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大阪府堺市余部日置荘遺跡で鎌倉期山泰等墨書土器(長さん)

今回は、大阪府は鎌倉幕府から遠い為、
鎌倉時代にも「奉王」・「山奉」といっ
た古代型神道を想起させる墨書土器が、
武家支配地でも、一般人の周辺集落から
は出土するとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
4476_1_余部日置荘遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
大阪府埋蔵文化財調査報告2007-6
余部日置荘遺跡、2008年、大阪府教育委員会。
 発掘報告書写真図版と遺構図の間に挿
入された抄録により遺跡の場所は大阪府
堺市美原区北余部。遺物が出土したのは、
以下奉王墨書土器が西暦2003年前後、
山奉墨書土器が西暦2005年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は遺跡全体が鎌倉時代
成立とされ、ほぼ全ての遺物は鎌倉期と
考えられているように、発掘報告書から
読み取れる。
 遺物の写真は、写真図版第21の上段
集合写真最下段中央に「奉王」墨書土器
がある。集合写真の杯型土器全体が西暦
2003年に第130号溝で出土した
土器であると取れる旨、写真の下に付記
されている。

余部日置荘奔王.gif

 上図のように小さいが写真の中央に、
杯の底を挟んで縦に、漢字で奉王のよう
に見える、黒い模様がある。後鳥羽期の
朝廷を奉じたのかもしれない。王は天皇
であり、奔王という将棋駒名の意匠が、
鎌倉人には心地よかったと本ブログでは
見る、証拠のひとつのように私見される。
 次に「山奉」土器については、発掘報
告書の写真図版第34の上段カラムの、
土器集合写真の中心部にあり、やはり杯
型の土器で、集合写真全体に、西暦
2005年に第896号掘立柱住居跡
柱穴から出土した土器との旨、写真の
下部に説明がある。

余部日置荘山泰.gif

 上図のように、漢字で「山泰」と縦書
きされているように、私には見えるが、
山の字が、やや崩れている。また、土器
の縁の部分にも「山」のように見える
模様があり、縦に「山山奉」のようにも
見える。神道系の山岳信仰であろうが、
弥生時代中・後期から鎌倉時代まで、
大阪府付近の山岳信仰は、民間で連続し
て存在している事を示しているように、
私には解釈される。(2023/05/25)

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