗る、呉越同船の新安沖沈没船の中で、
同系列の15升目130枚制後期大将棋を指すのは、そ
の20年程度前に、モンゴル帝国降伏将棋を指した経緯
があるとすれば、困難ではないかと述べた。
 しかし、そのときも言及したように、13升目108
枚制の本ブログの仮説普通唱導集大将棋と、既存の15
升目130枚制の後期大将棋とは、一応別のゲームであ
る。従って、仮にモンゴル帝国の密偵に、普通唱導集大
将棋が、”破壊防止法に違反するゲーム”という事が
判っていたとしても、後期大将棋には、要素が無いから、
単なる娯楽と、言いくるめる方法は、絶対に無いとは言
えないのかもしれない。そこで、少なくとも理論的に、
そのようなゲームが構成可能かどうかについて、以下に
考察してみる事にする。
 思考経過で重要なポイントと、結論を先に述べ、その
後で説明を加える。

後期大将棋の4段目に、日本国を守る龍王が駒として存
在しなければ、敵国降伏の要素が抜ける。
 龍王を除いて、1段上げた獅子と狛犬、奔王を並べれ
ば済む。

では、以下に説明を加える。一例として、新安沖沈没船
内で指せる将棋は、上段の後期大将棋から、龍王×4、
猫叉×4を除き、狛犬×2を加えた、下段の初期配列の
将棋となる。

15升目130枚制後期大将棋の初期配列(下5段、以下同):
口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車飛龍横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行堅行横行飛龍飛車
口口猛牛口口嗔猪口口悪狼麒麟獅子鳳凰悪狼口口嗔猪口口猛牛口口
反車口口猫叉口口猛豹口口盲虎酔象盲虎口口猛豹口口猫叉口口反車
香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

新安沖沈没船(仮称)124枚制龍王無狛犬後期大将棋の初期配列:
口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車飛龍横行堅行角行龍馬獅子狛犬奔王龍馬角行堅行横行飛龍飛車
口口猛牛口口嗔猪口口悪狼麒麟口口鳳凰悪狼口口嗔猪口口猛牛口口
反車口口口口口口猛豹口口猛虎酔象猛虎口口猛豹口口口口口口反車
香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

なお、猫叉は、妖怪”ねこまた”の漢字表現が、西暦
1323年時点の、徒然草の時代に確定していないと見
たため、取り除き、下段の将棋では、盲虎を猫叉動きの
平安大将棋の猛虎に戻している。
 前に述べたとおり、この124枚制の大将棋は、
本ブログの基本進化の見方と、次の点で

全く合致していない。

すなわち、悪狼、猛豹、猫叉が全部加わってから、自陣
5段目配列に”膨ら”んでいない。
 しかしながら、そもそも潰れたまま、悪狼、猛豹、
猫叉が全部加わり、ついで自陣が4段目から5段目に膨
らんだと、以前考えたのは、

奔王を左辺の香車の位置に移動させて、端攻めしたとき、
攻め駒が爆発的に消耗する欠陥があるため

である。
 ところが、配列を見てもらえると判るが、この問題は、
そもそも、後期大将棋で奔王が、4段目中央に居るから
起こるのであり、盲虎の横動きを無くしてから、

奔王を元の右龍王の位置にシフトさせても、ほぼ防げる

のである。
 しかも、このモデルの利点は、神奈川県鎌倉市の
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡発掘の中将棋木札に、

”しろいぬ”が書かれている理由をも、説明し得る

と点も有る。つまり大将棋に、予め狛犬が有ったために、
獅子に関する特別な規則による、合否判断の問題で、
鎌倉市今小路西御成小学校遺跡の鎌倉時代のゲームセン
ターにて問題が起こり、獅子を取り除いて、狛犬を入れ
たいときに、予め狛犬が存在しているという利点がある
と言う事である。
 さて、ここから後が、これで新安沖沈没船内に同船し
ている、モンゴル帝国の密偵に、ゲーム内容が怪しまれ
ないと考えられる理由である。
 そもそも、13升目108枚制の本ブログに関して、
モンゴル帝国の密偵に、モンゴル帝国降伏の呪術ゲーム
だと、バレてしまうゲームルール上の、特に初期配列や
駒の構成に関する要素は、次の3点であるとみられる。

①2段目に太子成り酔象が有って、麒麟と鳳凰を両側に
付けており”釈迦の仏教が守護する国”である事を、示
している。
②おなじく2段目に、牛、虎、龍、猪駒が有って”鬼門
から来る鬼を退治する事”を表している。
③3段目に龍駒が4枚並んで有り”龍神がモンゴル帝国
の侵略に、神界にて対抗する国”である事を表している。

大切な事は、①につしては、麒麟、鳳凰を2段目から3
段目に移動させて、そのイメージを薄め、更に、
牛~龍は、龍を4段目に移しただけでなく、2~3段目
動物駒を、肉食が強いものを中央に、草食系の弱いもの
を袖に置くという、闘獣棋や、中国黄河文明時代の、将
棋の伝説に則って、配置変えたため、

①と②については、後期大将棋とその類では、元々問題
が回避されていた

という点である。つまり、

③の問題だけ、残っていたと言う事

である。だが、③の点についても、龍そのものを示す、

龍王を、要素から外してしまえば、龍馬は馬なので、
モンゴル帝国に敵対的な将棋と証拠そのものが消滅

してしまうとみられるのである。だから後は、モンゴル
帝国降伏将棋が指されていたのは、西暦1300年まで
であり、今は西暦1323年だから、23年前の昔話と
言いくるめれば、モンゴル帝国密偵に対しての、言い訳
として、成立しないとまでは言えないと言う事ではない
かと、私は思う。
 確かに、後には少しゆり戻して、西暦1380年頃に、
後期大将棋になったとしても。西暦1320年頃から
西暦1350年頃までは。異性庭訓往来に記載されてい
るように、

