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石名田木舟(B2)遺跡の王は聞香札(長さん)

一文字王の出土駒として、滋賀里遺跡の王将駒の
裏文字、石名田木舟(SK・SD)遺跡の王駒、
石名田木舟(SB)遺跡の一文字王(へん)駒が
有名で、前2者は確かに一文字王と書いてある。
しかしながら、3番目の出土遺物に関する遺跡

発掘報告書によると3番目の出土遺物は、聞香札

と本文中で説明されているようである。
3番目の遺物は『天童の将棋駒と全国遺跡出土駒』、
西暦2003年、山形県天童市の天童将棋資料館
の43ページの右下の遺跡番号38に、改造金将
駒と共にスケッチが載っている。残念ながら、
天童市将棋資料館本に

写真が無い。

しかるに最近本ブログの管理人は、web上で、
この遺物の写真のありかを発見した。場所は、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている、元々の遺跡
発掘報告書である。この遺跡発掘書の表題は、以
下の通りである。
富山県文化振興財団埋蔵文化財発掘調査報告
第14集”石名田木舟遺跡発掘調査報告”
能越自動車道建設に伴う埋蔵文化財発掘報告Ⅲ
第二分冊中世以降編、2002年、財団法人
富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所。
 これは発掘者そのものが作成したのコンテンツ
であり、そこの図版158の中段左に、裏表共に
写真が掲載されている。

石名田木舟聞香.gif

 基本的に、スケッチとの間に矛盾は無いが、
王の十字の部分の-がボヤケており、又丨が細く、

見ようによっては二と書いてあるようにも見える。

この写真を含むweb公開コンテンツのpdfファ
イル名は、以下の通り。
5597_13_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
 他方、問題にしている遺物が”将棋駒では無く
て、聞香札”だという旨は、前記発掘報告書の、
225ページの、上から6行目に記載されている。
その記載の有るpdfファイルは、データベース
に登録される際に、分割されてしまっており、以
下のpdfファイル名の、ファイルの中にある。
5597_4_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
 下辺が長くなっているのが聞香札に必要な機能
とは考えられないので、発掘報告書の解釈には疑
問が無いとは言えないが。仮に発掘報告者が”こ
の遺物が聞香札だ”と強調したいのならば、書い
てある文字は、”王”と解釈できるばかりではな
く、”二”かもしれないと指摘した上で、

それならスケッチで王の縦棒を少し細く書くべき

だったのではないかと、私は思っている。ともあ
れこれは平安小将棋に仕掛け局面での旦代の難点
(旦代問題)があった為に、草戸千軒遺跡の紹介
の時に述べたように、平安小将棋持駒タイプのゲー
ムよりも、室町時代の初め頃には聞香の方が流行っ
ていたという説にとっては、有利になる事実の一
つとみられる。(2021/01/21)

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夲王駒は何故発生しなかったのか(長さん)

Webからの情報によると、夲という字に、
本当の本、当人の意味の本人等、本の別字
としての意味がある他、力強く進む、速く
進む、動作が大げさな、等の意味があると
言う事であった。
 その為、進む方向が変化する奔とは異な
るものの、速度が大との点で夲は奔に似た
カテゴリー内容を含んでいる。また奔とは
異なり、追いかけられて逃げ回るの意味は、
方向が変化しないので無い。そこで、奔王
は本来、夲王にした方が良かったのかとも
取れる。では何故、日本の将棋駒名として、
夲王が発生しなかったのか。その理由を、
今回は論題とする。回答から書く。

夲には本と同じく、本家の本の意味が有り、
玉将が、偽の王とも取れるから

である。では、論を開始する。
 奔には本のように、源、本家、元祖の意
味が無い。そのため、逃げ回るという意味
が無いとしたら、奔王の方が、速さが最も
速いチャンピオンの意味とも解釈できて、
有利である。それに対してweb上の情報
を辿ると夲の方は、その意味として、元祖
に近いニュアンスを含むととれる字のよう
に、書いてあるサイトもある。仮に、その
情報が正しいとしてだが、夲は奔と本との、
いわば中間だったが故に、夲王としてしま
うと、こちらが玉駒のように取れてしまう
という

