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インド2人制チャトランガ序盤八方桂王手飛車は(長さん)

 以下、日本将棋にとって重要な、二人制古
チャトランガの馬の ルール問題について議論
する。
 以前述べたが、インド2人制古チャトランガ
を、西暦775年頃に、アッバース朝にて
イスラムシャトランジに転換した際、飛車動き
の象と、飛龍動きの車は、逆転させられたと見
られている。表題のように、序盤の王手飛車を
避けるためだったと、本ブログでは見ている。
 では、そもそも西暦600年から西暦775
年までの間、インドで、2人制古チャトランガ、
最下段、飛龍、馬、飛車、玉将、近王、飛車、
馬、飛龍配列ゲームを行っていた時代に、この
序盤の、王手飛車の多発による、先手必勝傾向
は、問題にならなかったのであろうか。
 ヒントをまず述べると、序盤で王手飛車は、
八方桂馬で狙うので、

775年までの、インド2人制古チャトランガ
の馬駒が、桂馬なら、問題は起こらない

と考えられる。逆に言うと、王手飛車問題が、
起こりそうであったにも係わらず、上の最下段
初期配列で、2人制古チャトランガが指されて
いたとすると、

馬は八方桂ではなくて、ただの桂馬だった事が、
推定できる可能性が、有ると言う事

である。
 では、実際に、インドで西暦600年から
少なくとも西暦775年までは指されていたは
ずの、インドの2人制古チャトランガで、馬駒
が、八方桂なら、序盤の王手飛車定跡が、存在
するのかどうかを、今回は論題とする。
 回答を書く。
 存在する。ただし、飛車一枚と、馬の2枚替
えに、インド二人制古チャトランガではなる。

そのため、いっきょに大きく、形勢が先手に
傾くことは無い

と考えられる。
 なお、それに対して、イスラムシャトランジ
では、

大臣を近王から猫叉動きに変えたため、飛車と
八方桂馬1枚の交換に、変わったとみられる。

それにより、この定跡の発生で、そのままでは、
プロト・イスラムシャトランジは、先手必勝に
なってしまったと、考えられる。そこで、

イスラムシャトランジが発生した時点で、問題
の象/車転換が、起こった

と考えられる。
 では、以下に論を続ける。
 ここで、動かし方のルールが判るように、
実際の駒名を、判りやすく変えた、インド2人
制古チャトランガの初期配列を示すと、以下の
通りである。

2人制古チャトランガ初期.gif

出だしから、王と大臣先の兵を上げ、八方桂を
中央に寄せる。ついで、飛龍が動けるようにす
る。以上のような、出だしの駒組を先後手同形
で作るとすると、以下のようになると見られる。

2人制古チャトランガ駒組.gif

次に、先手は左飛龍(チャトランガ車)を、
惜しまず切るように指す事が大切である。数手
進めると、以下のような局面に到達して、

王手飛車が成立する。

なお、後手のつられて”先手の飛龍を跳ぶ手を
真似た手”は、悪手である。正しく指せば、
この場合、先手の”王手飛車”は、成立しない。

古チャトランガ王手飛車.gif

ここで、インドの2人制古チャトランガは、大
臣が、八方歩みとみられるため、2枚目の先手、
黒色の馬で王手飛車が掛かり、王が逃げた後、
馬で飛車(インド2人制古チャトランガの象)
を取った後に、近王動きの、後手の大臣で、
取り返されると見られる。

だから、このケースは、後手は飛車で馬を2枚
替えているので、まだまだ指せる。

よって、

インドでは、西暦600年から775年まで、
そして恐らくは、それ以降、インドシャトランジ
が成立するまで、八方桂が有っても、致命的な
問題は一応起こらない

と考えられる。ただし王手飛車取りは、定跡と
してあったはずであり、馬を八方桂にしてしまう
と、ゲームは、つまらない方向へは進んだだろう。
 つまり、

インドでは2人制古チャトランガが指されていた
とき、馬が桂馬だったという説も、ただちには、
排除できない

とまでは、言えるのではないかと考える。
 なお、一番下の局面から明らかなように、後手
の右飛車を排除した、先手の左側の馬は、大臣が
斜め歩みの猫叉動きになってしまうと、後手は、
取り返す事ができない。

イスラムシャトランジが確立しつつあったときに、
この点が、大いに問題になったであろうとは、容
易に想像できる。

恐らく、今述べた類の手筋が発見された時点で、
ただちに、象と車のルールは、アラブ人によって、
ひっくり返されたはずである。(2019/09/10)

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角行動きの酔象平安小将棋を興福寺で指した訳(長さん)

本ブログによれば、大理国とみられる原産国
を出発した際、日本の原始的な8升目の平安
小将棋の右銀位置に、角行動きの酔象が有った
と考えられている。今回はそもそも本来なら、
何故酔象が有るのか、ゲーム性という観点から
考察する。回答を先に書く。

後手が完全マネ将棋を指すと、酔象の無い
8升目原始平安小将棋は、千日手が必然だった

とみられる。
 では、以下論を続ける。
 ここで議論する原始平安小将棋とは、8×8
升目で、一段目配列が左から、
香車、桂馬、銀将、玉将、金将、銀将、桂馬、
香車と並んで更に、3段目に8枚の歩兵が並ぶ、
32枚制の取り捨て将棋の事である。金将は
1枚だし、持ち駒ルールは無かったと考える。
 この将棋を、

