SSブログ

鎌倉の推定南北朝期中将棋木札近傍出土の墨書遺物(長さん)

本ブログでは何回も述べてきた、表題の神奈川県鎌倉
市御成の今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札
は、墨書遺物としては弧立しておらず、
①近傍川跡底から13世紀後半の一文字”え”片口鉢
②地番御成町625番3から14C中”大仏”折敷、
③地番御成町625番3から14C中”花一○”折敷、
が、近傍出土している。
②と③は、御成小学校敷地内に掛るらしいが井戸跡か
ら出たようである。なお同様の、町場の小規模井戸が、
他に3つ、南側屋敷の普通タイプの南隅井戸が、他に
1つあるらしい。これらとは全く別に、北側鎌倉時代
屋敷の井戸は、2つあるらしいが、たいへん豪勢なよ
うに、よみがえる中世3、武士の都鎌倉には、書いて
ある。そして②と③の井戸からの遺物が、西暦
1350年近辺の成立とされている。②と③は、材質
が中将棋木札と同じなため、履歴に類似性が期待でき
るとみる。
 そこで結論から先に書くと、
寺の門前に在ったと見られる花売り商店の、あり合わ
せ折敷で作成された、墨書き木片といっしょの履歴で、
中将棋のゲームバージョン指定札が出土したとみなせ
ると、

中将棋木札の成立年代がやはり、西暦1350年近辺
と特定

できそうだ。
 さて、問題の中将棋木札の成立年の同定は、②や③
の遺物と同じ井戸に、本当に浸っていて、原型が持っ
ていたのかどうか、出土状況の特定に、何らかの発掘
時の事情による不確定性が有るらしく、

実は謎

とされている。
だが、同じ井戸の産物だと仮にすると、どの木製品も、

ゴミ捨て場の掃き溜まりゴミを、14世紀末に町が衰
退し始めた時に、井戸に投げ込んだため、いろいろな
ものの混ざり物ゴミの一つとして共出土してきた物品

のようである。
 そこでここでは、②と③を大事な準共出土品とみな
して、以下に補足説明をすることにしよう。
 その前に①の渥美片口鉢について説明する。この
遺物は、そもそもたいへん立派な物品だ。
 だから中将棋木札と①とは、別系統の感じである。
武家屋敷で鎌倉時代後期に、富豪でも会った時の権力
者が使い飽きたので、川に放り込んで捨てた鉢といっ
た感じである。そこで①は、水場の出土物ではあるが、
木は浮いて流れてしまう川底だし、立派さが違うので、
共出土扱いはしないことにする。
 なお、前に”うさぎとかめ”のカワラケの話をした。
そのとき”乾いた地層から4枚、かわらけが出土した。”
と述べた。中将棋木札の約30年前成立品で、
鶴岡八幡宮境内遺跡将棋駒群の成立と同じ頃のものだ。
実は①の渥美片口鉢と共出土の形で、カワラケ(番号
162~166)5枚が別に出ているという。これは、
中将棋木札より80年前、鶴岡八幡宮将棋駒より50
年程度前の成立の、①の渥美片口鉢と、年代も川底で
ある事もいっしょの遺物のようだ。
 カワラケは、”うさぎとかめ”の仲間の、集成鎌倉
の墨書整理番号、かわらけの156番~159番4枚
と、この162番~166番までの5枚の、合計9枚
が、神奈川県鎌倉市御成町、地番の625番区からは
出土している。むろん、無地のカワラケ、折敷は他に
多数出ているに違いない。
 さて前置きが長くなったが、

残りの②と③が中将棋木札と”ぴたりと同じ時代の物”

であり、重要だ。
 まず②と③の折敷の破片は、鎌倉市の鎌倉考古学
研究所が西暦2017年に発行した、”集成 鎌倉の
墨書”の6木製品(折敷)で、②が224番と、
③が225番と番号が付けられている。西暦1990
年の1月、すなわち、中将棋木札(同書・木製品その
他、313番)が発見された、その約3か月後に、
鎌倉市教育委員会と大学の先生との共同発掘で、地層
面2(上の方)、井戸5で、②、③共に発見されたと、
鎌倉の墨書に記載されている。
 ②の224番の折敷片には、両面に墨跡があるが、
字数は少ない。

一面が”大佛”、その裏面が”口月”

のようにも見える。鎌倉大仏での行事の縁日でも、示
したのか、持ち主が大仏という苗字なのか、私には判
然としない。
 ③の225番の折敷片にも、両面に墨書きがあるが、
②の224番と異なり、たくさん書いてある。私に読
めるのは、”集成鎌倉の墨書”で左下の3文字だけだ。

”・・花一○・・”とも、解釈できるよう

である。
 意味があるかどうか不明であるが、これらを無理や
り繋げると、ひょっとすると

鎌倉大仏の寺に墓参りする遺族用の”仏花金10文也”

