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平安大将棋から私説108枚制普通唱導集大将棋への進化過程(長さん)

前回、概ね13世紀中ごろの、大将棋の状態を説明したついでに、以下
私説の大将棋進化について、記しておく。ただし、以下の内容は、元より
暫定的であり、詳細は、より詳しい情報が、得られない限り確定できない
と考える。
まず、出発点として、
西暦1200年頃の、大将棋は、二中歴に記載されているように、13×
13升目68枚制二中歴大将棋で、次の形だったとみられる。
なお相手陣を、こちら側から見る向きで、表示しているので、相手陣の右
辺が左に、左辺が右に来る。

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②奔車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、横行、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、奔車
③歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
④空升、空升、空升、空升、空升、空升、注人、空升、空升、空升、空升、空升、空升

成りは、私の説によると、次の通り。

段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、空升、空升、不成、空升、不成、空升、不成、空升、空升、不成、金将
③金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
④空升、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、空升

二中歴大将棋では、異説があるが自陣は3段かもしれない。ただし、
これが30年程度で、4段目になったと私は考える。理由は”奔横”が、
発生したためである。以下30年ごとの、変化を記載するが、この30年
という数値は、不確かで暫定的である。すなわち、

西暦1230年頃の、大将棋は、4段配列になり、徳島県の川西遺跡の、
奔横が加わったものだと、私は推定する。また、飛車は飛龍と香車から、
自明に思いつけるので、この段階で、一応有ったものと仮定した。以上
により、大将棋は、74枚制になったと見られる。また奔車は、飛車が
発生した時点で、イメージが名前と合わなくなり、反車に取り替えられ
たと見られる。

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、横行、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
③飛車、空升、空升、空升、空升、空升、奔横、空升、空升、空升、空升、空升、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、空升、空升、空升、注人、空升、空升、空升、空升、空升、空升

成りは、次のようなものかもしれない。

段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、空升、空升、不成、空升、不成、空升、不成、空升、空升、不成、金将
③不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、空升

 西暦1260年頃の、大将棋は、前回述べた96枚制程度の形と見られ、
蒙古来襲の世相から、龍神がもてはやされて、龍王、龍馬が加わり、酔象
が太子(私の推定では”釈迦”の事)を導入する目的で、復活した。
 駒を空いているところに加えるという着想は、二中歴の大将棋の記載は、
もともと防備録であり不完全というその文書の性格イメージから、省略さ
れた駒の”正当な追加”として容認され、そのパターンでしか、大将棋は
鎌倉時代は、変化しにくかったというのが、私の持論である。
 しかしその例外として、この段階で、酔象を入れるために、横行が端に
移動させられると共に、竪行と角行が考え出され、横行自体も一歩後退で
きるようになったと、見られる。これよりまもなく、奔横は、横行が、下
の段に居なくなったため、奔王という名に変わったとみる。なお、平安時
代の院政期以降は、玉駒として、玉将と王将が、混在していたと考える。
更に、鎌倉時代の戦争は、内戦で土地争いが多いため、スパイの意味の注
人は、土地争い等の調停者の意味の仲人に、取り替えられ、すぐ前升目の
歩兵に利かない角行の、前方に2つへ、中央部から移動したと見られる。

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、酔象、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔横、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

成りは、次のようなものかもしれない。

段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、空升、空升、不成、空升、太子、空升、不成、空升、空升、不成、金将
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

西暦1290年頃に、シャンチー動きの酔象と、猛虎の斜め動きを竪横に
変える等して、猛牛、嗔猪、鳳凰、麒麟が発生したとするのが、私の推定
した108枚制のモデルである、普通唱導集大将棋(私説)である。なお、
猛虎が盲虎に変わったのは、私によると中将棋からである。

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、鳳凰、酔象、麒麟、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

成り(1290年)は、それまでの流れからすると、次のようなものかも
しれない。

段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

あるいは、水無瀬兼成の将棋部類抄に、後期大将棋のパターンに合わせる
とすれば、一段目駒等も不成りになり、玉頭3枚を除くと、歩兵以外は、
不成りと言う、次のような変化も考えられる。なお表面の駒種は、基本的
に、1300年以降、それ以上は変化しなかったと、今の所見る。

普通唱導集大将棋の成り、水無瀬兼成/将棋部類抄型(1320年頃?):
段目
①不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
②不成、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、不成
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升

なお、個人的には麒麟抄の記載からみて、南北朝時代の、最末期普通唱導集
大将棋(1350年版)では、逆に金成が、一時的に増えたのかもしれない
と考えている。私説では原因は、足利尊氏の、守護の重視政策に起因した、
大将棋を指す富裕層の、意識の変化である。
 また具体的な増加は、横行を人と見たのか、飛車も奔車の類と見たかもし
れないという、推定による。猛牛、嗔猪等が、江戸時代の文献の一部に記載
されているように、金将に成ったかどうかは、良くわからない。以下では、
一例として、猛牛と嗔猪も、不成りとしてみた。

普通唱導集大将棋の成り、南北朝時代のみ(1333年~1350年頃?):
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

