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高槻城三の丸遺跡中将棋駒第13番は金将か?(長さん)

今回も、以前に述べた高槻城三の丸遺跡跡よ
り西暦1990年頃の発掘で出土した、18
世紀末から19世紀初成立とみられる、
中将棋の駒の話題である。これらの約21枚
の駒のうち、解読の出来ない11枚の駒名を
解析する作業の続きである。
 今回は天童の将棋駒と全国遺跡出土駒番号
で13番の駒の読み取りを試みた。結論から
書くと、

金飛車(成り飛車金将)駒のようである。

では、以下に報告する。
 ここでは前と同じくweb上で読み取る方
法で、駒名を調査した。
 出土駒の写真が、以下の文献に載っている。
 高槻市文化財年報西暦1988~1989
年度版。
pdf名が、以下の通り。
5200_1_高槻市文化財年報昭和63・平成元年度

この文献は奈良文化財研究所の発掘報告書
データベースの”全国遺跡報告総覧”の中に、
収録されている。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の遺物番号
は、高槻市文化財年報1988~1989年
度版の図版8の番号と同じである。問題の番
号の出土駒”13番”は、以下の通り。

高槻三の丸13.gif

オモテ面、裏面共に、墨跡は極めて薄いが、
上の図のように、13’で示された裏面にさ
れた方が実はオモテで、金口のようであり、
オモテとされた実際には裏面とみられる方に、
更に不明解に、たまたまだろうが、余り崩し
ていない、飛車の”飛”の上部だけが、薄っ
すらと残っているように見える。
 よって、冒頭の結論と一応した。
 以上の結果、11~21番までの不明とさ
れた駒を更に精査し、11枚のうち13番と
14番を金将と龍馬と推定した。除く残りの
9枚に関するこれ以上の特定は、しかしなが
ら、かなり困難であるように思えた。
(2020/11/10)

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高槻城三の丸中将棋駒10番、王でなく王将(長さん)

以下に、前にも述べた、高槻城三の丸遺跡、
1989年頃発掘の小型中将棋駒の駒名の読み
取りの話をする。なお遺物の成立は18世紀末~
19初。問題の駒は”一文字王駒”として文献
に載るが、

王は枠の絵、駒名は不成り二文字王将

との旨報告する。
 前にも述べたが、この出土駒の写真も、以下
の文献に載っている。
 高槻市文化財年報西暦1988~1989
年度版。
pdf名が、以下の通り。
5200_1_高槻市文化財年報昭和63・平成元年度

文献は奈良文化財研究所の発掘報告書
データベースの”全国遺跡報告総覧”の中に、
収録されている。今回題材にする問題の出土
将棋駒は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも
載っており、かつそこでの遺物番号と、上記
高槻市文化財年報1988~1989年度版の
図版8番号とは中将棋駒第10番で同じである。
問題の番号の出土駒”第10番”の写真は以下
の通りである。

高槻城三の丸10.gif

 従来は、オモテ面の模様を、”王”と解釈し
ているように、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
には書いてある。しかし、

これは誤りで五角形の将棋駒の絵の枠を、王の
字の第四画と間違えている

と、本ブログでは考える。
 つまりオモテ面の方にも裏面にも、五角形の
駒の外枠ではないかとみられる線が、この駒だ
けにあるのだと見ると言う事である。そして、
その中にオモテ面には、

二文字で駒名があって、王口と書いてある

というのが、ここでの読みである。だから第
10番出土駒のオモテ面は、”一文字王”では
なくて王将。かつこの面の王の第4画と見られ
た線は、

実際には五角形駒の絵の外枠の下線と私は思う。

 なお裏面(10’面)の上の方の水平線は、
写真を見る限り、製作時に付いた単なる錯誤の
墨跡なのではないだろうか。
 だから結果として、全体として駒の同定は、
正しかったが、読み方は”裏無地将棋マーク、
将棋マーク王将”が、正確には正しい。だから、
”王”ではなく、冒頭の結論のように王将にな
るように思う。なお外枠が駒の中に書いてある
のは、製作時の気まぐれか、一連の中将棋駒を
製作したとき、第10番遺物が最初の一枚であ
って、五角形枠まで、試し書きした疑いが濃い
のではないかと考える。
 なお、関西出土駒でも、徳川家斉の時代には、
玉将が出土してもおかしくない。中将棋の玉駒
も、王/玉1:1の伝来例が有るように、私は
認識している。関西では玉将は出土せず、王将
だけという法則に、この例では見かけ上従って
いる。が、今の所、