といったような、意味なのかもしれない。
 寺院の門前として今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
に、南北朝時代に、ヨロズ屋のような店が有って、盆
や彼岸に仏花を販売していたので、その値札の類へ、
転用した、折敷の破片とも、とれるのかもしれない。
 よって、御成小学校の辺りは、たいへん豪華な

武家屋敷が鎌倉時代末に火事で消失した後、若宮大路
近傍の商店街のような小規模店舗の立ち並ぶ、町場の
店が多くなり、その中に”ゲームセンター”も有った

と考えても、それほどおかしくは無いような、墨書遺
物の出土パターンのように、私には思えてきた。
なお、今小路西御成小学校遺跡のゲーム関連出土遺物
としては”いかさまサイコロ”が、考古学本では良く
紹介される物品である。
 以上の事から、

問題の313号中将棋木札も、②・③折敷破片同様、
神奈川県鎌倉市御成町地番625番区の5号井戸に、
西暦1350年頃をスタートとして、長年浸っていた
と仮定して、議論を進めるしか今の所無い。

前にも書いたが以上のように、私は結論づけたと言う
事である。(2019/06/10)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

今小路西鎌倉市福祉センター木札は平凡社1989本(長さん)

本ブログでは、現物が盗難にあった、表題の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札は、
平凡社が西暦1989年に出版した、汎用成書
”よみがえる中世3、武士の都鎌倉”
河野真知郎執筆、文字のある生活(221ペー
ジ右下)でするように、再三御薦めしてきた。
 今回は別にも写真を発見したが、相変わらず
上記成書の写真の方が、出来が良いので、今述
べた成書の写真で、確認するように御薦めする
という主旨を述べる。
 前に、その”別の文献”については紹介済み
である。神奈川県鎌倉市の、
鎌倉考古学研究所が西暦2017年に発行した、
”集成鎌倉の墨書”の写真である。すなわち
この冊子本の、第6章木製品の、313番に、
縮尺は不明のままだが、問題の木札の写真があ
り、ありがたい事に、

”裏面に墨跡が無い”旨も記載が有る。

だが、編集のとき、外枠を無理に作ったらしく、
結果、主に下部が、

約20%消失している。

 下の図で、左が成書のよみがえる中世武士の
都鎌倉のP211の、文字のある生活の写真、
右が、西暦2017年に鎌倉考古学研究所より
発行された(市場に余り出回って居無い)
”集成鎌倉の墨書”の問題の木札の写真である。

木札画像比較.gif

 左の写真の下の方の、”近くへ行く”の

末尾の”く”と、”上わゆけぬ”の”ゆ”が、
右の鎌倉考古学研究所の集成本では切れている

事が、判るかと思う。運悪く西暦2017年に、
鎌倉考古学研究所本を作成したときに、コント
ラストを上げる画像処理をした結果、本来なら
このように画像を切断すると、”ゆ”の字の、
中央の縦棒が、部分的にはっきり見える、はず
なのだが、”ゆ”の字自体が元々薄かったので、
コントラスト調整の処理で、”ゆ”の字自体が
見えなくなり、画像処理をした作業者に、ミス
が気が付かれないまま、不公正な画像で、冊子
に載ってしまったようだと、比較により判るだ
ろう。
 何れにしても、このケースに限っては、史料
の確認は、汎用で、目下の所あちらこちらで

見かける、平凡社本で出来、より入手が煩雑な
鎌倉考古学研究所本”集成鎌倉の墨書”を敢え
て入手しないと、更に詳しくできない訳では、
特に無い

点を、ここでは強調しておこう。
 なお、現物は無いようだから、それ以上の事
は、今となってはお手上げのようだ。
 ちなみに今述べた、集成鎌倉の墨書編集時の、
木製品313番の画像の劣化の件は、メモで、
鎌倉考古学研究所へ、既に私が伝えた。
 将棋史というと、政治史からは軽視される懸
念もある領域からの、忙しい人間にとっては恐
らく迷惑な”いちゃもん”だろうが。そう言わ
れてチェックし出すと、たとえばこの書籍で、
オモテ表紙裏のトップを飾るカラー写真の遺物、
今小路西御成小学校遺跡の花形出土品、

”結番交名札”の発掘年が、共出土の不成り
金将駒等と同じく、本文中で20年ズレて、
西暦2008年になっている間違い

もこれとは別に見つかるだろう。だから次回に、
鎌倉の墨書が増刷される際には、国宝館行きと
なった、結番交名札の正しい発掘年である、
1988年への書き換えと共に、ついでに、
中将棋木札(南北朝?)の写真も、正しく下の
縁まで写っているものと、交換して貰えるに違
い無いと、このケースに関しては、私は勝手に
期待しているというわけである。(2019/06/09)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

