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奈良平城京出土の西暦768年”角行”似の木簡(長さん)

奈良文化財研究所が2007年11月に発行
した、平城京木簡の写真・釈文を載せた出土
木簡の概要報告書に、西大寺跡の井戸跡で発
掘された、井戸枠の板に、”角行”と読める
字が含まれるのに、本ブログの管理人が気が
付いた。ただし、角は西南角(せいなんかど)
の文節の一部を構成すると見られ、

将棋駒種の角行が、表題に書いた西暦768
年時点で、成立していた可能性は、ほぼ無い。

この情報の源は、本ブログで何回も紹介した、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に掲載されている。pdf
ファイル名は、以下の通りである。
15061_1_平城宮発掘調査出土木簡概報.pdf

pdfファイル名にも付けられた、この”概
報”の文献上の表題は、以下の通りである。
”平城宮発掘調査出土木簡概報(28)
付「平城宮木簡一」補訂4”
奈良文化財研究所、西暦2007年11月

その中に、木簡がナンバリングされて写真と、
釈文が掲載されている。今回紹介するのは、
その中で95番とナンバリングされた木簡で
あり、西大寺跡の発掘作業中2006年に、
井戸跡にて、発掘されたという事である。
説明文によると、井戸枠の板の一部のようで
ある。木簡というよりは、墨書の有る木製品
という事か。

平城宮角行.gif

 釈文が同じ文献の20ページに載っていて、
それによると、前記の図の文字は、以下のよ
うに読まれているようだ。
”西南角楼 西大寺口名”
楼は?が付いている。私も≪不明≫が正確だ
と思うが、

”行”にも見える。

他の共出土した木簡に年号の有るものがあり、
同報告書によると西暦768年かその前年の
奈良時代後期に書かれた(成立した)ものと
されているようだ。
 角行には見えるが、南西角で文節が区切ら
れると見るのが自然だろう。

残念ながら、奈良時代後期に、日本将棋が存
在した事を、示唆する物でない事はほぼ確実

のように私には思える。
 それにしても”西南”の西が擦れていたの
で、角行と、どうしても読めてしまう、迷惑
だが、夢とロマンの有る遺物だ。
 なおこの文献に付「平城宮木簡一」補訂4
と書いてある通り、釈文だけ紹介された木簡
があり、その中に、以前本ブログでも紹介し
た、旧大乗院庭園、当時の飛鳥小学校跡の池
の中から発掘された明治時代成立とみられる、
軍人将棋改造将棋駒の釈文が、たまたまだと
見られるが載っていた。(2021/01/11)

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遺物が神鳥谷曲輪遺跡8号と10号井戸間に有るか(長さん)

本ブログでは、栃木県小山市の天神町と神鳥谷の
境付近に有る、国道4号から東に数十メートル
入り、JR宇都宮線高架下は渡らない、2007
年の遺跡の発掘現場である、神鳥谷曲輪跡の北方、
8号井戸跡と、その近傍西数メートルの10号井
戸、11号井戸からは、同系統の水没遺物が出土
していると認識している。この事から、掘らなかっ
たそれらの間の領域に、将棋駒やその他の、
木製品の史料等が未だ、眠っていないのかについ
てを、今回は論題にする。

木製品は、8号井戸跡と10・11号井戸跡の
間を掘れば、まだ出土する

と考える。将棋駒は不明。では、説明を開始する。
 ポイントは、井戸と言うにはこれらの穴は、

浅いので、時代により泥沼状の池にもなり得る

と、本ブログでは考える点にある。池だった時代
が場合によってあり、中世・近世の遺物は、池の
中に投げ捨てられたはずである。ので未掘削部分
にまだ眠っており、発掘されたのは、まだ一部だ
と考える言う事である。
 そもそもこの遺跡では、表層が既に南北朝時代
地層であると予め仮定され、0メートル~2メー
トルまでの地層から実際に、小山氏一族の城址で、
典型的に出土する土器・カワラケが大量に出土し
て小山城関連と確定したという経緯の史跡である。