いろいろな将棋が試行される混乱期だった

と考えれば。偶然西暦1380年の57年程度前に、
後期大将棋にやや近い、15升目124枚制の、
本ブログの普通唱導集大将棋と後期大将棋の中間形で、
15升目、自陣段、中間段、相手陣段の等間隔な将棋が、

一時的に有った位の所までは、ひょっとしたら許される
のかもしれない

とは言えるかもしれないと、私には思われたのである。
(2019/07/11)

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猫叉。徒然草の表現は”猫に犬へん柔”(?)(長さん)

以前に述べたが、成書の吉田兼好の徒然草では、読み
下し文で表現され、89段の猫叉の叉は、ひらがなで
表現されている。鎌倉時代末に吉田兼好が、徒然草
を書いたとき、漢文型で書いたのかもしれないので、
少なくとも猫叉の叉は漢字であったはずだと、私は文
学の歴史の素人なので考えた。ちなみに鎌倉時代初期
に、藤原定家は”猫股”と表現していたと記憶する。
 そして安土桃山時代に、水無瀬兼成は、猫叉と書い
ている。
 結論を書くと次の成書に、表題に有るように、

”猫に犬へん柔”と吉田兼好の徒然草ではなっていた

との情報が有った。徒然草の原文で確かめて居無い。
なお、原文で確かめるという事が、できると言う性質
のものなのかどうかも、実の所、私には良く判らない。

徒然草事典(西暦1977)三谷栄一編、有精堂出版。

なお、犬へん柔はIME辞書では、音読みがドウ、ジョ
ウ、訓読みが”さる”。諸橋徹次の大漢和辞典による
と、訓読みでタハケル等が有り、テナガザルの一種の
事だという。
 これは、実在する話とすれば、吉田兼好流のあて字
とみられ、たぶん原文の徒然草に、漢字でこう書いて
あると推定されるという、推定の話なのだろう。ただ、
”マタ(mata)”と言うとき、色葉字類抄などで
は、以前に本ブログで書いたように、人体の体のある
部分を指す、マタグラの意味ではなくて”猿”系の漢
字を充てている。ので、吉田兼好は、マタの意味にな
る、猿関連の漢字を探して、書いたと解釈できると思
う。つまり吉田兼好は、本当に、いい加減なあて字を、
したわけでは無いと言う事である。
 以上の結果をまとめると藤原定家は猫股。吉田兼好
は猫+犬へん柔。しかしながら曼殊院の将棋図が
猫叉だったので、将棋纂図部類抄は、猫叉なのだろう。
 その後、色葉字類抄の書写時に、大将基馬名で猫刃
になり、江戸時代には、たとえば松浦大六氏所蔵の、
将棋図式でも猫刃になっている。猫刃は猫叉の類と解
釈できるが。しかし、猫に犬へん柔を、叉と解釈して、
字を少し変えたとは考えにくい。よって、

猫叉という駒名の漢字表現が成立したのは、室町時代
初期と、はっきり結論できるのではないか

と私は考える。
 つまり、後期大将棋は室町時代初期成立と、

少なくとも猫叉の漢字表現の成立時期からは疑われる

のではないか。むろん猫叉という妖怪自体は、平安時
代末には、遅くとも知られていた。しかし、

妖怪ごときだから、正確な漢字での表現はどうでもよ
かった。

ので、鎌倉時代には、漢字にしようと、ひらがなにし
ようと、どうでもよくバラバラだったのではないか。
 しかしながら、将棋駒として作るには、漢字二文字
で、いつも同じにならないと、駒名として使えるよう
には、私には思えない。
 たとえば、鳩盤の盤と、鳩槃の槃とは、このような
使い方のケースは異字扱いだが、将棋の駒としては、
駒の動かし方ルールが違う。対局中に、特に劣勢側の、
難癖の原因となるため、音だけ借りてきたような漢字
を混在させた結果、”別の将棋具の、駒の動かし方ルー
ルとは違う駒である”という類の主張を発生させる原
因を、予め作らないようにするのが普通だからである。
 本ブログでは、猫叉は鎌倉時代には、狼や山犬の類
だったし、悪党の洒落で悪狼を作ったと見たため、悪
狼も猫叉も、鎌倉時代末頃の、悪党と言う言葉が流行っ
た時代の成立と見ていた。猫叉は、漢字でどう書くか
が、鎌倉時代末までは、バラバラだったので、よって
後期大将棋の成立は、徒然草事典からの情報を見ても、

南北朝時代から、室町時代前期の間のどこか

の疑いが強いのではないかと思う。
 そして私には、盲虎、悪狼、猛豹、嗔猪、猫叉、
猛牛、反車で作る、ジグザク列が確立しないと、

後期大将棋は成立しないと解釈するべき。

以上のような気が、やはり依然してならない。
 ようするに後期大将棋は、ひょっとすると、盲虎は
直前まで平安大将棋の猛虎の動きだった、中将棋の祖
の将棋”、すなわち普通唱導集大将棋の後継である、
西暦1350年頃成立の中将棋と、深い関係が有るの
ではあるまいか。
 故に、

後期大将棋は普通唱導集時代の大将棋にしては、小駒
の構成要素が不足。

以上のように、考えるのである。(2019/07/10)

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新潟県のカヤマチ遺跡より2013年”奔鉄”類似木片(長さん)