この駒の王将の王に点がないとは、墨跡が薄い
ので私は断言しない。

なお、現代の佐藤敬商店製の中将棋駒は、双玉
ではなくて、王/玉1:1である。(2020/11/09)

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高槻城三の丸遺跡中将棋不明11枚内1枚龍馬(長さん)

高槻城三の丸遺跡跡よりは西暦1990年頃
の発掘で、18世紀末から19世紀初成立と
みられる、中将棋の駒が21枚程度出土して
いる。そして、駒名がどうやらこうやら読め
たのが、うち半数弱の10枚程度と言われて
いる。
 今回は、残りの11枚について、一番有望
な、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒番号で、
14番の駒の読み取りを試みた。結論から
書くと、

成りが、草書体角鷹の龍馬駒のようである。

では、以下に報告する。
 ここではweb上で読み取る方法で、駒名
を調査した。
 出土駒の写真が、以下の文献に載っている。
 高槻市文化財年報西暦1988~1989
年度版。
pdf名が、以下の通り。
5200_1_高槻市文化財年報昭和63・平成元年度

この文献は奈良文化財研究所の発掘報告書
データベースの”全国遺跡報告総覧”の中に、
収録されている。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の遺物番号
は、高槻市文化財年報1988~1989年
度版の図版8の番号と同じである。問題の番
号の出土駒”14番”は、以下の通り。

高槻城中将棋14番.gif

上の図に示したとおり裏と表を、上記文献、
天童の将棋駒と全国出土将棋駒共に間違えて
おり、

裏と書かれている所に龍王、表と書かれてい
る所に、角鷹と書かれている

と本ブログでは見る。
 なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の
スケッチで、問題の第14番駒左の右中段隅
の朱打点は、

角鷹の右斜め前の走りを表している

とここでは考える。なお”角”という字は、
汚れて墨が広がっているので、この第1字目
を識別するのは、容易ではないと解釈する。
 そして、このケースで大事な事は、

草書体では、角鷹の鷹の”まだれ”が、左下
に延びないと言う点に気が付く事である。

 草書で”鷹”の字がどうなるのかについて
は、以下の成書に詳しく載っている。
”覚えておきたい古文書くずし字500選”
柏書房編集部編、柏書房(2002)
 ”14の裏”と表される、この駒のオモテ
は、1字目がよく見ると明解に”龍”、2字
目も、左上から右下に走る線がヨゴレである
と見れば、薄く馬なのが判るのだが。”14
の表”と表される、この駒の裏面の”角”の
字が、たまたま潰れている為”鷹”の草書体
を知らないと、この駒が中将棋の龍馬である
事には、気がつきにくいという事だと、私は
考える。以上を考慮すると冒頭の結論になる
という事である。(2020/11/08)

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宮城県多賀城市新田遺跡から似顔絵の墨書(長さん)

以前に、以下の発掘報告書を紹介したのだが、
将棋駒型の墨書が、人間の絵のようだと述べた。
その後、私が読み落としていたのだが、同じ
報告書の115ページ付近に、裏面を擦った
跡のある、煎餅形の石に、猿の顔かまたは、