欠点が、いたし返しに発生

してしまう事になる。
 つまり”ほん王”は奔でも夲でも、厳密
に言うと、どこかしらに難点があった

のである。その為、少なくとも横行が袖に
移動したときに、

奔横を夲王に替えるという主張が発生して
も、混乱が発生し徹底しなかった

と当然予想できる。実は事態はより深刻で、
逃げ回っている王様が”こっちが玉将では
なく王の元祖”と主張する夲王よりも、難
が少ないとも、言い切れないのだが。
 恐らくだがたまたま、時のゲーマーの中
で、比較的著名で、権力か権威の有る人物
が奔王にしたので、皆が試しに使い始め、

そのうち慣れて、奔王が普及した

としか、考えられないようである。尚以前
述べたように、横行が中央筋に有った、西
暦1230年前後と本ブログが推定する、
徳島県川西遺跡の奔横の時代には、奔横で
も夲横でも、横行が夲横より軽くなっても、
玉駒では無いで問題無くかつ、逃げ回るの
は、諸橋大漢和辞典に載っているように、
奔王の場合しか無いので、どちらでも良かっ
たはずである。よってやはり、川西遺跡時
代の”ほんおう”は、奔車の真似という経
緯からの流れで、”奔横”にして、+を卅
にさせたと見られる者の言う通り、問題は
無かったのであろう。
 そして、横行を袖に移動させた13世紀
の中旬になり、奔王は、相手にいじめられ
て、逃げ回っていて弱そうなので、夲横に
しようとしたものの、

こんどは元祖王の意味になってしまい、
玉将より大事な駒に見えてしまう難点が
あるので、そうも出来なかった。

このような経過で、冒頭述べたように、
玉将を玉駒として維持しようとしたので、
夲王は、賛同者が増えなかった。
 以上のように、本ブログでは結論する
のである。(2021/01/20)

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徳島県川西遺跡夲(+→卅)横奔王忌避を示唆か(長さん)

以前述べたような、本ブログの夲の字を本の
別字に決め付ける解釈は、軽率である。夲は、
奔ではないが、動きのカテゴリーを含む場合
があり、向きの自由度が無いが速度が速いと
いう点では奔に近い。だから、2文字目の名
詞の意味する階層の人間が、動作の速度が速
い動きをする者である事を、表現しようとし
ているものの、

奔では不具合が有ると認識される場合、奔の
代わりに夲にする可能性がある。

 他方奔王に関しては、将棋駒として著名に
なった時点で、慣れから来る習慣から違和感
が無くなったが、

本来は”逃げ回る、情け無い王様”の意味が
あるとみられる。だから、将棋名として、
初期の頃には使われない理由が存在

する。そこで、”夲(+→卅)横”、つまり
+の所が卅に置き換わった夲横と表現された
徳島県川西駒は、奔王の別名が何処かに存在
するので、その事を頭に入れた上で、これを
忌避して夲王と、心の中で置き換えた上で、
当時の周りのプレーヤーの習慣に従い、
”夲(+→卅)横”と遺物に書いた。以上の
ように、裏読み出来るのかもしれない。
そこで、今述べたように考えて良いのかどう
か。以上を今回の論題とする。回答から書く。

否である。奔王は成立して、い無い可能性も
有る。

では論を開始する。
 本ブログで以上のように、冒頭で述べた推
論を否定的に考える理由は、奔王の駒名など
その時点で誰も使っていなくても横と王とが、
たまたま日本語では、音が完全に同じな為、

奔横が有ると奔王も、自分のいる場所から見
て、離れた所で、いかにも使われていそうだ
と思えてしまう点にある。
 つまり、横行の後ろ升目に玉将が有ると仮
に本ブログのモデルが正しいとすると、玉は
王といっしょだというのも当たり前なので、
奔横が正しくても、

奔王が『都では本来』だと間違って”勘ぐる”