新潟県埋蔵文化財調査事業団の、過去ログによると、
縄文時代の遺跡とされる、新潟県岩船郡関川村片貝
の通称カヤマチ遺跡で、時代が下るとみられる卒塔
婆の頭部分と共に、その破片とも将棋の駒とも取れ、

無理やり読むと、奔鉄のように見える木片が出土

しているらしい。
 問題のPDFファイルは、”平成24年のカヤマ
チ遺跡発掘報告のまとめ”と置き換えられて、検索
するとhitはするが、リンク切れを起こしていて、
簡単には私には、詳しい内容が見れない。

カヤマチ遺跡.gif

 上の写真の左の木片がソレだが、字を良く見ると、
2文字あるうちの、上の方は”奮”と書かれている
ようでもある。ただし奮迅と読むのは、難しそうだ。
なお、右の卒塔婆の方はの墨跡は、梵字のようだ。
そこで、

無理やり将棋駒にある漢字を当てはめると、一字目
は奔と、見てみたくなる。

 また2文字目は、金へんの可能性は少ないとも思
えるが、敢えて金ヘンの漢字に見てしまうと、

鉄(鐵)である。

従って、元駒不明の”奔鉄”に無理やりなら読める。
元々縄文時代の遺物が多い遺跡なのだろうから、こ
れらの木片はノイズ扱いであろう。よって報告書は、
手紙で請求するか、新潟に行かないと、見れなくし
てしまったとも考えられる。

残念な事だった。

ざっと、最近画像検索をしてみたが、今の所、未確
認の擬似出土駒状の写真は、この一枚程度しか、簡
単にはweb上ではhitしないようだ。(2019/07/09)

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ウズベキスタンの象・駱駝?の造形物はチャトランガか(長さん)

ここでは、表題の外国の遺物について、2人制チャ
トランガとしては、デザインが変だと論じる。
 先行研究は著名で、増川宏一氏、木村義徳氏等、
多くの将棋史研究者が、プロトチェスの駒かどうか
に関して言及している。増川氏は一時期そう論じた
が、”将棋の起源”以外で言及は余り見出せない。
 正確な遺跡名は、加藤九祚氏とB.トルグノフ氏
(2016)によれば、”ウズベキスタン共和国の
ダルヴェルジン・テバ遺跡のDT-5出土の将棋駒”
と言うとの事である。
 象の姿の金製の駒と、駱駝(?)と見られる同じ
く金製の駒は、少なくとも有るようだが、この2個
以外に有るのかどうか、本ブログの管理人には、現
時点でよく判らない。古代インダス地方を支配した、
イラン人系の国家、クシャン王朝時代の、富豪の住
居跡から、2世紀に成立したとみられる、遺物とし
て出土したとされる。
 将棋の駒であるとすれば、最古であり、
西暦600年ではなくて、

当然2世紀が、チャトランガ系ゲームの初出になる

と言うので、国内でも議論が有ったと木村義徳氏の
複数の著作物で紹介されている。

 今回は、10升目40枚制の2人制チャトランガ
の駒では無い

という、本ブログの見解を述べる。
 根拠を先に書くと、

象も駱駝も屈んでいて、守り駒風だから

である。
 では、以下に説明を続ける。
 駒を見ると、象駒も駱駝駒も、しりもちをついた
形に彫られている。従って、

走っている様子ではない。

しかしながら、二人制チャトランガで、仮にペルシ
ャの7世紀の10升目制の、象と駱駝駒の有るチャ
トランガやシャトランジ系のゲームのルールを考え
てみると、

象は強い駒のはずだし駱駝は象の代わりだったはず

である。つまり、飛車や角行格付けの駒だったと、
本ブログの管理人は認識する。当然、それ用の駒で
あるのならば、走り駒の造形の感覚で、像が彫られ
ているのが自然なのではないか。
つまり、この2つの駒らしき遺物は二つとも、駒だ
とすれば、日本の将棋駒で言えば、

臥龍の”臥”が修飾詞に付いた、象と駱駝であり、
臥龍が小駒である事に象徴されるように、走り駒の
イメージの造形物として対応していない

という事である。
 実際は両者ともに屈んでいて、

むしろ守り駒(神)といった雰囲気がする。

よって、少なくともこの”将棋駒”の像の姿から
察するに、インドやペルシャの二人制原始チェスの
駒にしては、

絶対とまではいかないものの、おかしな点がある

ように、私には思える。別の何らかの遊戯用か、
そもそも部屋の守り神群として使う、部屋の豪華な
飾りの一部とも、疑われるように見える。
 よって、本ブログとしては、この2世紀のウズベ
キスタン出土の”最古の将棋駒”と称されている遺
物は、

西暦600年前後のインドチャトランガに接続する
とは、考えにくい物品

との見方を、今の所取りたい。
 そもそも将棋史・チェス史の遺物は、極端に少な
くまた、遺物の中で扱いが傍系的である。だから本
品も、遺物が存在するという以上に、手がかりが有
る可能性は、かなり少ないように、個人的に予想す
る。

2世紀成立の駒状の像が、屈んだ姿に彫られている
から怪しいと、最古遺物説を否定したら、自動的に
チャトランガの成立は、マウリアのカナウジで、
その次ぎに古い史料に基づく西暦600年頃。

以上のように、論理が展開されるだけだというのが、
チェス等の歴史研究の現状と、ほぼ完全に見て良い
のではないか。本ブログの管理人は、初出時期の論
争に関して、それだけの事ではないかという意味で、
”論争が収まらない性質”とのイメージの論自体を、
依然疑っている。(2019/07/08)

