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静岡県藤枝市寺家前遺跡で平安末金に也墨書土器(長さん)

 今回は、静岡県藤枝市の遺跡で、平安末
と見られる、山茶碗出土土器の底裏に、「
金に也」のように見える、はっきりしない、
墨書が書かれた遺物が出土しているという
紹介である。

「金(手へん主)也」が正解の可能性が高い

ようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
21888_1_寺家前遺跡Ⅰ古代・中~近世編.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
静岡県埋蔵文化財センター調査報告第19集
寺家前遺跡Ⅰ、西暦2012年、
中日本高速道路株式会社東京支店・
静岡県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、静岡県藤枝市中ノ合642-1。
遺物が出土したのは、西暦2000年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、本文の墨書土器の項
に、第Ⅲ-1期と書かれているように認識
するが、

発掘報告書にページが打たれていない疑い
が濃い。

アクロバットのpdfのNo.では140
枚目付近になる。なお、第Ⅲ-1期とは、
発掘報告書のアクロバット第235枚目の
pdfページによると、13世紀、平安期
末とみられているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
85:”出土墨書土器4”の第3段目右側
に在り、遺物番号第91番との旨、ナンバ
リングされている。
茶碗の裏面の写真のようである。

寺家前金に也.gif

 上図のように、漢字でいっけんは
”金け也”と読める模様がある。よく見る
と、「け」は、

発掘報告書に書かれているように「法」の
ようでもあるし「に」のようでもあるし、
はっきりしない。

 ここでは「に」と、仮に読んでみている。
第3字目を「師」とみて、発掘報告書では、
「金法師」または「全法師」と釈文されて
いると認識する。第3字目は、発掘報告書
では繰り返すと「師」と読んでいるようで
あるが、

もっと簡単な字で、例えば「也」だろう

というのが、本ブログ独自の見方である。
 すると、日本の将棋の駒で、玉・金・
酔象以外が、金将に成る事を、「金に也」
と書いて示しているようにも見える。
 しかし他の墨書遺物からは、将棋関連の
遺跡との示唆は無い。成立時代からみると、
12世紀なら日本にいわゆる、将棋は成立
しているので、問題は無い事は確かだが。
 その結果発掘報告書に書かれたように、
使用する人間の性格を、記載した可能性が
高いと、本ブログでも疑われ始めた。
 そこでマイクロソフトのimeパッドを
駆使して、第2字目を読むと「に」でも、
「け」でも「法」でも無く、「(手へんの
主)」ではないかという疑惑が浮上した。
そして、その考えに基づいてweb検索す
ると、

身後、金を堆くして北斗を(手へんの主:
ささ)う

という、白楽天の七言古詩『勧酒』の、8
句目がhitした。つまり平安時代末の、

「大金持ち用の杯」の意味

であると、疑えるという事である。
(2023/02/18)

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静岡県島田市上伊太遺跡で明治初期チャンギ仲人木駒(長さん)

今回は韓国のチャンギ駒が疑われる明治初期
成立ではないかとみられる木製遺物で、「仲」
の意味のハングル文字が2文字縦書きされて
いる疑いの有る、正体のはっきりし無い遺物
の紹介である。

隙間を埋めるための建築資材の小片のように
疑え、静岡県三島市に明治時代韓国人が居住
していた事を示している

のかもしれない。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
21893_2_上伊太遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
静岡県埋蔵文化財センター調査報告第26集
上伊太遺跡、2013年、中日本高速道路株式会社
東京支社・静岡県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は、静岡県三島市伊太。遺物が出土したのは、
西暦1999年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第2区の遺構外
で出土したが、発掘報告書の本文第1pdf
の第42ページ付近によると、明治期の半銭
貨幣が共出土しており、幕末から明治時代に
かけて、多分だが明治初期の物品のように、
発掘報告書の記載からは私的に理解される。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
27の最上段左隅に有って、遺物番号第95
番との旨、ナンバリングされている。左右に、
本ブログの見解では左にオモテ面、右にウラ
面の写真が公開され、オモテ面にだけ、墨書
が有るように私には見える。

上伊太韓国仲人.gif

 上図のように、縦にハングル文字で、
「人ト ○丨」と2文字書いてあるように私
は見る。そして韓日辞書例えば精解韓日辞典、
金素雲(編)、高麗書林、西暦1972年の
第474ページ右カラムによると、第1字目
を「人ト」第2字目を「○丨」とする韓国語
は「仲」・「間」ないし「隙間」の意味であ
るという事である。漢字でたとえば「仲」と
書いてあるようなイメージと、考える事が出
来ると私は考える。