遺跡の発掘報告書にはその為、層序に関する説明
が、省略されていて見当たらない。

 つまり、近世から最近まで、神社に土地が属し
ていてほぼ、

開発されずに、現状が保持された区域を発掘調査

しているようである。
 そのため8号井戸付近の東西約20メートル、
南北約10メートルの領域は自然条件で、長雨が
続いた時期には、ぬかるみ、ないし、小沼、小池
になったような所だと考えられる。そもそも普段
でも、1メーター50センチも掘ると、この場所
は、水が湧き出る状況と、栃木県小山市神鳥谷曲
輪遺跡の2010年・2011年発掘報告書には
記載されている。
 確かに、旱魃の頃には乾いていて、井戸として、
2メートル程度穴堀をした事もあり、井戸跡が、
だから検知されて、発掘調査されたのであろう。
溺れるほど水の溜まった時代には、思川近郊だし、
周囲に井戸は不要かもしれない。
 しかしながら、数百年間ずっと安定だったとは、
河川が近いために考えられない。全体的に井戸の
密度がやや高い、7~13号井戸の列については、
時代によっては、水路のようになっていたのかも
しれない。また繰り返して述べるが8号井戸を中
心に、東西に長い、浅い小池かひどい湿地程度な
土地があった時代が、あるのかもしれない。
 小池や水路の時代なら、中世末から近世にかけ
て不要な遺物は、容易に、その場所に捨てられた
のではないか。何せ、池の深さはたぶん1メート
ル、深くても2メートルしかないはずで、これで
は農作業等で簡単に、ゴミ穴として掘れる程度の
深さのレベルでありゴミを投棄するのに手ごろだ。
 
たまたまだったが、それより深いところまで物品
を沈めると、地下水を経由して、思川に流出して
いまうような場所

だったと、遺跡発掘報告書からは、このケースは
読み取れるようである。今でこそ宅地に見えるが、
本来は低地の湿地に近い、

かなり変わった場所の発掘調査だったと見て良い

のではなかろうか。
 南北朝時代の城関連の遺物は、もともと莫大な
量有ったので、たまたま表層に残った分だけで、
充分大量に発掘されたのであろう。
 よって、いわゆる神鳥谷曲輪の西百数十メート
ル程度に位置する、2007年発掘現場の8号井
戸の先に述べた範囲の周辺は、1メートル半程度、
発掘した井戸の深さ程度に、多少深めに周囲を掘
ると、

8号井戸や、10・11号井戸で出土した物品と
同系統のものが、まだ出土するのは、余り不思議
では無い

ように、私は報告書を読み直して、最近思うよう
になった。
 中世の杭跡を壊してしまう事になる等、問題は
有りそうだが。遺物がほしいという点を優先して、
とにかく有る物は、全部掘り出してしまおうと仮
にしたとすれば、ここからはまだ、何かは出てき
そうだと思う。ようするに井戸が深いのならばそ
の場所だけ廃棄品の投棄場所だと見ても自然だが。
比較的浅くて、人工的な井戸を洪水や樹木の繁茂
の自然条件で、基本的に消せるような状況なので。
少なくとも高価な瀬戸物器を除く近世等の遺跡で

よく見かける、8・10・11号井戸で、既に出
土した生活物品の類は、掘ればまだ出てくる

可能性があるように、私には思える。
 その中に本ブログで言う”精巧に再現した近世
成立の、南北朝時代の模型将棋駒”までもう全く
無いかどうかについては、そこまでの予想は困難
だが。少なくとも現時点では将棋駒についても、
可能性ゼロと、完全には言い切れないのは確かだ
ろうと、私は以前とは違って思うようになってき
ている。(2021/01/10)

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水無瀬兼成三升踊駒の中世鎌倉中将棋存在不知(長さん)

本ブログでは、神奈川県鎌倉市の御成町で
発掘され、よみがえる中世 武士の都鎌倉
に掲載された、今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡中将棋木札を根拠に、南北朝時代に、
少なくとも鎌倉では、狛犬駒の有る中将棋
が指されたとの見解を取る。また恐らくだ
が、原因は師子に関する特別な規則が原因
で、刃傷沙汰が有り、”御遊び”が原因で、
死人が出たのを問題視したためとも推定し
ている。要因は、鎌倉武士が気が荒いため、
勝負の些細なトラブルで、刀を抜いての斬
り合いが有ったであろうと考えたのである。
これは逆に言えば、トラブルがあっても寛
容なため、京都の貴族の間ではゲーム性が
優先されて、