人間の顔のような似顔絵の墨書がある

との旨記載されているのに気がついた。
報告書の表題は、以下のものである。
(宮城県)多賀城市文化財調査報告書第23集
新田遺跡、(第4次・第11次報告書)、
西暦1990年多賀城市埋蔵文化財調査センター

pdfファイル名も、再度書くと以下である。
9690_1_新田遺跡.pdf
石に顔を書いた出土物については写真も、上記
の発掘報告書の図版45に載っている。

宮城県多賀城市新田顔石.gif

 この石蹴りの石に顔を書いたような石の遺物
は、将棋駒型の、札のような遺物よりも、幾分
下の層から出土している。石蹴り状遺物が鎌倉
時代中期の13世紀前半、将棋駒型の上の方に
穴のある札状の、人間全身絵の遺物が13世紀
後半から、鎌倉末ないし南北朝時代の初期のよ
うである。石蹴り石状物について、具合の悪い
患者の顔の絵とすれば、病気回復祈願の
マジナイ札を連想させる。ので、時代はズレる
が、両方共に呪いに使用する物品の、系統なの
かもしれない。
 なお、発掘報告書と多賀城遺跡は1.5km
しか離れておらず、後者は成書に8世紀成立と
載っている。
日本の美術2 No.213 ”多賀城跡”
桑原滋郎編、至文堂(1984)。

ここは田村麻呂縁のとりでであろうから、中世
にも、奥州の何族かの武士団が、駐屯していた
のであろう。
 事実彼ら中世武士団の、住居や寺院その他の
建物の柱跡のようなものが、現地を掘ると発見
されるとの旨も、発掘報告書にはよく読むと載っ
ていた。

ただし、住人には字が書けないらしく、銅銭以
外、ほとんど字の書かれた墨書遺物が無い

ようである。恐らくだがその為、たまたま将棋
は、ここでは余り、指され無かったのかもしれ
ないと、私には思われた。(2020/11/07)

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2003年の大坂城発掘で金将出土(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、大坂城と
城下町出土の将棋駒が、28枚程度載っており、
そのうち20枚程度が、大阪城城内とみられる。
これらは前世紀の発掘分で、その後の発掘で、
幾分かの出土駒が追加されているようである。
以下は、奈良文化財研究所の発掘報告書のデー
タベースの”全国遺跡報告総覧”の中に収録
されている、財団法人大阪府文化財センター
が2006年に発表した、西暦2003年前後
に出土した、金将駒である。

大坂城金将.gif

 発掘報告書名は”『大坂城址3』財団法人
大阪府文化財センター調査報告書144となっ
ていて、web上のpdfファイル名は、以下
の通りである。(1から5に分かれているが、
将棋駒の写真が、5の図版112にある。)

17493_5_大坂城址.pdf

安土桃山時代のものであり、この金将駒も、
水無瀬駒とみられているようである。落城の際
奇跡的に残った一枚なのであろう。
ゴミ捨て場のような所から、他の雑多な物品と
共出土したとの事なので、大坂夏の陣の当時、
一般人には水無瀬駒の価値は、さほど知られて
いなかったのかもしれない。(2020/11/06)

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兵庫県朝来市喜多垣遺跡から底面王将?土器(長さん)

奈良文化財研究所の発掘報告書のデータ
ベースの”全国遺跡報告総覧”の中に

土器の底の破片の中に、王将駒の絵のよう
に見える”平安時代、10世紀頃成立”の
遺物が、2014年前後に出土

しているとの旨の報告がある。以下には、
その発掘報告書の内容を話題にする。
 場所は、表題のように
兵庫県朝来市喜多垣遺跡であり、報告書の
pdfファイルは、以下の名称である。
19277_1_朝来市喜多垣遺跡.pdf
 著作者は、兵庫県教育委員会とある。
 そこの、写真図版の15の、遺物番号
110が問題の、王将と書いたようにも、
彫ったようにも見える、土器の底面裏とみ
られる破片の写真である。

朝来市喜多垣王将.gif

写真映りで、たまたま将棋の駒に模様が見
えているのか、本当に将棋の駒を描いたの
かは、この写真しか見ていないので、私に
はよく判らない。右にズレているのは、左
隅に駒の作者の名前でも、書いてあるのか
もしれない。
 将棋駒の絵自体は崩れているが、もとも
と五角形であったようにも見え、