なお、以上の全ての将棋は普通唱導集大将棋をも含めて、西暦1320年~
1350年程度の間の、中将棋化の流れと、その成立と共に指されなくなっ
た。そして遅くとも、安土桃山時代までには、15升目制の130枚制後期
大将棋が、”大将棋”の名で呼ばれるようになったと見られる。(2017/08/11)

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興福寺出土の酔象駒は、とのような動かし方ルールだったのか(長さん)

以前述べたように、西暦1000年ころ、大理国の写実的立体駒を用いる
8×8升目32枚制原始平安小将棋将棋(右銀と象を交換)は、次のような
初期配列になっていたと、私は推定する。
相手陣を見る表現で
一段目:車、馬、象、金、玉、銀、馬、車。
二段目は全部空升目、三段目は全部兵なので、以下2~3段目は略す。象は
上の表現は相手陣を、こちらから見る向きなので、右辺に居る。
そして、この将棋は西暦1058年頃、奈良の興福寺で指され、酔象駒が、
出土していると、私は考える。が、動かし方のルールは、どうなっていたの
であろうか。以下、結論から書くと、

確定は困難だが、興福寺で指された、上記大理国の将棋の象、すなわち日本
名の酔象は、”角行の動き”とするのが、最もありそうな答え

と、私は思う。ここで酔象が角行になるのは、西暦900年~1000年頃
の、

インド・四人制生成期2人制チャトランガの象が、角行だから

である。
ただし、日本に大理国から原始平安小将棋が伝来した、概ね西暦1010年
頃、インド・チャトランガの象は、増川宏一著「将棋Ⅰ」から、銀将の動き
だったと思われる。では、なぜ大理国で、酔象を銀将の動きに変えなかった
のかと言えば、

銀将の動きは、大理国の原始平安小将棋へは、第3の将となった銀将の駒の
動きに当てたため、酔象の方は、元のままの角行にせざるを得なかった

と考えるのが、一応尤もらしいと見ている。なお、大理国では、それ以前の
馬と車は、桂馬と跳ぶ猛牛の動きであったが、こちらの2枚は、問題なく、
インド・チャトランガ、西暦1000年~1048年バージョンの、桂馬な
いし八方桂と、香車ないし飛車に変えたと思う。なお日本の将棋について、
馬が桂馬、車が香車になったのは、

4つの地方変種のうち、日本の大宰府に伝来したバージョンが、たまたま
それだったから、

と私は、もとよりはっきりしないが、今の所推定する。なお、話が前後した
が、上記3将以前の、南詔から引き継いだ、五代十国期の大理国までの、
プレ原始平安小将棋の、一段目配列は、次の通りである。

一段目:車、馬、象、銀、金、象、馬、車。

二段目は全部空升目、三段目は全部兵なので、以下2~3段目は略す。金将
は、元々は玉駒で、中央部の左側に配列されていたとみる。また、五代十国
期時代までの大理国の、ブレ原始平安小将棋の、金将と銀将の

動かし方ルールは、金将が現在の玉将の動き、銀将が現在の金将の動き

だと、私は推定する。つまり2将から3将になったのは、銀将の加入ではな
くて、玉将が発生して、金将・銀将が、ずれたからだと、玄怪録の金象将軍の
文字列から、私は推定するのである。
 だからブレ原始平安小将棋期や玄怪録の将棋の歩兵は、副官格である、
当時の金将動きの銀将に、3段目で成ったとするしかないだろう。また玄怪
録の解析により、車駒が出しやすい、3段目歩兵配列であるとの溝口和彦さ
んの説には、説得力が有ると私は考えるので、中国雲南では3段目歩兵配列
が、比較的早く発生したと思う。
 なお、私の推定だと、興福寺の酔象は、西暦1080年頃の院政期に、
大江匡房の、9×9升目標準平安小将棋(玉駒王将型)の提案で一旦消えた
後、蒙古来襲前後の西暦1250年頃に、平安大将棋と普通唱導集大将棋と
の間に位置すると、私が推定する13×13升目駒数96枚程度の大将棋

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、酔象、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔横、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

へ、上のように、玉将の直ぐ前の升目の、太子に成る酔象として、復活した
とみる。復活した理由は、猛古来襲期の当時の世相を反映して、”宗教的な
もの”と、私は見ている。なお、このときの酔象の動きは、鎌倉時代中期に
は、南宋の中国シャンチーは、充分によく知られていたので、角行や飛龍と
バッティングしてしまう、大理国の象の動きではなくて、シャンチーの象の
動き、すなわち、2升目のみでしか止まれない、2升目までの、斜め走り駒
とリニューアルされて、いたのであろう。なお私見では、更に

