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(コラム)尖ったもので目を傷付けた(長さん)

最近、軽い眼の外傷に見舞われ、

罹病している期間だけ、老眼が消失

という奇妙な体験をした。
 草木の鉢植えで、冬眠中のモミジアオイ
という小鉢に植えたものを移動していると
き、枯れ枝の先で、左目をうっかり突いて
しまった。その日の

昼過ぎであり、全治1晩の怪我であった。

この記事は翌日に、自覚症状がほぼ、無く
なった時点で書いている。
 モミジアオイの冬枯れ株の群の写真を、
下記に示す。

SD_Video_モミジアオイ冬鉢.gif

 上記のように、写真には28鉢有り西暦
2022年梅雨頃発芽。咲かずに冬越しし
た個体群であり、成長不足で丈40cm程。
全部枝が一本しか無く、根元近く以外枯れ
ていてワラ位の弾力性が在り、手で折れる。
先が尖っているが、指で簡単に折れ曲がり、
歯ブラシの毛位の硬さである。
 写真のように先端が尖っているが、極端
では無い。本当は、生きている、根元の緑
部分の少し上から、折って冬季には管理し
ないと、翌年の葉の付いた新枝を細くする
原因になり、

上の写真は実は管理の仕方が悪い例である。

 めんどうなので、処理を忘れただけであ
った。硬く無いので、枝が尖がっているが、
注意しなかったのは、結果から見ると、
かなりまずかった。
 邪魔なので、コンテナに入れて持ち運ん
でいるときに、一本の枝先が角膜を突いた。
ピリッとした感じで、痛んだがそれほどで
もなく、突いた左目の充血は、右目と比較
して、1時間後に僅かに赤くみえる程度。
 夕方になり、街路灯を見ると、左目で見
たときだけ、左側にハレーション(暈)が
見えていた。シンナーで、角膜をやられた
ときに似ている。眼鏡を掛けるとパソコン
の画面が、左目だけボヤケるので焦ったが、
もっと驚いたことに、

眼鏡を外すと、左目だけ細かい字が読め、
遠視(老眼)が一時的に無くなっていた!

反射体を見ると、2重に見えるので、遠視
が乱視に変わっただけで、怪我に感謝は
出来ないが。
 もちろん昔は老眼ではなかったから、左
目だけ若い頃に戻った不思議な感覚だった。
 遠方の視力の低下をさほど気にしない、
天体観測等には無縁の生活でかつ、乱反射
が無ければ、webにも「レーシック手術」
という名称で出ている

角膜の治療で遠視を治すのも、有効なよう
だと、左片目の像を見てそのとき納得した。

 残念ながら(?)眼科の治療と異なり、
単に怪我でそうなった場合は、角膜表面の
再生力で、この一時的な組織の変化は、直
ぐに元通りになってしまう。現に

翌朝目が覚めると、老眼の左目は元通り、
右目と同じになってしまっていた。

 今も傷は多分残っているが、炎症自体が
治まってしまったのだろう。コロナ対策に
購入した簡易ゴーグルをつけて、外出する
ときには、目に雑菌が入らないよう、ここ
数日は注意し、様子を見ることにした。
何か起こったら糖尿病のテストで以前厄介
になった、我が街の眼科へ行こうと思う。
 子供の頃、親や祖母には、先の尖ってい
る物品を、取り扱うとき、「目を突かない
ように」と、私はよく言われたものである。
 最近は物品がマスプロ化して、園芸植物
のモミジアオイのヒコバエを、捨てずに飼
うという特殊な生活でもしない限り、目を
突き易い危ない事物には、余り出会わなく
なり、注意する保護者も減ったようだ。
 それに、若い頃には、そもそも老眼では
ないから、目と接触するまで異物に気が付
か無い事も余りなかった。いまどきは子供
より老眼の年寄りに「尖った事物・物品で
目を突くな」と、注意した方が良いに違い
ない。
 目を突いて眼病になり、京都から九州
福岡県太宰府に治療に行った人物としては、
西暦1014年暮れ頃の、藤原隆家が知ら
れている。幸い軽かったようだが私も、恐
れおおくも貴人の藤原隆家と、今回同じ
タイプの怪我をしてしまった。
 それにしても怪我をしたら体が悪くなる
というなら普通だろうが。慢性の持病が、
半日だけだったが、治ってしまったという
のも、不思議な体験ではあったと思う。
(2023/02/08 その2)

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千葉県千葉市黒ハギ遺跡で古代宍→猪走墨書土器(長さん)