一見すると大阪四条畷の王将駒に似ている

ようにも私には見える。王の字体は、鳥羽
離宮出土駒と同じく、中央水平線が、少し
上ズレになった真性王形だ。なお成立年代
は、発掘報告書にはかなり、巾が有るよう
に書いてある。奈良時代~平安時代成立だ
と言う事だ。仮に奈良時代なら、ダントツ
の、将棋関連最古の遺物に躍り出る。

持駒使用の謎の、木村義徳氏が喜びそうだ。

なお、この遺跡からは、安土桃山時代頃に
成立したとされる、黒と見られる碁石も、
1枚だけだが出土しているという。またこ
の遺跡は、古くから京都と、繋がりが深い
場所との事である。控えめに見ても写真の
模様が仮に

偶然で無いとしただけでも、関西では、
興福寺以外で、中世まで玉将は出土しない

との経験法則を、更に更新した事にはなろ
う。(2020/11/05)

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ジェタンに関し世界の将棋(梅林他)に誤報か?(長さん)

以前に、10升目の前世紀成立の火星人の
チェスで知られているジェタンに関し、
世界の将棋(梅林勲・岡野伸著)2001年
の記載から、西暦1965年頃に、アメリカ
よりの輸入物のテレビSF番組として、日本
のテレビで”ブラボー火星人”名で放映され
た、1シーンで公表したゲームであろうと

本ブログでは紹介したが誤りの可能性がある。

以下のサイトからの情報だと、ジェタンは、
西暦1922年の成立であり、

”火星のチェスマン”という名の、SF小説
の作家であるエドガー・ライス・バロウズま
たは、エドガー・ライス・バロウグズが、彼
の小説中で発表したもの

との事である。紹介webサイトは、
”Z gameZ”の”十一月 2020年”
と、webページに表題の付いた、以下の
サイトで、
https://ja.ejournalab.com/22-games-chess-fantasy
 がurlである。そこの”書籍の紹介”で、
”ファンタジーとサイエンスフィクションの
チェスの22ゲーム - 本 - 2020。”
の、第15章として、前記の旨の紹介がある。
 以前にこのサイトに気が付かなかったのは、
本ブログでこのゲームに言及するまで、余り
どなたも関心を持たれなかった。その為紹介
の日本サイトを調べた方が、本ブログで、
ジェタンを論題にした以前には余り居られず、

google検索で、上記のブログサイトの
該ページが、訪問者が居ないために、hit
しなかったため

と見られる。
 つまり、本ブログで騒いだ効果が多少有っ
たようだ。
 なお、今の所本ブログでは、

”火星のチェスマン”のチェスの内容を、
多少アレンジした上で、”ブラボー火星人”
がテレビ劇中で、引用した可能性が高い

とみる。
 ちなみにエドガー・ライス・バロウズは、
チェスの棋士としても当時有名だったようだ。
だからオリジナルのジェタンは、世界の将棋
の記載に比べて出来が更に良く、世界の将棋
のジェタンとは、1922年版は従って少し
違う可能性があると、私は見ている。
(2020/11/04)

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島根県出雲市高浜Ⅰ遺跡P654出土駒は桂馬(長さん)

以前、23253_1_高浜Ⅰ遺跡.pdfとして、
奈良文化財研究所の発掘報告書のデータ
ベースの”全国遺跡報告総覧”の中にも
コンテンツのある、島根県教育委員会著作
の発掘報告書を紹介した。そして更に、そ
こに写真が出ている、室町時代出土将棋盤
に付随報告された島根県出雲市高浜Ⅰ遺跡
の2枚の出土駒の2枚目について、より判
りやすい写真の出ているサイトを、後に紹
介した。今回は、

