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博多地下鉄敷地発掘調査で鉄将土器出土か(長さん)

前世紀の1987年頃、福岡県福岡市で、
地下鉄一号線と二号線の工事の際博多遺跡
の発掘調査が行われ、墨書遺物が多数出土
した中に、”金ヘンにケ、右下に点”が
第1字、第2字が将にも読めるような土器
が出土したらしい。
 報告書は奈良文化財研究所発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧にpdf
ファイルとして登録されている。pdf
ファイル名は次の通り。
17211_1_高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告Ⅶ.pdf
そこの、

72ページの図の中段にスケッチがある。

図の名称はFig.69L区遺構外(包含層)
出土遺物(1)(1/3)。遺物の番号は、
2219である。発掘報告書の同じく61
ページの下から7行目に、遺物の成立時期
は、鎌倉時代から室町時代の間との旨ある。
大将棋の鉄将の名前を土器に書いた可能性
は二中歴が鎌倉時代早期に成立済みなので

ゼロでは無い。が、ほぼ可能性は無い

とみられる。では更に以下に説明を続ける。
 戻って発掘報告書の表題は以下の通り。
高速鉄道関係埋蔵文化財調査報告Ⅶ博多、
福岡市埋蔵文化財調査報告書第193集、
1988年、福岡市教育委員会。
 そこで以下、問題の遺物の字の解読を
更に進める。なお発掘報告書では何と読ん
だのか。発掘担当者の見解は、今の所発見
できない。
 そこで本ブログなりに調べてみると、問
題の土器遺物の字は、スケッチの字を見る
限り、第1字目は

鉄よりは欽に近い。

最後の画が、擦れているので、右下に点が
最後の部分として見えていると考えると、
ドンピシャ欽だからである。
 また、第2字目は、実際に発掘報告書で
スケッチを確かめられたいが、字の

ツクリが”る”ではなくて、勿を崩した字

である。だから将ではない。スケッチが正
しいとするとより単純に”物”の字に近い。

鉄将ではなくて、欽物であり、都に送る貴
重品を乗せる器という、とんでもないもの

であった可能性が有るようだ。よって

完全否定は出来ないが。この土器に書いて
ある字と将棋とは、余り関係が無い

のであろう。
 何れにしてもこの遺物は博多に、古代か
ら中世、中央から中国との間の交易の推進
の為に派遣された、字の読み書きが出来る
役人層が、いかに多かったかを、今に偲ば
せているようだ。(2021/02/08)

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聆涛閣集古帖戯器の(後期)大将棋の記載特徴(長さん)

以前に述べたように、国立歴史民俗博物館の
文書データベースkhirin-aの以下の
ページに聆涛閣集古帖戯器が登録されている。

https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/reitoukakushukocho/h-1660-44

本ブログの見方では、現存しない
将棋纂図部類抄一巻の写しと見ているので、
記載は貴重である。本ブログは大将棋の
ブログなので、その内容のうち”大将棊”の
記載を特に論題にしておく。
①奔王が前後に走れず
②仲人が横に歩め、
③麒麟と鳳凰が2升跳びルールの方向が曖昧。
④悪狼と嗔猪は後退できず
で、現存する将棋纂図部類抄の巻物とは、

①だけ違う点が特異

と判る。
 では、もう少し解釈を入れる。
本ブログでは、聆涛閣集古帖の著者は、
将棋纂図部類抄の元文献に書かれていない
駒の動かし方ルールは、適宜、他の将棋種の
記載や、著作時代の常識から加筆したと考え
る。そして後期大将棋の奔王のルールについ
ては、常識による加筆と見る。
よって、

書き間違えただけであり、結局、
聆涛閣集古帖、戯器、大将棊に新しい情報は
含まれない

と考える。
 根拠は、将棋纂図部類抄の現存の巻物に、
奔王の駒の動かし方ルールに関する記載があ
るとの兆候が無い、つまり、当たり前なので
水無瀬兼成は、全部省略したと見ると自然だ
と考えるからである。
 次に②については、水無瀬兼成の捺印が
押してある点が謎ではあるが。

現行の水無瀬宮の、将棋纂図部類抄の巻物も、
書写品であるというのが、本ブログの独自の
解釈

である。根拠は、仲人に関する中将棋後、
後期大将棋前の注釈記載”不行傍、立聖目内
成酔象”が、『中央筋後続歩兵の邪魔になる
場合は特例で、駒名意味解釈困難な駒種であ
る注人に関しても成れる』という平安大将棋
、二中歴時代の一般則(『大将棋』末備不明
十字の本ブログ版解釈)の延用の意と、本ブ
ログで独自に解釈しているからである。
 なお、この水無瀬兼成個人が持つと見られ
る知識に関する、カラクリが解読されたのは、
将棋纂図部類抄を前田本で書写したときであ
るとも、本ブログでは独自に見ている。そこ
で以上の経緯によって、本ブログでは、
聆涛閣集古帖が参照した将棋纂図部類抄の巻
物も、仲人が横に歩める、

