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ミャンマーシットゥイン自由陣形起源インドか(長さん)

増川宏一氏書、ものと人間の文化史134
遊戯・その歴史と研究の歩み(2006)
の248ページに、アンドレアス=
ボックラーミンクの”インドのチェスと
関連した盤上遊戯の文献資料”(1995)
の紹介があり”ミャンマーのシットゥイン
の自由陣形ルールは、インド起源か”とい
う増川氏のコメントがある。今回はこれも
有り得る話だという観点から、内容を紹介
すると共に、簡単にコメントしたい。
増川氏の前記著書に次のように書いてある。
引用:
16世紀のインドのチェスの一種は、事前
に5段目まで、互いに陣形を整えてから競
技を開始する方法があったことを紹介して
いる。今日まで続いているビルマの将棋の
原型であろう。(以上引用)
 結論から述べると、
アノーヤター王の頃に成立したはずの、
ミャンマーシットゥインが16世紀のゲー
ムから、分岐するとは考えにくい。
 だから最近まで、この成書のこの記載は、
解読不能と感じられた。つまり

インドで成立した年代は、もっと古い

と考えなければ、つじつまが合いにくい。

しかし、自由配置は13世紀にも存在した
と考えさえすれば、

余りおかしくない話だ

と、その後、思うようになった。
 つまりインド人は、駒の動きのルールは、
思想的ではなく、写実的であるべきだと考
えやすい民族であろう。だから駒の動きを、
彼らの感覚からみて不自然に、強く変える
以前に、

王を高上げして、攻撃に参加させ、バラン
スが悪いのを、緩和する事を最初に考えて
もおかしくない。

よって、ミャンマーのシットゥインのルー
ルのすべてが、バガンで考えたとも、言い
切れないのかもしれない。
 そう考えると、成立した年代の推定が
おかしいものの、

インドで先に、自由配置ルールが考えられ

て、ミャンマー等で取り入れられたが、
インド本国自体では、不充分と見られて永
続せずに、今に残らず、残ったのは定形型、
今に残るインド二人制チャトランガ(象・
馬・車が、銀将、八方桂、飛車型で、配置
は中央王、副官、象、馬、車、二段目ポー
ンで、相手陣対応駒ポーン成りルール)だ
けだったのかもしれない。
 なおインドには、ミャンマー・古シットゥ
インの、兵の左3段右4段の高上げ位は、
情報として伝わっていたと考えられる。
 更にインドが、イギリスの植民地化した
とき西洋チェスに、移行をし始めたので、
”今に残るインド2人制チャトランガ”の
ディフェンス過多は、結論的に言うと、
置き去りにされ、放置された結果残存した
のであろう。
 成立が16世記ではなくて、13世紀で
あり、記録としては16世紀のものにも有
るというのなら、自由配列はインドが起源、
その後、モンゴル帝国に攻められ衰退しつ
つあるバガンのミャンマーに伝来したでも、
余り、おかしくないのかもしれないと思う。
(2020/02/09)

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後漢書の雲南テン国の記載。北宋代の大理国に酷似(長さん)

以前、鳥越憲三郎氏(中央公論)の成書、
”中国正史 倭人・倭国伝全釈”を紹介した。
が、そのときには、岩波書店(2005)の
後漢書を私は読んでいなかった。この第十冊
には、東夷列伝第75の”倭”が載っていて、
中国の史書として、ほぼ同時代の漢書と同じく
ノイズの多い日本情報だとされている。
しかし史書として早期の、後漢書に、

南蛮西南夷列伝第76の”テン”国も有る

点が重要である。そこで

テン王に関する記載の部分は、大理国王に酷似

という話を今回はする。
 では、以下論を開始する。
 後漢書では鳥越憲三郎氏が指摘するように、
東夷列伝第75の”倭”は、南蛮西南夷列伝
第76の”夜郎”と、似たり寄ったりと冒頭で
表現されている。漢代には日本列島は、海南島
の近くにあると、中国では考えられており、
海南島には、夜郎国と同族人種が住んでいると
されたためである。なお、夜郎国もテン国も、
北宋時代には、大理国領内とみられるので、

統一国家テン国は、小国分裂状態の日本列島
倭国国群の、同族先行国家と言うことになる。

そこで、テン国の様子だが、後漢書には、次の
ような旨が、書いてあるようである。
”テン国にテン王という者が居て、荘嬌将軍の
末裔の者である。西暦0109年に漢の武帝は、
雲南を攻め、漢王朝領の益州郡とした。その後
数年して昆明も征服した。昆明の近くにテン池
があり、雲南省のテン国の中心であり、そこか
ら生じる川は最初流れが緩く、逆さ川のようで
ある。テンとは逆の意のテンである。池の周り
には盆地で平坦な大地が広がり、

オウムと孔雀がおり、塩水湖で漁が盛ん。また
金・銀が多く産出し、畜産業が盛んである。
テン国官僚・富裕層は、贅沢三昧をしていて、
富かな者は、何代にもわたって栄えている。

・・・・
西暦0042年、土地の豪族の棟蚕は、漢王朝
に対して反乱を起こしたが、大軍を派遣される
と、陣地を捨ててゲリラ戦で抵抗。しかし数ヶ
月で平定された。その際、敵12700人が切
られるか、又は捕虜となり、馬3000頭、