狛犬の入った中将棋は指されなかった

とも、推定できよう。怪しい勝ち方を相手
がしても賭けた物品は出すような雰囲気が、
先祖伝来も含めて物資を豊富に所持する公
家の間では、普通だったのではあるまいか。
 よって、安土桃山時代末期に関西在住の
人間であって、一族内にトラブルを抱えて
いたとはいえ、自分もまた公家の仲間であっ
た水無瀬兼成には、

狛犬駒が摩訶大大将棋より下位のゲームで、
現われなかったと誤解されても仕方が無い

と推論も出来る。今回は、将棋纂図部類抄
の序に、以上のような推論の証拠が書かれ
ているのを発見したので以下に紹介する。
ずばり、

其図者逸失、其法欽籍茲綮従”縦横三三之
秤目”泊于摩訶大大之陣面横兵馬行列
於解卸。

と後ろから4~5行目に書いてある。つま
り、水無瀬兼成は、

3升目踊り駒が有るのが、摩訶大大将棋
以上の将棋の特徴と思っていた事が、この
部分から判る。

 以下私の心象だが。水無瀬兼成の時代に
残っていた将棋のゲーム種に関する史料は、

現代と、余り変わらない所まで減少

してしまっていたようだ。上の一文は、そ
の事をも、述べているとも取れる。
 少なくとも近畿地方では、”トラブルに
なるから、『師子に関する特別な規則』の
有る中将棋を避ける”という行為は、歴史
的に見て不要な為、ほとんど行われた事が、
無かったのだろう。以上ように今の所、
将棋纂図部類抄位しか、まともな情報が無
い為、推定せざるを得ない状況だろう。
(2021/01/09)

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小泉信吾氏、大将棋二中歴記載末字を3と読む(長さん)

以下かつて将棋連盟の関西本部に存在した、
将棋博物館の学芸員で、京都府埋蔵文化財
調査研究センター出版の考古学文献の執筆
をも、されていた小泉信吾氏が、

二中歴の大将棋の記載について、興味深い
解釈をされていた

との旨の紹介である。彼は二中歴の大将棋
の記載で、意味の取りにくい最後の十文字、
”如是一方如此行方準之”に関して、特に、

末尾字”之”を三(3の意)で読んでいる

という点で、私は感心させられた。
 では、以下もう少し詳しく述べる。
以上の情報は、web上に公開されている、
以下のpdfファイルの論文集の、トップ
の論文の中に書かれている。
kyoutofu-J23.pdf
公開されたweb上のサイトのurlは以
下の通り。
エイチティティピー://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/jyouhou/kyoutofu-J23.pdf
論文集の表題は、以下の通り。
京都府埋蔵文化財情報 第23号
1987年3月、発行:財団法人 
京都府埋蔵文化財調査研究センター
その中の小泉信吾論文の表題は以下の通り。
”出土駒から見た将棋の発生” 小泉信吾

 ここで注目している、二中歴の大将棋の
記載の読み方については、4ページの中段
に記載がある。

如是一方で一旦切り、如此行方準之の最後
の字を之とは読まずに三(3の事)と読

んでいる。なお一旦切るのは、研究者によ
り、そう読んだ例は別にある。

之を三と読むのは、小泉氏が変体カナに精
通している証拠

だと、最近やっと理解出来るようになった
私は感心した。
 之を3と読んだ結果、行方を実質成り方
と小泉氏は

本ブログと同じく再解釈

する事になった。そして彼の独自な点は、

3を文書の三行目と解釈

して、二中歴の”将棋と大将棋説明”の三
行目の、”裸玉の勝ち。成りは(玉将と、
金将を除いて)、相手陣

3段目で金将成り”の、特に後者を指す

と、解釈されている点にある。
 本ブログとの差を議論する以前に、

之を”これ”(”初期配列”等と取れる)
と見なかった点がユニーク

だ。実際には、我々の見ているのは江戸時
代の前田藩の写書本であるから、江戸時代
の書体はよく調べるべきという、貴重な教
訓が含まれる点を、皆が見習うべきだろう。
 蛇足だが、彼はその結果、平安大将棋の
駒の成りは、