 酔象が、現在の7方向動きになったのは、ディフェンスの調整を念入りに
行うことにより、西暦1400年以降急速に盛んになった、南北朝時代の
中将棋の発生以降

だと見る。
根拠は、上記の96枚制に、後に猛牛、嗔猪、成りが奔王の鳳凰、成りが
師子の麒麟が加えられ、108枚制の普通唱導集大将棋に西暦1300年ま
でにはなったが、猛牛、嗔猪、という十二支駒の動きを決定する上で、酔象、
猛虎の斜め動きを、縦横に変換して、猛牛、嗔猪の動きを決めた、と考える
のが、自然とみるからである。
 ちなみに、酔象は大理国で角行になる前、西暦900年以前にまで遡ると、
前に述べたように、玄怪録の上将、すなわち飛車の動きになる可能性が、あ
ると思う。以上まとめると、日本で

酔象と称される駒は、

800年~900年は飛車、900年~1010年は角行で、以上中国雲南
省に存在。1010年~1080年も角行で、日本に存在。その後日本では、
院政期の、平安小将棋9升目化改革政策により、一旦消失。ついで1250
年~1350年はシャンチーの象(日本で使用)動きで大将棋に復帰。
1350年以降は、日本の中将棋・朝倉小将棋等で、7方向隣接升目動きで、
現在に至る

という結論になる。(2017/08/10)

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増川宏一「将棋Ⅰ」記載の四人制チャトランガのルールは、2人制の転用(長さん)

増川宏一氏の1977年版の「ものと人間の文化史 23-1 将棋Ⅰ」
法政大学出版局に、現在ではインドの11世紀のゲームであると、されて
いる四人制チャトランガの駒の動かし方ルールが、紹介されている。

象が角行、馬が日本桂馬、車が跳ぶ猛牛である。

玉は玉将、歩兵はチェスのポーンだが、最後の2つについては、さして
大きな問題は無いと思う。問題は、1段目端3列駒であるが、このルール
は、良く考えてみると、なぜか

4人制チャトランガの駒の動かし方ルールとしては、最悪のパターンを
選択している

と、私は思う。

象と車が、筋違いのため、対面の玉に当たらず、馬は、実質、自分の左側
に居る、プレーヤーの馬1枚を狙っているにすぎない

からである。増川宏一氏は、著書の中で「対面同士のプレーヤーが、連合
を組むという、欠点がある」と、四人制チャトランガの弱点を、評してお
られる。以前は、四人制であるから、いつもそうなるのかと、漠然と私は
考えていたのだが、この四人制チャトランガの欠点は、

駒の動かし方ルールを、たとえば現代に伝わる、インド・チャトランガ
ルール、象を銀将、馬を八方桂馬、車を飛車にすれば、かなり良くなるの
ではないか

と、私には疑われ出した。
 逆に言うと、この四人制用にマッチしていない、西暦1000年頃の、
四人制チャトランガの「角・桂馬・猛牛」ルールは、

西暦900年から西暦1000年頃の、インドの二人制チャトランガの
個別の駒の動かし方ルールの、単なる転用

である事を、示しているのではないかと私は疑う。二人制ならば、象、
馬、車駒は、左右で互いに筋違いになるので、対面の競技者と、連合を
組む気には、ならなくなるからである。
 何れにしても、「将棋Ⅰ」に記載された、チャトランガの駒の動かし方
ルールの変遷部分と、アラブ・シャトランジのルールを記載した、アラブ
の古文書の年号情報を、WEB等で、増川宏一著「チェス」2003年の
記載内容情報として、比べてみた限りにおいては、四人制チャトランガが
インドで発生した西暦1000年前後時点で、アラブ・シャトランジは、
既に充分に熟していたように私には、認識された。そのため恐らく、イン
ド・チャトランガのルールが、迷走している間に、アラブ・シャトランジ
の方は、象・馬・車が、跳ぶ飛龍、八方桂、飛車に比較的早くに標準化さ
れて、著名な棋士も、発生していたという状態であった、という心象を、
私は今の所、日本語の成書を読んだ限りでは、崩す事が、出来ないでいる。
 つまりアラブ・シャトランジは、充分にアラブ域内では、著名になって
いたので、たとえば、上記で論じた西暦900年~1000年版の、イン
ド・チャトランガ新ルール(四人制生成期二人制チャトランガ)や、西暦
1000年~1048年の、”象駒銀将動き、八方桂の馬と飛車の車の発
生のルール”等は、これらの

どちらをとっても、大して差が無いような、気まぐれな変化と言える
インドの新ルールを、アラブ・シャトランジへは、ほぼ取り入れない状態

に、既になっていたのではないかと、私は疑っていると、言う事になる。
そして、既に安定化したアラブ・シャトランジは、その変化も、それまで
のインド・チャトランガのような100年オーダーから、日本の日本将棋
時代の変化のように、数百年オーダーと緩やかになり、ヨーロッパに伝来
しながら、西洋チェスに進化したのではあるまいか。(2017/08/09)

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唐代玄怪録の象棋と西暦800年~900年頃のチャトランガ(長さん)