今回は、千葉県千葉市で古代に官衙勤務
の者が居住したとみられ、「宍走」と、
発掘報告書で釈文された土器が複数出土し
ているとの旨の紹介である。

「猪の肉を奉納」と、無理やり解釈すべき

とみられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
22580_1_千葉市土気東遺跡群調査概報.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
千葉市土気東遺跡群調査概報:
黒ハギ遺跡・奥房台遺跡・五十石西遺跡・
五十石遺跡・北河原坂第1遺跡
長塚遺跡・上塚遺跡・
文六西第1遺跡・文六西第2遺跡・
文六東第1遺跡・文六東第2遺跡・
宮台遺跡、西暦2009年、
(千葉県)千葉市土気東土地区画整理組合・
財団法人千葉市教育振興財団。
 ここで話題にする遺物は、このうち、
中心的な遺跡とされている、黒ハギ遺跡で
出土したとの事である。なお、黒ハギ遺跡
では、複数種類の墨書土器が出土し、発掘
報告書の見解では、墨書遺物は黒ハギ遺跡
でしか出土して、い無いとの事である。
 発掘報告書末尾の抄録によると黒ハギ
遺跡の場所は、千葉県千葉市緑区土気町
270番地。遺物が出土したのは、西暦
1997年から2008年の間との事で
ある。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の抄録の
要約によると、文字資料は古代の遺物と
解釈されたようである。集落跡は7世紀、
古墳時代末から存在すると見られているよ
うに発掘報告書第75ページの「まとめ」
から読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の第51ペー
ジの”文字資料墨書土器その他2”の最下
段の中央に有るものを、下に掲げる。
「黒ハギ出土物の第1091番」とナンバ
リングされ、第12号住居跡で出土したと、
図の下部に付記されている。杯型土器の破
片の裏底を見ているように、私には見える。

土気東猪走.gif

 上図のように、「永主宍走」と、発掘報
告書で報告者から釈文されている。宍走の
部分は、専門家に鑑定依頼したようである。
 実は、発掘報告書に、第1~2字目だけ
の墨書土器がもう一枚。第3~4字目だけ
の墨書土器が、9枚前後掲載され、遺物
観察表から特に後者の実数は、更に多いよ
うである。
 釈文は、私にも「永主宍走」と読め正し
いように考える。が、

意味不明である。

「宍」を「猪の肉」と解釈すると、猪走の
逆が「走猪」で、大局将棋の駒に有り、将
棋と関連するのだが。「水主宍足」と無理
読みした上で、第3~4字目が「宍足」だ
と、仮にすると将棋には関係無い事になる。

付近、後のゴルフ場隣等の沼の主の龍神に、
猪の肉を焼いて納め、奉るという、祭祀用
の土器

という意味なのではないだろうか。
 明快にこのケースは、第2字目は「走」
だが。「足」と、病気の回復祈願の為とみ
られる「呪い土器」に書かれた、土部分が
口と置き換わった土器の字の書体と、雰囲
気が一応似ているとは思う。
 一例の解釈としては、長岡京の時代に、
「大友永主は無能である」と、千葉県で
語った可能性も無いとは言えないが。複数
の「無能」土器を家内で作成するというの
もそもそも意味不明だと私は疑うので。
このケースには、水神への祭祀用土器であ
る可能性も、完全には否定出来ないのでは
ないかと私見する。(2023/02/08)

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鹿児島県南さつま市馬塚松遺跡で縄文早奔馬墨書土器(長さん)

今回は、鹿児島県の遺跡で縄文土器の破片
であり、発掘報告書によると早期縄文時代
成立とされた出土遺物に、漢字で奉王馬と、
書かれているように見える、物品があると
の旨の紹介である。

弥生時代の遺物も出土しているので、墨書
の成立は、紀元前後のものであるものの、
相当に早い時期の墨書であると疑われる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファィル名は以下の通りである。
22763_1_農業開発総合センター遺跡群馬塚松遺跡・市堀遺跡・大門口遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(97)
馬塚松遺跡・市堀遺跡・大門口遺跡、西暦2005年1月、
鹿児島県立埋蔵文化財センター。
 遺物はこのうち、最初の馬塚松遺跡で、
出土したようである。互いに数百メートル
離れていて、関連性はないようである。
 発掘報告書冒頭にある報告書抄録による
と遺跡の場所は鹿児島県南さつま市金峰町。
遺物が出土したのは、西暦1998年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、写真図版で縄文時代
早期の部分に掲載され、発掘報告書第11
ページの記載によれば、縄文時代の早期土
器が出土する地層第Ⅲ層から出土し、側面
がわずかに残り、そこに縄文が検知される
ので、縄文時代早期と解釈されたように、
読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第7:
”(馬塚松遺跡)縄文早期出土土器(2)”
の最上段右に在り、遺物番号第26番との
旨、ナンバリングされている。土器の底部
の破片を、内側から見ているように、私に
は見える。