水無瀬兼成の知識意図を、反映してい無い
書写品であった

と今の所解釈する。すると、
後期大将棋のページに関しては、現存する、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄(水無瀬宮保管・
水無瀬捺印のある巻物)と、

コピーとみなしてよいほど、同じものが、
聆涛閣集古帖戯器を作成する際に参照された

と考えてよいように思える。つまり、

水無瀬宮将棋纂図部類抄巻物と聆涛閣集古帖
戯器の作成元文献巻物とは、摩訶大大将棋の
王子が玉子になる程度の、微差しか無かった
のではないか。

以上のように、本ブログでは依然考えると言
う事である。(2021/02/07)

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聆涛閣集古帖には少将棋から泰将棋までの図有る(長さん)

国立歴史民俗博物館の文書データベースと
みられる”khirin a”に、表題の
聆涛閣集古帖の”戯器”の摩訶大将棋の図
が、その古文書の内容として載っている。
聆涛閣集古帖のHitする国立歴史民俗
博物館のurlは、以下の通りである。
https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/reitoukakushukocho/h-1660-44
 個人的に私だけだったかもしれないが、
将棋種で聆涛閣集古帖に載っているのは、
摩訶大大将棋だけかと思っていた。が

これは恥ずかしいほど、間違った認識

だ。水無瀬兼成の将棋纂図部類抄と、
同じパターンで、聆涛閣集古帖には六将棋、
日本将棋、中将棋、後期大将棋、大大将棋、
摩訶大(大)将棋、泰将棋(太将棋)が、
全部揃って載っている。私はその事を

知らなかったので、今頃になって驚いた。

 なお聆涛閣集古帖の”戯器”の大大将棋
の成りを見ると、毒蛇の成りの鉤行が、
元駒からの鉤行と、動きのルールに違いが
有り、

間違え方のパターンがいっしょなので、
聆涛閣集古帖は、将棋纂図部類抄を真似た

ものだと、はっきり判る。水無瀬兼成が、
別の機会に書いた将棋纂図部類抄に拠って
おり、酔象の成りが玉子と誤字表記されて
いるらしいという論を、本ブログでは以前
にした。
 聆涛閣集古帖の”戯器”は摩訶大将棋の
図だけホイと渡されると得体の知れない文
書だが。戯器の全ての将棋の図類を見れば、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄に習って書か
れたものである事が、はっきり判るようで
ある。
 なぜ最近、このうち摩訶大(大)将棋の
図だけ注目されたのか。その理由は、私に
は、はっきりしない。(2021/02/06)

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長野県佐久市深堀遺跡から平安時代成立奔牛土器(長さん)

奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されているpdf
ファイル名で次の通りのweb情報として、
平安時代以前成立の”奔牛”のようにも見
える”墨書のある土器”が記載されている。

深堀H56号奔牛.gif


墨が薄くかつ、内容がかなり曖昧であり、
近世成立の大局将棋とは無関係である

と見られる。
682_1_深堀第235次調査.pdfの、
写真が図版百十のH56号住居址(2)の
遺物ナンバー24の土器として載っている物。
 報告書の名称は、以下の通りである。
長野県佐久市埋蔵文化財調査報告書第98集
深堀遺跡 第2・3・5次調査
長野県土地改良課・佐久市教育委員会、
(2002)。
調査は1998年から2001年頃に行われ
たようである。
 遺跡の成立年代が古墳時代から平安時代の
間とされ、幅広くて、遺物の成立年代は、
はっきりとは特定できない。墨書土器は、
他にも多数出土している状況。
 住居址地帯とされているが、あまり良く、
文献上の役割が、判っていない場所のようで
ある。
 遺物はスケッチにはっきり、墨書の内容
が記載され、本文中で”卸大十牛”(?)と
読まれている旨が、記載されている。墨書土
器と見ると、墨はごく薄いようであり、大十
は、続けて読めば、奔や夲にもなりうるよう
である。個人的には十の部分が、十や三十(卅)
ではなくて、二十(廾)のようにも見える。
大局将棋に奔牛が有るが、土器側面の薄い字
で、しかも前に、卸のへんに見える模様や字
の類が有るのでは、

将棋の存在と、関係があるとは到底思えない

と私は考える。
 この発掘報告書の墨書は多いので、古代か
ら識字層が住んでいた事は、ほぼ間違い無さ
そうである。が、問題の土器については、
字が特に薄いので、

墨書土器かどうかも、はっきりしない

というのが私見である。(2021/02/05)