 前回、中国唐代の牛派の頭目、牛僧儒の作と言われる、玄怪録の将棋類似ゲー
ムは、南詔国の西暦800年頃の象棋が、物語の下敷きと見るとの私説を述べた。
とすれば、この南詔国の将棋は、元々は、西暦800年までのインドチャトラン
ガが、チベットのラサを経由して、中国の雲南に伝来したものと見られるから、
元々のインド・チャトランガゲームは、前々回のべた、西暦800年より前の
インド・チャトランガ・バージョンか、追っ付けで伝来したとも考えられる、
西暦800年~900年までの、インド・チャトランガ・バージョンを、取り
入れたものかとも、考えられる。前回までは、玄怪録の将棋、一名”宝応将棋”
の、個別の駒の動かし方ルールについては、私はこのブログで、推定したり、
議論した事は無かった。が、インド・チャトランガ、個別構成駒の動かし方の
ルールの変遷の議論が出たついでに、ざっとだが、玄怪録の将棋(宝応将棋)の、
駒の動かし方ルールと、とりあえず、増川宏一氏の「将棋Ⅰ」西暦800年~
900年バージョンの、インド・チャトランガとの、比較をしてみた。いつも
のように、結論を先に書くと、

象駒が西暦800年代頃に、飛車だったというのは、この物語と、その点では、
良く有っている

ように思う。上将が象将の言い換えだとすれば、記述の通りになるからである。
そこで、

”南詔国の将棋が原始平安小将棋そのものである”というのは、間違いだった
可能性が強い

と、ごく最近私には、思えてきた。まだインド・チャトランガからそこまで、
変化はしていないようだ。
 南詔国の象棋が原始平安小将棋そのものと言うには余りにも、南詔国の将棋
の象駒が、これだと実際にも上将の飛車の動きであって、銀将とはかけ離れて
しまう。また、玄怪録のフィクションの方が、むしろ同じになるのだが、車駒
も香車ではなくて、現実の南詔国の象棋では、跳ぶ猛牛や、前回のページの、
コメントに書いたように、飛龍の動きだったのかもしれないからである。
 玄怪録の”上将”が、作者の口からでまかせの、フィクションであってほし
い所だが。象駒が銀将の動きに変わり、原始平安小将棋が、中国雲南の地に発
生するのは、残念ながら、南詔国が大理国へ変化し、追っ付けで西暦1000
年には有った、銀将動きの象駒が、木村義徳九段曰くのインド発の新しい波と
して、日本にではなくて、中国の雲南に10世紀後半に押し寄せ、象駒が銀将
動きに近くなった、五代十国から北宋の時代に、なってからだったのかもし
れないと、私は以上の事から、思うようになってきたのである。(2017/08/08)

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インド・チャトランガはアラブ・シャトランジでどう変化したのか(長さん)

 インド・チャトランガは、イランに伝わり、シャトランジと名前を変えたと
言われている。しかし、これがもう一回、インドに逆輸入され、インド・シャ
トランジとなったが、大内延介将棋九段著書の「将棋の来た道」に文中に記載
されているように、結局の所、現代では、古典的アラブ・シャトランジか、西
洋チェスと、2通りの意味に使われている。
 さて、アラブ・シャトランジにも、前回述べたように、中国シャンチーと、
ほとんど構成駒の動かし方のルールが、等しくなったとみられる、西暦800
年頃までの間に、何らかの変遷が、無いとは言えないと考えられる。ただし、
この点に関する情報は、少ないと認識する。すなわち、このシャトランジの前
史に、更に歴史があるかどうかは、チェス史の学習が足りない私には、今の所
よくわからない。前回述べた内容からすると、インド・チャトランガは、アラ
ブに伝来してからしばらくの、西暦800年~900年の頃には、1段目駒の
動きは、

玉駒が玉将、副官駒が玉駒近似で金将かも。象駒が飛車の動きで、桂馬が桂馬
かも。車が跳ぶ猛牛の動きかも、という事であった。

なお、この動きと、当時のアラブのシャトランジ駒のルールは、違うはずであ
る。なぜなら、増川宏一氏「将棋Ⅰ」によると、上記のインドチャトランガを
記録した人物が、アラブ人のアル・アドリだからである。チャトランガとシャ
トランジが同じなら、アル・アドリは、

「自国のゲームと、ルールは同じである。」と、記録すれば良いだけ

だろう。私に言わせれば、インドのゲームよりも、自分の国の将棋のルールに
ついて、アル・アドリには、詳しく書き残してほしかったように思う。
 以前書いたように、

(1)インド・チャトランガからアラブ・シャトランジに移行するときに、副
   官駒は、例えば金将の動きから、士の動きになった

と、私は考えている。その他についても、全部、今に記録が残る、アラブ・
シャトランジに変化したとしか、今の所私には言えない。だから、変化の内容
は、恐らく次のようだったのだろう。

(2)象駒の飛車と、車駒の跳ぶ猛牛が先ず交換された。位置が元もとが、逆
   だったのかもしれない。
(3)象駒が跳ぶ猛牛から、縦横を斜めにする変化をした。つまり、跳ぶ猛牛
   から、跳ぶ後期大将棋の飛龍に変化した。
(4)インドのゲームの影響も受けながら、後に桂馬も桂馬の動きから、八方
   桂馬の動きに変わった。