馬塚松奔馬.gif

 上図のように、漢字で「馬」のように見
える、灰色の模様が在り、その上に「上」
か「王」か「山」、更に上に、「奉」のよ
うに見える模様が、薄いが何かあるようで
ある。

漢字で「奉王馬」・「奉上馬」ないし
「奉山馬」と書かれている

ようにも見える。
 縄文時代早期とすれば、漢字そのものの
成立していない時代のものとなる。写真は
側面のササクレが僅かに見えているものの、
内側から撮影されているためか少なくとも
本ブログの管理人には、

縄文土器の破片ではなくて、弥生時代の土
器が、深く埋まったようにも見える。

 何れにしても、渡来人しか漢字を書かな
い時代のものであろう。、漢王朝時代の渡
来中国人が鹿児島で放牧をしており、中国
へ、駿馬を献上する際に付帯させる遺物と
いう意味のように私的に解釈し、渡来人の
存在についても疑っている。(2023/02/07)

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静岡県梶子北遺跡で奈良期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、静岡県浜松市の遺跡で、平安期
に「牧」の存在を連想させる、漢字で
「奉馬」と書かれたように見える、土器
遺物出土の話題である。
 以前浜松市の宮竹野際遺跡から出土した
龍馬墨書土器に関し以前このブログで「こ
の近辺に、牧の類が存在する疑いがある」
との議論をした事があったが、それを支持
するという内容である。
 なお、近隣の梶子遺跡では、「卆」墨書
土器が複数出土していて、イスラム
シャトランジ関連ではないかと、疑われた
事もある。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
22801_1_梶子北遺跡Ⅱ.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
静岡県浜松市梶子北遺跡Ⅱ、1999年
12月、財団法人浜松市文化協会(当時)。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、静岡県浜松市西伊場町2248-1。
遺物が出土したのは、西暦1999年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は”調査区西半”
で出土したが、発掘報告書第8ページの記
載によれば、甕型土器の小破片とみられて
いるようであり、7世紀~8世紀の飛鳥期
から奈良時代のものとされているように、
読取れる。宮竹野際遺跡の龍馬墨書遺物が、
奈良期であるから、同じ頃のように私見さ
れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
4:”出土土器”の上カラムの”調査区
西半”の、最上段右に在り、土器出土品の
第12番の意と見られる旨、ナンバリング
されている。

梶子北奔馬.gif

 上図のように、一見して濃い煤模様が在
るが、字は曖昧である。第1字目は”奉”
とも読めそうであるが、第2字目は、左側
と左下の黒い破片の模様はヨゴレだとして、
”馬”と書いてあると言われれば、そうも
見えるという程度である。

ひょっとすると、浜松近傍に牧場が在って、
朝廷に献上する馬に付帯させる、水桶の甕
たったかもしれない

という程度であろうか。龍馬墨書土器と本
「奉馬」墨書土器を組み合わせると、浜松
市付近で馬を飼う牧場が、奈良時代やはり、
在ったのではないかと、おぼろげながらだ
が見えてくるように思う。(2023/02/06)

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群馬県前橋市五代伊勢宮遺跡で古墳期奔金墨書壷土器(長さん)

今回は、群馬県前橋市の古墳時代の遺跡から、
「奉金」等と墨書されているように見える、
壷型土器出土の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
23031_1_五代伊勢宮Ⅶ・Ⅷ遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
五代伊勢宮Ⅶ・Ⅷ遺跡、西暦2018年3月、
前橋市教育委員会。
 発掘報告書本文と写真図版に挿入された
抄録によると遺跡の場所は、群馬県前橋市
五代町952-1。遺物が出土したのは、
西暦2016年前後のようである。
 遺物の成立年代は、ここで話題にする遺物
は第5号住居跡で出土したが、発掘報告書第
17ページ付近の記載によると、この遺跡一
帯の住居跡自体、4世紀の古墳時代前期成立
と、見られているように読取れる。
 遺物の写真は写真図版(PL.)第26の
最下段右に在り、第5号住居跡(H-5号
住居跡)の第3番との旨、ナンバリングされ、
壷型の土器のように私には見える。

五代伊勢奔金.gif

 上図のように、右下の黒い煤の塊の領域に
被ってはいるがその左端の写真のほぼ中央に
近い、下の方に縦に漢字で「奉金」と読める
ような模様が有る。奔金の可能性は薄そうで
ある。
 古墳時代に、地域の有力者に砂金等を納め
たのであろうか。相当に大量に取れたとしか
思えない、大きな容器である。(2023/02/05)

