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茨城県茨城町奥谷遺跡で平安期龍王墨書土器(長さん)

今回は、表題の茨城県東部の遺跡で、
龍王で、第1字目を違えたようにも見え
る、「隆王」と書かれているとみられる、
平安期成立の墨書土器が出土していると
の旨の話題である。
 遺物の写真がweb上公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
18438_2_奥谷遺跡・小鶴遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第50集
奥谷遺跡・子鶴遺跡、1989年3月、
財団法人茨城県教育財団。
 遺物はこのうち、最初の奥谷遺跡で、
出土したようである。両遺跡は川を挟ん
で対岸同士で、子鶴遺跡が別の川の合流
点に現在たまたま在る弥生時代の遺跡。
奥谷遺跡はそれより規模がやや大きく、
縄文時代から中世まで続き、古代は律令
集落だったと見られているようである。
 さて発掘報告書冒頭例言・第21ペー
ジ付近の「遺跡の概要」によると、遺跡
の場所は、茨城県東茨城郡茨城町奥谷字
小柄1105。遺物が出土したのは例言
によると、西暦1986年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第1本文
上巻pdfの、第102ページの遺物観
察表によると、墨書土器であり「隆」の
字が書かれ、第29号住居跡で出土して
おり、第100ページに、平安時代成立
と、共出土した遺物から判断されている
ように私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の第2下巻
pdfに続く写真図版(PL)第117
の第4段目右に在って、遺物番号土器
(P)の第194番との旨ナンバリング
され、杯型土器の側面に、天地逆に漢字
で2文字墨書されているように、私には
見える。

奥谷龍王←隆王.gif

 発掘報告書でも墨書杯型土器と解釈さ
れ、発掘報告書第2下巻pdfの、第
611ページ付近の記載によると、平安
期の成立で、一文字「隆」であり、人名
との旨解釈されているように読み取れる。
上図を見ると、杯を伏せたときに漢字は
正立し、「隆」の右に小さく「王」の字
が有ると私見する。「龍王」と書こうと
して、「隆王」と書いてしまったとも、
解釈できるのではないかと、私は考える。
祭祀用で、付近の幅広の河川部に生息す
ると当時は考えられた、竜神信仰行事の
為の杯か、地鎮で土器を埋める際に、
地下に龍が居ると見て、龍王の意味で、
隆王と書いたのではないかと、個人的
に疑がっている。人名で無いと否定する
のは困難であるが。発掘報告書の、第
612~613ページの墨書土器釈文表
から、「東」と「西」の墨書遺物の割合
が大きく、繰り返すと地鎮の印象が、個
人的には強い。幅の広い河川川岸なので、
水面下や川岸の地下には龍が生息してい
ると、平安時代には考えられたのでは、
ないのだろうか。(2023/03/16)

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