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御堂関白記に大宰府~京都間1015将棋具藤原隆家運搬説に不利な内容(長さん)

ss-blogの「けふもよむべしあすもよむべし」
2023年02月20日の管理人middrinn
氏のコメント(4番目)に、本ブログの表題内容の
仮説にとって不利な、御堂関白記の日記の記事が有る
との情報が書かれている。本ブログの管理人が気が付
かない内容だったので、御指摘を深く感謝したい。
 すなわち西暦1015年2月(宣明暦)前後の中国
北宋時代の交易商人周文裔が、恐らく東南アジア方面
からもたらした、対平安朝用の交易物の孔雀は、
藤原道長の御堂関白記に、藤原蔵規から道長ルートに
直入手であるかのように書かれている。が本ブログで
は、実際には藤原蔵規→藤原隆家の大宰府~京都内裏
間運搬→三条天皇の選別下賜→藤原道長の入手と見て
いた。
 しかるにmiddrinn氏は、貴族日記の文献
捜索という手法により、次のように、藤原道長の日記
の通りではないかと、前記ブログ前記記事の彼の
コメントで指摘している。
 以下、middrinn氏からの情報によると次
の通りである。
 倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長「御堂関白記」
(中)』(講談社学術文庫、2009)によると、
長和2年(1013年)2月4日条に
「・・・内裏に参った。・・・天皇は、すぐに
唐物を御前に召して、これを覧られた。・・・
私には、錦八疋・綾二十三疋・丁子百両・
麝香五臍・紺青百両・甘松三斤ほどを賜った。・・・」
とある。
 三条天皇が、後一条天皇に、黄金原始平安小将棋具、
藤原道長に、孔雀を分けるといった采配をすれば、
1015年には1013年のときと同じように、藤原
道長なら御堂関白記に書くのではないか。
 middrinn氏は「『唐物御覧」』の後に対立
してた(としても)三条天皇から『下賜』」されたこ
とを藤原道長はちゃんと記してます」と表現して以上
の旨を指摘している。
 また、倉本一宏(全現代語訳)『藤原道長
「御堂関白記」(下)』(講談社学術文庫、2009)
に長和5年(1016年頃)11月9日条に
「・・・権帥(藤原隆家)が送ってきた手筥を、
(藤原)為親が持って来た。二双で、香薬を入れて
あった。」と、隆家からの唐物を(元々手配した
人間隆家と、(実際に運搬した輸送人から)受け取っ
て、道長のところに持ってきている、藤原為親という
人物名を記載している。ので西暦1015年には西暦
1016年のケースとは異なり、孔雀の中間輸送者を
省略したとする、本ブログの仮説の根拠は薄いのでは
ないか。
 以上は、

何れも厳しい指摘

である。以上のmiddrinn氏の指摘に関しては、
藤原道長が、置かれた境遇で、都合の悪い項目を彼の
日記には書かないようにしていると仮定する程度しか、
逃げ道は無いと今のところ本ブログ管理人は認識する。
 1013年の内覧は、「平時」の中国交易商人のも
たらした、日常の貴族の実質奢侈品の唐物の内覧であっ
て1015年の長和第1次内裏火事直後の補充交易に
よる輸入物品とは内容が違うとも言えるのではないか。
 藤原道長は、内裏の復旧飾りつけ作業の進行が、滞
りなく行われる事を通じて、三条天皇による、「内裏
が燃えても天皇の威厳で、ただちに復旧出来る」と内
外に見せつける事を通じた権威強大化が実質的にもた
らされる事を警戒していた。そしてそれは、藤原道長
の影響力を相対的に低下させるという効果をもたらす
という意味で、彼には元来ネガティブ・イベントとな
っていた。そこで三条天皇のもとで、急げ急げの掛け
声で進行する内裏の復旧作業という状況の中で、恐ら
く行われた、西暦1015年2月頃の、孔雀を含む、
交易物品の配布作業(仮説)を、藤原道長自身は心の
奥底では、余り快く見ていなかったと仮定してみる。
 そのため、火災が原因で失われた飾り物の補充の多
い、1015年唐物は、孔雀も実質、三条天皇が分け
ていたのだが。内裏復旧の現場とは離れた大宰府・
博多での交易の交渉の仕切りをしていた、大宰府大監・
藤原蔵規の九州での、京都とは遠い活躍だけを、西暦
1013年のケースとは違い、日記を読んだ人間の心
象を予想して、選択的に強調したのではないか。
 また1016年の大宰府権帥、藤原隆家からの贈答
は、全てが自分の思い通りに事の進み、後一条天皇が
誕生等の藤原道長にとり人生「満月の年」だった。の
で、藤原道長自身の機嫌が良く、天皇ではなくて、自
分の手に国政が掌握されているという良い気分の中で、
大宰府権帥職を真面目にその時務めている藤原隆家か
らの贈答品の入手経路などは、詳しく日記に書いた。
 それに対し同じ藤原隆家でも西暦1015年2月の
場合は、藤原隆家への西暦1014年暮れ~15年頃
の大宰府権帥職付与という人事采配に関して藤原道長
が余り乗り気でなかったのに、三条天皇の、隆家眼病
に対する同情等によって、しぶしぶ押し切られたとい
う経緯が有ったとも、少なくともweb上に出ている。
仮にそれが実際に有ったとすれば。そのため藤原隆家
が西暦1015年2月頃に、大宰府関連職務に絡んで
活躍している事自体が、藤原道長には心の奥底では、
面白くは無いと推定する事も、可能なのではないか。
その為西暦1015年唐物・孔雀のケースには、西暦
1016年の大宰府・藤原隆家からの贈答物・香薬の
ケースとは異なり、藤原隆家という人物単語は同じで
あっても、西暦1015年2月の活躍の方だけ書きた
く無いという事情が有った。ので、やはり藤原道長は、
藤原蔵規による、孔雀等の対周文裔入手交渉活動等が、
自分が孔雀を飼育しているという現実の、理由の全て
であるかのように自身の日記には書いたのではないか。
 以上のような苦しい仮定を一例ではしないと、前記
middrinn氏の指摘には答えられない、かなり
厳しい境遇に、本ブログはいまや陥ったようだと、私
は現在認識しているのである。(2023/02/22)

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