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三重県松坂市村竹コノ遺跡で古墳初山将墨書土器(長さん)

今回は、三重県松坂市の低地の遺跡で古墳
時代早期頃成立の土器に、山将と書かれ、
鉱脈捜索を行った当時の知識人が住民から、
棟梁と崇められたようなイメージ人物の、
追悼祭祀の墨書を疑わせる遺物が出土して
いるという旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
21050_4_村竹コノ遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
三重県埋蔵文化財調査報告123-9
村竹コノ遺跡、2009年3月、
三重県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書第4pdf末尾の抄録による
と、遺跡の場所は、三重県松坂市上川町
村竹・コノ・廿子。遺物が出土したのは、
西暦2003年から2006年の間のよう
である。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第70ページ付近の記載によると、
第301号環状土坑(SD301)で出土
したが、その成立年代は、弥生後期から
古墳時代初期にかけての、3~4世紀頃の
成立と考えられているように読取れる。
 遺物の写真は、第4写真図版pdfの写
真図版第63:”出土遺物(15)”の、
最下段左に在り、遺物番号第716番との
旨、ナンバリングされている。発掘報告書
第1本文pdfの第106ページ付近の記
載から、つぼ型土器とみられているような
遺物の、側面が写真に載っている。

村竹コノ山将.gif

 図のように、中央、僅かに右よりのやや
下に、縦に漢字で「山将」のようにも見え
る、薄い模様が在ると言われれば、そうも
見えるという程度のものである。相当に薄
い。特に旧字「将」の下部は焦げ煤とみら
れる、底部分の黒い部分に隠れ、ツクリは、
上図のように画像処理すると、かえって見
づらくなってしまった。墨書が有ると仮定
してだが。
 松坂市は低地の河川周辺に開けた町であ
るが、西側に高見山地の低山帯が有り、
鉱脈捜索をする当時の修験者風の知識人を、
古墳時代早期に、山の棟梁として、現地で
他界後に祀った、墳墓から出土する土器類
の一種のようにも、私には見える。その
知識人はひょっとすると、六朝時代の中国
から渡って来て我が国に帰化した、大陸出
身者だったのかもしれないと私見される。
余り明確な、墨書では無いだろう。(2023/02/23)

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