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2013年興福寺出土酔象駒の裏に薄く”金将”の文字(長さん)

西暦2013年に発掘された、西暦1098年記載木簡
と共出土の酔象は、発掘者の奈良県立橿原考古学研究所
によると、”裏に墨書が無い”はずだった。本ブログの
管理人は、この駒の裏の写真は、良いのが未公開と考え
ていたが、西暦2013年10月22時17分に、比較
的判りやすい写真を

毎日新聞が公開していた

事が、最近ようやく正確に判った。毎日新聞のwebペー
ジに、このような古い記事は見出せないが、2018年
4月前後から、余り更新されて居無い、
neggy_0313氏のブログ、”備忘録”

https://blogs.yahoo.co.jp/neggy_0313/

に”新聞上への発表”だと、書いてある写真があるのを、
2019年の7月頭に確認した。
 溝口和彦氏のブログ同様、ヤフーブログなので、該当
ページを容易に特定できないが、上記のurlの後に、

62602409.html

と足せば、neggy_0313氏の西暦2013年
10月25日の午前9時21分の記事が、出てくるよう
だ。
 そのページの中に、赤外線写真で、左に裏、右に表を
奈良県立橿原考古学研究所が撮影したとみられる、写真
が載っている。画像を拡大すると、なぜかneggy_
0313氏のブログの、奈良県立橿原考古学研究所が撮
影した、不成りと発表されたはずの、酔象の左側の写真
の裏面に、

極淡いが”金將”と書かれているようにも私には見える。

web表示画像の大きさから、たまたまこう見えるのか、
または、本当に淡いが金将と、書いてあるのかどうか、
何が起こっているのかは、今の所、私には良く判らない。
金将の将が、”也”でも”く”でも無くて、楷書ではっ
きりとしてしまうと、駒を並べる際の、使い勝手と言う
点で、他の興福寺出土駒では、避けているように見える
ので、その点が今度は謎なのだが。
 なお問題酔象の写真に、奈良県立橿原考古学研究所の、
”思想や感情が、表現されているかどうか”は謎だが、
著作権に関連して、著作物かどうかの判断そのものが、
赤外線写真と称する、処理過程の不明なものでは面倒く
さいので、本ブログへは転載しない予定である。
 お手数ですが、neggy_0313氏の”防備録”
ブログの該当ページで、必要でしたら皆さんで、適宜御
確認願いたい。
 以上の結果から、本ブログの、

大学講師の三浦氏への2013年酔象解説に関する批判
は、間違いなく正しいとまでは、私には言え無くなった。

三浦氏には、舌足らずな批判をしてしまったと、お詫び
したい。なおやや小さい写真で、三浦氏のブログの該当
ページにも、酔象駒の裏は載っている。毎日新聞の方が、
写真の質が少し良く、それで確認してから、三浦氏のペー
ジの写真も、そのつもりで良く見ると、同様に裏が、
金将にも見える事が判る。
 なお問題の酔象駒については、裏が見えない状態で、
水に浸かって一般公開されている近年の写真が、web
上には、赤外線写真とは別に、現時点でも見出せる。
 今後は、この赤外線写真群とは又別の、問題の酔象駒
の裏面に関する情報が、出てくる等の結果として、
neggy_0313氏の”備忘録”の赤外線写真だけ、
たまたまそう見えたと言った、結論になる等に落ち着く
までは、

この西暦1098年の興福寺酔象駒に関しては、
不成り又は、成り楷書二文字金将(?)酔象駒

等と、必要に応じて本ブログでは表現するようにしたい
と思う。
 私にとって、この件からは、信用できそうな研究所の
発表であっても、こと将棋の史料に関する事実認識に関
しては、簡単には追従しない。及びまた、自分で元史料
の様子を、はっきり確認していない状態で、他人の解釈
論に対する批判をするときには、事実認識に関して、

”私は実際にそうだと、確認はしていないが、その酔象
は、『不成り』と発表されているはずではないか”等の、
断り書きを入れて論じるべき

との、苦い教訓を残した論題であった。(2019/07/07)

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新安沖沈没船出土将棋盤(?)ゲームは或種の将棋(長さん)

西暦1323年当時に有ったとみられるゲームに
つき、以下推理する論題である。新安沖沈没船か
ら、平安小将棋系の将棋駒と、碁の駒が引き上げ
られており、たぶん19路の囲碁盤と9升目の、
普通の将棋盤が、存在したが、消失したと考える
のが、自然なように私には思える。すなわち、

これらに加えて論題の、発掘された15升目状の
”将棋盤(?)”は、第3のゲーム用

であったと考えられよう。つまり、9升目の将棋
盤と19路の囲碁盤と、15升目の”盤”が、
日本人の船員が、新安沖沈没船の中で西暦132
3年に、暇つぶしの遊戯をするために、少なくと
も3種類搭載されていたという事であろう。
 19路囲碁盤、9升目将棋盤、15升目(?)
将棋盤(?)は、模様が類似であり、後者は囲碁
の類か将棋の類の遊戯盤の可能性が高いと、私は
思う。何れにしても19路の囲碁盤があるのに、
4目の石を黒が予め、第6路の交点位置に置いて、
16路で指す囲碁を、普通の囲碁とは別に、出土
した碁石を使って指すのは、盤を2枚積まなけれ
ばならないという点で、不自然だと思う。類似の
ゲームを、わざわざしなければならない言われは、
狭い船内では、ほぼ無いだろう。従って、