なお、以上の論で、(1)・(2)は、駒の名称から来るイメージにあわせた
もの。(3)は、木村義徳九段の「持駒使用の謎」に、賛成して同じ考えを、
示した。特に(1)と(2)が、インド・チャトランガの、たとえば西暦
600年~800年の間の変化によるものなのか、アラブ(イラン)に伝わっ
てからの、西暦800年頃までの変化なのかは、浅学の私には良くわからない。
 ただ、(2)の変化がアラブに特有の物であるとすれば、その後のインド・
チャトランガの変化に、アラブ・シャトランジは、追随しにくいので、遊戯の
歴史の流れは、説明が判りやすくは、なるかもしれない。一応今の所、
欧米のチェス史の研究の権威H・J・Rマレーと意見が一致しないが、
シャトランジ内部での変化説、つまり、日本駒名訳した”イランでのシャトラ
ンジ時代の飛龍駒の猛牛起源説”の方を、私はとっておきたいと思う。
(2017/08/07)

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アラブ・シャトランジと中国・シャンチーは駒の動かし方ルールが対応する(長さん)

今まで、判る人には当然と考えて、このブログでは明示しなかったのであるが、
今に残るアラブ・シャトランジの駒の動かし方のルールと、中国・シャン
チーのそれは、砲の存在と、兵の成りを除けば、良く対応する。以下、念のた
め、今回まとめてみた。

アラブ・シャトランジ 中国・シャンチーで、
玉駒は、九宮ルールが無ければ、本来動かし方ルールは同じであった可能性が
高い。中国シャンチーと類似するゲーム、朝鮮のチャンギの玉駒は、初手で、
八方へ移動できるからである。
副官駒は、猫叉の動きであって、全く同じ、動かし方ルールである。数が
倍化したのは、中国の官制を模したゲームに、変化したからに過ぎない。
象駒は、走りと跳びの違いだけで、その他は同じである。日本将棋の銀やマー
クルックの根が、5方向隣接升目動きと、全く違うのとは、対照的である。
馬駒は、塞馬脚のルールを無視すれば、八方桂で全く同じである。
車駒は、両方とも飛車の動きで同じである。
兵駒は、前に1歩が基本であり、ほぼ同じである。

特に他のゲーム種に比べて、少なくとも視覚的に目立つのは、象駒の一致であ
る。そして、以下私論だが、

兵の1升目ごとの隙間空けと、数の半減。4段配列、10段盤への変更は、砲駒
が加わったせいの調整のためで、全部説明できる

と私は思う。
 以上のような認識と論理で、中国シャンチー、朝鮮チャンギは、日本の将棋と
は異なり、アラブ・シャトランジ段階を経たゲームと、私は考えていると、言う
事になる。
 なお、現在中国には、四人制シャンチーという創作象棋があるとも聞くが、こ
れは、駒数を2倍に増やしたものであって、四人制チャトランガのように、競技
者一人分を、真っ二つにして二人に分けたようなゲームでは無い。また、シャン
チーという名称には、象棋が充てられていて、タイのマークルックの別名と見ら
れる、ジャドルングのように、四色とか四人制という意味があるとの情報もない。

その点、唐代、牛僧儒の怪奇小説、玄怪録で、将棋の駒の1隊と思われるものが、
四人制の残存を暗示させるかのように、4つの鼠の穴が変化した、門から出てく
るとの物語中の記載は、原文そのままであるとすれば、中国シャンチーの原型に
しては、かなり変だと私は思う。

以上の事からも、牛僧儒が玄怪録で下敷きにしていたのは、当時中国の首都長安
で指されていたと見られる、後の中国象棋のアラブ・シャトランジの類ではなく
て、雲南の、南詔国で指されていた、実は後の、玉と金に性能差が少ない、日本
の将棋の可能性が高いと、以上のように、私は個人的には考えているという訳な
のである。(2017/08/06)

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将棋Ⅰに記載された、チャトランガの変化(長さん)

前回、チャトランガの副官駒が、9~10世紀には玉将~酔象~金将程度の
動き。それが、アラブ・シャトランジから、ルールが逆輸入されて、現在で
は、平安大将棋の猛虎、猫叉の動きとして伝わると述べた。
 その後、この件に関しては、それに関する情報が無いようだった。そこで、
この副官問題については一旦置き、増川宏一著「将棋Ⅰ」法政大学出版局
1977年に、少なくとも端方3種駒の変化について、書かれている事を、
読み直す、作業から私は始めた。その際、現在では四人制チャトランガは、
11世紀に発生したと、論が大きく変化している。ので、増川宏一氏の
上記著作本のチャトランガ関連のルール記載で四人制に関連する、私が前回、

