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玄海録が嬉遊笑覧まで日本文献に出現せぬのは何故(長さん)

本ブログでは、玄怪録岑順の収録された中国
北宋代の太平広記が、西暦1000年前後から、
京都の陰陽寮に有ったと仮定している。ただし
証拠立てる史料は無い。
他方、”解明・将棋伝来の「謎」”(大阪商業
大学アミューズメント研究所叢書・2014)
で著者の松岡信行氏は、日本に記録が継続して
存在したので、初めて嬉遊笑覧に”玄怪録”と
いう単語が載ったとしている。(同書150ペー
ジ)。そして国内に記憶が継続した事を、自身
の内製説に関連付けて強調している。しかし、
後半の継続して国内情報保存仮説に関しては、

本ブログは反対

する。

忘れ去られていたが、江戸時代に中国から再
輸入された

だけと考える。では、仮に本ブログ解釈の方が、
先ずは正しいとして、平安時代の西暦1000
年既に存在に言及した記録が、関係者の日記に
無いのは何故なのかを、今回は論題とする。
つまり、啓蒙する元が無いから、鎌倉時代以降
は、伝来しないと見ると言う事である。
回答から書く。

原始平安小将棋の作者は外国人なので、日本
国内で、元ネタの玄怪録に言及する平安時代の
日本人は居なかったから

である。
 では、論を開始する。
本ブログで、松岡説に反対なのは、19世紀の
嬉遊笑覧の時点で、遊戯史として既に

中国にはシャンチー史論が存在し、それが幕末
に輸入されたと見るのが、尤もだと認識する

からである。元々嬉遊笑覧の著者は、中国文献
に現われる各種ゲーム史を通読していたと、私
は認識している。また19世紀初当時既に中国
では、中国シャンチーの起源論で、玄怪録岑順
が論じられていたと見ている。それは18世紀
半ばに、太平広記の黄晟黄氏巾箱本が出回った
結果、中国では日本の嬉遊笑覧の成立の半世紀
前に、宝応将棋が確認されていたからだという
事情と見るのが、合理的であると私には思える
からである。

中国清王朝時代19世紀初の中国シャンチー成
立論を、嬉遊笑覧の著者は確認した。それだけ

なのではないかと私は疑う。
 そこで、私の推論が正しそうなので、続ける
と、では松岡信行氏の論の方向が正しく、平安
時代に太平広記が、日本の陰陽寮等にもあるか
ら玄怪録は、日本の陰陽師に知られていたはず
なのに、なぜ記録に出てこないのかが問題に
なると思う。
 そこでその理由は、

玄怪録岑順を参照して出来る将棋は、8升目型
のマークルック様の象棋でしかなく、原始平安
小将棋に当るのだが、デザイナーが日本人では
なく、雲南省の白族の王族(タイ民族に近い)
なので、生い立ちを日本人は誰も、発明者とし
て、ひけらかさないから

だと考える。つまり、日本には
”原始平安小将棋は、玄怪録岑順の宝応将棋が
元の発展形である”と、説明する立場の発言主
体のゲーム・デザイナーが、そもそも国内に存
在しないからという事である。
 宝応将棋と原始平安小将棋との親子関係に
平安時代の知識人が、仮に気が付いても、

臭いなで終わり、それ以上追求できる中国の、
日本人知識人にとっての権威書は存在し無い。

だから、日本の小将棋と宝応将棋との関係に、
彼の日記等では、敢えて言及する事も無いから
玄怪録という単語も現われないという訳であろ
うと、私が見ているという事である。
 なお、玄海録の宝応将棋の内容を、
平安大将棋デザインの責任者の高位の陰陽師、
一例を挙げれば安倍泰長は知っていたから、

平安大将棋を、陰陽寮が主体になってデザイン
するときに、横行を自陣の玉将前に置いた

という論も以前に何回か、本ブログ内では繰り
返した。
 よって以上まとめると、冒頭に述べたように、
得意げにゲーム開発の経緯を話す、原始平安小
将棋のゲームデザイナーが日本人では無い。そ
のため、少なくともゲーム発祥の経緯に関して、
玄怪録の岑順「小人の戦争」が先祖形との旨の
情報が、平安時代の貴族等の日記に、記載され
る機会も無かった。だから歴史上日本では、
玄怪録という単語は、江戸時代の末、19世紀
にならないと出て来なかった。以上のように、
本ブログでは考えているのである。(2020/10/19)

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