という事が、起こりがちだと推定する事は自
然だと、私は考える。つまり幻の奔王を想定
してしまい、不具合を避ける必要が本来は、

全く無いのに、杞憂で、奔横を夲横と表現

しようとしてしまうという事は、結構起こり
がちだと、私が考えていると言う意味である。
 しかし、書き駒師が、そのような”勘ぐり
間違い”をしたときに、プレーヤーから、
実際には”奔横しか無い”と指摘されれば、
夲横と書いてしまった後で”夲(+→卅)横”
と、≪書き足す≫場合があったのでろう。そ
の状態の文字を、我々は”川西本横”の実物
として、ひょっとして見ているのでは、ある
まいか。
 つまり、横と王の言葉の音が、まったく一
緒でかつ、玉将と横行が、仮に本ブログが、
”西暦1230年頃の大将棋”として仮定す
るように、前後に配列されていれば、実際
には発生していない奔王が、その時代にあた
かも有るように見えるという事が、起こらな
いとは言えない。
 だから、”夲(+→卅)横”の存在から、
奔王がその時代に、何処か別な場所に有るよ
うにも、我々後世の推定家にさえも、一応は
見えるものの、

そう即断・決め付けが、完全に出来るとまで
は、今の所証拠が少ないため弱くて行かない。

以上のように、本ブログでは考えているとい
うことである。そして、そのような杞憂を実
際に、多数回繰り返しているうちに、横行を
袖に移動させた局面で初めて、本当に奔王が
発生し、多数のプレーヤーが、皆で示し合わ
せて使った勢いで、”逃げ回る情け無い王様”
の意味は、将棋のプレーヤーの間からは失念
されたて駒名として奔王が確立された。以上
のように推定しても、極端な不自然さは無い
と、依然私は考えるのである。(2021/01/19)

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富山県南砺市高畠遺跡で鳳凰墨書土器

以下は、奈良時代から平安時代早期に
かけて成立したとみられる、将棋駒名の付
いた墨書土器の話題である。
 今回は、中将棋でも御なじみの鳳凰だが、

霊鳥として、日本でも古代から著名

であり、日本の将棋の9世紀以前の成立は
示唆しないとの旨を、以下に結論する。
 記載された発掘報告書が、奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。報告
書の表題は、以下の通りである。
南砺市埋蔵文化財調査報告書30
富山県南砺市高畠遺跡 宗守Ⅱ遺跡、
南砺市教育委員会、2012年3月。
pdfファイルでweb上で見る事が出来、
ファイル名は、以下の通りである。
5884_1_富山県南砺市高畠遺跡宗守Ⅱ遺跡.pdf

古墳時代、奈良・平安時代の集落跡の遺跡
だという事である。
 問題の遺物の写真が今示した発掘報告書
の図版75、高畠遺跡1地区の遺物(1)
の最下段左から2つ目に在る。

富山県高畑遺跡鳳凰.gif

 発掘報告書の本文9ページに、該土器
の成立が奈良時代から平安時代早期との旨
が、記載されていると私は認識する。
 かなり汚れていて、字は目立たない。
しかも、鳳と凰とで、やや大きさが違う上
に、風構えの中身が2文字どちらに関して
も、鳥とも皇とも、余りはっきりとはしな
い。よってこの例については、

光の当り方による、幻影の可能性が、無い
とは言えないとみられる。

 それにそもそも、鳳凰は将棋駒種として
だけでなく、古代より霊鳥として著名であ
る。朱雀と並んで、代表的な神鳥であろう。
従って、土器にその名が書いてあっても、

単に、昔から鳳凰は日本でも知られていた
という意味でしかなく、

中将棋等、日本の将棋の平安時代早期の成
立を、示唆するとみなす事は、残念ながら、
ほぼ出来ないと考える。(2021/01/18)

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徳島県中島田遺跡から堅行墨書杯型土器(長さん)

徳島県徳島市中島田町の中島田遺跡は、西暦
1992年頃に、南北朝時代の成り不明歩兵駒
が出土した事で知られる。写真とスケッチが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に載っている。
 同じ発掘の際に、年代がはっきりしない地層
から、底の裏面に

竪行と書かれたように見える杯と見られる土器

が発掘されていたらしい事を、出土歩兵駒の
写真が載っている、発掘報告書の中で私は最近
見つけた。
 この発掘報告書も、たびたび紹介した、奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。報告書
の表題は、以下の通りである。
徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第15集
中島田遺跡Ⅱ、徳島県教育委員会・財団法人
徳島県埋蔵文化財センター、西暦1996年。
pdfファイル名は、以下の通り。
13502_5_中島田遺跡II.pdf
 そのファイルの、うしろの方の、図版65の
下端の中央の、土器の破片状の遺物の写真の表
面に竪行の墨書が薄っすらと写っている。