牛と羊合計30000頭以上が、漢の物となる。

以上のように反乱軍は、ことごとく鎮圧された。”
 以上の事から、テン国ののちの、ジャン(チュ
アン)国、南詔国、大理国は、仏教の伝来は別
として、テン国と体質は、さほど違わない後続
国家であると、イメージできる。大理国時代に
は、シルクロード地帯との交易も盛んになり、

鉱業(金、銀)、畜産(馬、牛、羊)、魚業、
の他ネフライト(玉)の細工も盛んになった

のであろう。何れにしても

後漢書のテン王国の記載から、そこに将棋駒
の金将、銀将、猛牛駒の元がいかにも有りそ
うなのは、

もっともなのではないか。
なお、私は知らなかったが後漢書の記載から、

藤原道長が西暦1015年の春に、唐物とし
て受け取った孔雀は、少なくとも、かつては
テン国にも居た

ようだと判る。
 北宋時代以前に、後漢書の東夷列伝第75、
南蛮西南夷列伝第76が成立していたのは明
らかである。だから北宋商人(一例)周文裔
が、上記を読んで、宝応将棋の進化型である、
原始平安小将棋(大理国タイプ)の存在を
予め掴んだ上で、

立体駒タイプの平安小将棋を交易品として輸
送して来る行為は、実際にその作業をすると
すれば、”単なる同族内の文物の移動を、
代行して商人がしている”と、意識するに
すぎないという事は明らか

だと、私は考えるのである。なお、大鏡の
藤原行成を記載した、”後一条天皇のオモチャ
の件”等から、倭族については雲南テン国だ
けでなく日本でも、雲南大理国の時代になる
と、富裕層が贅沢三昧し出したので、一緒の
レベルに到達したと北宋商人(一例)周文裔
は、見なしたはずである。つまり冒頭で述べ
たように、テン王も大理国の王侯も、日本の
天皇・藤原一族も同じ倭族であるからいっしょ
だと、北宋商人には、後漢書を読めば、見な
せるということになるのである。(2020/02/08)

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私説、朝廷サロン・双王小将棋仮説根拠のまとめ(長さん)

平成の天皇に将棋の趣味があるが、今の日本将棋
を、普通に楽しんでおられるだけだとの旨の情報
が、”解明将棋伝来の謎”松岡信行著に出ている。
 本ブログでは、白河天皇から後陽成天皇までは、
朝廷での小将棋の標準は、王将×2だったとして
いる。後奈良天皇の詔の話から推定されるように、
実効力は別として、将棋文化を朝廷がコントロー
ルしているとの意識が、存在した可能性がある。
実効力は中世、近畿地方と神奈川県鎌倉市の街中
だけに、限定されたと、本ブログでは推定している。
 その第一の中心的根拠は、本ブログで以前述べ
た、関西方面で、よほど摂関家が強い興福寺のよ
うな例を除いて、

古代末~中世に玉将が出土しない事

である。
なお、近畿以外になると、一乗谷、鳥取、福岡、
新安沖沈没船から、中世に玉将は出土している。
鎌倉に王将駒が、ひっそりと出土している点は、
本ブログでも前に指摘した。以上は中世に朝廷が、
鳥羽離宮135次のような王将駒を、玉駒として
推奨した、最有力の証拠と本ブログでは見る。

なお今の所、本ブログの論の賛成意見は皆無

である。原因は少し後で述べるが、ともあれ自分
が、この点でのトップランナーだと考える事にし、
良い事だと思うようにしている。
 さて更にここでは、他の根拠もあわせて、証拠
のまとめをしておく。以下、論を開始する。
 2番手の証拠として、最も大きいのは、
八木書店2000年発行(復刻)の、二巻物
色葉字類抄、加賀藩前田本の、1/4冊末備奥付、

小将碁馬名の玉駒が、王将である

事である。今回はこれにつき、もう少し詳しく述
べる事にする。
 二巻物色葉字類抄、4分冊化を実行した西暦
1565年書写者で、小将碁馬名の挿入者とみら
れる雪竹老人は、

戦国時代に天皇家では、日本将棋の玉は、
2枚ともに、王将だと認識していた。

ので、玉駒を書く所に、王将と書いたというのが、
少なくとも本ブログの見方である。玉駒を書くと
ころは、一箇所だったので、玉将を省略したのだ
ろうと、言う向きも有るかもしれないが、それな
ら、色葉字類抄のフォーマットから見て、王将の
字の下に小さく、”他一方ハ玉将”等と、注釈を
入れれば済むだけのはずである。なお、加筆者と
みられる雪竹老人は、自身のあとがきの中で、”
写書は、聖徳太子に見せたいと希望している”と、
取れる文を書いている。近年の成書に”聖徳太子
は天皇だ”と題字しているものも有る位だから、
色葉字類抄のターゲット読者が、皇族である事を、
雪竹老人が意識していたと、仮定できるだろう。
 しかし、これに関して前にも述べたが、恐らく
上の史料を慶長期に問題にした、あい嚢鈔の、
西暦1590年後半の、慶長本書写者兼、
玉/王将の理由の項の加筆者が、本ブログの論
は取らず、日本将棋の玉駒は、上手が王将、下手
が玉将の1:1だと言う意味の記載であると、
安土桃山時代の末から江戸時代草創期にかけて
主張した。そしてかつ、