神奈川県鎌倉市より、土将と淮鶏は出土したのか(長さん)

前に紹介した、神奈川県鎌倉市の鎌倉考古学研究所
が西暦2017年に発行した、”集成鎌倉の墨書”
には、天童市将棋資料館が西暦2003年に発行し
た、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”には無い、
鎌倉市若宮大路の鎌倉駅駅前小町出土の王将駒が載っ
ている。その他に3例記載が有るが、将棋駒では無
いと結論される2例について今回は述べる。残りの
”本当の将棋駒”は(2)西暦2002年に鎌倉市
扇ガ谷ニ丁目出土、裏今崩し字”と金”香車駒(南
北朝期)である。さて、将棋駒では無いとみられる
方について述べると、このカタログ書により、

鶴岡八幡宮に近い、雙六盤が出土した事で著名な、
①北条時房・顕時邸跡から、西暦2005年発掘時、
”土口”木片(木のNo.280)が、
②西暦2002年発掘時に、鎌倉市二階堂荏柄で、
第1字さんずい?将棋駒(?)(木のNo.139)
が、出土

していると見て取れる。
 何れも本ブログでは将棋駒では無いと考えるので、
以下に説明を加える。
 なおその結果、前回述べた、(1)1999年出土
の若宮大路鎌倉駅東口駅前(小町)出土の王将駒、
(2)西暦2002年の扇ガ谷ニ丁目出土、
”裏今崩し字『と金』香車駒”(南北朝期)が、成書
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)に、書か
れて居無い出土駒であると、本ブログは認識する。
 では、以下にもう少し詳しく書く。
 まず、北条時房・顕時邸跡出土の土口木片は、五角
形であり、口が鎌倉考古学研究所”鎌倉の墨書”によ
ると、”門”だが、写真が載って居無い。だから、

門は将と解釈すると、摩訶大大将棋の土将にも見える。

ただし、荷札だと疑われるのは、

上部に穴が開いているから

である。また大きさも、やや将棋駒にしては大きく、
裏は無地で奔土に成らない。出土地点が雙六盤の出土
場所で、おまけに五角形なのが悩ましいが、これは、
鎌倉考古学研究所の説の通り

荷札だと、私も思う。

 次に、②大蔵幕府跡の近くの二階堂荏柄で、僅かに
”にすい”のような、”さんずい”のような墨跡の残
る、五角形の将棋駒状の木片が出土している。これに
ついてであるが、

”集成鎌倉の墨書”では、将棋駒に入れている。

”さんずい”として将棋駒をあてれば、摩訶大大将棋
の、”成り仙鶴の淮鶏”駒しか、私には考えられない。
しかし、これについても、

駒の大きさが、将棋駒にしては大きいし、スケッチが
正しいとして、さんずいが、やや巾が広すぎる感じだ。

個人的見解で、正直当てずっぽうであるが、”土口”
木片が、”土門”が土だったのに対し、こちらは”水”
系であって

一文字で”氷”と書いてあった

のではないかという気が私にはする。大蔵幕府跡の近
くの二階堂荏柄で、氷を貯蔵する倉庫のような物が、
鎌倉時代の初期に、ひょっとしら有ったのかもしれな
いと思う。何れにしても、スケッチを素直に読むと、
”さんずい”や”にすい”では、強い駒名のイメージ
が作りにくいので、これが、かなり大振りの将棋駒の
可能性は少ないのではないかと、本ブログでは考える。
こちらも、

上部に穴は無いが、将棋駒では無くて、何かの表示用
の木札だったのではないか。

よって、冒頭に述べた通り、鎌倉考古学研究所、
鎌倉市教育委員会、その他、大学の先生等が発掘した
将棋駒のうち、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に無い
ものは、2枚だろうと、私は考えている。
 ちなみに天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも書いて
ある出土駒だが、スケッチが、別々の2人の研究者に
書かれて、相互間に、かなりの個人差があるらしく、
今小路西御成小学校遺跡1988年出土の、
不成り金将駒の字の捉え方が、天童市将棋資料館
と、鎌倉市考古学研究所の書籍の両者の間で、同じ出
土駒史料に関して、かなりの差が付いている。
前者の方には写真があり、今の所、天童市将棋資料館
の言い分を取って”将も明確に見える”不成り金将駒
としておくしか、本ブログでは仕方が無いと、これに
ついては考える。(2019/06/08)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

(コラム)童話”ウサギとカメ”。鎌倉時代成立の謎(長さん)

集成鎌倉の墨書に今小路御成小学校遺跡

地番御成625番地区の遺物

として、鎌倉時代末とされる、比較的乾いた地層を
中心に出土した、墨書カワラケが4枚程度紹介され
ている。病人が全快を祈願して作成した呪い用とさ
れる、”人面墨書かわらけ”が、比較的有名で、
別の考古学成書でも見かける。だがその他、やはり
呪術用と聞く、格子模様カワラケ(これだけ東の、
少し離れた水場井戸)と、”×/×夜人”(?)と
書かれた字のカワラケが出ている。しかし、それら
よりも、むしろ奇怪なのは、

