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長野県飯田市はりつけ原遺跡で弥生期山泰墨書土器(長さん)

 今回は、弥生時代後期とみられる長野
県飯田市の遺跡で、壷型弥生土器の一部
とみられる遺物に漢字で、山奉と書かれ
ているように見える物品が出土している
との旨の話題である。漢代から六朝期の
初めの頃にかけて、鉱物捜索のために、
中国等から渡来人が、日本の山岳地帯に
入っている疑いがあるとの、本フログの
仮説を、依然支持するものと考えられる
例である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
8960_1_はりつけ原遺跡2.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
はりつけ原遺跡Ⅱ、1998年3月、
長野県飯田市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は、長野県飯田市大瀬木。遺物が出土し
たのは西暦1996年前後の事のようで
ある。
 発掘報告書の末尾抄録により、遺物の
成立年代は弥生時代とみられておりかつ、
発掘報告書の第14ページ付近の記載に
より、竪穴住居跡自体が遺物の形から、
弥生時代後期の2世紀頃のものとみられ、
遺物も、その頃のものと考えられている
ように私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
24の最下段左端に在り”竪穴住居跡
(SB)06出土土器”との旨、注記さ
れているようである。
 壷型土器の破片のように私には見える。

はりつけ原山泰.gif

上図のように、写真の左下に2列に3つ
の塊の黒い模様が在る。が、そのうちの
右の列の2個の塊が、漢字で縦に「山奉」
の字のようにも見える。
 弥生時代後期に、長野県飯田市の山間
部に、大陸から渡来人が入り、鉱物資源
の捜索を行っていた疑いがあると私見す
る。その渡来人の死後、山の主として、
子孫または近隣の識字出来る者により、
奉じられたと本ブログでは疑うのである。
(2023/05/02)

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