四人制生成期二人制チャトランガと表現した、四人制から類推されるルール
は、最初期の1世紀とか3世紀のルールではなくて、10世紀のルールと
読み替える事が必要

とみられる。以上の点のみ注意すると、次のように読み取れるようである。

(1)西暦800年~900年ころには、”象”は、飛車の動きであった。
   ただし、この頃の観察された象は、端位置に有ったのかも、しれない。
   すなわち、象については、北朝鮮のチャンギと同じで、配列そのもの
   も変動した。
    以下私の想像であって、同書には記載されて居無いが、車は動きが
   ダブってしまうので、この頃は飛車の動きではないと見られる。
   また、増川宏一氏は、次のようにも述べた居る。
    インドより北の地方や、南インド南端地方の、駒の配列が同書では、
   紹介されていて、北の地方については、その地方にだけあるの駱駝を、
   仮に車と読み替えると、結局、全インドについて総合すると、北朝鮮
   チャンギのように、象・馬・車は、取り得るパターンで、いかように
   も、位置が交換された。

(2)恐らく西暦900年~西暦1000年までの象は、象駒の位置に有り、
   象は角行の動きと見られる。なお、この時点で馬駒が八方桂馬ではな
   くて、桂馬。車駒の位置に居る車が、飛車ではなくて、猛牛に近い動
   きだった。時代から見て、これが恐らく、四人制生成期二人制チャト
   ランガであった。

(3)西暦1000年~西暦1048年までの象は、恐らく象駒の位置で、
   銀将の動きであった。

(4)15世紀頃、ビクマデイテイア王の物語に出てくる将棋の話によると、
   動かし方のルールは、増川宏一「将棋Ⅰ」の内容からは不明だが、
   象の位置が、副官駒だったという。そして、象駒の位置には、将が、
   馬駒と車駒の位置に、馬と、車ないし舟が、置かれていたらしい。

 なお私は、増川氏の、法政大学出版局の「チェス」を、まだ読んで居無い。
(3)の時点での、馬駒と車駒のルールが、八方桂馬と飛車の動きと、
恐らく書いてあるのだろうと、木村義徳九段の「持駒使用の謎」の論旨から、
推定出来る。
 少なくとも、1977年版の「将棋Ⅰ」からは、以上の内容程度しか、
読み取れないと、今の所私は考える。
 そこで、ごくマクロに、象・馬・車の1段目端方3枚組の駒の中身を考え
てみると、以上の増川宏一「将棋Ⅰ」(1977)の以上の私の整形情報に、
間違いが無いとすれば、象・馬・車の1段目端方3枚組の駒の変遷には、

ゲームの質を決定的に変える要素は、何も無いと私は思う。ようするに、
飛車か角行の動きのどちらかが、片方のプレーヤーに、常に2枚づつ、
存在する状態が、継続しているようだからである。

むろん、角行駒は早攻め駒だし、飛車駒は決定打を相手に与える駒であると
いう違いはある。しかし、その交換は、少なくとも私に言わせると、

副官駒を囲いの能力を持った、多方進み駒から、その能力がより弱い、少方
進み駒に変える効果の方が、上の変遷の効果よりは、かなり大きい

と思う。むろん、飛車角を両方加えて、一方の攻め走り駒を、4枚にしたり、
更に、奔王駒を加えれば、ゲームは大きく変化するだろうが、飛車角駒を両
方加えたり、更に、奔王走り駒を加えるような事を、保守的なのか、
インド人は、約1000年間、全くして居無いと疑われるような内容である
というのが、増川宏一「将棋Ⅰ」記載のルールを読んだ、私の感想である。
ひょっとすると、

副官駒にお付き合いして、象駒が、玉駒と合計で、3種類の将駒に変わった
事以外、チャトランガの変化と、日本の将棋との間には、特に注意すべき
重要な関連性は無い

のではないかとさえ、増川宏一「将棋Ⅰ」の上記記載だけからは、私には
疑われたのである。(2017/08/05)

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四人制生成期二人制チャトランガの定義(長さん)

前回、チャトランガの副官の駒の動かし方のルールを推定した。が、その後
大内延介日本将棋九段の「将棋の来た路」(1986年)をチェックして、
この言い回しだと、現在のインド・チャトランガと、ごちゃ混ぜになり、
表現として、良く無い事に気がついた。なお、大内九段の紹介によれば、
現在、インドでチャトランガと呼ばれているゲームの、駒の動かし方のルール
は、ほぼ、マークルックの対応する駒の動きと同じである。
 それに対して、増川宏一氏の「ものと人間の文化史・将棋Ⅰ」(1977年)
の四人制シャトランガの駒の動きは、象駒が角行、馬駒が日本の桂馬、車駒が
猛牛に類似であり、

両者は大きく異なっている。

なお、最近の研究では、4人制チャトランガは、日本に将棋の記録が出始める
少し前の、10世紀頃の2人制チャトランガからの分岐と、見られている。
そして、前回のべた、私の「チャトランガ」は、その4人制のチャトランガを、
生み出した、

恐らく「9~10世紀ころのチャトランガ」をイメージしていて、より後世と
見られる、将棋の来た道紹介の「今に残るチャトランガ」とは別

である。そこで、今後は混同を避けるために、表題のように、私の表現する
チャトランガを「四人制生成期二人制チャトランガ」と、呼ぶことにしたい。
私は、増川宏一「将棋Ⅰ」の記載から、玉駒が玉将の動きで、副官駒と玉駒を
同一視する事によって、2人制から4人制が発生したとすれば、