本ブログとは異なり、横行、猛虎、飛龍も
相手陣3段目で金将に成る

と見たようだ。
 原書で”裸玉勝ち。相手陣3段目皆金成”
の意が3行目に書いてあるかどうかについ
ては再確認が必要だが。読めているようで、

読めていない字、この場合は”之”にも見
える字を、安易に”之”と決め付けて、
そもそも難読な文を、無理やり解釈するの
は危険だ

と、この一文を読んで、私は個人的には、
良い事を小泉信吾氏から教わったと感じた。
(2021/01/08)

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福岡県板付周辺遺跡から”山母”墨書土器か?(長さん)

本ブログの見解によれば、摩訶大大将棋、
摩訶大将棋の古猿の成りである山母は、
室町時代の成立という事であった。初出
は謡曲とみているが、今昔物語にも、
実質的に出ていると見ている。ただし、
今昔物語の成立を、概ね南北朝時代以降
と見るのが本ブログの見解である。
 しかるに最近表題の遺跡で、墨書土器
に、”山母”と記載されていたように書
かれた遺物が発掘報告書に紹介されてい
るのを、本ブログの管理人が発見した。
 報告書は、奈良文化財研究所の発掘報
告書データベース、全国遺跡報告総覧に
掲載されていてweb上で確認出来、
pdfファイル名は、以下の通りである。
17049_1_板付周辺遺跡調査報告書9.pdf
報告書は、福岡県福岡市の福岡市教育委
員会が、西暦1983年に発行した、以
下の表題の遺跡発掘報告書の20ページ
の下から3段目左に写真があり、本文中
に説明もある。
福岡市埋蔵文化財調査報告書第98集
板付周辺遺跡調査報告書(9)
福岡市教育委員会(1983)

福岡県板付山母.gif

スケッチも、19ページに載っていて、
仔細は報告書で直接確認いただくとして、
実はスケッチの方が、更に”山母”に近
く見える。
 なおこの土器の成立は8世紀とされ、
山姥が古代に成立しているとすれば、大
発見だったはずだ。

残念ながら、色彩が察知できる報告者は、
2文字目を母と読んでいない。

小口と読んでいて、2文字目に別の墨の
ヨゴレが付き、2文字目は、判読不能と
の説明が、本文中にある。
 山姥が古代からある熟語だという発見
は、残念だが幻と消えてしまった。
(2021/01/07)

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なぜ現代の子供は大局将棋駒を丸く作ったのか(長さん)

やわらかい粘土を使った場合の工作上の
困難性だとの説明があるが、下の図の西暦
2019年成立の将棋駒の作者が、日本の
将棋駒を五角形ではなくて、丸く作る理由
について、今回は考察する。回答から書く。

賭博として使われる事がもはや習慣として
社会に存在しておらず、ゲーム中駒を、
回転させるゴマカシを、防止しようとして
いない。
では、論を開始する。

大局将棋2019.gif

上図は、以下のurlに写真があり、現物
は、西暦2019年に成立したとみられる。
https://ameblo.jp/plus-pot/entry-12488833554.html

材質は紙粘土で、特に焼き入れているとの
説明は無い。自由に変形できる状態とみら
れる。展示用であり、実使用を目的として
いないと、文面から読み取れる。五角形に
しない、積極的理由は見当たらない。なお、
背景に将棋駒を初期配列で並べた姿が映っ
ているが、子供が手にしているのは、大局
将棋の、最前列駒の一である”犬”だとみ
られる。
 本ブログでは五角形の理由は近世には、
絵馬と同じ感覚にまで、見るその時代の人
間の、その形から受ける印象は曖昧化、
混合化したと見ている。しかしこのケース、

信仰心が無いから丸くしたとは思われない。

根拠は、近代になると、将棋は繁華街の路
上の、街頭賭博のイメージが、庶民の間で
強まったと、少なくとも私は認識している
からである。”昭和の1950年代、高度
経済成長期より前は、ゆったりした社会”
のイメージで、その光景が現代でも、書籍
の”なつかしの写真”等で紹介されている。
 ところで当然だが、街頭でその当時は見
かけた”詰め将棋