後手が先手を完全に真似るように注意して指す

と、途中局面として、以下のようになり、

原始平安マネ途中.gif

遂には、以下のような局面に至って、千日手で
終了するとみられる。

原始平安マネ指終.gif

 つまり、本来原始平安小将棋は、旦代の難点
こそ無いものの、後手が注意深くマネ将棋を指
すと、勝負がつかないという性質を、持ってい
たと見られる。
 そこで次に大理国を出発した時点の、8升目
制で角行動きの酔象が一枚入った、本ブログで
言う大理国原始平安小将棋について、同じよう
に、後手は注意深く、完全に先手を真似るよう
に指す事を考えてみる。
 なお、この将棋は、過去何回か述べたように、
最下段の配列が、左端から、香車、桂馬、銀将、
玉将、金将、角行動きの不成りの酔象、桂馬、
香車と、配列され、3段目に歩兵が8枚並ぶ、
32枚制の将棋である。
 このケースは、王手酔象取りを避けるために、
いつもとは言えないが、しばしば

玉は、大駒の酔象と離して動かすので、遂には
弧立してしまい、下の図のように、先手が勝つ
事が少し多い

とみられる。

大理国平安指終.gif

だから後手は酔象の
有る将棋では、真似将棋を、概ね止めなければ
ならなかっただろう。
 つまり伝来し、後一条天皇の玩具になったとみ
られる、原始平安小将棋に比べて、

本来の大理国原産の将棋の方が性能が、少し上

だった疑いが濃いとみられる。だから興福寺で
は、酔象を使い、現にそれが出土しているとの
見方を、本ブログでは取るのである。
 朝廷では、源隆家や大江匡房が、将棋の初期
配列の左右対称性という、形に囚われて、酔象
廃止の詔を、白河天皇名等で、院政期の平安末
出させたのだろうが。
 将棋を好きで指していた興福寺の下級僧達は、
その詔には、内心大いに不満だったに違いない
と、考えられるのである。(2019/09/09)

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6升目酔象含平安小小将棋は金銀逆配列が良い(長さん)

前に、普通の8升目や9升目の取り捨て平安
小将棋(飛車、角行が無い)系統の将棋で、
6升目と小型でかつ、玉、金、銀、酔象、
桂馬、香車が各々に1枚づつの、鳥獣戯画の
僧が指して、いそうな将棋には、

9升目標準平安小将棋や8升目の原始型の
平安小将棋に対する優位性が無い

という問題がある事を指摘した。
 今回は、6升目の平安小将棋型ゲームで、
8~9升目のいわゆる平安小将棋に無い、
優れたゲーム性能を出すのには、どうしたら
よいのかを、論題とする。回答を先に書く。

一段目の配列を、
桂馬、金将、玉将、銀将、酔象、香車

と再配列する。ただし、ここで酔象の動きは、
角行動きで、かつこの駒は不成りのルールで
ある。では、以下に説明を続ける。
 この配列は、以前の配列とは、金将と銀将
が逆なだけである。すなわち以前に、本ブロ
グで示した、酔象を保持するために仮想的に
存在したと仮定された、寺院型平安小小将棋
の、最下段配列は、以下の通りであった。

桂馬、銀将、玉将、金将、酔象、香車。

 この配列だと、端列の香車と香車先歩兵の
2枚攻撃という自明な戦法が、さほど有力で
はないものの、一応成立するという事だった。
 そのような、常識的戦法が成立するのでは、
ゲームに意外性が無く、メジャーなゲームに
比べて、優秀とは言えない。よって、8升目
や9升目の、普通の平安小将棋(取り捨て)
に勝るというほどでは無いという事であった。
 ところが、以下のように、元の配列の、
金将と銀将を交換すると、この点が変化する。

寺院型平安小小金銀.gif

 この初期配列で、たとえば先手が、端攻め
攻撃で、香車で相手陣を

深追いすると、以下のようになる

平安小小将棋金銀途中.gif

と見られる。すなわち、

深追いした先手の、角行動きの酔象が、後手
にイジメられる、展開になる

のである。だから、普通は当たり前とみられ
る、香車筋ノ端攻め攻撃の先行は、このゲー
ムに限っては、

酔象を、単純にタダ取られて大きく駒損し、
劣勢に立たされる恐れが強い

という事になる。
 上記局面からは言うまでも無く、金将が銀
将と違って、横動き可能なため、先手の香車
で、後手陣を荒らす事、特に後手陣の銀将を
排除する事が、出来なくなったのと、角行隣
が金から銀に変わり、”反撃の成桂”に、桂
馬取りを、掛けられなくなったのが大きい。
その結果、

先手の酔象(上の図では角行と表示)が、
後手の成桂、玉前の歩兵、無傷な銀将で、
相次いで、単純に狙われるだけになった

と言う事である。
 このような展開を避けるためには、端歩は
突き捨て無い事、酔象を守りながら駒を組ん
で行く事が必要になるとみられる。
 つまり、特に8升目型の平安小将棋では常
識的だったのではないかと、少なくとも本ブ
ログでは見ている、端攻め戦法が、

この6升目平安小小将棋では、筋悪なやり方
になる可能性が高い

という事になろう。
 恐らく、こうした将棋は、指されたとした
ら、鎌倉時代初期の寺院だったとみられる。
 この将棋は、賭けに利用されただろうから、
端攻めしか知らない初心者を、プロの勝負師
が餌食にするのに利用されたのかもしれない。
 なおこの将棋は、序盤で駒の交換が、余り
起こらないので、中盤は、元の桂馬、銀、玉・・
配列型に比べて、駒の動きが激しくなり、
終盤の流れも急で、かつ元々盤面が8升目型
に比べて狭いから、

8升目原始平安小将棋(取り捨て型)等より、
かなり終盤の収束が、速いように見えたはず

である。これなら鳥獣戯画に表現されている
ように、”我々は平安小将棋とは全く別の将
棋を、勝手に指しているだけ”と言いくるめ
て、寺院の将棋場で酒を飲みながら、下級僧
等が楽しく将棋を指す事も、恐らく出来た事
であろう。(2019/09/08)

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6升目寺院型平安小小将棋は非凡なゲームか?(長さん)

以前の事であるが、6×6升目の取り捨て型将棋
で、酔象が西暦1110年頃以降も残存し、その
140年後の西暦1250年頃に、西暦1260
年型大将棋で、再度取り入れられたのではないか
という論を、本ブログで示した事があった。
 問題の将棋を、ここでは寺院型平安小小将棋と
名づけていた。初期配列で、1段目が、
桂馬、銀将、玉将、金将、角行動きの酔象、香車
と並び、2段目が歩兵列、相手2段目で金成りで、
玉将、金将、酔象は不成りのルールにしたもので
ある。なお以下の図で、酔象は角行と表示して
いるので、注意されたい。

寺院型平安小小将棋.gif

前に本ブログで示したところによると、▲1四歩
が疑問手と紹介し、18手進んだ所で、後手が有
利なのではないかという事であった。

平安小小将棋18手.gif

一見して、図の3四位置(D4位置)の後手銀将
で、位取りされていて、後手が歩/香車交換
だが、形が良いのではないかという事であった。

しかしながらこの説明はかなりの確率で間違い

だったようだ。今回は、

上の局面は、イーブンである

という点について報告し、酔象が150年前後で、
復活した正確な理由は、判らないと結論する。
 すなわち、この局面から▲2四金とするなど
して、局面を進めると、下のような図になる。

平安小小将棋途中.gif

この局面でも、後手が少し良いようだが、先手は
▲4六銀(▲C6銀)で、まだ、大丈夫なようで
ある。つまり、結局上の局面はどちらも優勢とま
では言えない。
 そこで以下続けると、結局は、以下のような引
き分け局面に落ち着くとみられる。

平安小小将棋指終.gif

以上の事から、6×6升目の平安小将棋、桂馬・
香車1枚型が、今の所

特に優れているとも言えない

と、その後私には、思えるようになってきた。
つまり、香車で桂馬先を狙うのも、無難と
言う程度で、悪手では無いからである。
 よって、6×6升目の将棋が、8×8升目の将
棋に比べて、酔象を1枚残す事によって、優位と
いう訳でもないため、

酔象の消失を、約150年間凍結する働きが有ると
考えられない

と言う事になる。そうしてみると現時点では、平
安時代の1098年と、南北朝時代の頃に、酔象
が有り、その間に西暦1200年頃、無かったと
いう、本当の理由は、少なくとも私には、完全に
は解けて居無いという結論に、ならざるを得ない
という事になるだろう。(2019/09/07)

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シャトランジのデザイナーが車/象を交換した理由(長さん)

本ブログでも、インド二人制古チャトランガの、
大臣、象、馬、車は、初期には近王、飛車、桂馬
または八方桂、飛龍、イスラムシャトランジの、
大臣、象、馬、車は、猫叉、飛龍、八方桂、飛車
で、四人制しか詳細明らかでない、インドの方は、
大臣に注目が無かったが、その他に関して、アル=
ビールーニの指摘したように、簡単に言うと、

インドとアラブでは、象と車が反対だった

と見ている。そしてあくまで本ブログの見解だが、

実際にそれで、ゲーム性が向上する事は余り無く、

イスラムシャトランジ形式のゲームを取り入れた
国に於いて、イスラムの科学・技術を取り入れる
姿勢を示すという意味での、象徴的な意味合いに、
結果として、なってしまったと主張してきた。
 では、西暦775年前後に、イスラム・アッバー
ス朝の者とみられるゲームデザイナーが、何ゆえ
に、暦法のプトレマイオスの、アルマゲストが
アラブで普及し始めた時代に、ペルシャ経由で伝
来したとみられる、インド二人制古チャトランガ
の象・車をひっくり返して、
イスラムシャトランジを完成させたのか。

何を考えて、ゲームデザイナーはそうしたのか

を今回は論題にする。回答を書く。

一応ゲームを改良するつもりだった。しかし、
結果は焼け石に水だった

と考えられる。
 では、論を続ける。
 象が飛車動きの状態から、車が飛車動きの状態
に交換するという事は、

一般的に見て、陣形を整える方向の変化である

と考えられる。

なぜなら、”玉と大駒は、離して置いた方が良い”

からである。実際多少はそれで、王手飛車取りは
減り、駒の無駄な消耗は減ったのだろう。だから
理屈の上では、イスラムシャトランジの方が、
西暦900年頃までの、インド二人制古チャトラ
ンガより、レベルが上になったに違いない。
 しかしながら、

駒の構成に大差が無かったので、ゲームの全体と
しての性質に、これによる変化は乏しかった。

実際に、それを取り入れた、初めはペクーから、
後は西暦1100年少し前の末期北宋王朝に至る
まで、それを知りつつの取り入れケースが多かっ
たのだろう。つまりは所詮、”見かけのモダンさ”
だけが、問題だったと考えられよう。
 だから、雲南の南詔では、宮殿に訪れる外国の
客も少なく、変更自体がめんどうだったので、
そのまま、象は飛車、車は飛龍、のちに工夫して、
香車で、指し続けたのだろう。
 よって結論としては、二人制古チャトランガを
それなりに多数回テストした上で、

イスラムシャトランジのゲームデザイナー自身は、
大臣を近王から猫叉に弱化させた上で、飛車駒も、
玉駒より、離すような”焼け石に水の改善”を、
一応はした

と、結論はできるように私には思われるのである。
(2019/09/06)

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成麒麟が寄せ専用の普通唱導集大将棋は致命的か(長さん)

今回は表題のように、”成り麒麟が寄せの切り札”
なのは、普通唱導集大将棋(2017年タイプ)
にとり、致命傷にならないのかどうかについて、
考察する。なお、問題にしている”新作”将棋の
初期配列は、以下の物についてである。

普通唱導集2017駒枯.gif

 この将棋の攻撃力は、麒麟の成り駒としての
獅子の存在が大きく、まだ動きの弱い麒麟の状態
で、互いにそれが消失してしまうと、

攻撃力が、防御に対して過少になる疑いが強い。

そのような局面は、

わざと序盤から、互いに玉将ではなくて、麒麟を
狙い撃ちにするような将棋を指すと、起こり得る

と考えられる。今回は、実際にどうなるのか、ど
うするのかを、論題とする。
 結論を書く。麒麟狙い打ち戦法が、本当に有力
なのかどうかを、今後確認する必要が有る。が、
もし回避不能なら”麒麟と鳳凰は、初期位置と、
相手陣の中の何れかで、取られたので無ければ、
それぞれの初期位置のみ、先手で言う8十二の位
置に麒麟、6十二の位置に鳳凰を、一手を使って、

取られた駒を、相手から戻してもらって、打てる”

という将棋ルールを、付け加える必要がある。
 では、以下に論を続ける。
 下の図は、序盤から、互いに玉を詰めようとせ
ずに、麒麟を無理攻めして詰むように指した将棋
であり、先手の麒麟を後手が詰んだ所である。

普通唱導集麒麟狙.gif

 この図から、更に指し進めると、後手も無理攻
めが祟って、先手に麒麟は取られてしまい、一例
では以下のように、そこからは、容易に勝負がつ
かない、

駒枯れ模様の局面に到達する。

普通唱導集麒麟狙掛.gif

 上の図では、後手に成り鳳凰が残っているが、
先手の二枚残った横行の存在が大きく、この将棋
は、なかなか勝負がつかないと考えられる。

つまり、このような異常な将棋を指したケースで、
普通唱導集大将棋(2017年型)には、アラが
見えてくる

疑いが高い。つまり終盤、獅子で互いに、相手陣
を攻めて行く展開にならないと、軽快にこの将棋
は進まない事が有るという意味である。
 対策は容易に思いつく。

麒麟が死ななければ良いのである。

ただし、麒麟を取ったら、取った麒麟の向きをひっ
くり返して相手の物になるという、摩訶大大将棋
の提婆や無明のようにはしない方が良い。つまり、

所有者は変えないほうが良い

とみられる。理由は、局面評価が大きく変動しす
ぎて、人間には愉快なゲームと、感じられないか
らである。むしろ、

盤双六方式の”死なないが、振り出しに戻されて
しまう”

の方式の方が、このケースは有力だ。つまり、
麒麟を取られたら、

相手から返してもらって、自分の持ち駒にできる。

しかし、再度打てる場所が、元居た麒麟の位置で
ある、先手で言えば、8十二の升目に限られる
とすると、いうものである。
 しかし、この方法には、以下の問題点がある。

①鳳凰は”中国不死鳥”だというのに、麒麟は不
死身で、鳳凰が取られて死ぬというのはおかしい。

 ①の事から、麒麟が不死身なら、鳳凰も不死身
にしなければ、形式的に収まりがつかないと考え
られる。そこで、鳳凰にも同じ能力を与えるとす
る。すると、次の難点が発生する。

②鳳凰は不成りで、敵陣で暴れることが、ある程
度できる。

つまり、わざと不成りにしながら、敵陣で暴れる
戦法が、生じてしまうのである。
 これは、鳳凰が麒麟と異なり縦横歩みで、駒が
麒麟よりも、少し強いからである。ちなみに麒麟
は通常、成り駒である獅子の動きに比べて、問題
にならないほど弱く、かつ後者の動きが前者を、
完全に包含している。
 そのため、 麒麟も鳳凰も、相手陣に入ってい
る場合と、千日手が生じやすい初期位置のままで
居た状態で取られた場合は、例外として、振り出
し初期配列位置に、打て無いで”死んだまま”に
するというルールに、する必要がある。
 むろん、成り麒麟の獅子や、成り鳳凰の奔王に
は、このルールを適用してはいけない。温泉気分
の当初の攻め側が、悪手を指したときに、咎めた
結果、本来なら起こるはずの逆転が、困難だろう。
 以上の付加的ルールを、普通唱導集大将棋20
17年タイプに加えた上で、麒麟が詰んだ上の方
の途中局面から、改めて指し進めると、当然かも
しれないが、以下のように、正常に終わる。

普通唱導集麒麟持駒.gif

 普通唱導集大将棋2017も、提示から2年
以上が経ち、情報の蓄積が進んだ。むろん、最初
に示した図に関して、相手が麒麟詰みを序盤に
狙ってきても、相手にしないで普通に指し、元の
左横行位置に、自分の麒麟を置いて、固めれば、
このような問題は、基本的に起きないとは見られ
る。しかし、将棋はどう指そうと、ルールに従っ
ていれば、基本自由である。だから、今述べた問
題が、全く無いとは言い切れないと考えられる。
 そこでここで示した、

”麒麟と鳳凰は、初期位置と相手陣に居らず、か
つ、成っても居無い状態で、相手に取られたとき
には、盤上から取り外すが、相手のではなくて、
自分自身の持駒に、取り返してする事にし、それ
ぞれの初期配列位置に限られるが、一手を使って、
再度打って、リサイクル使用ができる”

というルールは、さしあたって、西暦2017年
の調整当時から見て、後付けのルール変更はした
くないので、今の所採用を推薦はしない。が、
麒麟の互い消失による、駒枯れの問題が大きいと
結論された場合に備えて、

”押さえの切り札”として、このルール案は
取っておくという事を一応しておくと、安心

できて良いのではないか。
以上のように私は考えている。(2019/09/05)

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2人制古チャトランガ象が飛車→角行に変化の訳(長さん)

以前に述べたように、本ブログでは、インド
古代の2人制古チャトランガの象は、西暦
900年程度まで、飛車動き、それ以降、
西暦1000年過ぎまで角行動きと見る。
なお、西暦1100年程度以降になると、
今に残るインドチャトランガの銀将動きの象
になったと、本ブログも賛成する。一旦、
イスラムシャトランジとおなじ、インド
シャトランジの飛龍動きの象になった後、
東南アジア周辺各国のルール変化の影響で、
銀将へ第4番目の変化をしたのであろう。
 では、最初の飛車→角行の変化が、なぜ
起こったのだろうか。
 これについては先行研究があり、増川宏一
氏著、法政大学出版局の、ものと人間の文化史
23-1将棋Ⅰ、西暦1977年に”実際の
戦争での、戦象の価値が、低下したため”と
の旨が記載されている。さっそくだが、この
説が正しいのかどうかを、今回論題とする。
回答を書くと、

完全否定は困難だが、一部の原因でしか無い
可能性がある。

四人制チャトランガが、インドで流行り出し
たための疑いが、少なくとも他の原因として
有るように、私には思われる。
 では、更に論を続ける。
 そもそも、古記録に、象の動きは4方向走
りだと書いてあるだけなので、事実認識が、
茫漠としているのであり、その原因となると、
すこぶる確定は困難である。
 しかしながら、ものと人間の文化史110
チェスの四人制チャトランガ1記載のの、
四人制のルール説明の古文書”A・ウェーバー
紹介の『ユディヒシュティラ王子と、ヴィアー
サ仙人の問答』”に、象の筋違い動きについ
ての記載がある。ので、

四人制チャトランガの存在と、角行動きの
象駒の存在との間に、相関性があるのではな
いかとの疑いは、一応持てる

と私には思える。
 言うまでも無く、四人制チャトランガで、
飛車動きの象を、角行に変えたのは、兵の有
るゲームに於いて、序盤から角行動きの大駒
の方が、飛車動きの大駒よりも、早く活躍で
きるからだろうと考えられる。特に、

サイコロ賭博では、駒枯れになってから、勝負
が長引くのは、サイコロの空振りが、多くなるの
で良くない。

 何れにしても、インドの2人制古チャトラ
ンガの象が、角行動きになった時期と、
四人制チャトランガがインドで流行った時期
とは、

ひょっとしたら、同じ頃なのではないかと、
疑う事自体は、一応可能

なように、私には思える。
 以上で、回答と根拠は示されたと考える。

 ところで、この変化は、日本の将棋の歴史
にとっても、大きな影響が有ったと考えられ
る。つまりこの変化は、雲南の金塊盤盛将棋
を、更に盛り上げるのには、たいへん役立っ
たとみられる。なぜなら、

成り金は角筋から外せば、飛車と違って、
大駒で殺されなくなったからである。

 すなわち、大臣駒への兵駒の大臣成りルー
ルが、ペグー→バガン→ピュー→雲南ルート
で伝来したように、ペグーでは強い象が、
イスラムシャトランジ化したために、もはや
存在しなかったので素通りしたが、同じよう
なルートで、将棋の象の飛車動きから、角行
動きへのルール変更が、雲南の南詔時代末、
ないしは、大理国成立の初に、伝来したとみ
られる。すると、雲南の貴族たちは、
さっそく、このインド発、第2ないし第3の
波の新ルールを、自分達の指している、
プロト原始平安小将棋(取捨て、8升目)へ、
今述べた理由で、取り入れたに違い無いと、
私は考えている。
 その結果、インドの変化とは理由が別だが、
結果としては、雲南のゲームにも影響し、
玄怪録岑順で”上将”と、表現されたとみら
れる象駒も、縦横”横行”から、斜め走りに
変わったのであろう。(2019/09/04)

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北宋時代不真面目中国人が平安小将棋をしない訳(長さん)

本ブログによれば、アッバース朝系のイスラム
文化が最盛期に、中国では先進文化を取り入れ
るべきとの機運が高く、真面目で勤勉なタイプ
の中国人は、イスラム型の文化を、選択的に
取り入れたと考えている。そのため、形式的に
インド古形と、イスラム型のゲームが並存して
いた場合、そうした、真面目な中国人は、後者
を選択した結果、中国シャンチーが残って、
雲南大理国の将棋は、広まらなかったと考えて
いる。
 しかしながら、世の中には色々な人間が居る
のであり、ゲームが面白ければ、そちらを取る
という程度の、態度の良くない中国人も、北宋
時代、中にはいたはずである。
 本ブログによれば当時のイスラムシャトラン
ジに比べて、原始平安小将棋は、ゲームが収斂
する分、ややましな位であった。他方、中国人
にも当時、囲碁は充分に浸透し、ゲーム性に対
する目は、北宋期にも厳しかったはずである。
 従って、国家の大計など、どうでもよいと考
える、不真面目で、”ゲームは面白ければ良い”
という当時の、ほんの一握りの一部の中国人が、
何ゆえ小石なり、竹の破片を使うなどして、
雲南の将棋を、指さなかったのか。その訳を、
今回は論題とする。
 回答を書く。

金将2つと玉将とで、相手の駒を詰むのが、
熊眼動きの駒2つと玉将で、それをするのより
も手数が多く、難が完全に消えていなかった為

と考えられる。
 では、論を続ける。
 以前に本ブログでは、玉将と金将のどちらか
一方を8×8升目の盤内で詰む条件で、八方
歩み駒が3つ有れば、さほどの手間無く、寄せ
るのは可能であるとの旨を述べた。
 しかしながら、実際には、終盤に2:3で、
駒が残ったときに、味方に残る盤上の駒は、
8×8升目32枚制原始平安小将棋(取り捨て)
の場合、基本的に、成り駒は駒の動きによって
呼ぶ事にすると、

8方動きの玉が一枚と、6方向動きの金将が
2枚である。

つまり、金将は、一旦味方陣の方に引き寄せて
からでないと、相手の駒を詰むのに有効でない。
 この分、原始平安小将棋の終盤は

手数が掛かる

のである。
 そのため”と金”の駒を、己の姿の化身のよ
うに見ている、九州大宰府の武者の棋士のよう
に、盤上の成り金駒に、なんらかの思い入れで
もなければ、

金将が、8方動きの近王や熊眼や毒狼や前牛の
ように、八方には動けないので、終盤が、やや
カッタルいゲームに見える

事になる。北宋の中国人の場合、夢は科挙の試
験に合格する事であって、武芸を磨いて、のし
上がり、貴族的武家政権の長になる事では、
一般に、その時代無かったとみられる。
 だから、と金が、日本人のその当時、将棋
をよく指した、九州大宰府の武者等とは違って、

単なる駒にしか見えなかった。

よって、その動きがカッタルければ、単純に、
イライラするだけであり、いろいろ動かして、
喜びを感じるという事も、ほとんど無かったに
違いない。つまり、
金将2枚と玉将で、相手の玉か残った金を詰む
のに、

多少間延び感が、実際には有る。

そのために、ゲーム性だけが、ゲームをするか
どうかの、分かれ目となるだけな、ここで言う、
不真面目な中国人にさえも、原始平安小将棋が、
定着しなかったという訳なのではないかと、言
う事になる。
 なお、それなら、金将をいわゆる7方向動き
の”酔象”等に、中国でだけ、替えれば良いで
はないかとの疑問も、あるいは出てくるかもし
れない。しかし中国人には、玉の方が金よりも、
かなり価値があるという観念が、少なくとも当
時は強かった。その為に、金将の6方向動きは、
8方動きの玉将と対比して穏当であり、よって
変更も、彼ら自身の手によっては、出来なかっ
たに違いないと思われるのである。
 以上のように考えると、

ざっと中国には、日本の将棋の形のものが、
残った形跡が無いというだけでなく、完全に、
その形の痕跡が見られないという事実が、
ほぼ説明できる

ように見える。以上のように、私は今の所、
考えるのである。(2019/09/03)

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2人制チャトランガに接した日本人は其を指すか(長さん)

本ブログでは、ほぼ西暦700年~1015年の間
に、イスラムシャトランジ系の中国大食人イスラム
シャトランジ及び、東南アジアのイスラムシャトラ
ンジ系ゲーム、それより前の時代の、インド古代
チャトランガ系(車ではなくて象が飛車ゲーム)が
伝来したとしても、中国人識者からの情報、および
日本人自身の試行によって、

”終盤、飛車で王を追いかけ千日手模様のゲームに
なる”のに気がついて、指すのを止めたので、流行
ら無いで終わった

との見方を、従来より取っている。
 他方インドに於いて、西暦600年~1000年
までは、インド古2人制チャトランガ。特に、西暦
900年頃までは、象が飛車型、西暦900年から、
西暦1000年までは、象が角行型との見方を取る。
更に四人制ゲームに関するアル・ビールーニの観察
の頃、西暦1000年前後を境に、インドでも、そ
れ以降インド・シャトランジや、象を銀将動きにし
た、”今に残るインドチャトランガ”に、転換した
と見ている。
 他方インド古二人制チャトランガは、
ペグー→バガン→ピュー→雲南までで、その伝来の
波が消失したと本ブログでは見る。ペグーでは、
西暦775年前後に、インド古2人制チャトランガ
から、兵3段目配列型イスラムシャトランジに転換
し、のちにシットゥインになったとみられる。この
ミャンマー起点の変性が、本場インドの2人制古チャ
トランガと後の大理国原始平安小将棋との差である。
 何れにしても古のインドでは、アル・ビールーニ
が、丹念に調査した結果だったのか、かなり後まで、
インド古2人制チャトランガのままで、伝統的に、
少なくとも一部の地方で、指されていたようである。
 以上のように、西暦1015年1月頃に、たまた
ま特定の北宋商人、一例では周文裔の手で、
雲南から、大理国の将棋が伝来するまで、日本人と、
2人制古チャトランガ系ゲームとの接触は、事実上
無かったと、本ブログでは見る。そのため本場の
インド、2人制古チャトランガのゲーム性能につい
て、本ブログではこれまで、余り論じて来なかった。
このゲームは、その終期の西暦900年~1000
年頃に、象駒が、飛車から角行の動きになったと、
増川宏一氏の、ものと人間の文化史110チェスの、
四人制チャトランガ1の、四人制チャトランガのルー
ルの言い伝えを見る限り私には推定される。象が一
部筋違いになるという記載が、含まれるからである。
 蛇足だが念のために付け加えると、この変化は日
本に伝来する事になる大理国将棋にも、南詔国将棋
(イコール宝応将棋のはず)にも、連動して起こっ
ていると”推定”される。
 そこで、二人制古チャトランガ(末期型)と、
イスラムシャトランジや西暦600年~900年ま
での、唐王朝時代のインド二人制古シャトランガと
では、象の飛車が角行なので、ゲーム性能は異なる
と考えられる。今回はよって、この象駒が、角行型
の末期型インド2人制古チャトランガ(900~
1000)の、ゲーム性能について、議論する。
 結論を最初に書く。

角行2枚が、王を追いかける千日手模様の終盤に
なるため、このゲームも性能は低いと見られる。

では、以下に説明を続ける。
下の図は問題の、10世紀の4人制チャトランガを、
2人制に戻した形の末期型(900?-1000)
インド2人制古チャトランガの初期配列を、駒の
名前だけ、動かし方ルールが紛れないように、日本
の将棋駒の名前等に、変えたものである。なお、
飛龍は、2升目まで走りでかつ、跳び越えられない
とする。このゲームでは、ポーンは、最奥で、相手
の初期配列の駒に、インド方式で成り、玉将の位置
と桂馬の位置で、不成りの、”行き止まり駒”とな
るものとする。

二人制古チャトランガ.gif

 上記の図のゲームを実際にしてみると、しばし
ば下の図の、黒い駒の後手のように、攻め駒として
角行が残り、他は高々、行き止まりポーンと玉将が
残るケースが多発する。

二人制古チャトランガ指掛.gif

上記終盤局面で、相手・先手の緑色の玉将を、後手
の黒色の角行2枚が追いかけるが、追い回すだけで、
イスラムシャトランジの飛車といっしょで、ゲーム
は容易には終わらない。いわゆる、終盤の千日手
模様となる。
 従って、本場のインド2人制古チャトランガが、
西暦700年~西暦900年の間だけでなくて、

西暦900年~西暦1015年の間に漂着したして
も、日本人の間で流行る事は、やはり無かった

疑いが、かなり強いとみられる。
 結論としては、大理国の将棋のように、兵等を
3段目で、熊眼型駒である金将に成らせ、角行駒が
2枚から1ないし0枚に変わらないと、更には
恐らく日本人が、”自殺手負けに対する、裸王の
優先”という、細則を発明する事によって、

ゲームは正常に終わるという点では、少なくとも
まともなゲームに、ならなかった

とみられるのである。故にインド2人制古チャト
ランガという、インド本場のオリジナルゲームが、
我国で定着する可能性は、象の飛車動きが、後半
角行動きに切り替わった時代にも、無かったという
ことに、なると推定できるように、思われるので
ある。(2019/09/02)

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興福寺2013年出土の酔象の裏が薄く金将の訳(長さん)

以前に述べたように、橿原考古学研究所
の発表と異なり、西暦2013年に、奈良県
興福寺で発掘された、西暦1098年物酔象
駒には、web上の新聞発表写真で見る限り、
楷書で

2文字”金将”と裏に薄く書かれている

ように見える。薄いため、画像処理の過程で
たまたま見える、幻影の疑いも依然残る。が、
今回は敢えて、

本当に裏二文字金将酔象駒であったとしたら、
何を意味するのか

を論題とする。なお、この出土駒はさいきん、
奈良で一般公開されたが、保存処理未完了だっ
たため、水面に裏面を水没させて展示されて
おり、仮にwebが正しかったとしても、気
づく者も、居なかったようだ。
 最初に回答を書く。

酔象を玉将の右隣に初期配列した、元駒とし
ての金将駒の無い、興福寺原始平安小将棋
(8升目、取捨て)の存在を意味している

可能性がある。
 では、説明を続ける。
 本ブログによれば、西暦1015年に日本
に伝来した原始平安小将棋は、以下の初期配
列であり、金将1・銀将2の構成であったと
見る。

8升原始平安小将棋.gif

 所で当時、興福寺にても、その後調査の結
果、伝来元国の、推定大理国の船出の将棋は、
以下の大理国原始平安小将棋の配列で、金将
1、銀将1、酔象(大理国では象)1の初期
配列であり、右銀の象置き換え型である事が、
寺で棋士には知られていたとみられる。

大理原始平安小将棋.gif

更に、この酔象は、角行動きで、後退できる
し、後方に退路を塞ぐ駒も、初期配置されて
いないので、不成りだったと、本ブログでは
見る。
 つまり興福寺でも、以上の事実を、西暦
1058年までに、掴んでいたと考える。
 この結果からは、興福寺の出土駒が、

裏が無地で、オモテに酔象と書かれている

はずであると、推定できる。
 しかしながら、実際には、裏に金将と書か
れていた訳である。だから、結論を言うと、

金将が元駒に無い、原始平安小将棋を、上記
の、大理国原始平安小将棋とは別に、興福寺
では特別に、指していた

としか、考えられない。ここで、金将が元駒
にあるケースは、酔象が金将成りであったと
して、”金く”等、金也に近い字が、裏に書
かれるはずである。並べるときに、元からの
金将と、紛らわしいので、区別するために、
そうすると考えられる。実際には、ゲーム
のときに、金将と入れ替えるのであろうが、
時々興福寺で西暦1098年に、金将の無
い、原始平安小将棋が指されたと仮定しよう。
そのため、補助駒から、作成したのであろう
が、成り裏二文字金将酔象駒が、実際に必要
になったのだろう。
 そのような将棋は、以下の図のような、

8×8升目32枚制興福寺原始平安小将棋
(取捨て型)だったとみられる。

興福寺原始平安小将棋.gif

 この配列では、酔象1、金将0、銀将2
となる。このような銀だけ将棋を、大規模に
指す国は、存在しなかったとみられる。しか
し興福寺だけでは、指されたのであろう。
 それは、以下のような事情に、よるものだっ
たと考えられる。すなわち当時、

イスラムシャトランジが知られていた中国か
ら、”象駒が、跳ぶ飛龍の動きである”との
情報が、中国から来た僧等を通じて等で、
興福寺のゲーマーに、追加で伝わった。

 元々、2つ前に示した、大理国原始平安小
将棋では、先手なら図のF6の位置の歩兵を
▲F5歩としてから、F8の位置の先手の、
酔象を一旦▲E7酔象と金前に寄せ、ついで
香車先H6の歩兵を▲H5に上げて、酔象で、

H4の地点を狙う、自分から見て右袖攻撃が
普通

である。所が、イスラムシャトランジの象の、
飛龍動きに、大理国(古代インド)型の、
角行動きから変えてしまうと、酔象を金前に
は出せなくなる。
 そこで、酔象を元の右銀の位置から、金将
を外して、玉右の、3番目の興福寺原始平安
小将棋配列のように、E8に、金に成る酔象
に変えたに違いない。銀将が有って、金将が
無いのはおかしいが、将棋史の研究で、彼ら
は将棋を指していたのではなくて、御遊び、
または賭け事で指していたので、多分に、御
ふざけ的な要素が、有ったに違い無い。彼ら
も、牛僧儒の玄怪録岑順(小人の戦争)の話
は、ひとづてに聞いて、知っていて、

”金象将軍将棋”とでも、この変形タイプの
将棋を呼んで、興福寺の将棋場では、盛り上
がっていた

のではなかろうかと思われる。すなわち、
3つ目、一番下の配列では、右袖からの攻
撃はできないが、玉将の頭を跳び越えて、

自分から見て左袖からの攻撃は可能

である。すなわち、▲C5歩~▲C5酔象~
▲A5歩で、今度はA4の地点を先手の酔象
で、狙うのであろう。
 この興福寺原始平安小将棋も、ふつうの
原始平安小将棋、大理国原始平安小将棋同様、
軽快に駒が捌けて、局面が先々へ進んでゆく
と考えられる。ただし、相手陣の最奥に、
酔象が入れないので、成りを不成りから、金
将成りに調整したと、考えられる。つまり、
本ブログでは、実際に西暦2013年に

出土した酔象駒は、興福寺の、全くのオリジ
ナル・ゲームに使用されたものと考える

と言う事である。ただし出土はしなかったが、

橿原考古学研究所の言うような、裏が無地の
酔象も、別に有るのだろう

と考える。象が後退できない歩みでも、角行
動きでもなく、”中国では、イスラムシャト
ランジの象の動きになっている”という情報
を得て、ツジツマをあわせるために、調整し
た新型ゲームに、たまたま使われた駒の、出
土であったという意味である。
 このように、南都北嶺と言われたとはいえ、
自分達で勝手に、本来皇族用に伝来したはず
の、原始平安小将棋(8升目、取捨て型)を
改変したため、朝廷では源隆国なり大江匡房
の、興福寺の下級僧のやり方に対する評判は、
さぞ良く無かった事であろう。
 それが、9升目型の標準的な平安小将棋の
設定の原因につながって行ったという事は、
充分に有り得る事だと、私には思われるので
ある。(2019/09/01)

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