茨城県六十目遺跡龍馬墨書第1字走(長さん)
今回は以前に、茨城県つくば市の古代集落
跡とみられる遺跡から、「盤」と分類され
た出土土器の器物に「十一凹龍馬上」と
複数の文字が書かれているとみられた、
墨書土器の出土を紹介したが、
第1~3字目は「十一凹」ではなく、
「走一口」であると読み直した
という旨の紹介である。また、最左列の、
「上」の下に「者」と、第7字目が書かれ
ているようである。
遺物の写真はweb上に公開されて、
発掘報告書に載り、発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開され、pdf
ファイル名と発掘報告書名は、以下の通り
であった。
18916_2_六十目遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告書第160集
六十目遺跡、西暦2000年、
都市基礎整備公社茨城地域支社・
財団法人茨城県教育財団。
発掘報告書冒頭の抄録によると遺跡の場所
は、茨城県つくば市大字刈間字東浦
1538-1。遺物が出土したのは西暦
1998年前後の事。
遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第104ページ付近の記載から、
9世紀初の平安時代初期と考えられている
との事だった。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
49の最下段左に在り、遺物番号として、
第23住居跡の第9番との旨、ナンバリン
グされている。前記発掘報告書第104
ページ付近によると、墨書土器であり、
盤に分類される須恵器で、「上」と「口
(くち)」の2文字が読取れるという事
であった。
上図のように、左から縦に「走一口
(改行)龍馬(改行)上者」と、少なくと
も7文字で記載され、「速度の速い優秀な
馬を、(都へ)献上する」との意のように、
私見される。なお「走」は異字体なので、
判読に工夫が必要だったという経緯である。
つまり、
第1字目は「十」では無いようだ。
以前述べかつ冒頭に示したように、駿馬
の平安朝等への献上が、古代9世紀初の、
つくば市在の律令集落で行われたようにも
見え、比較的高級な須恵器が、俊馬に添え
られたとの経緯が、画像処理を改善して読
み直すと、今回は以前に比べて、はっきり
と判るようになったと私は思っている。
(2023/03/07)
跡とみられる遺跡から、「盤」と分類され
た出土土器の器物に「十一凹龍馬上」と
複数の文字が書かれているとみられた、
墨書土器の出土を紹介したが、
第1~3字目は「十一凹」ではなく、
「走一口」であると読み直した
という旨の紹介である。また、最左列の、
「上」の下に「者」と、第7字目が書かれ
ているようである。
遺物の写真はweb上に公開されて、
発掘報告書に載り、発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開され、pdf
ファイル名と発掘報告書名は、以下の通り
であった。
18916_2_六十目遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告書第160集
六十目遺跡、西暦2000年、
都市基礎整備公社茨城地域支社・
財団法人茨城県教育財団。
発掘報告書冒頭の抄録によると遺跡の場所
は、茨城県つくば市大字刈間字東浦
1538-1。遺物が出土したのは西暦
1998年前後の事。
遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第104ページ付近の記載から、
9世紀初の平安時代初期と考えられている
との事だった。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
49の最下段左に在り、遺物番号として、
第23住居跡の第9番との旨、ナンバリン
グされている。前記発掘報告書第104
ページ付近によると、墨書土器であり、
盤に分類される須恵器で、「上」と「口
(くち)」の2文字が読取れるという事
であった。
上図のように、左から縦に「走一口
(改行)龍馬(改行)上者」と、少なくと
も7文字で記載され、「速度の速い優秀な
馬を、(都へ)献上する」との意のように、
私見される。なお「走」は異字体なので、
判読に工夫が必要だったという経緯である。
つまり、
第1字目は「十」では無いようだ。
以前述べかつ冒頭に示したように、駿馬
の平安朝等への献上が、古代9世紀初の、
つくば市在の律令集落で行われたようにも
見え、比較的高級な須恵器が、俊馬に添え
られたとの経緯が、画像処理を改善して読
み直すと、今回は以前に比べて、はっきり
と判るようになったと私は思っている。
(2023/03/07)