賭博”等だと、金銭的利害が掛かっている。

その為、プロの対局でなくても、イカサマ
を防止する手立てが、神経質に取られてい
たと見る。
 将棋の場合、

文字の方向だけでなく、駒の先頭が向いた
方向で、敵味方が区別され、自駒と他駒が
反則によって入れ替わって、形勢が変わら
ないように、賭博では注意が集中された

と考えられる。しかしながら、将棋が賭博
であるとの

感覚が無くなれば”字の向きで区別すれば
いいや”という程度の意識になるのは必然

だと私は思う。その結果、現代の子供は、
駒の向きで、相手駒と自駒をきっちり区別
する事が、将棋駒では必然だとまでは、思
わなくなるのであろう。その結果、工作の
手間が優先されて、前記例では駒の形は、
デフォルメされたと推定される。
 特に大局将棋では、駒数が多いだけに、
より厳しくする必要があるのだが。それを
しないと言う事は、勝負の勝ち負けで、金
品が動くという感覚が余り無い証拠だろう。
以上の事から、今回紹介したブログの写真
からは、西暦2019年の時点で、

将棋で賭博をするという記憶が、日本の社
会からは、すっかり失われた事が判る。

以上のように、それ以前の経緯から、私は
結論するのである。(2021/01/06)

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仲人、中人についての調査(長さん)

以前述べたように茨城県石岡市の遺跡で、平安時代
に成立とみられる仲人の墨書土器が出土した。その
為、平安時代に仲人が知れ渡っていないために、
平安大将棋の注人は仲人では無いという論理が成り
立たなくなった。そこで今回は、平安大将棋で、ど
うして仲人が使われなかったのかを、仲人、中人の、
古代の官職名等を捜索する事によって、解明を試み
た。wikipediaの奴婢の項に、9世紀には、
日本でも言葉として生きていた、応用工学等の学者
を意味する中人が、平安大将棋の作者には判ってい
た為ではないかと推定された。
 wikipediaの奴婢の項の、冒頭の説明に、
朝鮮半島での、日本の古代~前期中世に当る、
高麗時代の、身分制度についての記載がある。
それによると、朝鮮半島では身分階級が、
両班、中人、常民、奴婢になっていて、冒頭で述べ
たように、実学の学者等を、貴族と一般民との間に
置いているとある。
 以上の事から、仲人が中人と同義と仮に見られた
とすると、

平安大将棋で、最前列の危険な位置に、工学研究者
等を置くのは、異形であって適切とは考えられない。

他方、スパイという意味の注人は知られていたから、
そちらを、当然のように使用したのかもしれない。
 以上のように平安大将棋は、朝鮮半島の用語での
中人の意味を知っているような、知識を持った階層
がゲームデザイナーであると仮に見れば、中人・仲
人の意味を知っていたデザイナーにとっては将棋の
初期配列の最前列に持ってくる駒名として、最初か
ら工学者・実学の学者という意味での仲人や中人な
ど、意識の対象外だったと見るのが妥当だと、一応
は考えられるであろう。
 よって、仲人の意味が9世紀は外来語、、中世鎌
倉中期には争議の調停者と言うように、意味が、
たまたま大きく違って来ていたから、平安大将棋で
は12世紀初の知識人デザイナーの創作だった為に、
その記憶が残っていたので、たまたま使わなかった
と、一応は言えそうである。
 もっと調べれば幾つかの理由の、足し合わせと言
う事に、あるいはなるのかもしれない。しかし、
大方は、争議調停者という意味が、古代の日本に、
仲人の意味として、余り使われなかったからだろう
とは、推定できるような気がした。(2021/01/05)

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4日5時代”しぶんぎ群(りゅう座イオタ群)”比較的活発(長さん)

先だって、4で割り1余る年の日本のりゅう座イオタ群
は、当分極大に当らないだろうとの旨を述べましたが、

予想が外れて、

5時10分~40分まで、比較的活発だったと認識して
いました。
まだイベントが終わってません。調査直後に、極短時間
だけ見た為の、バラツキであり予想通り、下り坂に有っ
たと判りました。(2021年1月4日8時35分)
(参考url:)
https://www.amro-net.jp/blog/flash/qua-2021.html
2021/01/04_長さん/Qua_obs.

