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二中歴の大将棋の横行配列。玉頂ではなく王頂の別解(長さん)

以前に述べたが、二中歴の大将棋では、駒の位置を他
のそれ以前に説明した駒との相対位置で表す事がある。
各々の対局者に関して、(最下段)中央と記した、
玉将と、説明の無い歩兵以外は全てそうである。
 その中で、例外的に横行だけが、王(将)の頂点方
向だと、説明されている。玉将は有るが、王将の説明
は無い。漢字として、王は玉とも読むので、本ブログ
では、王将とは玉将の異字を、たまたま書いたとの旨
の見解を、これまで取ってきた。が、最近そう考えな
くても良い、方策が有るのに気がついた。結論的には

誤記と見る

のだが、誤記してしまった理由は、次の通りとする。
二中歴の大将棋の著作者は横行の位置を説明するとき、

玄怪録岑順(小人の戦争)話を考え事しながら記した。

 結論は以上だが、では、もう少し詳しく述べる。
小人の戦争では、軍師が駒の動かし方ルールを説明す
る下りで、軍師の説明が終わると”『王』が「よし」
と答えた”との旨記載されている。この王の文字を、
二中歴の大将棋の説明で、うっかり著作者は頭の中で

玄怪録と二中歴大将棋を、頭の中で混ぜこぜにイメー
ジしてしまい、玉将が”王”に入れ替わってしまった

と、考えると状況が説明できるという事である。
むろん、たまたま異字を書いたという説明は、否定す
る強い根拠は無かろう。

しかし、他の駒の説明で、そのような事をして居無い
ので、若干弱い。

 また本ブログでは、そもそも横行は玄怪録岑順(小
人の戦争)の上将が、五将制の将棋へは導入し辛かっ
た為の、偶然物語りで使われた熟語への置き換えと見
ていた。以上の本ブログの説は、後に象駒が、玉将の
前升目に導入された将棋種が、複数発生している点を
説明しうるという点で、都合が良い。上将は、横行に
置き換えることが、可能なだけではなくて、象や象将、
相の駒の仲間とそのケースには考えられるからである。
 そして、玄怪録岑順(小人の戦争)には、金象軍と
天那軍が整列して、金象軍の軍師が、駒の動かし方ルー
ルを説明した後で、玉将の類と見られる王が、”よし”
と答えているのである。中国語で私は確認して居無い
ので精度は無いが、この”王”を原文でも”金象将軍”
とか”将軍”とは表現してい無いのではないかと、私
は疑う。
 他方前に述べたように、平安大将棋のゲームデザイ
ナーと本ブログでは見る、日本の陰陽寮所属の人物と、
二中歴の大将棋の著作者は共に、玄怪録岑順(小人
の戦争)の、上に述べた問題の部分を共に読んでいる
と、本ブログでは、今の所考えている。従って、
二中歴の大将棋の著作者が、上将の言い換えである、
横行の初期配列位置を記載するときに、玄怪録岑順

(小人の戦争)の事を、うわのそらで考えながら、
位置基準駒を記載したので、玄怪録岑順の玉駒”王”
と間違えて書いてしまう

という事は、充分有り得ることだと考える。むろん後
代の書写者は、それに気がついて訂正する事も、出来
ない訳では無かったのだろう。しかし、そもそも王と
言う漢字は、玉とも読める。更に、鎌倉時代中期の
親王将軍の時代に、本ブログで以前述べた説のように、
太子成酔象の導入の経緯として、摂関将軍と親王将軍
を一まとめにして、コケ下ろした意味で、本ブログの
西暦1260年タイプの大将棋が成立したため、王将
は片方にはあるので、二中歴の記載は問題が無くなり、
放置されたのであろう。また、奔横が親鸞等によって、
日本語の意味としておかしいと、13世紀の後半に、
批判されたと推定したときに、最下段中央の駒が、
二中歴の大将棋で、”王”と表現されていた方が、奔
横を奔王に直すのにも、都合が良かった。ので二中歴
の大将棋で、横行の初期配列位置を表現する基準駒は、
”王”のまま、変更され無かったのであろう。
 以上の事から、二中歴の大将棋の著作者にしても、
二中歴記載の、平安大将棋のゲームデザイナーにして
も共通だが、何れも玄怪録岑順の事を、うわのそらで
考えながら、仕事をしていたおかげで、結果として、
横行の位置には酔象を入れても良いと言う、後の日本
の将棋の進化の流れの道筋を、彼らが予め作ってくれ
ていたようにも、私には思えるのである。(2019/07/03)

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