チャンギに「仲」という駒は無いので、遊戯
駒や別のチャンギ種の可能性は有るが、チャ
ンギの駒そのものでは無さそう

である。
 なお前記辞書によると、「人ト ○丨」は
多分だが、「さ」に似た音で読むと見られる。

中将棋をチャンギ駒にハングル文字を書いて
作ろうとした可能性は、完全否定はできない

だろう。なお、発掘報告書でも墨書有りとさ
れ、釈文不可能との旨記載されているように
認識する。
 この駒が将棋駒関連と疑われるのは発掘報
告書の第1本文pdfの第41ページ付近の
スケッチ図と説明によると、出土品の材質は
ヒノキで6ミリ前後の厚さの板で、差し渡し
は3センチ位なので、チャンギ駒の寸法に、
近いからである。繰り返すと、発掘報告書の
そのページ付近に、墨書遺物で書いてある文
字は不明との旨、記載されているように、私
には読取れる。
 ただし、駒名の意味に「人」を含んでいる
かどうか、私には謎であるし、「隙間」とい
う意味にもとれ、建築資材で隙間埋め材を、
施工者が韓国人だったので、たまたまハング
ル語で明治時代に、印として書いただけだっ
たという可能性は、否定できないだろう。
 何れにしても、チャンギの出来時期に関し
ては、西洋チェス、中国・シャンチーに比べ
て情報が少ない上に、駒が東北・北陸等の、
日本の海岸に打ち寄せる例が、知られていて、
極端に遅いかどうか謎な為、今回紹介した出
土品については、心にとめて置きたい物品で
あると、私は見ている。(2023/02/17)

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富山県富山市黒瀬大屋遺跡で古代中将棋墨書土器(長さん)

今回は、表題の遺跡で、奈良・平安期の
物品とみられる杯型土器の出土物の裏面
に、漢字で「中将基」と書かれている
ようにも見える遺物の話題である。

「奉中将」と墨書されているのではないか

と疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
21909_1_黒瀬大屋遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。 
富山市埋蔵文化財調査報告94:富山市
黒瀬大屋遺跡発掘報告書、2018年、
富山市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、富山県富山市黒瀬。遺物が出土した
のは西暦2017年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第43
ページ付近によると、遺物はA区の包含層
表土で出土したが、9世紀、平安時代前期
の物であると見られているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
12:”A区出土遺物(6)・B区出土遺
物(1)”の、第3段目の左に有って、
遺物番号第101番との旨、ナンバリング
されている。杯型土器裏面の写真のように、
私には見える。

黒瀬大屋中将棋.gif

 上図のように、縦にかなり大きく漢字で
整った字で「中将」と書かれ、その右に、
「基」か「奉」のように見える模様も有る。
本品発掘報告書に墨書土器との記載があり、
「中□」と釈文されているように、報告書
第43ページ付近から読取れる。私見だが、
欠けているものの、第2字目はかなり鮮明
に、将の旧字のように見える。
 荘園地帯の在地土豪が都の”中将”と関
連し、中将へ土豪が献上品を納める際に、
用いたようにも見える。
 基が碁や棊では無いようであり、9世紀
に中将棋が成立していたとの証拠としては
弱いと、今のところ考えている。富山県が
東国への街道沿いの一帯である等の為、都
の貴族との結びつきが強かった等の事情か
もしれない。(2023/02/16)
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大阪府四条畷市更良岡山遺跡で古墳期仲五角石札(長さん)

今回は、大阪府四条畷市の古墳跡遺跡で、
遊戯盤のような絵と漢字で「仲」のように
読める字が書かれた、五角形の将棋駒型の
札状石小板の出土の紹介である。

呪い用の装飾品

ではないかと疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
21968_1_更良岡山古墳群発掘調査概要.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
四候畷市埋蔵文化財包蔵地調査概報9
更良岡山古墳群発掘調査概要、1981.3、
四条畷市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の「調査に至る経過」に
よると遺跡の場所は、大阪府四条畷市
市岡山4丁目6番地。遺物が出土したのは
同じく発掘報告書冒頭の例言によると、
西暦1975年前後の過去調査の事のよう
である。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第34
ページの記載から、5世紀前後の古墳時代
中頃に遺跡が成立した事が、この発掘の数
年前の四条畷市の調査で判っており、遺物
はそのとき出土した物品の再紹介のように
読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
24:”遺物写真・石製品”の、下段中央
にあり、写真は2コマ有って、互いに反対
である面をそれぞれ1枚のづつの写真コマ
に撮影している。