内面にカメ、外側にウサギの絵が書かれ、童話の
”ウサギとカメ”を連想させる、鎌倉時代末成立の
墨書カワラケが出ている事だ。

 なお、4枚のカワラケは、だいたい同じ時代の成
立で、本ブログでは、中将棋木札より、約30年早
いと見る。
 言うまでも無く、童話の”ウサギとカメ”の
日本への伝来は、戦国時代後期のはずである。
 発掘場所が、端とは言え御成小学校なため、捏造
という言葉も思い浮かぶが、

何のためにする捏造なのか、動機が特に思い当たら
ない。だから恐らくこれ自体は、本物なのであろう。

 なおカワラケは、酒を飲む道具なので、昔は、
このような図柄のカワラケを使って少年も、酒を飲
まされた事を示しているのか、その他の理由なのか、
何れにしても詳しい事情は、判るはずもなかろう。
カメがカワラケの内側なので、注いだ酒を池の水に
例えて、”カメは池に、ウサギは山の中に居る”と
宴会で称した、単なる鎌倉末期の大人の、おふざけ
程度のアイテムかもしれないが。
 近くから出土した別のカワラケや、事実上同じ敷
地内出土の中将棋ルール表示の、中将棋木札札とは、
この”ウサギとカメ”絵付きカワラケは、互いに題
材がバラバラで、私には繋がりが、特に感じられ無
い。恐らく出土地点は、

いろいろなゴミが元々、大量にごちゃ混ぜて捨てら
れている、”街のゴミ捨て場”ような場所

だったに、違いは無いのだろう。(2019/06/07の2)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

従来の鶴岡八幡宮汚れ歩兵駒の裏写真は香車のオモテ(長さん)

前に、集成鎌倉の墨書の鶴岡八幡宮境内出土駒の
写真が、ズレている他人事の話をした。今回は、

別のパターンの間違いなのだが、私も間違えてとん
でもない、勘違いを今までして来た

という旨を論じる。
 結論から言うと、

①汚れた歩兵(5)の”発川”に見えるスケッチの
元写真は、開示されて居無い。
②その対応写真だと従来理解されていた写真は、
不成りの香車駒(3)のオモテ面の写真に過ぎない。
③前に、白駒に見えると指摘した写真は、従来、天
童の将棋駒と全国遺跡出土駒で、
香車駒(3)のオモテ面の写真と称して、公開され
ているものと同じ写真である。天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒にも写真は、従って載っており、集成
鎌倉の墨書で初出では無い。天童将棋資料館本では、
白駒は、はっきりしない。

では以上につき、以下に説明を加える。
 以下は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、写真
スケッチ紹介順序の図である。

勘違い天童.gif

 この図の素直な見方は当然、左から、五角形に見
える部分につき、
汚れた歩兵駒のオモテ写真、オモテスケッチ、
裏スケッチ、裏写真、不成り香車駒のオモテ写真、
オモテスケッチ、裏スケッチ(右端)と紹介されて
いるかに見える。

しかし、これは違う。

 本ブログでは、単純に今まで、汚れた歩兵駒の
オモテスケッチと裏スケッチが逆だと解釈してきた。
つまり、左から、汚れた歩兵駒のオモテ写真、
裏スケッチ、オモテスケッチ、裏写真、
不成り香車駒のオモテ写真、オモテスケッチ、
裏スケッチ(右端)と解釈してきたのである。
 しかし、よみがえる中世3武士の都鎌倉の、鶴岡
八幡宮境内出土駒のカラー写真と、天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒の写真を比べて、

汚れた歩兵駒(5)の裏写真と天童の将棋駒・・に
書いてある写真は、実は不成香車駒(3)のオモテ
の写真、

不成り香車駒のオモテの写真と示されたものは、不
成り香車駒の裏の写真であるのに、さいきんようや
く気がついた。そこで上の図に、正しい解釈と思わ
れるものを、書き込んでおいた。
 つまり、正しくは、
左から、汚れた歩兵駒のオモテ写真、裏スケッチ、
オモテスケッチ、不成り香車駒のオモテ写真、飛ん
で、不成り香車駒の裏の写真、同オモテスケッチ、
裏スケッチ(右端)となっていたのである。
 その結果、
汚れた歩兵駒(5)の成りはスケッチには有りかつ、
飛車ともされるものの、
(1)意味不明であり、金成りだとも、奔何がし駒
だとも判別できない。
(2)金成りないし、奔何がし駒の根拠だと、本ブ
ログで論じた部分は、