徳島県中島田竪行.gif

竪行の竪の字は、下の方が消えかかっていて、
はっきりしない。これについても、光線の当り
方で、たまたまそう見えた、単なる幻影の疑い
も有る。
 なお出土した”地層は包含層”だと、報告書
に記載され、包含層とは、成立年代のはっきり
しない、新旧遺物が入り混じった層の事のよう
である。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも載ってい
る、成り破損不明の歩兵駒は、このpdf
ファイルの末備、図版70に載っている。歩兵
駒の方は、この発掘報告書によると南北朝時代
のものと言う事のようである。細長くて、持駒
ルールの有る平安小将棋に使うのに適している
ように、私には見える。
 元の竪行の話に戻すと。
 成立年代がはっきりしないのと、土器に書い
てあるだけで、将棋の駒の形での出土では無い
ので、浄土真宗教祖の親鸞が存命中に、竪行が
成立したのではないかという本ブログの見解に、
新しい知見が、特に加わるものではない。
 この遺物は、”飲む打つ買う”で不真面目に
生きる生き方を、戒めただけの酒の杯にすぎな
かったのかもしれない。なお飲酒は仏教の戒律
では禁止と聞くが。ともあれ。実際とは異なり、
仮に鎌倉時代中期成立が、確定していた遺物だっ
たとしたらとすれば、その時代の大将棋にも”
竪行”がある事を示唆した、有力な遺物となっ
ていた所であったろう。(2021/01/18)

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山梨県富士河口湖町滝沢遺跡で”夲人”土器(長さん)

本ブログで前に、㈱遊学社(2012)の
”日本難字異体字大字典”の文字編”本”
の項目に、本の俗字として、上下に”大+十”
と繋げた物が載っているので、本と夲は同じ
という意味の事を述べた。しかし、web上
を調査してみると、

夲は大げさに物事をする、速く進む、勢い良
く進む等の意味を持つ、本とは別字だが、
通説のように、本の異字として扱われる場合
も有る

との意が書いてあるサイトが多い。発掘報告
書を読むと、土器の墨書の中に、どういう意
味なのか、私には判らないが、一文字”夲”
と墨書きしているものが、複数の遺跡に出て
くる。なお、電子辞書のimeパットによる
と、”大+十”の”夲”は、音がトウで、訓
が”もと”だという事である。音を”ホン”
と読む場合も有る旨が、web上に記載され、
本との差は、調査しても私には良く判らない。

以前の結論を出した時点では、調査が足らな
かった

ようだ。ただし本来の意味での夲を、近世以
降は、日本では余り使わなくなったという経
緯の字なのであろう。
 ともあれ今回は珍しく二文字の墨書があり、
摩訶大大将棋の仲人の成りである奔人とも、
”本”に比べて意味が似ているとも解釈でき
て、混同が自明に予想できる、夲の入った
”夲人”という墨書土器も、発掘されている
のに気がついたので、以下に報告する。
 問題の遺物の成立年代は、日本での将棋の
初出よりも早くて平安時代早期、8世紀末か
ら9世紀初、場所は京都からは遠い、山梨県
の富士の裾野、富士河口湖町滝沢遺跡である。
 発掘報告書が例によって、これもまた奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。報告書
の表題は、以下の通りである。
山梨県埋蔵文化財センター調査報告書
第304集”滝沢遺跡(第3・4次)”、
2015年3月、山梨県教育委員会・
山梨県県土整備部
pdfファイル名は、以下の通りである。
15580_1_滝沢遺跡第3・4次.pdf
この報告書の、後ろの方の図版21の上段に、
夲人と墨書きされた土器が、

2枚

写真で載っている。なお下図右の方は彫り物
(線刻)かもしれない。

滝沢遺跡奔人.gif

夲を本を読めば、

意味が通るが、墨書にした理由が不明。

 そうではなく、夲は大げさに物事をする、
速く進む、勢い良く進むと取れば、そのよう
な性格の人間を指すという意味になる。そこ
で五月の節句に、息子の成長に関する願掛け
で作った杯等の墨書きだったなどと考えれば、
理解は”本人土器”の解釈よりは、少しマシ
かもしれないと、私は思考した。