更良岡山古墳盤仲.gif

 上図のように、五角形の名札のように見
える物品で、同一領域から出土したマガ玉
と、大きさを比べてみると、将棋駒程度の
石板のようである。
 そして、図のように片面に、交差線の入っ
た遊戯盤模様、すなわち「呪いマーク」+
漢字で「仲」のように見える、灰色の模様
が、有ると言われれば、そうにも見える程
度に有るようである。身体飾りで「♯仲」
つまり「魂映せり」の意と読むと的確な、
お守りに類する装飾品が、疑われるように
思う。
 すなわち本出土品は、

渡来人が漢字を書いたもので、五行説は、
大阪府四条畷市付近で、5世紀には既知

であり、中国六朝時代の陰陽五行に基づく、
更良岡山遺跡古墳埋葬者の、呪い身体飾り
なのではないかと私的に疑っている。後に
将棋駒が、この物品の形で好まれたのは、

古墳時代中期には、日本で五行説は渡来人
には、本国の文化だったから、当たり前に
伝来済だったという、事情に過ぎなかった

からではないか。以上のように、本ブログ
の管理人は、従来より私的に疑っていると
いう訳である。(2023/02/15)

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長野県長野市平林東沖遺跡で古墳後横馬墨書杯土器(長さん)

 今回は、長野県長野市の遺跡で古墳時代
後期成立の杯型土器に漢字で、横馬と書か
れているように見える出土物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
22102_1_浅川扇状地遺跡群平林東沖遺跡2.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
長野市埋蔵文化財第138集平林東沖遺跡(2)
2014年12月、長野市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は長野県長野市平林1丁目1038番2。
遺物が出土したのは西暦2014年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第2住居跡
(SB2)から出土したが、発掘報告書第
34ページ付近の(遺物)土器観察表(2)
によると、古墳時代後期の6世紀頃成立し
た物品であると考えられているようである。
 遺物の写真は発掘報告書の遺物写真(図
版)第1の上から2段目の左に在り、遺物
番号第10番との旨、ナンバリングされて
いて、繰り返すと杯型の土器のように、私
には見える。
 
平林東沖横馬.gif

 上図のように、写真の中央に縦にはっき
りしないが、漢字で「横馬」と書かれてい
るようにも見える、模様が見える。
 大局将棋の駒に横牛は有るが、「牛」駒
との対でしばしば作られた「馬」駒の
「横馬」は存在せず、よって将棋とは関係
がないと見られる。
 意味不明であり、恐らく偶然模様なので
はないかと私は考える。(2023/02/14)


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新潟県新発田市蚤取橋遺跡で古墳期横下木片(長さん)

今回は、土器ではなくて将棋駒と同じ材質
の台形の木片とみられる出土物に、両面に
暗い模様が見え、一方の面が漢字と記号で
「横↓」と書かれているように見えるとい
う、古墳時代前期成立とされる物品の、発
掘例を紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
22130_1_蚤取橋遺跡・神明裏遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
新発田市埋蔵文化財調査報告第35蚤取橋
遺跡・神明裏遺跡発掘調査報告書、2008
年、(新潟県)新発田市教育委員会。
 遺物は2箇所の遺跡のうち、最初の方の、
蚤取橋遺跡で、出土したようである。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、新潟県新発田市竹ヶ花字菱川谷地
451・452番地。遺物が出土したのは、
西暦2006年前後の事である。
 遺物の成立年代は、ここで紹介する遺物
は加工木材であり、発掘報告書の第154
ページ付近の記載によれば、出土した加工
木材の一部を試料として炭素14同素体法
により年代測定を行った結果、概ね4世紀
付近の古墳時代前期成立であると結論され
たように私には読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
30:”蚤取橋遺跡の出土遺物(14)”
の上から第2段目、右からも左からも4個
目のちょうど中央に在り、遺物番号第
233番とナンバリングされ、発掘報告書
の遺物観察表では、「用途不明木製品」と
されているとみられる物品である。

蚤取橋横下.gif

 上図のように、頭の出っ張りは無いが、
台形で、将棋の駒に少し形が似ていると
言われれば、そのような物である。
 問題は、薄暗い模様が両面共に写真では
見え、特に上図に示した左の方は「横↓」
と書かれているように、そう言われて見れ
ば、見えなくも無いという程度の影が付い
ているという点にある。
 大きさが縦6センチ、幅5センチ程度と、
発掘報告書のスケッチ図にあり、墨跡の指
摘は特に無い。別の遊具の可能性があるが、

多分だが、将棋駒では無い

と本ブログでは考える。
 表面の模様については、今のところ本ブ
ログの能力では判読困難であり、木材の劣
化汚れに起因する偶然模様の疑いか濃いと
見ている。(2023/02/13)

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沖縄県うるま市平敷屋トウバル遺跡で奈良期山泰墨書土器

今回は、沖縄県うるま市の海岸近くの表題
遺跡で、沖縄県の後期石器時代で本土日本
の古代奈良期。中国の唐代とみられる時代
の土器に、漢字で「山奉」のように見える
模様の付いた出土物が、有るとの旨の紹介
である。

沖縄県の文字史料だとすれば、早期のもの
だとみられる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
22427_2_平敷屋トウバル遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
沖縄県文化財調査報告書第125集
平敷屋トウバル遺跡、1996年3月、
沖縄県教育委員会。
 発掘報告書第1本文pdfの冒頭の抄録
によると、遺跡の場所は沖縄県うるま市
(中頭郡勝連町:当時)字平敷屋小字板武
座。なお、米軍基地のホワイトビーチ関連
の場所のようである。遺物が出土したのは、
西暦1993年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、第3群土器であると
考えられており、沖縄県の後期石器時代。
遺物として、遺跡の中心的時代のもので、
共出土品に同年代のものが多数あり、発掘
報告書第2pdfの本文末尾部第188ペー
ジ付近の記載によると、遺跡自体が有機物
の炭素14同位体法によると、日本の古代、
奈良期の試料が主体との事である。以下、
8世紀前後と仮定して、論を進める。
 遺物の写真は、発掘報告書第2pdfの
後半写真図版部の写真図版第28:”底部
破片土器(3)第4種(52~73)、
第5種(74~81)”の、最上段左から
2番目に在り、遺物番号で出土土器破片の、
第53番との旨ナンバリングされている。
土器破片の側面写真のように私には見える。

平敷屋トウバル山泰.gif

 上図のように、ほぼ中央のやや下に漢字
で「泰」か「奉」のように見える模様があ
り、その左上に、幾分重なって「山」のよ
うに見える第1字目が有って、「山泰」か、
「山奉」のようにも見える。第2字目が強
調されてい無いように見えるので「山泰」
だろうか。大局将棋の駒は泰山で第1字目
と第2字目が逆な為、沖縄県で本土の奈良
期に、大局将棋が存在したという意味では
無かろう。
 うるま市からは、北西に沖縄本島のなだ
らかな山が見えるだけで、現地は貝等の取
れる、海岸近くだったようである。偶然模
様かどうか、はっきりしないと私見するが。
文字史料だとしたら、沖縄県ではレコード
に近い可能性も、これだけ古ければ、多分
有るのではないかと私的に疑う。(2023/02/12)

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茨城県つくば市面野井古墳で古墳期奔王墨書土器(長さん)

今回は、茨城県つくば市の古墳群跡で、
漢字で奉王と書かれているように見える、
壷状の土器が出土しているという紹介で
ある。
 古墳時代の古墳出土の遺物に、模様が
有っても、墨書遺物だと見なされること
が少ないというのが、本ブログの管理人の
個人的心象だが。この土器に、かなり明確
な漢字模様が見えているように思う。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
22440_1_面野井古墳群.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第391集
面野井古墳群、西暦2014年3月、
茨城県土浦土木事務所・公益財団法人
茨城県教育財団。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、茨城県つくば市面野井789-6。
遺物が出土したのは、西暦2012年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第28
ページ付近によると、以下に話題にする
遺物は、第13号墳墓より出土し、墳墓か
ら出土した土器の形から、4世紀の中頃、
古墳時代の前期と考えられているように、
読取れる。古代よりかなり、前に成立して
いる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版(
PL)第9番の最下段に在り、写真に、
第13号墳墓の遺物番号第18番との旨、
ナンバリングされていいて、壷のような形
の古墳から出土した土器のように、私には
見える。

面野井奔王.gif

 上図のように、第1字目が、やや不明確
ではあるものの、漢字で”奉王”と明らか
に読める、ややぼやけた灰色の模様が存在
する事が判る。
 関東の茨城県のつくば市付近に弥生時代
から、さほど下っていない時代に現地の有
力者に、識字の出来る大陸からの渡来人が、
何らかの引出物を差し出したように、私に
は見える。古代よりはかなり前の古墳から
の出土物であるが。本品も墨書遺物ではな
いのだろうかと、個人的に疑っている。
(2023/02/11)