香の字の第4画目と第5画目の、続けると”へ”の
字を、本ブログが単に誤認したもの

と考えざるを得ないとの結論に到達した。
 なお、上記の写真の書き込みの解釈でよい事は、
集成鎌倉の墨書で確認できる。すなわち従来、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で”汚れた歩兵駒(5)
の成りの写真”とされたものと、同じく同書で従来、
”不成り香車(3)のオモテの写真”とされたものが、
鎌倉考古学研究所の集成鎌倉の墨書で囲みで、
不成り香車駒のオモテの写真と、不成り香車駒の裏
の写真として、ペアで記載されて居る事からも、
裏付けられる。
 また、前に本ブログで述べた、
不成りとされた香車駒の裏面が、”集成鎌倉の墨書
で初出写真である”というのは誤りで、既に天童の
将棋駒と全国遺跡出土駒で”不成り香車駒のオモテ
写真”として、

誤ってだが、開示されている。

縮尺が違うせいのようだが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の同じ不成り香車駒
の、正しくは裏の写真では、成書で見る限りは、

はっきりと白駒とは読めない。

本ブログで画像を小さく見せると、上記の図のように
白駒と、あいかわらず読めるので、ややこしいのだが・・・
 そして話が代わるが、汚れた歩兵駒の裏のようす
は謎としか言いようのない現状であり、問題が残っ
ている。
 が、何れにしても、
香車駒のオモテ面にある、引っかき傷を良く見て、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で、汚れた歩兵駒

(5)の裏とされた写真が、不成り香車駒(3)
のオモテ面の写真だと、気がつかなかった私は
とんだマヌケだった

と、この件今回は、大いに反省させられたのだった。
(2019/06/07)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

”集成鎌倉の墨書”の鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒情報(長さん)

前に述べた通り、西暦2017年に神奈川県鎌倉市
の鎌倉考古学研究所が発行した、”集成鎌倉の墨書”
により、鎌倉市内の将棋出土駒の情報は、幾分増加
した。今回は、成り奔王鳳凰駒の出土で名高い、
鶴岡八幡宮境内遺跡出土(5駒)に関して、”集成
鎌倉の墨書”の発行によって、判った情報について
述べる。結論から書く。
 不成り香車駒の裏に墨跡が無いとは断定できず、

”白駒”と書いてある疑いが、否定できない。

 以上について、以下に説明する。この件について
は1/3という、かなりの現物からの縮小ではある
ものの、

香車駒の裏の写真が、載っている事から判明した。

これは私にとり、とてもありがたい情報であった。
 なお、問題のカタログを見るとき、以下の点に、
注意してほしい。
 後期大将棋を思わせる不成り歩兵と、本ブログが
推定し、”集成鎌倉の墨書”では133番と
ナンバリングされた歩兵駒の写真と、
 成りが今まで開示された例が乏しかった、同じく
”集成鎌倉の墨書”で135番とナンバリングされ
た、ここで問題にする、本ブログでは、やはり
”後期大将棋を思わせる香車駒”と指摘した写真が、
上下逆になっている。
 つまり、香車の写真は、”集成鎌倉の墨書”では、

誤って、歩兵のスケッチの右横に載っている

のである。
 そこで、歩兵の右の所の、香車の写真を見ると、
オモテに香の字が有るのは従来通りだが、2つ並ん
だ写真の右側の裏の写真を見ると、2文字目の”駒”
の”句”の部分が、薄く有るようでもあり、また、
一字目の”白”も、右にズレている感じもするが、
何かその字が、有るようにも見える。

集成墨書鶴岡香車.gif

 よって、この香車は、後期大将棋系の不成り香車
ではなくて、

典型中将棋駒の、成り白駒香車駒で有る可能性が、
否定できない

ように、私には思える。
 なお、鶴岡八幡宮境内出土駒については、残念
だが”集成鎌倉の墨書”には、駒のどちら面に、
墨跡が有るのか、または無いのか、墨跡構成が示さ
れていない。だから、写真を見て判断するしか、
判断材料は、さしあたり無いように私には思える。
 ただし鶴岡八幡宮出土駒は、鎌倉時代末期の地層
と見られる、第2面第1溝という所から出土したと
いう情報が、”集成鎌倉の墨書”には、明確に示さ
れていた。従って、遺物の成立年代が、

鎌倉時代末期であって、南北朝時代にかかる可能性
が、余り無い

ということになる。
 よって、我々には

成り白駒香車駒は、出現が早すぎる感じがはっきり
判る

ように、カタログには明示されていた。
今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札は、記録が
不鮮明なのか、出土地点の地層が明示されていない。
 ただし、幸運だったが、同類の木片同カタログ
224~5番が、水場として”第2面井戸5”地層
から出土していて、14世紀中葉と確定している。
木札が持ったのは、同じ井戸に浸っていたからだろ
う。やはり、異性庭訓往来著作直前の14世紀中葉
頃成立なのではなかろうか。そうしてみると、
鶴岡八幡宮の境内の将棋出土駒に関しては、他の四
枚に比べて、