15升目盤は、将棋駒を使った、平安小将棋とも
また、別のゲームだった可能性の方が高い

と思われる。
 囲碁系のゲームで、予め黒側が4つの聖目に石
を置くハンデ戦のため以外に、聖目に明確な効果
の有る、囲碁型ゲームは、少なくとも私には考え
にくかったので、そのように推定しなおしてみた。
 では将棋類だとして、自陣の目印に聖目を使っ
たと考え、大将棋を指したとは、否定はしないが
断定もできないと、私は思う。他の2面について
は、等間隔聖目なのは9升目将棋盤だけであって、
19路の囲碁盤は、9個の聖目が、普通に付いた
ものだったに違いないからである。つまり、3種
類の遊戯盤の”共通性”について考えてみると、
ありきたりの囲碁盤には、盤面等9区画という性
質は、当然無いので、

西暦1323年の時点で、大将棋は自陣と中間段
が、ぴたりと5段で同じであるべきだという、感
覚が、新安沖沈没船のゲーマーの間で有ったとい
う必然性は、生まれ、にくかろう

という意味である。

聖目が5段に付いていたのは、たまたまそのゲー
ムをするには、そうすべきだったから

では、やはり無いのだろうか。
 以上の認識を前提とした上で今回は、

既に出土した、将棋駒を2種類により分けるとい
うやり方で、15升目盤を使ったゲームを推定

する事にする。どんなゲームだったのか、回答を
先に書いて、以下補足説明する事にする。
 回答を書く。
中央の5段5列に、小型両面楷書金将駒を置き、
片面歩兵駒を打ち駒をするという点を特徴とする、
歩兵で金25枚の陣を攻撃し、25升目内で、
相手の金より味方の歩兵の数が、多くなったら勝
ちという、

一種の将棋ゲームをしていたとも考えられる。

では以下に説明を加える。
 既に本ブログで述べた通り、将棋盤(?)と共
出土した将棋駒は、盤升の目が細かく、はみ出し
て使えないものであった。しかしながら、

以下の写真の2個の出土駒は、小型なので例外

である。

新安沖小駒.gif

 そこで、上記の2つの駒と、残りの10枚前後
の出土駒は、使用する盤が違う、別ゲーム用だと
仮定してみる。更に以下が大切な点だがこの駒は、

左側が不成りの歩兵として、正しく使用される駒。
右側が両面共に金将として、正しく使用される駒。

と仮定する。更には、

不成り歩兵は50枚、両面金は25枚存在したが、
前者は49枚、後者は24枚が消失した

と考える。
 そうした上で、下の写真のように、金を25枚
15升目4聖目盤の、聖目を挟んで中央に初期配
列して、

大将棋とは無関係な将棋ゲーム用に使用した

とここでは考えてみる。

新安遊戯盤ゲーム.gif

上記のゲームは、先手側が不成り歩兵を打ち込み、
普通の歩兵として動かすルールで、相手の金を払
い、中央部に、味方の歩兵の表記された駒を、

相手の金将の数より多く進出させたら味方の勝ち

とするゲームだと考えると、聖目の存在意味から
みて、つじつまが合う。なお、味方の打ち駒の歩
兵は、50枚と相手金将の2倍有り、駒の強さが
著しく劣る点を、数でカバーていると考える。
また、日本将棋には2歩の禁手が有るが、このゲー
ムでは、一列に可能な限り、先手は幾つでも歩兵
を打てるとする。
 ただしまた、相手の金将の動かし方は、普通の
金将のルールと同じとする。
 普通の将棋とルールが違うのは、どの歩兵も、
使用したときに、無地の面へ”成る”事ができる
という点である。ここで”裏返して、無地の面を
上にした歩兵”は、次の手番以降で、他の手を指
す時に、無地の歩兵が複数有れば、幾つでも一度
に取り除いて、再び打ち駒として2回目以降の利
用が、出来る点が普通の将棋と違うところである。
なお、何か別の手は必ず指さなければならないが、
取り除きと着手の順序は、必ず前者を先にする。す
なわち、先手歩兵打ち側が、自分の手番で合法手
を指すときに、任意に、自由な数だけ、無地の面
を上にした、”使用済みの歩兵”を、持ち駒(打
ち駒)に戻して、又使って良いとする。
 なお、言い忘れたが、この将棋ゲームでは、相
手から入手した、先手側金と、後手側が取った、
先手の歩兵は、後手の金将持ち側は再使用しない。

打てる駒は、先手側が元々所有する、裏が無地の
歩兵だけとする

のである。
 実際ざっとチェックした限り、このゲームは、
ゲームとして成立している。深みは無いので、
航海での、暇つぶし程度だとみられるが。
 少なくとも以上のような一種の将棋ゲームは、
新安沖沈没船の将棋類と見られる出土品の形状と、
露骨に矛盾していない。
 今後新しい知見が、韓国側からもたらされるか、
別の遺跡から、後期大将棋の遺物が、鎌倉末のも
のとして出土すると、以上の議論はひっくり変え
るが。つまりは少なくとも現時点で、鎌倉末期の
ゲーマーが”大将棋の盤は、自陣段と中間段の段
数が、ぴたりと等しく3等分割型になければなら
ないと、こだわっていた”という論の根拠は、普
通の19路盤を使うと見られる囲碁用の碁石が、
なまじ共出土してしまうと、むしろ薄まってしま
い、はっきりとは言えなくなって、しまうのでは
ないかと、私には疑われるという事である。特に、
このケースに限っては、盤の升目の粗さが、将棋、
問題の将棋盤、囲碁盤の順に、規則的に細かくなっ
ているという点で特徴があり、その感を一層強く
させる。(2019/07/06)

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新安沖沈没船出土将棋盤(?)の聖目は連珠に無縁(長さん)