正直良く判っていないので、これが摩訶大大
将棋の、平安時代の存在を示唆するかどうか
については、今の時点で何とも、私には言え
ない。

 しかし少なくともその場合は夲は、向きが
同じなので、奔のようにめちゃくちゃな動き
ではないし、奔王と書いたときの意味のよう
に、逃げる事を目的としていない点でも、
”奔”とは違うが。そうであっても、その使
い方の場合の夲は

奔の方が本より、やや近い感じがする。

本の代用ではなくて、別の意味での夲が、か
つて古代に、日本では土器に一文字墨書とし
て良く書かれたと見た方が、土器は書籍では
無い為自然だと、私は思う。のでその一文字
”夲”土器の夲が、何が勢い良く進行してい
る等なのかは、私には良く判らないものの、
二文字に拡張した場合、”奔人”という意味
に比較的似た夲人の概念が、

中世までには、地方にまで広がっていたと言
う事が、全く無かったとまでは言い切れない

ようにこの遺物を見て疑うようになって来た。

字が具体的に違うので、摩訶大大将棋の存在
下で、河口湖湖畔で平安時代早期に、この墨
書土器が成立したのでは無い

のではあろうが。少なくとも夲人という概念
がイメージ出来たので、摩訶大大将棋の日本
のゲームデザイナーが、仲人の成りの駒名を
奔人にしたとしても、他ゲーマー達は、現代
人に比較するとその用語を、さほど不審には
思わなかったという事だけは確かだった、と
いう事なのかもしれないと思う。(2021/01/16)

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山形県米沢市より奈良時代奔金(?)土器(長さん)

以下出土した土器の墨書が劣化により、元々
の、”丹金”と思われる文字が”奔金”に見
えるという、出土遺物についての紹介である。
 表題のように、この遺物は山形県米沢市
の笹原という遺跡で、1981年と、相当前
に発掘されている。
 出土地点の周辺に、有力な遺跡の記録は無
いが、奈良時代とみられる土器と共に問題の
墨書遺物が出土しており、成立は古代に遡る。
発掘報告書がweb上に公開され、pdf
ファイル名は、以下の通りである。
5424_3_笹原遺跡.pdf、5424_4_笹原遺跡.pdf、
5424_5_笹原遺跡.pdf

これもまた奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録され
ている。報告書の表題は、以下の通りである。
米沢市埋蔵文化財調査報告書第7集
笹原
米沢市都市計画課、まんぎり会、米沢市教育
委員会、西暦1981年10月
まんぎり会とは、早くからこの遺跡に注目し、
調査を行った、民間団体のようである。
 報告書のpdf上の第5分冊、
5424_5_笹原遺跡.pdfの、第35図版の、
2番目に、この土器の底面の墨書部の写真が
載っている。

笹原遺跡奔金.gif

本ブログでは示さなかったが、1番目は明ら
かに、丹金(赤金)と書かれた、別の土器の
底面の墨書の写真である。

 傷が付いて、上の図では丹金が奔金のよう
にも見えているだけである

と別の遺物からほぼ推定できる。よってこの
ケースは、

摩訶大大将棋の奔金が、奈良時代に成立して
いた事を示唆するとは考えられない

と見られる。
 なお、発掘報告書では”舟金(?)”となっ
ている。

意味が通るという点で、舟金よりは丹金と
読んだ方が、良いのではないかと私見する。

 赤金(あかがね)を器に入れて使用出来た
人物が、古代に米沢市の笹原遺跡には居た事
になる。遺跡らしきものが、見当たらないと
されるが、実際にはこの近辺は、有力者の住
居跡だと言う事なのかもしれない。
 また奈良時代まで日本では盛んだったと聞
く、金銅仏の制作とも、これは関係するのか
もしれない。そもそも奈良時代に、方々で
金銅仏が作れたのは、日本でも金鉱の存在が、
その当時には知られていて発掘が盛んであり、
それを押さえていた人物には、高価な仏像等
が作れた事を示しているのであろう。丹金の
文字は、素直に見れば何らかの理由で、小型
仏像作りの為の、材料を入れるための器の目
印のようでもあり、遺物を報告書の考察部の
ように”舟金”ではなくて、本ブログのよう
に”丹金(あかきん)”と読めば、造仏に絡
んだ