あい嚢鈔の説が、非常に優勢になって今日に至っ
ている。

そのため、

本ブログ説はここに述べても全くの奇説に見える

だけに、なってしまっているという訳である。
 しかし、戦争は国家間でするものであり、対立
国家には、

それぞれに王が居るので、中世天皇家の小将棋ゲー
ムが双王でも、冷静に考えると違和感など無い。

だから”玉/王1:1かつ、王将上手説”に、も
ともと大きな説得力など無いと、考えられるので
ある。

2つ王が居るとおかしいという洗脳力が、いかに
強いものか。

繰り返して主張されると、整合性の乏しい説も、
さもさも、尤もらしく思えて来るという一例だと、
本ブログでは、当然考えている。
 更に3番手の史料として西暦1595年宣明暦
5月5日の、朝廷の女官の日記、”御湯殿上日記”
に、秀吉の大将駒の提案をした旨の、朝廷への報
告の記録が載っていて、

豊臣秀吉が、玉将に言及して居ない

という点も証拠である。これは当時の天皇家で、
小将棋を指すときに、玉将を使用していなかった
証拠であると本ブログでは見ている。後陽成天皇
の、豊臣家への問いは、”昨今は皇族も、たいそ
う質の良い、水無瀬兼成駒を使用するようになっ
た。だが、そもそも皇族の玉は、特に小将棋につ
き玉将ではなくて、王将なのが、院政時代からの
流儀である。将棋の一番大事な駒に関して、皇族
は王将×2を今後も使用すべきかどうか、豊臣殿
は、どう御考えですか?”が、具体的質問内容だっ
たと私は推定する。
 つまり後陽成側は”水無瀬兼成の双玉は摂関流
であり、上皇流ではない”と、言っていることに
なり、天皇家で安土桃山時代末まで、双王小将棋
が残存していた証拠と推定できると、本ブログで
は独自に考えたというわけである。
 今の天皇家に、こうした話が残って居ないのは、
血筋が途絶えて、閑院宮家流に天皇が継承された
江戸時代に、前記記憶が、将棋の家の既存在から
当然の如く不要となって、失われたからであろう
というのが、ここでの見方だ。
 今の所、史料としての根拠は以上の3点である。
特に関西の出土駒については、王将の王の書体が、
”本当は玉で、無理やり王にさせられているのだ”
という心の叫びがあるかのように、真ん中の横棒
が、下に下がっているように見える点を含めて、
それだけだと考える。むろん本ブログでも、本件
については、更に証拠が無いかどうか、今後も調
べるつもりで居る。(2020/02/07)

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ボックラーミンクは某ゲームの駒初期配置を推定(長さん)

欧州の遊戯史の研究家とみられ、インドの
古チャトランガ史料の発掘と、チェス起源史
で名を良く聞く表題の、アンドレアス=
ボックラーミンクが、サンスクリットの、
西暦1129年頃成立の古インド文献、
「マナソラーサ」をドイツ語に訳した際に、
何かのゲームの駒の初期配置を4通り推定し
たのかもしれないという話が西暦2006年、
法政大学出版局の、増川宏一著、ものと人間
の文化史134”遊戯その歴史と研究の歩み”
に載っている。

”4通りの開始時の駒の配置”を推定した
ゲームが、チャトランガなのか、
バックギャモンなのか、よく判らない。

問題の箇所の原文は、次の表現である。

「マナソラーサ」をドイツ語に全訳し、
11世紀前半のインドの駒の動きや当時の
インドのバクギャモンを紹介した。開始時
の駒の配置は4通りあって、うちの一つは
現行と同じであったと指摘している。

バックギャモンでは”駒の動き”は、
サイコロの目だけ進むだけなので、

”駒の動き(等を)紹介した・・駒の配置は”
は、主語がインド二人制チャトランガの初期
配置のようでもあるし、原始バックギャモン
の駒の初期配置のようでもある。

アンドレアス=ボックラーミンクが紹介した
場所もよく判らないが、とにかく以降、

二人制チャトランガの初期配列に4種類有る
と言っているのかもしれないので注意が必要

だろう。紹介した著作は、今度は遊戯全般な
ので、話題がまぜこぜになって、こんな表現
になるのである。”異制”庭訓往来の一件は、
この著書のお陰で、無事に解決したようだが。
新たな問題が生じたようだ。なお、
アンドレアス=ボックラーミンクのこの話は、

恐らくだが、だいたい今から25年前の、
西暦1995年前後の話

だと考えられる。(2020/02/06)

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(コラム)天文年鑑2020長田和弘氏指摘は誤解(長/軌道)

天文年鑑2020の流星観測結果に、ジャコビニ流星
群の、2018年佐藤幹哉予想のはずれの件が書いて
ある。が、佐藤氏の計算は合っている。流星群ではな
くて準流星雨になったのは、1985年や1998年
の計算結果図と、2018年の計算結果図とを、単に