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新潟県新発田市砂山中道下遺跡銀将写真に矛盾(長さん)

以前、表題の遺跡の出土駒の写真を本ブログで
紹介した。pdfファイルで、web上に公開
され、ファイル名は、
24225_1_野中土手付遺跡砂山中道下遺跡.pdf
であった。google等で本ブログの画像が
検索され、この駒の像が出てくる。そのときに
写真の銀将の銀の字のヘンが、金に見えないの
で最近不審に思い、天童市将棋資料館発行の、
『天童の将棋駒と全国遺跡出土駒』の写真と比
べてみると、

金のアタマのへの字の位置が天童市将棋資料館
本と、発掘報告書で違う

のに、気がついた。
 成書『天童の将棋駒と全国遺跡出土駒』の
新潟県新発田市砂山中道下遺跡銀将写真の銀の
へんの金のアタマの”へ”は、ヘンの金の字に
なるように付いているのだが。発掘報告書の
写真やスケッチでは本ブログで紹介したように、
中央にシフトして、金には見えないような形に
変化している。その他ツクリの艮も、天童本で
は一部、右の方が見えているが、発掘報告書で
は、剥がれの部分の面積が拡大して、艮が良く
判らないように変化している。

天童本に載せるときに読者を納得させるように、
銀に近くなるよう、画像を少し手直ししている

と考えると、残念だが、良く説明出来る挙動で
ある。
 或いは、報告書をプリントアウトしたときの、
像の乱れか。それにしては、スケッチも、天童
本よりも報告書の写真に似ているように、報告
書自体には書いてあるように、私には見える点
が説明困難だ。仮に、発掘報告書の写真の書体
が正しいとすると、余分な線が左右にあるが、
全体としてみると銀将の銀の書体が角に見える

天童草書体将棋駒に、似ているようにも見える

という事実がある。天童本が、それを避けたと
いうのは、ヒントになるのかもしれないが。事
情が良く判ら無い所である。なお、天童草書体
銀将だと、成立年代が益々新しい駒で、昭和時
代だろうと解釈されるようになる。
 本ブログとしてはgoogle画像の、本ブ
ログがhitする駒像として、発掘報告書のそ
れを示している関係上、経緯はつかめないが、

逆に天童本の像が正しいとしたら若干の責任を
感じる。

 注意喚起する程度しか出来ない事を、この場
を借りて、調査されたいる方や読者の皆様に、
深く御侘び致したい。(2021/02/04)

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1978年辻遺跡出土駒は”金兵”か(長さん)

だいぶん以前に、表題の件について、天童
の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真に基づいて
本ブログでは”兵兵”と書かれているので
はないかと述べた。その後、前記成書に参考
文献として述べられている発掘報告書が、
web上に公開されているのに気がついた。
たびたび述べた、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
pdfファイル名は、次の通りである。
13835_2_辻遺跡・浦田遺跡発掘調査概要.pdf
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に出ている
文献名をpdfファイル名にしただけである。
実際報告書の名称は、以下のようになって
いる。
立山町文化財調査報告書第3冊
辻遺跡・浦田遺跡発掘調査概要
(富山県中新川郡)立山町教育委員会
1987年。
 ただし以下のように、出ている写真は、
私が思っていた以上に、比較的鮮明である。

富山県辻遺跡.gif

”金兵”と読め、歩兵の書き方とは、独特
の続き字になって、い無いという点で、違
うように思える。兵兵ではなく”金兵”だっ
たと訂正したい。発掘者は、前にも紹介し
た通り、口兵と読んでいて、第1字目は謎
と見ているようだ。また発掘報告書に有る
ように、裏面の墨跡ははっきりとはしない
ようだ。
 なおこの遺物は駒の形の雰囲気から、
鎌倉時代の、もののように私には見える。
発掘報告書には、他の遺物の形状から逆算
して、特定の地層の遺物を、漠然と”中世”
と記載しているようだ。
 別に駒が、日本のどこかで出土しないと、
はっきりした推論は無理だが。この出土駒
については一般論として鎌倉時代に、新し
い駒名を、例えば歩兵と金将から、”金兵”
を作るといったようにして、

既存駒名の組合せで作るという事が、繰り
返し行われたと考えられる証拠となる史料

と見るしか、合理的な説明は無理なのでは
ないかと私は考える。大将棋が変化して、
15升目の後期大将棋が、後に現われると
いう現象の原動力を示す、

極めて重大な史料が、字が消えかかってい
たため、40年以上も埋もれていた可能性

が、全く無いとは、言えなくなったのかも
しれないと私は考える。(2021/02/03)