金持ちという意味での有力者の居住

を示唆している点。以上の点で、余り記録が
残らなかったが、重要遺跡の一つと言えるの
ではなかろうかと、このケースついて、私は
考えた。(2021/01/15)

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大阪府柏原市大県南遺跡で鎌倉期の角行文字(長さん)

以下将棋駒ではなくて、将棋駒名を書いた
井戸枠で継ぎしろ部に墨書があるように見
える、最も新しくて鎌倉時代の遺物の話題
である。かなり薄くて、墨書が有るという
指摘すら文献に無い。

光の当り方による影の悪戯である疑も有る。

問題の遺物は、以下のpdfファイルに
掲載され、pdf自体がweb上で公開さ
れている。たびたび紹介した、奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に登録されているものである。
18138_1_柏原市遺跡群発掘調査概報1994年度.pdf
文献の表題は以下の通りである。
柏原市文化財概報1994-Ⅳ
柏原市遺跡群発掘調査概報1994年度、
柏原市教育委員会、1995年3月。
柏原市は奈良県との境にある大阪府の市で
ある。
 そして問題の遺物は、第3章大県南遺跡
の24ページの一番下に写真がある。
 2メートル程度残っている井戸枠のうち
の1枚の、巾40~50センチの板の端の
方に、次の井戸枠に繋ぐために鼻型に8セ
ンチばかりに切り欠きが作られていて、そ
の切り欠きの端に、角行の文字に見える影
が写真に写っているというイメージである。

大阪府柏原市大県南遺跡角行.gif

 よくみると、角だけの影が、他にも有る
ようである。切り欠きの長さは今述べたよ
うに8センチメートルなので、切り出すと、
だいたい将棋の駒程度になる。切り欠き部
の厚みは写真からはよく判らない。私の当
て推量だが、強度を出すために2センチ位、
必要なのではないだろうか。

将棋駒を作るにしては、少し厚すぎ

か。なお、発掘報告書によると、元々この
井戸枠は、建築資材の廃材の転用だと見ら
れており、井戸を壊して、将棋駒を作ろう
としたのでは無さそうだ。発掘者は井戸枠
切り欠き部に墨書が有るのを説明しようと
したのではなくて、井戸枠板に切り欠きが
ある事自体が珍しいので、報告書に部分拡
大写真を載せたようだ。

現物を見ると何も無いのかもしれないが。

 なお、鎌倉期の判定は、土器の形からの
もののようである。
 角行は特殊な固有名詞であり、将棋以外
に使うとは、ちょっと考えられないだろう。
本当に墨跡が有るとすれば、角行駒の成立
期を推定する、

有力な遺品

になる可能性が、かなり高いように私は思
う。井戸からの出土品は、井戸枠すら疎か
には出来ないという良い例だろう。
(2021/01/14)

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奈良平城京より天平時代の龍自在王木簡(長さん)

以下、摩訶大大将棋と泰将棋の駒名として知られる
自在王が、奈良の推定内裏跡より出土したという
話題である。

前に南無(无)、後に佛という字が書いてあり、
将棋の存在を示唆しない。

web上で見る事の出来る、下記のpdfファイル
の13ページの上段左に、釈文だけがが記載されて
いる。前後に写真は無いようである。
15038_1_平城宮発掘調査出土木簡概報.pdf
このpdfファイルは、本ブログ内で再三紹介した、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に掲載されていて、文献の表題は
以下の通りである。
平城宮発掘調査出土木簡概報(15)
奈良国立文化財研究所、1982年5月。
出土したのは、前世紀でありかなり前だ。
ここで問題にしているのは”GE33 011”と、
記号が付された釈文のことである。
 釈文は手書きだが、たぶん次のようにだけ書いて
あるようである。
南无龍自在王佛
 残念ながら、紹介したpdfはシリースのうちの
一部の抜き出しであるようで、写真が見当たらない。
そのため木簡がどういう形をしていたのかは、私に
は判らない。
 そして本木簡概報の2ページ目に、発掘地点は、
奈良の平城京の内裏北の”官営地域”だとの旨出て
いる。成立年代は、共出土した木簡に、年号の記載
されたものが有るらしく、西暦746年前後の
奈良時代とみられているようだ。なお西暦の746
年は天平18年。また発掘されたのは、より正確に
は西暦1981年の頃となっている。