以前述べたが、新安沖沈没船より出土している、
6線目聖目付きの16路様の遊戯用盤は、韓国で
日本最古の15升目の将棋盤とされ、後期大将棋
用を想定している事は自明である。
 この史料は本ブログでは、大将棋は鎌倉後期に、
モンゴル帝国や高麗国の攻撃を、降伏させる
呪術的遊戯の将棋と見ているため、呉越同舟の、
東福寺チャーター船の中で行われる遊戯として、

考えられないもの

である。他方、

升目が、同船より出土した将棋駒のうち、歩兵を
除く各駒を並べるには細かすぎ、小将棋かとみら
れる共出土の駒を使用する将棋盤としての適正は、
概ね無い

と考えられる。
そのため本ブログでは、この遺物を新安沖沈没船
出土将棋盤(?)と(?)を付けて呼んでいる。
 また同沈没船からは、碁石も共出土している事
から、

五目並べまたは、連珠用ではないかとの疑いを捨
てていなかった。

なお、本件の新安沖沈没船出土将棋(?)が、日
本の民俗学の研究所の見解を元に、韓国で将棋盤
とされるようになる以前には、故溝口和彦氏等を
除けば、碁の道具と見られていた。ものと人間の
文化史59の”碁”で、遊戯史研究家の増川宏一
氏が、”15路であるので、連珠盤”と発表して
いたものを、15は正確には16とみられるが、
少なくとも、その他の点では本ブログの管理人は、
信用していた為である。
 溝口和彦氏は、この史料が将棋盤であるという
事に、早くから疑いを持たれており、自身のブロ
グでも、その旨を発表していた。本ブログの管理
人は、それに対し、

後期大将棋用将棋盤に特徴的な、5段目聖目状の
”星”は、五目並べや連珠の石の”連”の様子を
見るのに便利だから、敢えて付けたのではないか

との旨、彼のブログ上でコメントとして当時発言
した。
 そこで今回は、自分の発言には責任を取るとい
う観点から、目の粗さが違うのではあるが、実際
後期大将棋用の将棋盤で、五目並べをして、

聖目が役に立っているのかどうかをチェック

した。結論から述べると、

有っても無くても同じであり、私の主張は誤り

である事が判った。

五目並べ.gif

最初に、以上の結果についてお詫びを言っておく。
よって、

新安沖沈没船出土の将棋盤(?)は、同船から共
出土した将棋駒の類を置いたにしてはおかしいし、
碁石を置いて、連珠するための道具とも断定無理

だと結論できると思う。
 なお、以上の写真で4つの赤丸の中の、白い星
が問題の聖目であり、局面は先手黒が、いいかげ
んに打ったので、赤い五角形の石を白が打って、
五目並べならば、”跳び三三で、白の勝ち”になっ
ている。
 恐らく、通常の連珠、五目並べ類のゲームだと
すると、この”聖目”は、実際の史料のように

多少大きめにつけたとしても、ほとんど役に立っ
て居無い

とみられる。従って、
わざと余白を残して、沈没船の将棋駒がはみ出す
ように目を細かくしている理由は、確かに謎だが、
15路のはずだが、実際には16路の連珠盤と考
えても、

それにとって、ずば抜けて便利な工夫の有る道具
のようにも、とりたてて見えない

と考えざるを得ないように思う。
 将棋駒が一般には木製で、水に浮いて流れ去る
事ができるので、将棋盤説も、完全否定は出来な
いのだろう。
 駒については少なくとも、共出土した碁石が、
この将棋盤(?)用の可能性が、思ったほどには
高くは無く、本当のこの盤用の駒は、概ね流れ去っ
たと考えた方が、確率が高いとまでは、言えるよ
うな気がして来た。(2019/07/05)

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集成鎌倉の墨書に鶴岡八幡宮駒が14C初頭と記載無し(長さん)

恐らく、個別の発掘報告書からのまとめと推定されるが、
集成鎌倉の墨書(2017)に、鎌倉市の鶴岡八幡宮境内
遺跡出土駒の、成立年代の記載がある。
 出土層位・遺構に”第2面第1溝”と記載され、ついで
それが、年代が13世紀半頃~14世紀初頭と記載され
ている。つまり、

本ブログの記載から類推されるような、鎌倉時代末だけ
の旨の記載では無い。冒頭に、その点注記して置きたい。

本ブログでは、普通唱導集の大将棋が成立した時代の少
し前に、玉・金を除く将駒等1段目駒が金成りで無いと、

相手陣奥で、鉄将、桂馬、香車が行き止まりになるため、

鶴岡八幡宮境内出土駒の成りパターン(香車不成り)を、
大将棋の西暦2017年モデルに持ち込みたくない意図
が働き、多分に”実際は上限に近い”との”独自の予想”
で、下限(早い)の紹介を、抜いた結果がこうであった
のである。
 現実は上限に近い線だと、今でも思っているが、集成
鎌倉の墨書の記載を正しく紹介していない点については、

特にお詫びしておきたい。

 この点が問題と、最近感じられるようになったのは、
増川宏一氏が西暦2013年に著作した、”将棋の歴史”
(平凡社)で、鶴岡八幡宮境内出土駒が、大将棋の時代
であると述べる根拠として、