 微妙だが、成り白駒香車の成り白駒が、”少し早
く作られ、すぎている”感じが私にはする。

香車の裏の状況については、もう一歩詳しい情報が
ほしい所だろう。
 相当前のことだが私は、栃木県栃木市星野町の
星野遺跡記念館で、斉藤常民氏から、”昔東北大学
の芹沢長介先生が、層順序による、遺物の年代推定
方法を確立した”と、教わった事があった。鎌倉市
の考古学研究所では、今もそれが、綿密かつ正確に、
遺跡遺物の年代の推定に、生かされているようだ。
そのおかげで、将棋史もその恩恵を、次第に受ける
ようになってきたと、私にも今回、この書籍を見て
しみじみと感じられるようになってきた。(2019/06/06)

nice!(2)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

20年前、神奈川県鎌倉市で王将駒が出土していた(長さん)

本ブログでは、平安時代と鎌倉時代については、王将
駒は奈良県を除く近畿地方以外では、これまで出土し
ていないと認識していた。根拠は西暦2003年発行
の”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の記載による。
しかしこの認識が、厳密には間違いだったのに、よう
やく最近になって気がついた。実際には、

西暦1999年に、神奈川県鎌倉市の若宮大路沿いの、
小町1丁目で、西暦1175年~1225年程度成立
の”不成り王将駒”が一枚出土している

と言う事だ。親王将軍の時代どころか、頼朝の時代に
近い時点で、京都の皇族流に、鎌倉の若宮大路沿いで
は少なくとも、王将のある将棋を指し、田舎流の玉将
将棋では無かったようだ。なお、王の横線は等間隔で、
少なくともスケッチの写しが正しいとすれば、比較的
皇族風の、品のいい雰囲気の駒の、マネのように私に
は見える。”摂関と院の争い”という経緯は、鎌倉ま
で京都から離れると、少なくとも鎌倉時代の草創期に
は、”別世界の出来事”だったのだろう。
 発掘は当時、地元鎌倉市の大学の先生グループで行っ
たらしく、報告書が少し後に出たので、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒(天童市将棋資料館の出土駒カタロ
グ集)の編集に、間に合わなかったようである。
 何れにしても鎌倉時代の初期、京都の習慣は、鎌倉
幕府が成立すると、ただちに鎌倉市には入ったようだ。
そこから先の地方へは、王将を使う習慣は、余り広が
らなかったとしか、説明のしようも無さそうだが。ち
なみに、鎌倉幕府の成立に加勢した、北関東の武家に
は、源氏より、平氏や藤原秀郷流等、藤氏系の者が多
いという、事実はあると聞いている。
 なお、上記の情報は、”集成 鎌倉の墨書-中世遺
跡出土品-”(2017)鎌倉考古学研究所編で、私
は最近ようやく知った。本ブログの内容が、学術研究
として体を成しているかどうか、自信は余り無いので、
後追いで、今述べた成書の紹介結果に関しては、まと
めてでも、著作権がらみの許可を取る予定でいる。そ
の他この本には、幾つも新しい知見が載っているので、
追々本ブログでは、述べてゆくつもりで居る。
(2019/06/05)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄、大将棋畧頌26句の謎(長さん)

今回は、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄で、泰将棋の初
期配列の覚え方を7文字づつ40句(合計280文字)
で水無瀬兼成が、漢詩風に書いた著作の第26句目が、

左右非対称駒配列について書いてあるのだが、単なる
配列であるかのように、雑に書いてある理由

についてを論題とする。
”金翅、行鳥、南蛮、狄。”と書いてあるが、これは、

配列順を示して居無い。

最初に正しい漢詩に直して、話を判りやすくしてみる。

①大龍金翅左右対。
②其中古鵄行鳥対。
③東夷西戎蛮狄対。

一句が三句に増えるが、40句が42句になって、相
変わらず合計は偶数だから、正確に書いても問題が無
かったはずである。
 そこで回答である理由を最初に書いて、次いで、
いつものように説明を加える。
②の”其中古鵄行鳥対。”が問題で、実は泰将棋では
なくて大大将棋の配列で、古鵄と左右対称駒が、毒蛇
にしてあるのを、