佐藤幹哉氏が、よく比べてないだけ

である。1998年等と2018年は、さほど計算結果
傾向に差は無く、

2018年は、佐藤氏の指摘する時間帯に”準流星雨”
と予想が出て当然

だ。次回2024年については、アメリカの研究者に、
この件事前に良く調べてもらい、アメリカの長田和弘
(熱心な流星観測者の代表と言う意味)に、よくチェッ
クして貰うと、よかしかろうと私は考える。なお西暦
2005年頃だったと思うが、EUの某軌道計算家が
web上に、”西暦2011年と西暦2018年は、
流星計算テスト粒子の地球落下数が多く、どちらも
ジャコビニ群は準流星雨を予想”と、既に指摘してい
たと記憶する。(2020/02/05の2)

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平安の理科離れ曼殊院の諸将棋図成立まで続いたか(長さん)

以前、本ブログでは、斉藤国治氏の天文道家
の月惑星、月輝星、惑星惑星の会合観測の精
度から、理科離れは15世紀いっぱい続いた
と述べた。ところで、曼殊院の将棋図は西暦
1443年だから後ろの方で、この期間に入
る。それに対し、
伊達宗行著の”理科で歴史を読みなおす”
(ちくま新書、2010年)に、足利義満
時代の西暦1400年前後に、銅の精錬が
国内で盛んになり、理科離れ終焉との旨が書
いてある。

つまり約100年誤差が有る。

上記伊達宗行氏の著書を良く読むと、
西暦1453年に、明へ銅を輸出している
記録が根拠である。何れにしても、銅精練で
は、曼殊院の諸将棋図成立の頃には、科学が
日本で再び、重視されてきている事を示して
いる。では、

どちらが正しいのか、境目をはっきりさせる

事を今回は論題とする。
回答から書く。

西暦1400年頃で、平安の理科離れは終わ
り、曼殊院の諸将棋図成立は、回復期である。

では、論を開始する。
 以前にも紹介したが平安時代陰陽道史研究、
思文閣出版、山下克明、西暦2015年に、
斉藤国治氏の、伊達宗行氏の紹介と

合わない情報が載っている。

”月星、惑星対惑星の会合現象に関し、記録
の臨界角が甘くなっている状態が、西暦
1500年まで続く”と載っているのである。
 それと関連する事実とみられるが、惑星-
惑星間会合で、惑星名間違いをする、安倍家
15代目当主、安倍有季と、同族の安倍有重
の記録が載っている。が、

これは、補強材料にならない

というのが、本ブログの見方である。逆に、

理科離れ回復期の、証拠なのではないか

と本ブログでは見ている。理由を結論から言
うと、

安倍有季と、同族安倍有重の2人だけの怠慢

の指摘と取れるからである。根拠は容易で、

古代中世惑星間違い8件のうち4件この2人

だからである。
 以下更に詳細に述べる。彼ら2名のした間
違いの4件は、時系列順に内容を述べると、
次の通りである。

①西暦1444年宣明暦の4月27日の前後
に安倍有重は、夕方に木星が西に低くいて、
その少し東の所で、金星と土星が会合してい
る時に、”金星、土星、水星が会合している”
と報告し、木星を水星と間違えた。
②西暦1444年宣明暦の閏6月1~3日に、
安倍有季と安倍有重は、明け方の空で、
木星と土星が会合しているのに”木星と火星
が会合している”と報告し、土星を火星と間
違えた。
③西暦1453年に安倍有重は、惑星名を
間違えている。
④西暦1454年宣明暦の6月26日頃に、
安倍有季は、明け方の東南の空の、おひつじ
座の東付近で、火星と木星が会合しているの
に、”土星と木星が会合している”と報告し、
火星を土星と間違えた。
なお、①~④の指摘者は賀茂在貞等、暦道の
賀茂氏を名乗る人物になっている。

賀茂在貞は15代目で土御門氏移行期の安倍
当主、安倍有季らを、かなり罵倒している。

なお、webの土御門有宣は16代目である。
これに対し、山下克明氏はようするに、意地
悪く、”賀茂が安倍に、

暦を貸さなかったのが原因か”

との旨述べている。そこで私は、

山下克明氏は正しいが間違う言訳にならない

と考える。

暦が無くても、惑星のどれが、どれなのかを、
普段天体観測している人間は概ね間違わない

ということである。つまり惑星がどれなのか
を、そもそも気にして居ないような、間違え
方だという事である。なぜなら、
①で木星を水星に間違えたのを指摘されれば、
②の月日の当りで、

2か月前に水星と間違えた木星に、土星が接
近して会合する事を天文家は予め予想できる

という性質のものだからである。なお、火星
は、夜中頃に赤く明るく見えたはずであり、
15代目で土御門の安倍有季が、金星と水星
が居て、会合現象が確率的に起こりやすい、
宵の西空と明けの東空を、

ちらりと観測して、夜中は見ずに、日ごろ天
体観測を手抜きし誤魔化していたのは明らか

とみられる。その証拠に、④で、2年1ヶ月
20日毎に、一定の時刻に決まった時角に
なる火星は、8年6カ月20日と、10年
8ヶ月10日の、だいたい3/4時点の10
年ちょうど程度で明け方の南東の、おひつじ
座の東に来るのを、西暦1444年宣明暦の
閏6月に、衝になっている姿を見落とした指
摘から、察する事が出来たはずなのに、それ
が出来ずに、更に土星と間違える事から見て
も明らかである。
 またそれ以前に、西暦1444年の宣明暦
1月から3月の宵の頃に、良く見えたはずの、
木星と土星の居る星座が恐らく、ふたご座~
かに座付近であり、東に土星、西に木星と並
んで見えていたのを、よく見て居ないから、
①の間違いをしたのである。
 つまり、そのときの5惑星の、惑星の動き
の性質は、若いときに先達等から以下のよう
に、学べたとする。

すなわち、星座に対して木星の公転周期が、
約12年で、土星の公転周期が約30年で
ある事を学んで知っている。
火星と地球の会合周期が約2年1カ月20日
であるのを知っている。
金星と水星は、太陽から、余り離れない。
金星が太陽に対して東西45°前後まで。
水星は、フレが約10°有るが、その半分程
度の23°が平均である。また両者は、
明るさが大きく違う。より暗い水星は太陽か
ら離れ無いので、めったに見れない。
春分少し前の夕方の水星か、秋分少し後の明
け方の水星で、太陽に対して、離角が大きく
なったときが見やすい。
 以下は、史料の注釈として少し詳しく書く。
立夏の頃の宣明暦の4月の夕方は、仮に
東方最大離角になれば、北に傾いた軌道の
縁先に、水星が乗る形(水星の軌道要素の
昇交点黄経Ωは45°位)で、好条件要因
が追加される。が、同1月頃の東方最大離角
状態に比べて常用薄明時間が長く、後者の悪
条件要素も作用し、そうなっていたとしても、
発見は必ずしも容易ではない。尚水星軌道の、
昇交点黄経Ωの歳差込変化は、誠文堂新光社、
天文年鑑の2000年版によると、550年
位で約6°増で無視可能。
以上は①の参考のために、水星は少し詳しく
書いた。
 全体として、水星は一年に3回、宵、明け、
宵、明け、宵、明け等と出現を常に繰り返す。
金星は俗に、”8年前の見えと同じ”と言わ
れるように、ほぼ1.6年が会合周期。5回
の会合周期で8年ちょうどに、ほぼなる。

以上の基本の心得があれば、

賀茂氏に、意地悪く暦を隠されても、惑星
を間違う事は、先ず無い

という性質のものである。なぜなら、②や④
の明け方の会合では火星がまだ暗く、少し注
意しないと、間違う可能性は無いとは言えな
いが、外惑星はこの頃逆行せず、かつ、火星
は太陽より少し遅いが、太陽を追いかけて星
座を順行する動きが、独特の決まったパター
ンだからだ。
ちなみに西暦2020年2~4月頭に、火星、
木星、土星がいて座~やぎ座付近で並んでお
り、上記がよく判る状態になっている。水星
が2月頭は、宵の西空低くに見え、宵の明星
の金星を目印にして、見ごろだ。
また10年前に起こった木星と土星の会合が、
その年起こる事も無い。1/{(1/12)-
(1/30)}は、約20年である。だから

これらの一連のはずし方を、時系列でよく見
ると、暦を伏せられたからではなくて、天文
道家としての、基本がなって居ないから、
起こる間違い

という性質のものである。
 そもそも、少なくとも金、火、木、土が、
その日何処にいるのかが判らないと、気にな
るようでなければ、天文道家とは言えまい。
安倍家15代目当主の安倍有季と、同族の
安倍有重には、そのような様子が、間違え方
のパターンから見て、私には感じられない。
 今述べた事は、だいたい1日の学習と、心
がけ次第で身につくはずである。だから、
たまたまだが、安倍家の15代目の安倍有季
と、同族安倍有重の2人は、

仕事のやる気が、もともと無い人物達だった

のだろう。さすがに

他の安倍氏に、このような人間は居ない

と疑われる。その証拠に、歴代の間違いで、
他のは、たまにの、記録ケアレスミスのよう
で全体で4件だが、この2人に限って全体の
50%の、4件のミスが発生して、合計8件
になっている。
 この賀茂在貞等、暦道の賀茂氏を名乗る人
物の指摘記録のケースは、少しでも、やる気
の無い天文道家が居れば、賀茂氏の暦家は、
ただちに文句を言ったと見て、日本の

暦道家の断固たる姿勢を、褒めるべき

ではないのだろうか。少なくとも1440年
から1450年に、暦家に、そのようにうる
さく言う人物が居たため、

囲碁には同じ頃、碁打ち衆、上手衆と言われ
る集団が存在した

ようになったのではないか。
 また将棋でも、ゲーム性能の議論はこの頃
も依然盛んであり、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の元になった、
曼殊院の将棋図もその頃に成立したとされる。

よって、更に事実の蓄積が必要だろうが、

西暦1400年までで、平安時代から続いた
日本の理科離れがどうやら終わった可能性も、
結構な確率で存在する

のではないか。以上のように、本ブログでは
結論するのである。(2020/02/05)

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1015年の周文裔は鳥越憲三郎のような人類学者(長さん)