朝廷内に”龍自在王仏信仰”と称するものが有った
事になり、情報に、それなりの重みは感じられる。

ただし今の所、摩訶大大将棋および、泰将棋の成立
が8世紀との説は、たぶん無いだろうと、本ブログ
の管理人は認識している。
 加えて墨書の内容が”南無(无)・・・佛”であ
るから、仏教的な木簡なのであろう。少なくとも、
奈良時代に、怪獣や恐竜の類ではなくて、

龍自在王という名の、人間の仏に対する信仰が存在

するという事なのではないか。
 なお類似の仏の名称として世自在王は阿弥陀如来
の師として知られる。が、龍自在王がどんな仏様を
指すのか、少なくとも私には判らない。しかし何れ
にしてもこの木簡から、

摩訶大大将棋の成立よりも、龍自在王という名の仏
の方が、恐らく先に知られていた

ようであ。だから龍王同様自在王も、摩訶大大将棋
では将棋盤の、中央列近くに配置すべきだとの認識
を、摩訶大大将棋のゲームデザイナー等に抱かせる、
要因の一つになった可能性は、全く無いとは言い切
れないのであろう。(2021/01/13)

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多賀城遺跡から~大将棊~百三十八名~五斗木簡出土(長さん)

西暦1300年前後成立の普通唱導集大将棋は、
130枚制の後期大将棋ではなくて、具体的に

本ブログに於いてだけ、特定の108枚制の
将棋である

と西暦2017年の、第二期電王戦第2局の
直前に主張されている。今回は、

≪”大将棋は百八枚である”と書した出土木簡≫
と、紛らわしい遺物

が、西暦1982年頃に、宮城県多賀城市の
多賀城跡遺跡から出土しているので紹介する。
出典は、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に掲載されていて、web
上で確認出来る。pdfファイル名は、以下の
通りである。
61714_1_多賀城跡.pdf
そこの、後ろの方のページ、図版9の下の、
3とナンバリングされた遺物に以下の図のよう
に書いてある。なお遺物は木製の板状の物品で
木簡にも見えるようである。

大口百八木製品.gif

発掘報告書の表題は、次の通り。
宮城県多賀城跡調査研究所年報1982
多賀城跡、宮城県多賀城跡調査研究所
(1983.3)
当時発掘後半年後に、調査報告書が出されたよ
うであり、私が知る限り相当に作業が速い。

 成立年代が、遅くて9世紀初であるとされ、
平安時代草創期なので、西暦1300年の将棋
のルールが書いてあるとは考えにくい。

そもそも、京都や鎌倉から離れた宮城県の城で
発見されるというのも、やや不思議だ。なお報
告者は、以下のように釈文している。
口・・・・・口
百(空き)丗八石
口口口五斗
本ブログの管理人には以下のように見えている。
~大将口
百(空き)Ⅲ八名
口口口口口
ただし将棋の”棋”は有るかどうか謎。大も小
さすぎである。報告書に丗等で書かれている部
分は不明確であるという意見に、私も賛同する。

つまり”大将棋の駒名は、この木簡が成立した
時点で108枚制である”とも取れると言う事

である。
 それに対し発掘者は、多賀城で調達した食料
の量を示す、城を維持するための、事務記録の
木簡だと、見ているようである。ただし、三行
目に5斗と書いてあると言う意見には、不明確
すぎて、個人的には納得できないが。結論とし
て冒頭に示唆したように、

一般論として、発掘報告書の推定内容は常識的

だと私も、しぶしぶなから納得できる。
 この木簡は、偶然の産物だったと思われるが、
本ブログで探し回っている遺物が、内容として
具体的に

どういうもので、あるべきなのかをよく示して
くれた

ように思われた。(2021/01/12)

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