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出雲国府跡から口車墨書土器(長さん)

以前、いっけん銀将だが、良く見ると釘蝶
にも見える墨書土器の出土を紹介した、
島根県の出雲国府跡から、香車と書かれて
いるかもしれない土器が、それより少し前
に見つかっていたという事を本ブログの管
理人が発見したので報告する。こちらは、
2003年前後に発掘された模様である。
 出土地層は、やはり混ざり合っていて、
古墳時代から平安時代末期までの、広巾の

成立年代の不確定性が有り、平安小将棋の
既に存在した時代の物である可能性がある。

相当に薄く、底円の

二等分線の一部が、単に見えているだけ

の疑いが有る。
 発掘報告書は、いつものようにweb上
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
名称は次の通り。
島根県風土記の丘地内遺跡発掘調査報告書
16、史跡出雲国府跡 3、
【発行】島根県教育委員会。
データベースとして登録されている報告書
pdfファイル名は、以下の通りである。
14167_2_史跡出雲国府跡3.pdf
 そこの図版15、一貫尻Ⅰ区出土遺物の
左下に、4つに割れたものを繋ぎ合わせた
ような土器があるが、その左下破片に、
車に見えるような字が有るように見える。

出雲国府香車.gif

その上にも字が薄く有るようにも、私には
見えるが、正確には読めない。

ひょっとすると香かもしれないと言う程度

である。なお、倍率が低いと、更に枠が書
かれているように見える。ともあれ香車で
あり平安時代末成立なら、平安小将棋は既
成立なので、基本的には問題が無い。
 そこで、更に像を拡大するなどしてチェッ
クすると、車の字の横線は、余り明確な物
では無い事が判る。そして円を半分に分け
るために引いた、

車と見た墨の縦線だけが実在の懸念がある

ようだ。

墨書は有るが、幾何学模様を書いただけ

かもしれない。
 この遺物については取りあえず、

土器に印を付けた、線が存在する墨書遺物

で、古墳時代のものの可能性も有ると、こ
こでは解釈する事にしたい。なお成立年代
については、以下の全国遺跡報告総覧登録
時に、分割されたと見られる本文ファイル
の、第3章の冒頭16ページ付近に”包含
された層”より出土との旨の説明等が有る。
14167_1_史跡出雲国府跡3.pdf
 なお出雲国府跡からは文字史料が多数出
土しているが、この遺物については、墨書
等が有るとの、報告書内での記載は無い。
(2021/02/02)

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島根県松江市下がり松遺跡から王福墨書杯(長さん)

西暦2000年頃の発掘だと見られるが、
表題の遺跡から、裏面に王将とも読めるよ
うな

8世紀後半成立

の墨書土器が出土しているとの事である。

字が薄くて、判読に不確定性が大きく

将棋の存在を、示しているとは言いがたい。

 発掘報告書は、今まで何回も紹介した、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
”全国遺跡報告総覧”の中にあり、表題は
以下の通りである。
田中谷遺跡、塚山古墳、下がり松遺跡、角谷遺跡
島根県教育委員会、2002年3月。
web上に公開されているpdfファイル
名は、以下の通りである。
2825_6_田中谷遺跡塚山古墳下がり松遺跡角谷遺跡.pdf
 そこの図版206に、遺物の写真が載っ
ている。
 また、本文に当る、分割された以下の
pdfファイルには、スケッチと発掘者の
解説が載っている。
2825_1_田中谷遺跡塚山古墳下がり松遺跡角谷遺跡.pdf
本文中の268ページに、スケッチがあり、
発掘者は本ブログにとっては幸いな事に、
”万福”と読んでいる。

下がり松遺跡王福.gif

写真から、

2文字目は將ではなくて福かもしれないほ
ど薄い

と私も納得するが、

1文字目は、万より王の方が近いのではな
いかと、私は疑って恐れている。

当然だが、王将ではなくて王福と読んでし
まうと、日本の将棋とは全く無関係。
だから、前記発掘報告書本文中の、268
ページ付近に、その旨が書いてあるのだが、
この土器が8世紀後半に成立であって、
西暦1015年よりも前であっても、将棋
とは無関係なので、本ブログの主張は崩れ
無いので問題は無い。
 だが逆に、王将だとすると、この熟語も
将棋固有なので、

将棋がその前から有る可能性が高く大問題

になるとみられる。つまり、

奈良時代の末に、日本に将棋が有ったのか
どうか

という事である。
 今の所、本ブログでは、この問題の8世
紀後半成立の土器の裏の文字は、

≪王福≫である

と仮に読んで、様子を見る事にしたい。
(2021/02/01)

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