豊臣秀次に万が一にも、気が付せないための誤魔化し

だったと考えられる。すなわち元々、大大将棋では、

古鵄の左右対駒は、毒蛇でなくて猛鷲だった

と考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 大大将棋には猛鷲が有り、その初期位置は、毒蛇の
位置、かつの成りが有り、斜めに歩める鉤行の動きの、
猟犬等であったろうという説を、本ブログで前に既に
述べている。
 天正遣欧少年使節が欧州へ行き、ヨーロッパの人間
が猛獣狩りという遊びをする事を、日本に伝えた後に、
大大将棋が成立した事を示しているのだろう。しかし
その事が、一般的に言ってバレルと、大大将棋が、
摩訶大大将棋より新しいどころか、将棋纂図部類抄
著作のための作成ゲームである事が、あからさまにな
るので、猟犬成り猛鷲を水無瀬兼成が、オリジナルの
大大将棋から、削除し、毒蛇に変えたのだろうという
推定だった。重要な点を最初に述べると、大大将棋は、
泰将棋製作を事実上、水無瀬兼成に依頼した殿様(水
無瀬のパトロン)である、豊臣秀次も、内容を知って
いたと考えられるという事である。根拠は、それを示
唆する内容が、将棋纂図部類抄の奥付に書いてあると
いう事実があるという点が挙げられる。つまり、

将棋纂図部類抄の大大将棋を、豊臣秀次が良く見たと
すると、自分が水無瀬兼成に紹介した大大将棋を、
水無瀬がほんの一部だが、黙って書き換えている

と言う事になる。豊臣秀次が、大大将棋の古鵄の右対
駒に興味が有るとは、私にはとても思えないのだが、
極めて低い確率でも、ばれれば、話が水無瀬兼成にとっ
て良い方向へは行かないと考えたのだろう。そのため、
殿様でパトロンである豊臣秀次が気がつかないように、

”②其中古鵄行鳥対。”という句を大将棋畧頌へ入れ
なかった

と私は考える。なお、そもそも古鵄と行鳥が対になっ
ているのは、行鳥と猛鷲を、泰将棋でも入れ替えたか
らだと、考えられる。つまり当初水無瀬は、泰将棋の
成りを、大大将棋に合わせようとして、途中でやめ、
中将棋に合わせる事にしたのであろう。だから、本来
の対駒である猛鷲を、古鵄の対の位置の、行鳥の所へ、
元々は1枚だけ入れて、古鵄を天狗に、猛鷲を猟犬に
成らせるつもりだったに違いない。
 そして現行の泰将棋の、猛鷲の位置には行鳥が左右
で2枚作るつもりだったのであろう。蛇足だが行鳥も、
元々は奔鬼に成らせる、はずだったのかもしれない。
 以上の事から、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄、泰将
棋を意味する”大将棋”畧頌の第26句で、”金翅、
行鳥、南蛮、狄。”と、配列順を書いているように、
ゴマ化しているのは、

”古鵄と対”という文字を、豊臣秀次には見せない為

であると、私は考える。水無瀬兼成は、当然かもしれ
ないが、時の権力者との関係で自分に、ほんの僅かで
も不利益が無いように、細心の注意を払って、事を進
めていたという証拠の一つと、これは言えるのではな
かろうかと私は思う。(2019/06/04)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

水無瀬兼成将棋纂図部類抄の”立馬畧頌”は水無瀬作(長さん)

将棋六種之図式にも転載されているが、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄に、摩訶大大将棋の初期配列を
記憶するために作成されたと、通常見られている、
表題の立馬畧頌という、漢詩の字列を連想させる、
七文字組で続いた、28句の詩文が存在する。今回
は、その著作者が誰なのかを論題とする。
回答と根拠を先に書く。

水無瀬兼成の疑いが強い。

12句目に、”走馬与利、立(二)于端(一)。”
と、書かれているが、

実際と合って居無い。泰将棋と摩訶大大将棋が、
ごちゃ混ぜであり、泰将棋の作者が書いたみなせる

からである。
 では、以下に説明を加える。
 摩訶大大将棋に関する立馬畧頌を読むと、問題の
箇所は、無いと27句になってしまい、奇数句の詩
になるのが見苦しいので、後で加えたように見える。
が、作者は、

摩訶大大将棋の端列に、車句の類だけが置かれてい
るのではなく、小駒の驢馬が有るのを、うっかり忘
れた

ようだ。実際には、厳密にこの句の通りになってい
るのは、後期大将棋と泰将棋だけである。
後期大将棋の端列に車駒が集められているのが他の、
より上位の将棋種類でも、デザイン上参考にされた
事は、確かと見られる。しかし、摩訶大大将棋では、
桂馬を2升目動き駒に入れて、3段目に持ってきた
ので、端列に、驢馬を、たまたま入れている。
だから現実として、