本ブログでは以前述べた通り、文化人類学上の
理論の一である”稲作弥生人の中国南西部起源説
と、文化の伝来経路説”に従って、あるがままの
自然法則として、そこから将棋が伝来したのでは
なく、文化人類学者としての西暦1015年時点
での北宋商人が、雲南の文物と日本それとの相性
の良さを、当時の中国宋代の、文化人類学からの
知見に基づいて、能動的に売れ筋として割り出し、
日本の朝廷の後一条天皇向けに、道具を転売した
ものが日本の将棋の始まりという事になっている。
西暦1015年は既に歴史時代であり、弥生時代
では無いからである。
 しかしながら、現在の文化人類学の情報量より、
当時は当然劣っているはずであり、一例中国商人
周文裔に、以上の思考能力があるのかどうかを、
検証する必要があると考えられた。そこで今回は
表題のように、西暦1015年時点での一例、
中国北宋商人で、将棋を雲南から運んだと疑われ
る周文裔の持つ知識量は、たとえば、前に、
”中国正史倭人・倭国伝全釈、中央公論新社”の
著者として挙げ、”雲南からの道。日本人のルー
ツを探る”等で、稲作弥生人の、中国南西部起源
説を主張しているとされる文化人類学者の、
鳥越憲三郎氏と同様な思考に、

約1000年前に到達できたのかどうか

を、論題とする。回答を書く。

到達できたと考えられる。何故なら、そのために
必要になる裏付け史料は、唐代までに出揃ってい
たから

である。では、以下に論を開始する。
 webの情報によると、日本の文化人類学者の
鳥越憲三郎氏は成書、中国正史倭人・倭国伝全釈
にもあるように、『論衡』から『旧唐書』にいた
る史書における倭人の記述を読解し、「倭族」が、
日本国の倭国の倭だけではなくて、揚子江上流域
の、四川・雲南・貴州の各省にかけての、非漢族
をも表している事を明らかにした。そしてそこに
は、複数の倭族の王国があったとさえ指摘した。
すなわち、テン国、夜郎国、昆明国、且蘭国、
徙国、キョウ都国、蜀国、巴国等。なお発生地が
漢代の史記からテン国なのは、歴史的順序から見
て、誰にでも判るし、遺跡でも知られるテン池付
近が、倭族の中心地であるとする事位は、
鳥越憲三郎氏同様、1000年前でも可能だろう。
 なおテン池は、大理市ではないが、同じ雲南省
内にあり、昆明市に近い。

日本、任那等を含めて、史記の記載は”倭”である
から、同族なのは、北宋時代でも、『論衡』から
『旧唐書』の倭部分を読めば、納得できるのは明
らか

であろう。
 よって、周文裔は唐より後の、五代十国以降の、
北宋の人間であるから、相手国のようすを、自国
の史記で調べるのは、交易家として自明であろう。
更に奥さんの顔を見る等すれば、東南アジア人と
中国人が混じったような顔をしているのは、中国
南西部の人間と、日本人とでいっしょだと、気が
つくだろうから、史料を疑う要因もない。だから
今から約1000年前既に、

鳥越憲三郎氏の認識に周文裔が到達するのは容易

だと、私は思う。
よって以上の事から、

交易品として使える物が有るのであれば、行くの
は海岸近くと違い、雲南は奥地たいへんではあっ
たが、使ってみようと常々考えていた

と当然仮定できるだろう。
 そして、雲南には砂金に基づく金文化があり、
たまたま大内裏が火災で焼けてしまい、藤原道長
から、”金の飾り物補充をしたいので、どうにか
してほしい”と言われた。また”孫の後一条天皇
に、オモチャを買ってやりたい”とも聞いた。
 そこで、”金将のオモチャ”が、たまたま有る
事を知っていた、北宋商人一例周文裔は、お得意
さんの為なら、ソンコイ川昇り程度は覚悟しよう
と、雲南に出かけた。
 以上のような経緯の推論が、大理市の仏塔から、
武家族系の王族が成就した姿を象ったとみられる
玉、金、銀、銅、鉄仏の出ている事から考えても、
少なくとも絶対無理筋議論とまでは、行かないの
ではないかと私は疑う。
 つまり雲南省の文物は、日本納入物品の、有力
な供給源候補として、文化人類学者としての力を、
文献が現在と同等な所まで達し、豊富であるため
に当然持っていた北宋商人一例周文裔の頭の中に、

予め常時インプットされていたのではないか。

やはり私は、以上のように仮定して良いように、
思えるのである。(2020/02/04)

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増川氏言は違う。中将棋大将棋は異制庭訓往来に無い。(長さん)

以前、異制庭訓往来の専門家以外見て居ない写本
に、遊学往来のように中将棋と大将棋が、中抜き
ではなくて、ちゃんと書いてあるという見解で
終わった件の以下蒸し返しである。西暦2018
年09月12日に、端を発し、その後群書解題等
を調査した事が有った。

増川宏一氏の著書に明確に、”異制庭訓往来に、
中将棋が記載されている”との旨書かれ、岡野伸
氏も追従して”中将棋は遊学往来と異制庭訓往来
に書いてある”と、最近は記載するようになった
案件

である。結論を述べると、

増川氏が、続庭訓往来を異制庭訓往来と書き間違
え、続けているだけ

である。では報告を開始する。
 謎を解く鍵は、

増川宏一著、ものと人間の文化史134、
遊戯 その歴史と研究の歩み(法政大学出局、
西暦2006年)の83ページ

に有った。
 ”14世紀の後半に作成された文例集の
『異制庭訓往来』(延文元年・1356~
応安八年・1375)には数多くの遊びが列挙さ
れている。これには庶民の遊びも多数記されてい
るが、類本も多いのでそれも含めて述べると次の
通りである。”に続いて、