成立年代を、鎌倉時代13世紀末、つまりイメージとし
て、西暦1300年代の初め頃ではなくて西暦1200
年代の終わり頃と、見ている様子で書いている

からである。増川宏一氏も私も、中将棋の成立を14世
紀中旬と見ている点で一致している。のでこれが中将棋
の駒では無いという点に関して、結論が同じにはなる。
 だが、増川宏一氏は、鶴岡八幡宮境内遺跡駒の成立を
西暦1200年代の末、私は西暦1300年代の初頭と
見ているので、思考経過が微妙に違うのである。
 こう見える根拠は、成書”将棋の歴史”では、その前
段で、普通唱導集の説明をしている事から明らかである。
増川氏は鶴岡八幡宮境内遺跡出土の将棋駒の成立年代を、

普通唱導集の成立と同じか少し前、本ブログでは、10
年~20年程度で良いから後と見たいと希望している

という事である。
 しかしながら現実は発掘者により、年代が13世紀半
頃~14世紀初頭と記載され、

どちらの認識が、正しいとも取れないし、私の見方が
公平とは言えない状況

である事が判る。
 今後も、一段目が金成りの大将棋は”西暦1290年
モデル”、不成りなのは”鎌倉末型モデル”と本ブログ
では記載する。が層位の実測による精度が、本ブログの
論展開の過程つまり、”自明定跡が発生して、衰退する
過程での、ゲームルールの茫漠化が存在する”という
仮説が正しいと言えるほどには、現状無いという点につ
いて、以降誠にお手数ですが、シビヤに、その点が問題
になる局面では、読者諸氏の側で御注意頂きたいと、私
は今の所、希望している。(2019/07/04)

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二中歴の大将棋の横行配列。玉頂ではなく王頂の別解(長さん)

以前に述べたが、二中歴の大将棋では、駒の位置を他
のそれ以前に説明した駒との相対位置で表す事がある。
各々の対局者に関して、(最下段)中央と記した、
玉将と、説明の無い歩兵以外は全てそうである。
 その中で、例外的に横行だけが、王(将)の頂点方
向だと、説明されている。玉将は有るが、王将の説明
は無い。漢字として、王は玉とも読むので、本ブログ
では、王将とは玉将の異字を、たまたま書いたとの旨
の見解を、これまで取ってきた。が、最近そう考えな
くても良い、方策が有るのに気がついた。結論的には

誤記と見る

のだが、誤記してしまった理由は、次の通りとする。
二中歴の大将棋の著作者は横行の位置を説明するとき、

玄怪録岑順(小人の戦争)話を考え事しながら記した。

 結論は以上だが、では、もう少し詳しく述べる。
小人の戦争では、軍師が駒の動かし方ルールを説明す
る下りで、軍師の説明が終わると”『王』が「よし」
と答えた”との旨記載されている。この王の文字を、
二中歴の大将棋の説明で、うっかり著作者は頭の中で

玄怪録と二中歴大将棋を、頭の中で混ぜこぜにイメー
ジしてしまい、玉将が”王”に入れ替わってしまった

と、考えると状況が説明できるという事である。
むろん、たまたま異字を書いたという説明は、否定す
る強い根拠は無かろう。

しかし、他の駒の説明で、そのような事をして居無い
ので、若干弱い。

 また本ブログでは、そもそも横行は玄怪録岑順(小
人の戦争)の上将が、五将制の将棋へは導入し辛かっ
た為の、偶然物語りで使われた熟語への置き換えと見
ていた。以上の本ブログの説は、後に象駒が、玉将の
前升目に導入された将棋種が、複数発生している点を
説明しうるという点で、都合が良い。上将は、横行に
置き換えることが、可能なだけではなくて、象や象将、
相の駒の仲間とそのケースには考えられるからである。
 そして、玄怪録岑順(小人の戦争)には、金象軍と
天那軍が整列して、金象軍の軍師が、駒の動かし方ルー
ルを説明した後で、玉将の類と見られる王が、”よし”
と答えているのである。中国語で私は確認して居無い
ので精度は無いが、この”王”を原文でも”金象将軍”
とか”将軍”とは表現してい無いのではないかと、私
は疑う。
 他方前に述べたように、平安大将棋のゲームデザイ
ナーと本ブログでは見る、日本の陰陽寮所属の人物と、
二中歴の大将棋の著作者は共に、玄怪録岑順(小人
の戦争)の、上に述べた問題の部分を共に読んでいる
と、本ブログでは、今の所考えている。従って、
二中歴の大将棋の著作者が、上将の言い換えである、
横行の初期配列位置を記載するときに、玄怪録岑順

(小人の戦争)の事を、うわのそらで考えながら、
位置基準駒を記載したので、玄怪録岑順の玉駒”王”
と間違えて書いてしまう

という事は、充分有り得ることだと考える。むろん後
代の書写者は、それに気がついて訂正する事も、出来
ない訳では無かったのだろう。しかし、そもそも王と
言う漢字は、玉とも読める。更に、鎌倉時代中期の
親王将軍の時代に、本ブログで以前述べた説のように、
太子成酔象の導入の経緯として、摂関将軍と親王将軍
を一まとめにして、コケ下ろした意味で、本ブログの
西暦1260年タイプの大将棋が成立したため、王将
は片方にはあるので、二中歴の記載は問題が無くなり、
放置されたのであろう。また、奔横が親鸞等によって、
日本語の意味としておかしいと、13世紀の後半に、
批判されたと推定したときに、最下段中央の駒が、
二中歴の大将棋で、”王”と表現されていた方が、奔
横を奔王に直すのにも、都合が良かった。ので二中歴
の大将棋で、横行の初期配列位置を表現する基準駒は、
”王”のまま、変更され無かったのであろう。
 以上の事から、二中歴の大将棋の著作者にしても、
二中歴記載の、平安大将棋のゲームデザイナーにして
も共通だが、何れも玄怪録岑順の事を、うわのそらで
考えながら、仕事をしていたおかげで、結果として、
横行の位置には酔象を入れても良いと言う、後の日本
の将棋の進化の流れの道筋を、彼らが予め作ってくれ
ていたようにも、私には思えるのである。(2019/07/03)