摩訶大大将棋は、その立馬畧頌のようには、なって
いない。

 他方、本ブログで何回か述べたように、豊臣秀次
の来客室等に泰将棋を飾るときに、お抱えの者が、
事故なく配列できるように、泰将棋の成りは中将棋
程度に、作者の水無瀬が抑えたと考えられている。
 ツジツマが合わなくなったので、大将棋畧頌で、
玉駒を玉将と記載しながら、実際には不成りの自在
王に変えているのが証拠と、本ブログでは以前指摘
した。このような”手直し”は、泰将棋の実際の作
者で無ければ、簡単にはできないからである。
 しかし問題の立馬畧頌を作成するとき、恐らく他
ならぬ、著作者の水無瀬兼成は、摩訶大大将棋の”
立馬畧頌”で、泰将棋デザイン製作時の記憶と混同
して、摩訶大大将棋の驢馬の存在を、うっかり忘れ
たようだ。そのため、問題の第12句目を、偶数化
のため、苦し紛れに付け足してしまったのだろう。
 だから水無瀬兼成以外の人間が、摩訶大大将棋の
立馬畧頌を作成したとしたら、第20句目が、やや
くどいために、それを削除するやり方を、幾らか考
え抜いた末えに、気が付いただろう。その結果、
第12句目の、結論で書いた一節は、そもそも加え
なかったのではないかと、私には疑われる。
 摩訶大大将棋の初期配列図だけしかないとすると
当然だが、泰将棋がそもそも無いと、摩訶大大将棋
を含めて、

”走馬与利、立(二)于端(一)。”は例外が多く
おかしい

ように、見えるはずである。
 よって、将棋纂図部類抄の特に、”出来たて”
泰将棋有っての、摩訶大大将棋の立馬畧頌であり、
その立馬畧頌も、署名のある、

”大将棋(=泰将棋)畧頌”同様、
水無瀬兼成本人の作である可能性が、かなり高い。

以上のように、私は疑うのである。(2019/06/03)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

麒麟と鳳凰の駒ルール。江戸時代記録は信用できない(長さん)

今でこそ、佐藤敬商店が中将棋の6000円のセット
を出し、故大山康晴永世名人等の筆で、中将棋の棋譜
を開示しているので、中将棋の駒の動かし方ルールは、
比較的安定して残っているかに見える。概ねそうだが、
本ブログで前に指摘したように、

麒麟と鳳凰の”飛龍に似ない”ルールは、江戸時代の
百科辞典の中将棋のルールの記載で、反映されている
とは限らない。

個人的には、東洋文庫本として、現代語で簡単に読め
る和漢三才図絵の、麒麟、鳳凰ルールのフレが、

社会的には、最も厄介な問題

だと思っている。麒麟の縦横と鳳凰の斜めが、東洋文
庫本和漢三才図絵では、2升目まで走りになっている
のである。今回は、こうした現状を、どう説明するの
かを問題とする。結論から書く。

専門書を見れば良いという結論には、ならない。

江戸時代の将棋書は総じて中将棋に関して衰退期に
書かれていて、

末期的なフレがある

と考えるべき。
以上が結論であり、以下に説明する。
 状況として、私が知る限り、麒麟と鳳凰のルールが、
佐藤敬商店版”中将棋の指し方”や、中将棋連盟ホー
ムページと整合しているのは、江戸時代本では

中将棋指南抄位

である。和漢三才図絵は冒頭に説明した通りおかしい。

中将棋麒麟.gif

将棋図式(松浦大六氏所蔵)には、シャンチーの象型
に読み取れるように書いてある。中将棋絹篩には、
”合い駒が利かない”程度しか、注意書きが無い。
故大山康晴永世名人は、中将棋の麒麟・鳳凰に関して
は、ざっとみると水無瀬兼成の、将棋纂図部類抄に合
わせているのであろう。なお、どちらも中将棋の専門
書と言えるので、

中将棋絹篩と中将棋指南抄では、同格だ。

将棋纂図部類抄に権威が無かったら、中将棋の麒麟と
鳳凰の駒の動かし方ルールには、現代ではフレが生じ
ていた事だろう。
 以上の結果から概ね中将棋は、江戸中期以降には、
普通の日本将棋に押されて、世継ぎが絶えて皇族が、
跡目を継いだりした公家が、玉将の有る中将棋を指さ
なくなると、中国シャンチー等の文化の流入もあって
それらと溶け合い、どちらかと言うと”西洋チェス
の香りが元々はした”との旨、日葡辞書に出ている

日本の中世的な中将棋では、次第に無くなってきた

と、認識した方が良いように私は思う。よって、
江戸時代の将棋の専門書だからと言っても、棋譜
を全くチェックしないで、字面でルールを書いている
ルール書を標準にしては危ないと、見た方が良いので
はないかと私は思う。つまり、信用してよいのは、
水無瀬家という公家の家の者で、自身が将棋の棋士の
家系の子孫でもある、

水無瀬兼成からの情報程度

と、他人に伝えた方が良いのかもしれない。つまり、
和漢三才図絵等、江戸時代の史料のルールは、一般に
判りやすいが

中将棋が、やや衰え始めた江戸時代のものなので、
何から何まで信用するのは良くない。

以上の主旨の情報を、web等上では流すべきだと言
う事かと、私には結論される。(2019/06/02)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー