長野県上田市国分寺周辺遺跡で山泰墨書土器(長さん)
今回は、表題の遺跡で漢字で山奉と書いた
ように見える墨書土器が出土しているが、
第1字目の「山」の字がやや不明確である。
ところがたまたまか。よく似た出土品が2
個有り、信頼性がやや有るように見えると
いう、比較的珍しい例の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
7485_5_上田市内・坂城町内国分寺周辺遺跡群・上田城跡・
風呂川古墳・弥.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
財団法人長野県埋蔵文化財センター発掘調査報告書 31
国分寺周辺這跡群・上田城跡・風呂川古墳・
弥勒堂遺跡・開畝遺跡、1998年、
日本鉄道建設公団北陸新幹線建設局・上田市・
長野県教育委員会・財団法人長野県埋蔵文化財
センター。
遺物はこのうち上田市坂城町内に在る、
国分寺周辺遺跡群で出土したようである。
なお以前この発掘調査で、その国分寺
周辺遺跡から2枚の「奉馬」等の墨書土器
が出土した旨本ブログで紹介した。そのと
きには以下紹介する遺物の存在が、本ブロ
グ管理人に、見逃されたという事になる。
さて、それでは詳細を述べることにする。
発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所
は、長野県上田市国分字西沖。遺物が出土
したのは、西暦1994年前後のことのよ
うである。
遺物の成立年代は、住居跡428号と、
住居跡434号より遺物は其々出土したが、
発掘報告書第1本文pdfの第143ペー
ジの記載から、第428号住居跡について
は6世紀前半ころの遺構であるとみられ、
出土遺物も古墳時代後半の、その時代のも
のと見られているように私には読み取れる。
また、発掘報告書の第2続本文pdfの第
148ページ付近の記載から、第434号
住居跡については、9世紀後半とみられ、
遺物も平安時代前期のものと、考えられて
いるように私には読み取れる。
遺物写真は発掘報告書の写真図版第78
と79:”国分寺周辺遺跡古墳中期~平安
時代の土器(の旨)”の写真図版78分は、
第3段中央段の右側で、住居跡第428の
第4番とナンバリングした杯型土器物品。
写真図版79分は、住居跡第434の第6
番とナンバリングされた、杯型土器物品の
計2枚である。
上図は、国分寺周辺遺跡の今回の発掘遺
跡の6世紀前半の杯型土器である。
次の上図は、国分寺周辺遺跡の今回の発
掘遺跡の9世紀後半の杯型土器である。
何れの遺物にも、たまたまであるが画像
の真ん中付近に、写真図版79分について
は軸が、反時計回りに同じように少し傾い
ているものの、漢字で「山奉」と、書いて
あるような模様が見える。山がはっきりせ
ず、第1画の縦棒だけ黒く、水平線や残り
の左右縦棒が薄い点が互いによく似ている。
約350年にわたり、この地点で「山」は、
写真の墨書のように山頂だけ目立つと表現
されたためか。
何れにしても、やや不明確な墨書である
が、似たような書体の物品が2枚同時に出
土したので。浅間山等を崇拝する祭祀用の
杯が、上田市の国分寺周辺遺跡付近で、古
墳時代から古代にかけて、存在した事を示
唆しているようにも私には見える。(2023/05/09)
ように見える墨書土器が出土しているが、
第1字目の「山」の字がやや不明確である。
ところがたまたまか。よく似た出土品が2
個有り、信頼性がやや有るように見えると
いう、比較的珍しい例の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
7485_5_上田市内・坂城町内国分寺周辺遺跡群・上田城跡・
風呂川古墳・弥.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
財団法人長野県埋蔵文化財センター発掘調査報告書 31
国分寺周辺這跡群・上田城跡・風呂川古墳・
弥勒堂遺跡・開畝遺跡、1998年、
日本鉄道建設公団北陸新幹線建設局・上田市・
長野県教育委員会・財団法人長野県埋蔵文化財
センター。
遺物はこのうち上田市坂城町内に在る、
国分寺周辺遺跡群で出土したようである。
なお以前この発掘調査で、その国分寺
周辺遺跡から2枚の「奉馬」等の墨書土器
が出土した旨本ブログで紹介した。そのと
きには以下紹介する遺物の存在が、本ブロ
グ管理人に、見逃されたという事になる。
さて、それでは詳細を述べることにする。
発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所
は、長野県上田市国分字西沖。遺物が出土
したのは、西暦1994年前後のことのよ
うである。
遺物の成立年代は、住居跡428号と、
住居跡434号より遺物は其々出土したが、
発掘報告書第1本文pdfの第143ペー
ジの記載から、第428号住居跡について
は6世紀前半ころの遺構であるとみられ、
出土遺物も古墳時代後半の、その時代のも
のと見られているように私には読み取れる。
また、発掘報告書の第2続本文pdfの第
148ページ付近の記載から、第434号
住居跡については、9世紀後半とみられ、
遺物も平安時代前期のものと、考えられて
いるように私には読み取れる。
遺物写真は発掘報告書の写真図版第78
と79:”国分寺周辺遺跡古墳中期~平安
時代の土器(の旨)”の写真図版78分は、
第3段中央段の右側で、住居跡第428の
第4番とナンバリングした杯型土器物品。
写真図版79分は、住居跡第434の第6
番とナンバリングされた、杯型土器物品の
計2枚である。
上図は、国分寺周辺遺跡の今回の発掘遺
跡の6世紀前半の杯型土器である。
次の上図は、国分寺周辺遺跡の今回の発
掘遺跡の9世紀後半の杯型土器である。
何れの遺物にも、たまたまであるが画像
の真ん中付近に、写真図版79分について
は軸が、反時計回りに同じように少し傾い
ているものの、漢字で「山奉」と、書いて
あるような模様が見える。山がはっきりせ
ず、第1画の縦棒だけ黒く、水平線や残り
の左右縦棒が薄い点が互いによく似ている。
約350年にわたり、この地点で「山」は、
写真の墨書のように山頂だけ目立つと表現
されたためか。
何れにしても、やや不明確な墨書である
が、似たような書体の物品が2枚同時に出
土したので。浅間山等を崇拝する祭祀用の
杯が、上田市の国分寺周辺遺跡付近で、古
墳時代から古代にかけて、存在した事を示
唆しているようにも私には見える。(2023/05/09)