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新潟県長岡市楢崎遺跡で古墳期泰山墨書土器(長さん)

今回は、一見すると、奉山と書いてあるように
見えるが、よく見ると「鬼凶」と書かれている
という、新潟県の遺跡で古墳期成立とみられる
遺物土器破片が出土しているとの旨の、紹介で
ある。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
23176_2_奈良崎遺跡.pdf
発掘報告書の表題は、次の通りである。
新潟県埋蔵文化財調査報告書第116集奈良崎遺跡、
2002年、新潟県教育委員会・財団法人
新潟県埋蔵文化財調査事業団。
 発掘報告書の第1本文pdfの冒頭例言によ
ると、遺跡の場所は新潟県長岡市(三島郡和島
村:当時)大字島崎字奈良崎。遺物が出土した
のは発掘報告書の序文と、遺構の番号とを比較
すると、西暦1998年と解釈できるように、
読取れる。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第77ページ
の記載から、遺物は遺構98SK62で出土し
たが古墳期中期~後期の5世紀~6世紀と読取
れるように認識する。なお、写真図版では遺構
は土溝のように書かれ、年号も1992年の旨
の92SD62に出土場所がなっているが、ど
ちらが正しいのかは、私にはよく判らない。
92SD62に関する説明箇所は、私には発見
出来ていない。
 遺物の写真は、前記で紹介した第2写真図版
pdfの写真図版第384の上から第3段目の
左から第2番目に在り、遺物番号第717番と
ナンバリングされている、杯型土器の破片で、
土器の裏面とみられる写真に模様が有る。

奈良崎泰山.gif

 上図のように、写真の右寄りに縦にいっけん
「奉山」と読んでしまうような、細い線の黒い
模様が有る。
 しかし、第2字目は見直すと

「山」では無くて「凶」である事が直ぐ判る。

 その為、第1字目を見直すと、「ナベブタ」
の部分をヨゴレと見れば、「鬼」が幾分的確だ
とわかり、

「鬼凶」と書かれている疑いがある。

 鬼凶という将棋駒名は無いとみられるため、
将棋に関連し無い遺物と、私には推定される。
 発掘報告書第150ページによれば、5~6
世紀の頃この遺跡は墓地だったとの事で、占い
に関連した墨書遺物であり、詳細を知るのは困
難なものの、祭祀に使用されるように私には思
われた。(2023/02/04)

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茨城県坂東市馬立原遺跡で奈良期泰山等墨書土器(長さん)

今回は茨城県坂東市の表題遺跡で、古代の
竪穴住居跡とみられる場所から、

恐らく「奉馬泰山」と書かれている、墨書
土器が出土している

との旨の紹介である。弥生時代後期に始ま
り奈良期まで続く「山岳崇拝と、馬を『帝』
に献上する祭祀」という流れが、茨城県で
持続されている姿と私見される。
 遺物の写真がweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
27722_1_馬立原遺跡・馬立原西遺跡.pdf
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第402集
馬立原遺跡・馬立原西遺跡。
今回紹介する遺物はこのうち、馬立原遺跡
で出土したようである。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、茨城県坂東市大字馬立字原674-
1等。遺物が出土したのは西暦2011年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は馬立原遺跡の、
竪穴建物跡第5号で出土したが発掘報告書
の第31ページ付近の記載によると、出土
遺物の形態からこの建物跡は、8世紀後半
の、奈良時代後期頃のものと、みられてい
るように読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版(PL)
第13:”(各所の)出土土器”の左下に
在り、竪穴建物跡(SI)第5号の遺物番
号第33番との旨ナンバリングされている。
皿か杯の形の器のように、私には見える。
高台付き杯であると、発掘報告書第33ペー
ジ付近の遺物観察表に、記載されているよ
うである。

馬立原奉馬泰山.gif

 上図のように、中央やや右上の”泰”の
ように見える模様が大きくて目立ち、その
左下に漢字で”山”のように、私には見え
る煤のような模様が在る。そして「泰」の
右下にかなり小さく「馬」とも書いて在り、
その上に煤のような模様があって、無理読
みすると第1字目は「奉」のようでもある。
第3~4字目の「泰山」については坂東市
は、山に接してはいないが。少し遠方に、
筑波山等が見えている。ので、筑波山等を、
「泰山」と言っているように見える。結局
4文字書かれていて、右から縦に読むと、