23253_1_高浜Ⅰ遺跡.pdfの2枚目の将棋駒
の写真の、可視光写真の配列が逆なために、
駒名の確認を私が間違えた

事について報告する。結論から述べると、
1枚目は成り不明の口将とされるが、

2枚目は恐らく成り一文字金桂馬

のようだ。
 では報告する。以前は問題の発掘報告書
の図版37と表現されているページにある、
第2枚目の将棋駒”高浜Ⅰ遺跡P654駒”
の写真を、本ブログでは載せなかった。
 駒名が不明である上に、私には理解でき
ない配列だったからである。今回は以下に
写真を紹介する。

島根出雲高浜Ⅰ桂馬.gif

左から右へ順にオモテ可視、ウラ赤外線、
ウラ可視、オモテ赤外線と並んでいると私
は認識する。つまり赤外線写真を、誤って
逆に並べていると見られるのである。
 そして、本来はオモテ面のはずの

一番の右の赤外線写真の下半分に”馬”と
書かれている

ようだ。だから、高浜Ⅰ遺跡P654駒
(本ブログの言う2枚目)は、ひょっとし
て、成りの金の書体が今と違って、さほど
崩れていないのかもしれず、実際には全く
不鮮明だが、オモテは桂馬駒のようにも、
私には見えると結論出来るという事になる。
 以前にはこの発掘報告書を紹介した後で、
robounosasa氏の近況雑感ブログを本ブロ
グで紹介して、出所が新聞と見られる写真
を再紹介して議論した訳だが、その写真の、
”P654出土駒”の”裏”と表記された
面をよく見ると、駒の下半分が、やはり
”馬”のような感じがする。
 以上の事から1枚目が口将という、上記
発掘報告書等の主張は今の所、私には承服
出来ていないが。

むしろ、該発掘報告書で言及されていない、
2枚目は、桂馬駒の可能性がある

と、私は疑うようになったという訳である。
(2020/11/03)

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象棋図式百番奇巧の林信充序になぜ猛豹が有る(長さん)

故松浦大六氏蔵の象棋図式または将棋図式に
後奈良天皇が、朝倉小将棋から酔象を除いて、
42枚制の小将棋を日本将棋に直した話が
伝わる。が、それとまぎらわしい話として、
(西暦1080年頃に)大江匡房が日本将棋
をデザインしたときの経緯という話が、表題
の江戸時代の伊藤看寿著、象棋図式百番奇巧
または象棋百番奇巧図式、将棋図巧の
林信充序にある。そこには、将棋Ⅰ
(増川宏一著)によると”『玉将の頭に酔象、
左右の金将の上に猛豹がある』と(将棋家の
伝承として)伝えられている・・”と書かれ
ているといい、松岡信行著
”解明:将棋伝来の『謎』”によると、”兵
理を極めた大江匡房が、(前記の)酔象と
猛豹を除くと伝える”との旨書かれていると
いう。つまり、

平安時代から猛豹は嫌われ除かれた駒だった

という意味に取れると、本ブログでも従来か
ら見ている。なお、本ブログの見解では、前
記46枚制小将棋は、安土桃山時代の将棋者、
大橋家関連の人物の作、猛豹+酔象削除伝説
は、戦国時代の後奈良天皇時代頃の成立と見
ている。では後奈良天皇時代に実際に取り除
かれたのは今の所、酔象の1枚、42→40
枚変化なのに、戦国時代に、46→40枚の
イベントが有ったかのように、語られている
のは何故なのかを今回は論題にする。
 回答から書く。中将棋の最下段の駒のうち、
獣駒は、配列中、存在するのが相応しくない
という、

皇族内の論が誤伝承したもの

である。
 では、論を補足する。
 先行研究としては、大阪電気通信大学の
高見友幸氏が、自身のブログ”摩訶大将棋の
ブログ”等で、この記載の意味を詳しく論じ
られている。内容は検索すれば、該当の箇所
は直ぐに読めるであろう。
 他方今述べた原因の論については、ずばり
本ブログでは、