__☆2021年の四分儀(しぶんぎ)座流星群
(1月4日明け方日本)

自宅で観測しました。(埼玉県)
__DATE__2021.Ⅰ.03/04
__TIME04d05h10m~05h40m(30分)
__観測総数5個__OBラムカ内__4個程度__判定△~◎
__
__ガスが空にかかり、月明かりがありました。この時間のみ
 晴れました。
__メモ:1恒星年=365.25636日
__定義:”OBラムカ内”。輻射点の方に短軸を向け天頂を
____中心に73°×60°の方形視野に、発光点の入った
____群流星を数える。ただし本式には、多重計数で、全数も
____れなく計数するのが、建前。
________________四分儀群__最近の出方
______2021__|__________________△~◎(不正確→△)
______2020__|
______2019__|_____×
______2018__|__________×~△
______2017__|_____________________×
______2016__|
______2015__|
______2014__|_____________△~◎
______2013__|_____________________△>P(電波)
______2012__|
______2011__|
______2010__|_______________×
______2009__|_______________________×
______2008__|×
______2007__|______×~△
______2006__|______________△~◎
______2005__|__________________×->×
______2004__|△
______2003__|_________△
______2002__|_________________△
______2001__|__________________×->P
______2000__|__×
______1999__|__________△
______1998__|_______________×~△
______1997__|____________________◎->×
______1996__|__△______________________________×
______1995__|________×~△
______1994__|__________________◎___
______1993__|____________________×->×
______1992__|___△
______1991__|___________△
______1990__|___________________◎
______1989__|_____________________◎->×
______1988__|
______1987__|____________◎
______1986__|____________________◎
______1985__|______________________×->P
______1984__|____×______________________________×
______1983__|____________×
______1982__|_____________________◎
______1981__|_______________________×->×
______1980__|_____△
______1979__|___________△~◎
______1978__|_____________________◎
______1977__|________________________◎->×
______1976__|
______1975__|______________◎
______1974__|______________________◎
______1973__|________________________△->P(薮保男氏)
_____________└──────────────────────
____日本での日付け1月_4_______4_______4_______4_______5
____太陽黄経__(1950)272.2_____.45______.7______.95____273.2
____記号:◎:旧ZHR60以上__△:旧ZHR約50__
_________×:旧ZHR約20____P:未確認ピークあり。
_________(旧ZHRの方が、今のより1/2程度で小さいです。)

上の図でプロットが四年ごとのパターンなのは、1恒星年が、
365.25・・日のため。後になるほど左に流れているの
は、小数第三桁目から、・・636日になって0ではない為
です。なお2000年はグレゴリオ暦はうるう年。1998
年から木星の引力が、日本で見えるはずの流星物質を、予め
”掃除(はきちらし)”でくれており、西暦4で割り2余り
年では、少なくなりました。
2025年1月4日未明は、”藪保男の肩”変化曲線となり、
次回の西暦を4で割り1余る年も、比較的堅調だと見られま
す。(2021/01/04の2)

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茨城県の平安時代遺跡より仲人墨書土器(長さん)

今回は表題のように、茨城県石岡市鹿ノ子の
鹿の子C遺跡で、西暦1980年前後に発掘
された、墨書土器について書く。この発掘で、
跳び抜けて色々な字が書かれた土器が、出土
したらしい。
 仲人や中人と書かれた土器があり、スパイ
の意味で注人を使った平安時代には、中世の
争議調停役に関連した、仲人は居なかったの
ではないかという、本ブログの以前の論に、
疑問を投げかける事になった。では紹介する。
 情報は、これもpdfファイルの形で、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に掲載されていて、web
上で確認出来る。
写真が記載されているのは、以下のpdfファ
イルである。
16568_5_鹿の子C遺跡.pdf
 中人の方は、私には写真が未確認だが、仲
人は、このファイルにPL165と記載され
た、写真”墨書土器”の2枚目の左上にある。

鹿の子C遺跡仲人.gif

成立が何時なのかについては、次のpdfに、

平安時代

との旨の記載が有る。
16568_3_鹿の子C遺跡.pdf
 発掘が西暦1980年前後である事は、
pdfについての分冊のトップのファイルに、
発掘経過が記載されている。
16568_1_鹿の子C遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告書第20集 
常盤自動車道関係埋蔵文化財発掘調査書5 
”鹿の子C遺跡”、西暦1983年3月、
(財)茨城県教育財団
 16568_1に当る、トップのpdf分冊に、
問題の遺跡は、”古代に常陸国府、茨城郡衙
が有った場所で、現在の石岡市街地を中心と
する古代集落の領域内”との旨の説明がある。
 16568_3に、中人は古代官職(私は未確認)
名ではないかとの旨が記載されている。
本ブログの見解と異なり、平安時代に平将門
の居た場所に、スパイの注人だけでなく仲人
も居たらしい。ちなみに本ブログで2017
年8月11日頃、注人の文献で知られたもの
の出典が、平将門の乱に関する文書である事
を、注人が平安時代に、スパイの意味である
との旨の説明の際、うっかり私が書き忘れて
いたようだ。ここで遅ればせながら補足して
おく。何れにしても。