四人制生成期二人制チャトランガの副官駒は、玉将の動きで、取られても勝敗
に関係の無い、近王とか、前牛とか、熊目、毒狼のような動きとイメージした

のだが、正確なルールについては、更に調査してみないと、何ともいえない所
だと思う。なお、増川宏一「将棋Ⅰ」によると、日本に将棋が伝来した頃の、

少し後、11世紀のチャトランガでは、象駒の動きが角行ではなくて、銀将の
動きと目撃された

とも言う。インド・チャトランガの駒の動かし方ルールは、安定的なものと
は考えられていないようである。従って、

たまたま、チベット・ラサ経由で中国雲南に入った、後に日本に伝来する事
になる分岐は、象駒が副官駒よりも少し弱い、後に銀将になるべき素質を、
たまたま供えていた

のかも、しれないとは考えている。が、これも更に調べてみないと、何とも
言えないとの心象を、今の所同様に持っている。(2017/08/04)

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金将駒の動きは、誰が考え出したのか(長さん)

日本将棋連盟発行の木村義徳九段著「持駒使用の謎」(2001年)によると、
「金将のルールを、中国シャンチーの士の動きから、現行の6方向隣接升目動き
に”改善”したのは、日本人である」との旨、記載されていると認識する。私は
個人的には、この説には反対する。

中国シャンチーの士の斜め4方向隣接升目動きの方が、金将の6方向一升目に
比べて、取り捨てルールのケースは、より優れているので、賢明な日本人棋士が
そのようにルールを変える、可能性はほとんど無い

と、考えるからである。つまり、このケースは、より駒の動きが弱い方向が、
退化ではなくて進化と、私は見ているのである。そして、日本に流入したゲーム
に副官駒が、士の動きになっているゲームが、たとえ有ったとしても、それは
日本では流行らずに、廃れたゲームのルールであり、日本の将棋に、繋がる
ものではないと、私は考える。
なぜなら、士を金将へ取り替えるのは、

進化ではなくて、退化

だからである。
では、何故、金将と士では士の方が、より良いのかと言えば、

玉囲いの構成員になる、能力が金将に比べて、士の方が劣るから

と私は、ほぼ断定する。もともと駒数の少ない小将棋、小象棋、西洋チェス類で
は、大駒の数が、限られているので、玉駒守りは弱いほうが、対局両者とも、
守り駒が排除しきれずに、玉駒の取り逃がし、引き分けるという確率の増加が、
防げると見る。そこで、

玉駒を守る能力が強い副官が存在するよりは、玉駒を守る能力が余り無い副官し
か居無い方が、よほどまし

なのだと私は思う。なお、女王は攻め駒としての能力を持ち、士より更に優れて
いたので、西洋チェスは、現在では世界を席巻しているとみられる。さてそこで、
実際には、

インド・チャトランガからアラブ・シャトランジに変化するときに、玉駒の動か
し方ルールの、動ける隣接升目が8か、それに近い数である、副官駒ルールが、
斜め4升目へと、8近辺から4に減らされた

と、私は見るのである。これが、チャトランガからシャトランジへの変化である
という証拠としては、

サイコロを使った4人制ゲームが10世紀頃、チャトランガについては発生した
が、シャトランジ経由でも、4人制ゲームが出来たと、いうような話はない

という点が、挙げられると思う。従って、表題の問いであるが、

金将の動かし方ルールを発明したのは、日本人ではなくて、インド人だ

と私は推定する。というよりは、

シャトランジが成立するまでは、そもそも将棋・象棋・チェス型ゲームの元祖
のチャトランガは、副官駒が金将か、酔象の類の動かし方ルールだった

のではないのだろうか。であるから、副官駒は玉駒と混同されて、玉将の動き
に戻せばよく、スムーズに2人制チャトランガから、サイコロゲームの4人制
チャトランガが、10世紀頃インドで、発明できたのではないかと、私は思う
のである。
 なお、私のような将棋の力の弱い者が上記を述べるのは、木村義徳九段には
失礼かもしれないし、面と向かって述べても、相手にされないかもしれない。
ただし、私には、上記の論には、多少の自信がある。なぜかと言うと10年
ほど前に、日本将棋連盟の2代前の会長で、亡くなった米長邦雄永世棋聖が開
設した、将棋の掲示板に、「隣接升目に行ける数が多い小駒ほど、玉囲いの構
成駒としての性能が高い」との旨書き込み、米長永世棋聖から「その通り」と
の御褒めの言葉を、私にしては珍しく頂戴した事があったのである。従って、
上記の論は、木村義徳九段には仮に通じなくても、日本将棋連盟の元の会長の

故米長永世棋聖が、以上の論に関しては、あの世で見ていて、大きくうなずい
てくれるだろう

と思っているのである。蛇足だが、私は日本将棋の素質は、ほぼ無いので、
故米長永世棋聖から褒められたのは、このときともう一回、国立公文書館が、
同所が所蔵している、将棋古文書の一般人向けの展示会を行っているのを、
目ざとく見つけて、将棋連盟に通報したときの、計2回だけだった。