色葉字類抄2巻物、尊敬閣文庫蔵、八木書店
2000年発行冊の”き”及び”と”加筆字
として、玉将、金将、銀将、銅将、香車は有
るのに、酔象、猛豹、が無い理由を述べたと
きに、今述べた結論のように仮定できる

という議論を既にしている。
 つまり日本の将棋のあるべき姿を、戦国時
代に皇族が議論したときに、日本将棋の将棋
のあるべき姿と、日本の将棋(中将棋を含む)
のあるべき姿が、

ごちゃ混ぜになって、後の江戸時代に伝承

したと考えれば、猛豹の話が日本将棋に入り
込んで来る事が、比較的簡単に、説明できる
という事である。
 猛豹は中将棋では、たまたま進化の過程で、
最下段に落とされていたので、全く別の将棋
種である日本将棋でも”下段に玉といっしょ
に並んでいるのが、相応しいとは言えない駒”

→”日本将棋では、そもそも使用する事自体
が、相応しいとは言えない駒”と、話が拡大
しながら誤伝してしまった

という意味である。それが、言い伝えが曖昧
模糊化した、江戸宝暦時代の将棋書で、11
世紀の大江匡房の標準平安小将棋デザインの
言い伝えと更に交じり合った。つまり大江は
実際には、興福寺で1058~1098年頃
指されていた、大理国原始平安小将棋の、
右銀将位置の酔象を問題視しただけだったの
に。猛豹もその頃から有って、大江があたか
もそれまで取り除いたように、将棋図巧等の
林信充序に記載されたというのが、本ブログ
の独自推定の内容である。
 つまり、以上のように考えたのだが。
繰り返すが以上の推定は、今の所

本ブログの独自の見解

である。そして現時点では、諸説が並存して
いるのが、将棋史界の現状という事である。
(2020/11/02)
 
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カンボジア将棋オーク。ラオキムリァン氏より将棋(長さん)

新版・カンボジア語実用会話集(連合出版・
1995年)の巻末に索引・語彙という名称
で、簡易カンボジア日本語辞書が有るという
情報が、web上に存在する。今回は、表題
のように、その著者、ラオ・キム・リァン氏
及び、ラオ・えりか氏からの情報により、

カンボジアの将棋、オーク・チャトラング
または、オーク・シャトランジ(松岡信行氏)
のオークが、”将棋”という意味である

との旨を述べる。
 以前述べたように、カンボジア日訳辞書に、
オークが、ある種の鳥の事らしいという記載
がある。しかし、カンボジア日訳辞書は門外
漢に調査が容易な辞書ではない。オークのオ
という母音で始まる単語は、どうやらカンボ
ジア・クメール語では特殊なようだから、そ
の発音に似た単語が複数、分散して存在する
可能性がある。
 幸いweb上に、カンボジア語実用会話集
の巻末に、簡易カンボジア日本語辞書がある
という情報があった。ので、該成書を入手し
て、調べなおした。この簡易辞書は、

英語のアルファベット順に近いように、
カンボジア文字(クメール文字)とは無関係
に、発音記号順に、カンボジア語の単語が並
んでいる。

その為、oの項を引くと、直ちに、発音記号
”ok”が出てきて”①将棋、王手!。②(
ひじで)叩く。”との旨記載が発見

出来た。なお、オークの対応カンボジア文字
は、独立母音にオの母音記号を付けた字と、
一番簡単なkの子音記号の2文字単語との事
である。知っている人間には、たいした事が
無かったであろう。ともあれ以上から、

オーク・チャトラングとは”カンボジア将棋
のチャトラング(将棋)”の意味と判る。

ようするに中将棋の鯨鯢と同じで、将棋将棋
と二つ並べた、だけのようである。つまり、

オーク・チャトラングは、本ブログのように
カンボジア・チャトラングと訳しても、極端
に遠くは無かった

ようだ。これでめでたく解決と言う事だ。
(2020/11/01)

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