遊学往来(”続庭訓往来”と群書類従には副題が
ある)の内容が書いてある。

なお、内容は群書類従の通りだし、岡野伸氏の
中将棋の記録(一)32ページ図の[「遊学往来」
中将棋の記述の部分]と、寛本と記載された部分
に関して同じである。
 よって、本ブログで以前に想像したように、

増川宏一氏は異制庭訓往来の、特殊な書写本バー
ジョンを調べたのでは無い。

単に今世紀に入った頃から、続庭訓往来の中将棋・
大将棋の記載を、”異制庭訓往来の中将棋”等と、
書き間違え続けているだけだと、結論された。
 たまたま、ものと人間の文化史134、遊戯に、
内容をコピーしてくれたお陰で、はっきりと判っ
た。増川宏一氏は成本”遊戯”では、遊戯の全競
技について論じなければならなくなったので、

たまたま遊学往来の、記載部分を具体的に書いた

ようだ。他の著作に内容紹介が無いのは、本の題
名からみて、遊学往来の中将棋部を含めて、ずら
りと、文献内容コピーを記載しなければならない

筋合いが特に無いから

である。
 成書の場合、体裁から300ページ程度に、
文字総数を制御する必要がある。それに対して、
webのブログの場合、字数制限が無い。

論文や単行本にこだわるのは、保存性から正論

だ。しかし事実上発生する字数制限から、今のよ
うな問題が発生したときに、確認する迄に、大き
な手間が掛かるという欠点が、紙媒体の成書に有
る事も確かだと、私はそれからは思うようになっ
た。(2020/02/03)

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幸若舞信田の作者はなぜ駒数多数将棋を登場させた(長さん)

以前述べたが幸若舞の信田は、茨城県稲敷市付近
の住人と見られる作者が、江戸時代頃に、栃木県
小山市の小山氏が、通説では茨城県の英雄の、
平将門を討った藤原秀郷の子孫である事をやっか
んで、小山氏が平安時代末に、荘園の横領等での
し上がった話を作り、成敗する架空話である。
ただし同じ茨城県でも稲敷市は、志田義広の支配
地であり、野木宮の合戦の、小山市等による宣伝
等の方に、むしろ妬みが生じやすい可能性も有る
と、本ブログでは指摘した。
 小山氏の兵力が大であるために、勝利者が、
木曽義仲になるのか、源頼朝になるのかを、左右
させたと取れる史実から、小山氏を相手にした戦
で、それを将棋に例えれば、摩訶大大将棋を持ち
出す必要がある。そのため幸若舞信田では、
第一次の茨城県討伐隊の、壊滅的敗北を記載する
ときに、将棋に例えて、摩訶大大将棋を持ち出し
たというのが、本ブログの解釈であった。
 ではそもそも、単に負け戦を表現するのに、
将棋一般を、幸若舞信田の作者が持ち出してきた
のは、何故なのか。将棋史の方では、文献が増え
て助かったのであるが、なぜ幸若舞の特定のこの
作品に、将棋が出てくるのかを、今回は更に追及
する。回答を書く。
 幸若舞信田は完全成立が、安永の頃の将棋将軍、
徳川家治の時代であり、将棋が話題になった。そ
してそのときに、作者が恐らくだが、栃木県
小山市天神町~神鳥谷(曲輪西)の、当時真言系
の寺、青蓮寺に

伝摩訶大大将棋の将棋駒が、神社仏閣の宝物とし
て存在するという話を、日光街道の旅行中に立ち
寄って聞いて知っていた為ではないか

と、本ブログでは推定する。
 では、以下論を開始する。
 本ブログによれば、以前述べた通り、西暦
2007年に、神鳥谷(曲輪西)の、江戸時代に
は真言系の寺、いにしえ尼寺とされる青蓮寺付近
で出土した裏一文字角行駒には、江戸時代に少な
くともレプリカがあり、

青蓮寺に社宝、寺宝として保管され、訪問すると
旅人は、話は聞かされた。ただし、実際見る事
の出来たのは、日光参拝の将軍程度だった

という事になっている。その際恐らくレプリカ=
出土駒だろうと述べた上で、一例だが、

徳川家治時代に幕府の総力を上げて再現したもの

とも述べた。再現に際しての幕閣での想定される
担当者として、田沼意次、長谷川平蔵を挙げた。
 南北朝時代の南朝方で、堀河関白として知られ
る近衛経忠作とも疑われる元の駒が、ほぼ同じと
言えるほどに精密に再現されたと、今の所は判断
しているとした。
 駒数多数の将棋である事は明らかだっただろう
が、普通唱導集大将棋の存在は、江戸時代には知
られておらず、その宝物は当時、

伝・摩訶大大将棋の角行駒と表現されたはずだ

だとみられる。一般の旅人も、小山市天神町~
神鳥谷曲輪の、真言宗系の江戸時代当時は男寺で、
天満宮が神仏混合で、別当で付いている青蓮寺を
訪問した際に、現代に残った、旅行案内の古文書
に書かれているように”古は尼寺”という話程度
は事前に聞いただろう。しかし実際に訪問すると、
加えて、鎌倉時代の小山氏の兵力が大きかったの
で、寺宝として当時残っていると主張された、

参謀が用いた合戦戦略用の道具である将棋具一式
も、”小将棋ではなくて、(伝)摩訶大大将棋だっ
た”という話は、青蓮寺住職等から聞かされた

のではなかろうか。
 特に日光参拝で、将棋将軍の徳川家治が、臨時
の停泊所を作った上で、小山市で停泊したときに、
青蓮寺が挨拶のため、実は幕閣と協力して、新た
に作成した”寺の宝物”の前記レプリカを、持参
してから後は、

寺宝の将棋駒、角行が実際に存在するために、余
計、宝物有りの寺として宣伝されるようになった

と考えるのが、自然なように思われる。つまり、
仮に、幸若舞信田の成立が徳川家治の日光参拝の
頃の少し後の天明の頃であるとすると、その少し
前に、茨城県稲敷市付近が住居なので、日光へ旅
行で行くので小山宿を、たまたま幸若舞信田の作
者が通ってた事があった。そして、その作品を作
るときに、

小山宿には小山氏に関連して、摩訶大大将棋を
宣伝してる寺があるという記憶があって、物語上
において将棋に言及している疑いも有る

と私は考える。日本将棋の伝承なら、もっとケー
スが多いが。駒数多数将棋は珍しいので、記憶に
残りやすいのではあるまいか。なお、信田を読む
と、全国各地の地名が、大量に織り込んであり、
作者の旅行好きは、自明だと思われる。
 逆に言うと幸若舞信田で駒数多数将棋が出てく
るという事から、徳川家治の時代頃が、この作品
の成立時期ではないかとの、疑いを持たせる。そ
してそれと同時に、江戸の安永の頃から幕末まで、

小山市天神町~神鳥谷の青蓮寺に、現在では出土
遺物でしかない、裏一文字角行駒が、地上の建屋
の中に、きちんと保管されていた疑いもある。

以上のように、推論出来るのではないかと私は、
考えているのである。(2020/02/02)

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富山市願海寺城、線刻”裏し大申斗”駒は成と香車(長さん)

戦国時代、一乗谷朝倉氏遺跡将棋駒とほぼ同じ
頃に成立とみられる、富山県富山市の願海寺城
遺跡から、西暦2002年前後に出土し、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも記載のある、
線刻文字付き出土駒について今回は論題にする。
話題にする理由はwebによると、2020年
1月29日に、富山市内の安田城跡資料館で、
この遺物を含めて、説明会が有ったようなので、
頃合が良いためである。結論から書く。
 鎌倉の鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒の、香車と
同じタイプの誤認パターンなので、裏はと金
で良いとして、表は香車であろうと想定される。

歩兵と香車は、類似の形であると、作者は言い
たい

のであろう。では、論を開始する。
西暦2002年前後発掘の富山市の願海寺城跡
出土駒は

一枚だけである。

この駒は、概ね墨書きが成り”と金”歩兵駒で
あり、それとダブって線刻で”裏『し』大申斗”
等と彫られている。今回は、歩兵駒としてでは
なくて、

謎のダブり線刻を読む。

2003年に、富山市教育委員会から、富山市
内遺跡発掘調査概要Ⅴという、調査報告書が出
ていて、先行研究が38ページ付近に載ってい
る。研究者は、増川宏一氏である。なおweb
上で公開されている。
それによると、以下のようである。
①少なくとも裏は、とである。ただし2画目の
L字部分は、理由が謎だが刻んで居ない。
②オモテ面の上部は大のようだ。2文字なのか、
3文字なのかは判然としない。
③一字目は奔かもしれない。しかし、奔王は
不成りだし、奔猪なら裏の間違いであり、とが
横行になるはずだが、そうなっていない。
④ひょっとすると、”大兵”という駒が有るの
かもしれない。
 以下は、本ブログの見解である。
 そもそも、香車の字の薄い駒を、別駒だとの
先入感から、奔駒とか金の1~2画だとか読む
のは、今やすっかり御なじみの錯覚であり、成
書天童の将棋駒と全国遺跡遺跡出土駒を見ても、

パターンが良く似ている。

上が詰まっているとノが無いように見えるが、
奔に見えたときには”香を疑え”は今や格言
だ。だから、一文字目は

”香”に、まちがいないと本ブログでは考える。

次に斗は十に近く、車の一部が十に含まれるか
ら、2字目が斗に見えたら、

車だと疑うべきである。

裏面のとの一画目はとであり、ひょっとして、
2画目は磨耗しただけなのかもしれない。
よって、本ブログでは、

歩兵駒の上に、線刻で香車を書いた

のではないかと、かなりの確率で疑う。動機は、
もとより証明困難だが、

”歩兵と香車は、(戦国時代には)長細い駒で、
同じような形である”との旨の初心者向け教育用

等が考えられる。
 一乗谷朝倉氏遺跡の出土駒は、同じ時代であ
れば、全国共通である事を富山市駒も、よく表
現しているという事なのであろう。
 実は、同様な情報が当然含まれる、同時代の
滋賀県の観音寺城下町遺跡出土駒では、

たまたま、運悪く香車が一枚も出土しなかった。

その点で、この富山市駒の情報は、貴重である
事が、少なくとも本ブログによっても、ここに、
はっきりと明らかにされたのである。(2020/02/01)

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