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青森県青森市上野尻遺跡で縄文晩土奔墨書土器(長さん)

今回は、以前に縄文時代後期後半と成立年
代が飛びぬけて早い、青森県青森市の
上野尻の墨書土器「山奉」を紹介したが、
それに引き続いてその2例目として、漢字
で「土奉」と書いてあるように見えるとい
う遺物が、以前紹介した同じ発掘報告書に
載っているという旨の話題である。

第1字目の上部が切れていて、実際には、
「王奉」と書かれた墨書キュウス型土器

の疑いがある。
 遺物の写真がweb上に公開されており、
発掘報告書に載り、発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名・発掘報告書名・遺跡の
位置・出土年・遺物の成立年代は、「山奉」
土器と「王奉」土器とでまったくいっしょ
である。各々以下の通りである。
pdfファイル名:
34151_1_山下遺跡・上野尻遺跡.pdf
発掘報告書名:
青森県埋蔵文化財調査報告書第258集
山下遺跡・上野尻遺跡、1999年3月、
青森県教育委員会。
遺物は、第2例も上野尻遺跡で出土である。
 遺跡の位置:末備の抄録により、
青森市大字矢田字上野尻54、
発掘調査:末尾抄録により西暦1998年
前後。
 遺物の成立年代:どちらも上野尻遺跡B
地区で出土。青森県の縄文時代後期後葉
(後半)。西洋紀元前後ではないかと私見。
 遺物の写真は第1例とさほど離れていな
い、発掘報告書の図版18の最上段右端に
有り、本文中スケッチ図58の第47番と
ナンバリングされている、キュウスのよう
な形の土器で、全形がほぼ再現できたが、
上部が欠けている。私には縄文時代よりは
新しく、縄文晩期時代成立のように思う。
 この遺物も第1例同様縄文模様が私には、
良く判らない。写真は前面と側面を横から
撮影し、問題の漢字のような模様は下の
方のコマの、側面に在る。

山下遺跡土奔.gif

上図のように、やや右に縦に漢字で土奉
と書いてあるように見え、奔土では無いの
で摩訶大/大大将棋から来てはいない。が、
上が欠けており

「王奉」の意図ではないか

と私的に考える。以前の山奉土器と字の書
き方は、豪快で大き目である点似ており、
組み合わせて考えてみると、縄文文化地帯
への、前漢王朝期に対匈奴戦争対応のため、
武帝等の指示で、武器の原料の鉄鉱石捜索
を目的として本州最北端の青森県の地へも
西日本同様に、中国人が鉱物探査の為渡来
し、結局定住した。そしてその少し経つと、
その中国からの渡来人の一部が、弥生時代
のもとから居した日本人よりも、文明国か
ら来た人間である為、知識人として実力を
持ち、青森県のこの遺跡付近では、長老と
してのし上がり、「王」と評する者も存在
した。
 更にそうしたが中国人に対し、仲間の識
字層が「王」また鉱山捜索の「山の主」と
して他界後も称え、現地の縄文時代後期後
半すなわち西日本の弥生時代中期にその王
が亡くなった際に祭祀を行った結果、それ
に使用する土器が出土したようにも見える。
 帰化人「王」にとって、家来が弥生土器
で貢物をよこしても、晩期縄文土器で貢物
をよこしても、元々が遺族も中国人と意識
された為に差に関心は無く、どちらでも良
かったので、縄文土器に、たまたま墨書の
有る例が、青森県の該遺跡では出土してい
るという事ではないか。以上が私が以前に
も本ブログで表明した事のある解釈である。
上野尻遺跡は、まさに西洋紀元前後の東日
本の遅い時代の縄文土器に、九州北でよく
みられる弥生時代中期の墨書の有る典型例
ではないかと、私には疑われる。
 特に第2例目は、山岳部での鉱脈探査が
得意の「王」・「長老」が、この発掘調査
地点付近に、西日本の弥生時代中期に存在
した事を、以前の山ではなくそれに加えて
「王」の字の墨書として出土したことによっ
て、より鮮明にしたという事になるのでは
ないだろうかと私は疑っている。
 つまり西日本では、そのころ弥生文化が
進行しつつあったのであり、人種に関わら
ず簡単で良く使う漢字である「山」や「王」
は、青森県の縄文後期後半頃には日本全国、
特に津軽半島以南には、浸透しつつあった
のではないのだろうかと、私は依然疑って
いるという事である。(2023/03/17)

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