 ともあれ以上の事から、中国シャンチーはシャトランジ経由、日本の将棋は、
原始的なチャトランガの面影を、金将が残したゲームだと、私は推定する。

駒名の表示が1文字か、2文字かの差も、根本的にはそこから来るのだと思う。
唐でも特に都の長安では、当時最もモダンとされた、アラブのシャトランジが、
象棋としては、主流だったのであろう。実際都で指されたゲームが元になって、
現在のシャンチーが、出来たと考える方が、例えば中国であっても山奥の、
南詔国のゲームから進化したと考えるよりも、陸のシルクロードの存在から見
て、イスラム圏と繋がりが容易であるために、自然だと私は思う。
 そして副官駒と玉駒とが余り差が無い、チャトランガに近いゲームが、王権
が余り強くなくて、日本の安土桃山時代のように、諸侯の連合国家のような国に
インド~ネパール~チベットのラサを経て伝わり、しかもそこが、たまたま
鉱山国家だったために、その国すなわち当時の大理国に於いて、将駒が玉・金・
銀と3種も有るゲームが、たまたま発生し、日本にはほぼ、そのまま伝わった
のが、原始平安小将棋の正体だと、私は今ではほぼ断定するのである。
(2017/08/03)

成りを、駒をひっくり返して表現したのは、誰が最初か(長さん)

最近、元の将棋博物館の館長、木村義徳先生(将棋の棋士として九段)の、
「持駒使用の謎」日本将棋連盟(2001年)を読見直してみて、
このブログに私が今まで書いた事と、異なる見解の中で、最も私が気になる
のが、表題に書いた事であると感じた。

持駒使用の謎によると、駒をひっくり返して成りを表現したのは、タイ居住
のモン人が最初、との旨書いてある

ように、私には読み取れる。私の説では、

それは日本人の発案であり、恐らく西暦1010年代前後の、大理国から
将棋が伝来した時点での、九州大宰府、条の御坊の僧侶が、ひっくり返した
とき、表示された字が違えば、成りが表現できるとの着想を元に、経帙牌の
裏に、成りの駒名を書いた、五角形の駒を発明したのが始まり

である。私は、持駒使用の謎から読み取れるような、タイの原始マークルッ
クのピア駒のひっくり返しにより、成りを現すという情報が、日本に伝来し
て、日本将棋駒の成り表現が、成立したという事実は、無いと思う。理由は、

タイのモン人の将棋駒は本来、厳格な仏教徒だったために、写実駒である。
そして彼らの将棋駒が抽象化し、兵駒が、貝のような抽象的な形に変化する
最初のチャンスは、相棒のタイ人が、中国雲南省で、蒙古帝国が派遣した
イスラム教徒の提督に支配される、13世紀までは、全く無い

と考えるからである。モン族の海岸都市国家は、日本に原始平安小将棋が
成立した11世紀の初頭は、インド・ヒンディの影響を受けてはいても、
イスラムの影響は無いし、彼ら自身は、厳格な仏教徒だったはずである。
そのため、当時の彼らの、インド・チャトランガに近い象棋の駒は、抽象化
していたとしても、高々、増川宏一氏の「将棋Ⅰ」に、写真が載っている、
ミャンマー・シットインの、兵駒程度に留まるのではないかと私は思う。
なお、同書の写真によると、シットインの増川宏一「将棋Ⅰ」で紹介されて
いる、シットインの兵駒は、”樹木”のように、私には見る。だから、ひっ
くり返して使うのは、貝の形と違い、かなり難しいように見えるのである。
 従って、たとえ13世紀に、タイでマークルックの貝駒をひっくり返して
成りを現すというアイディアが発生したとしても、日本で成りを裏に字を
書いて現すことは、出土駒として西暦1058年頃より行われているから、

タイの方が明らかに後発であって、日本人が最初の発明者と見るべき

である。タイの将棋の駒の成り表現方法の発明は、独立に後日行われた
可能性は否定できない。が、山田長政の活躍した16世紀に、日本の移住者
から、タイ人の方が、そのアイディアを教わった可能性が、むしろ強いの
ではないか。
 そもそも、日本の将棋は”金と玉を除いて、敵陣3段目に入ると皆金に成
る”というルールから出発しているため、その表現方法は最も難しく、裏返
して成るというアイディアの発明の恩恵は、最も大きい。よって、その

発明自体が必要性から、日本人自身の手で行われたという可能性は、相当
に高い

と私は見る。
 思えば私のこのブログも、私の非力で、世の中に対する寄与は、今の所
ほとんど無いと自己評価する。が「日本人の文化は所詮、元をただせば、
ほとんど外来」だと諦めておられる諸氏に、今述べた最後の記述が、
いくばくかの力になれば、このブログの存在価値も、多少はあったかなと
感じる今日この頃である。(2017/08/02)