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宮崎県宮崎市古城第2遺跡で奈良末金兎刻書土器(長さん)

 今回は、宮崎県宮崎市の日向国分僧寺
向けの瓦を生産した集落とみられている
表題遺跡で、「金兎」ないし「金鬼」と
も読めるような、高杯型刻書須恵器土器
が出土しているとの旨の紹介である。

「金鬼」だと、本ブログでは考える。

なお、発掘報告書で刻書が指摘され、
「金光」と釈文されている。説明による
と発掘報告書「まとめ」第323ページ
付近に「金光」であり、国分僧寺の正式
名称である金光明四天王護国之寺の第1~
2字目であると、解釈が記載されている。
 遺物の写真がweb上に公開されてい
て発掘報告書に載っている。発掘報告書
が奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース全国遺跡報告総覧に、登録・公開
されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
22484_1_古城第2遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
宮崎市文化財調査報告書第103集
古城第2遺跡、2015年、宮崎市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場
所は、宮崎県宮崎市佐土原町上田島。
遺物が出土したのは西暦2011年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書「まと
め」の第326ページ付近によると、
刻書土器であり、遺物番号第455とナ
ンバリングされている。そして以下紹介
するその遺物は高杯型土器であり、
8世紀後半から9世紀初の奈良時代末の
成立と考えられているように、読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
35の上カラムの、下段中央に在り、繰
り返すと、この発掘での第455番との
旨、ナンバリングされ、杯型土器の裏面
の写真が、発掘報告書に載っているよう
である。

古城第二金兎.gif

 上図のように、第1字目がはっきり
「金」と読めるように思われるが、

3文字以上書かれた短文の、頭2文字で
は無い

ようである。「銀兎」に近い「金兎」
ないし「金鬼」と読むと、江戸時代の、
和将棋の駒名をも連想させる。私見では、

金光明四天王護国之寺へ納める鬼瓦の略

で「金鬼」と書き、瓦への「魂入れ」の
祭祀に使用した杯が疑われるが、どうで
あろうか。発掘報告書の解釈から想起さ
れるように、宗教施設へ物品を納める為
に用いるアイテムと見て、一応の矛盾は
無いように私も考える。(2023/02/10)

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千葉県千葉市昭和の森遺跡群で奈良期泰山墨書土器(長さん)

今回は、千葉県千葉市の昭和の森遺跡遺跡
群で「大社也。奉山、仲人」と記載されて
いるように見える、たぶん奈良時代の杯型
墨書土器出土の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
22567_1_千葉市昭和の森遺跡群Ⅰ.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
千葉市昭和の森遺跡群荻生道遺跡、2004年、
千葉市教育委員会・財団法人千葉市教育振興財団。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所
は、千葉県千葉市緑区小食土町752・
745・717。遺物が出土したのは、
西暦1976・1983・1987年の
何れかで、多分1976年前後である。
 遺物の成立年代は、遺物は第24号住居
跡で出土したが、発掘報告書第154ペー
ジの記載によれば、土器の形態から8世紀
中頃の奈良時代と推定されているように、
読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
35の第2段目右に在り、遺物番号で第
24・25号住居跡の第3番との旨、ナン
バリングされている。杯型土器の底の裏面
写真のように、私には見える。

昭和の森泰山.gif

 上図のように、中央のやや右に「大社也」
と縦に記載されているように見える、灰色
の模様がやや目立ち、更に、左端に縦に
「仲人(なこうど)」と記載されているよ
うに読める。そして、表題の泰山に近い
「奉山」は、その中間に挟まり、不明解だ
が、そう読めると言われれば、その程度の
模様である。なお2文字「奉山」ではなく、
「奉山山寿」かもしれない。「泰山」の可
能性は少なく、大局将棋とは直接には関係
し無いだろうと考える。「大社」と読める
模様が有るので、婚礼の杯が連想され、
「仲人」は将棋の「ちゅうにん」とは恐ら
くだが関連せず、奈良時代に日本の将棋が
成立していた証拠では無いとみられる。
 繰り返すと、奈良時代の婚礼用の杯土器
が疑われるように私見する。なお発掘報告
書には「大賀」かと釈文され、その可能性
も有ると私も思う。その場合も祝杯用の土
器と解釈できる疑いも有ると、私は考える。
(2023/02/09)

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