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汚れた歩兵駒は、”成り飛車金将カ”説の亡霊(長さん)

神奈川県鎌倉市の鎌倉鶴岡八幡宮境内遺跡より、
西暦1980年春頃に、wikipediaの、
”大将棋”の項目に一部出てくるように、5枚
の、後期大将棋の駒に分類できる駒を含む、
将棋駒が出土している。典型中将棋の駒と、
成書ではしばしば記載されているが、このケー
スは、

wikipediaでの紹介が正当だと、
本ブログでは見る。

つまり、不成りの香車と成り楷書奔王鳳凰、
不成り歩兵の3枚は、

公平に見て、後期大将棋の駒のように見え、
少なくとも、典型的な中将棋の駒では無い

と、本ブログの管理人には判断される。
”と金”成り歩兵駒と、本ブログが以下に、事
実認識を表記するように、裏がどうなっている
のか

”実体不明”の歩兵駒

の2枚は、前者が小将棋の駒、後者も恐らく小
将棋の駒の疑いが強いと思われる。本論では、
この5番目の、本ブログが、裏面の実体の不明
と認識する、汚れた歩兵駒が、
成り飛車金口駒(?)と紹介されている文献は、
今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札が、確
認されている現時点で、

そのような文献が存在している事自体が目障り

であると結論する論を、以下記載する事にする。
 では以下に、汚れた歩兵駒に関する事実認識
から、そう結論される経過について、もう少し
詳しく述べる事にする。
 本論で、汚れた歩兵駒と呼んでいるのは、よ
く知られた、この駒のスケッチ図で”金”と読
み取れる字の書かれた面の、写真として撮影す
ると、以下のような姿に写る出土駒の事である。

汚れ歩兵表.gif

 明らかに、写真として撮影すると、”金口”
には、全く見えないと、私は考える。本ブログ
では、写真の赤丸の部分だけが本物で、残りの
模様は全部、汚れだと解釈し、よってこの出土
駒を、”汚れた歩兵駒”と、今までブログ内で
呼んできた。
 この写真とスケッチが、全くズレている証拠
としては”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の、

スケッチと写真が、逆に対応付けされている

事からも裏づけられる。つまり、
この将棋駒の、どちらの面を絵で書いたのかが、
天童市将棋資料館の、担当者にも判らないほど、
スケッチが、写真に比べてかけ離れているとい
う意味である。そして問題なのは、上記の写真
の面をスケッチしてさらに、それを観察し、”
この駒のオモテの面は、金将かもしれない”と、
私には、訳が判らない判断を、成書の一部が、
又聞きと推定されるが、示唆している事である。
もっともそれは、以下に比べれば、害は無い。
つまり、もはや今では、中将棋の駒など含まれ
るはずは無いと見られる状況下で、反対面がど
うなっているものやら幾ら捜索しても、私には
実体が杳としてつかめない状況のもとにあって、

この駒が、成り飛車の金口かもしれないという、
前世紀末の見解の紹介が厳然と生き残っている

事である。
 持って回ったような事を、以上私は書いてし
まったが、

大昔の月面の裏側と違って、手軽に実体が確認
できると保障されているとすれば、以上のよう
な苦言は、発生し得無い

という性質のものである。つまり、
西暦1981年8月前後に、鶴岡八幡宮を訪問
した、故大山康晴永世名人ですら、薄くなって、
裏に”と”と、書いてあるのかどうか判らない、
大将棋の駒かもしれない、”不成り”歩兵駒と、
今問題にしている汚れた歩兵駒の確認も、残り
の3枚の出土駒と共に、出来たという記録が、
将棋世界の当時の巻頭写真の説明には見当たら
ないほど、ではどうなっているのかと思って、
調べようとしても、皆目判らないのが、そもそ
も問題だと言う事である。
 つまりは、もっとはっきり言うと、

本ブログの管理人ごときが”ではどうなってい
るのか教えてください”と言って、”簡単に”
現物を見せてもらえるはずも無い

のは明らかであると言う苦言である。
 むろん、問題にしている出土駒が、単なる、
普通の小将棋の駒で、将棋史の議論の大筋に係
わらないものであるならば、諦めも付くという
ものであろう。しかし、

鶴岡八幡宮出土駒の時代が、大と小将棋の時代
なのか、”大”が衰退して事実上、中と小将棋
の時代なのかは、根本的に重要

であり、本ブログでは、前者が正しいと見てい
る。そしてそれが、念のため現在でも更に精査
が、必要な段階であるという訳である。しかし
繰り返すが、そうであるはずが無いと、以前に
も増して疑われ出しているにも係わらず、根拠
を確認するのが、たいへん手間が掛かる状態の
中で、一部の前世紀末の成書に、問題の駒が、
成り飛車金口駒(か?)と書かれ、情報が相当
に広がっているのである。以上の点は、

本ブログが”大将棋の謎”を取り扱っている
以上、無視して通り過ぎる事が出来ない

問題点と見られるものである。よって冒頭に述
べたように、少なくともオモテ面に関して、
スケッチと写真とが大きくズレ、裏面の写真は
相当探しても、現物自体が見当たらないという、

不可解な状態の中で、裏面の事実認識を広報す
る、そのような前世紀の情報のコピーが、かな
り汎用な文献として存在している事自体目障り

だと感じられる。以上のような意味であると、
表現出来るという訳なのである。(2019/07/02)

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