「奉馬泰山」で、日本での山の信仰が軍馬
を帝王に献上する祭祀と足されて弥生時代
に始まったと、これまで論じた本ブログの
論を、良く支持している墨書内容

のように私見する。奉じる相手が、前漢の
武帝等から日本の朝廷に、はるかに下った
奈良時代には代わっただろうが。中国人が、
日本に渡来したときから続いていると、本
ブログでは疑っている鉱山開発と牧場が並
存する渡来人住居の形からくる習慣が、少
なくとも民間では奈良期にも、日本に受け
継がれて継続していたのであろうと、私的
には疑われるのである。(2023/02/03)

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大阪府東大阪市水走遺跡で古代奔金墨書皿土器(長さん)

今回は、大阪府東大阪市の表題遺跡で、古
代に砂金等を、入れたのではないかと疑わ
れる、漢字で「奉金」と書かれているよう
に見える皿型土器出土の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
30540_1_水走遺跡第4次発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
水走遺跡第4次発掘調査報告、2000年11月、
東大阪市教育委員会・財団法人東大阪市文化財協会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の
場所は、大阪府東大阪市水走・川中。
遺物が出土したのは西暦1994年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、ここで今回話題とす
る遺物はB-2地区第4河川跡で出土した
が、該遺物の形等から、14世紀前半の、
鎌倉時代末から南北朝時代のものであると
見られている旨発掘報告書の第70ページ
の記載から、読取れると認識する。以下、
本物品の成立年代は鎌倉末前後と略記する。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
54の最上段右に在り、遺物番号第306
番との旨ナンバリングされた皿型土器の、
皿の内側底を、上から撮影した上の方の
コマを、以下に問題にする。

水走奔金.gif

上図のように、かなり擦れているが、中央
に縦に、「奉金」と書かれているようにも
見える、灰色の模様がある。
 大阪府東大阪市の現地で、鎌倉末前後に、
砂金等が採取され、末期の鎌倉幕府や南北
朝時代の幕府・朝廷ないし、その時代の荘
園の支配者の何れか等に、それを入れて、
納めるときに用いる容器等である可能性が、
全く否定は、出来ないのではないかと私見
する。(2023/02/02)

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茨城県石岡市東成井遺跡で飛鳥時代行鬼墨書甕(長さん)

以前本ブログでは、表題の茨城県の遺跡で、
”奉納の行事用”という意味での”行”の
字の使い方と見られ更に、同一発掘報告書
に類似機能の大型土器遺物が、計3個有っ
て、それぞれ「奉行」「三行」「行」と墨
書されていると見られる、出土遺物を紹介
した。
 今回は、4つ目として「行鬼」と書かれ
ている、同様の形の大型容器の墨書土器が
有り、酒に酔って”赤鬼”になったと考え
れば、酒の入れ物と推定出来るという紹介
を追加でする。
 遺物の写真はweb上に公開されており、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名と発掘報告書名は、前に
紹介した以下のものである。
51806_1_茨城県石岡市東成井東原遺跡第2次.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
石岡市埋蔵文化財調査報告書茨城県石岡市
東成井東原遺跡第2次、2015年、
茨城県・石岡市教育委員会・株式会社
地域文化財研究所。
 なお、東成井は大字名、東原は字名のよ
うであるが、地番は大字名の後に千番以降
の番号で表示される場所で出土。遺物が出
土したのは、2014年前後であるとの旨
が、末尾の抄録に書かれていたという事で
あった。
 遺物の成立年代については、住居群が、
飛鳥時代から、奈良時代末の間続く場所を
発掘したとの事であり、第4番目の遺物で
あり今回紹介する甕とされる土器は、第9
号住居跡で出土し、飛鳥時代の7世紀初頭~
前半成立と読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
15の最上段左上に在って、遺物番号住居
跡(SI)09の第21番とナンバリング
されている。

石岡市行鬼.gif

 上図のように、右の端に縦に続く模様に
よく見ると文字が隠れており、「行鬼」や
「行兎」のように見える。走兎は江戸時代
成立とみられる和将棋の駒に在るが、将棋
駒風であるものの、上記の「行鬼」や、
「行兎」という駒名は無いので、将棋とは
無関係であろう。他のこの回のこの遺跡で
発掘された、祭祀の行の共通の意図で書か
れた、第4の例なのであろう。
 行鬼の可能性が濃いように見え、酒に酔っ
て、鬼の錯乱を起こすので、飛鳥期にその
ように墨書されたのかもしれないと、私は
考える。甕に入れる液体が以前に本ブログ
で示したように、酒であるという淡い証拠
なのでは無いのだろうか。(2023/02/01)

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