よって、平安大将棋に仲人が無い理由につい
ては、継続して理由を再調査する必要

が有りそうだと、今回の調査で判って来た。
(2020/01/04)

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神鳥谷曲輪角行駒は天童草書体銀将なのか(長さん)

以前、近世の遺跡だが近代の遺物も、河川
に流されて混合すると説明した、静岡県
三島市の青木原遺跡で、成りが龍王の、
天童草書体の飛車駒が、発掘されたとの旨
を述べた。
 ところで天童草書体は、西暦1950年
代に成立とされる。しかし、青木原遺跡は
近世からの遺物を連続的に含むとされるの
で、これだけ見ると明治・大正期の天童草
書体の不存在は曖昧であり、別な証拠が必
要である。つまり天童の吉田大八時代、西
暦1864年のあたりには、絶対天童駒に、
独特の書体が無かったと、証明するのは、
少なくとも私には無理だ。
 他方、本ブログでは繰り返し紹介してき
たが、神鳥谷曲輪遺跡の出土駒は江戸時代
末が成立の上限(新しい)である。神鳥谷
曲輪の廃寺の青蓮寺の消滅が、明治維新で
ある事が、こちらの方はかなり正確に判っ
ているからである。よって、表題の遺物と、
天童草書体とは

ほとんど接点が無いのは確か

なのだが。今回はしかしながら

神鳥谷曲輪駒が、天童草書体銀将で無いか
どうかを、厳密化の為一応チェックした

ので、その報告をする。結論から書くと、
神鳥谷曲輪遺跡で西暦2007年春に発掘
された

出土駒が、銀将である可能性は無い。

では、説明を開始する。
 以下は、天童草書体の銀将の書体と、問
題の、栃木県小山市神鳥谷(天神町との境)
曲輪駒とを並べて比較したものである。左
が天童、右が栃木県小山の神鳥谷である。

天童神鳥谷角行比較.gif

 天童草書体の銀将は、角行のように見え、
天童駒だけの特徴である。他にこのタイプ
の紛らわしい書体が無い事は、増山雅人著
の”将棋駒の世界”、中央公論新社、
2006年に説明が有る。
 そしてこのケースは、神鳥谷曲輪の20
07年出土駒の墨書で、

行の字が、良く保存されていたのが幸い

であった事が、上記の比較図から良く判る
と思われる。

行ニンベンが、草書体天童駒ではニンベン
のように書いてから、跳ね上げる”将”の
偏なのだが、出土駒が、本当はそうであっ
た可能性がほぼ無い

のである。
 このケースは、その為、出土駒の1文字
目で角か草書体天童の”銀”かが曖昧であっ
ても、たまたま2文字目が、行であって、
将ではないと、確定出来るケースだったよ
うに思われる。蛇足だが、普通の”角行”
も、こうやって天童草書体と見分けるしか
無い事が、前記の”将棋駒の世界”を読む
と、更に角行に近い天童銀将が出ているの
で判る。
 天童駒には日本将棋の字以外に、将棋専
用の創作草書体を使うという話は、今の所
無い。”銀行”と天童草書体で書いた文書
は、無いと見てよいという意味である。
 よって神鳥谷曲輪駒に関して、成りが、
銀将の金である可能性は、ほぼ無くなり、

やはり、日本将棋や中将棋とは、全く異な
るタイプの将棋用の駒である

と結論せざるを得ないという、一つの証拠
が得られたように思われる。
以上で説明は終わる。
 なお、将棋具を専門に取り扱い、テレビ
番組出演等でも知られる、鵜川善郷氏から、
同様の主旨と思われる質問を、個人的に私
はだいぶん前に受けた事が有る。今回述べ
た事は、そのときした私からの返事を、よ
り厳密に、展開した内容というものである。
当時は、中国語の標準の”真ん中棒付きぬ
け角”だという答えで、済ましてしまった。
ラフすぎる答えだったと、今ではその事を、
私は反省している。(2021/01/03)

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