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車が一歩後退して、5走でなくて2走の広将棋のチェック(長さん)

前に述べたように、荻生徂徠の広将棋は、荻生徂徠が他界してから
40~50年後に調査され、広将棋譜愚解で、ルールが記載された
ものが、現在残っている。このゲームには(イ)駒の騎総が、簡単
に序盤、相手陣に突入できる不自然が先ずある。それと、(ロ)弓
や弩類が、それぞれ存在する時点で、同類を攻撃して、獅子に関す
る特別な規則のない中将棋のように、中盤初期に相討ちになってし
まうので、弓・弩・砲・仏狼機は、有っても無くても最初から、
違いのない駒になってしまう、という問題がある。特に後者(ロ)
は、

車には、弓等射駒類の互い取りを、遮蔽して調整する機能が有るに
もかかわらず、序盤で消耗するのでその役が果たせて居無い

と言う点から発生するとみられる。そして(イ)と(ロ)は、

車の初期配列位置が1歩前過ぎなのと、動きが5走では、互い取り
が、出来すぎるため、2走程度が適切なのに、そうなっていない

という問題から来ると見られるものである。そこで、砲でも車類、
すなわち、
①車、車総、砲車、神機車は、砲では射れない。の他(ロ)対策で、

②車は縦横2走りとし、

③砲車も縦横2走りの、5路以内、跳び越え可能な射。
④神機車も縦横2走りの、7路以内、跳び越え不可能な2枚射。
以上4箇所ルールを変え、更には(イ)の対策として、

車と車総の初期位置を、全部6段目ではなくて5段目に変えて、

この将棋のチェックを行った。
 初期配列は、先手からみて左袖と中央から右袖側を、2つに分け
て示すと、車と車総の位置だけが、オリジナルとは違い、次のよう
になる。
(左側半分)
前衛,高道,軍匠,軍吏,舎餘,舎人,力士,親兵,記室
後衛,百総,口口,把総,口口,千総,口口,護兵,口旗
口象,口砲,口弩,口弓,口象,口砲,口弩,口弓,口象
騎総,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵
車総,歩総,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩兵,口車
口口,牌総,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,牌総,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口
車総,歩総,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩兵,口車
騎総,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵
口象,口砲,口弩,口弓,口象,口砲,口弩,口弓,口象
後衛,百総,口口,把総,口口,千総,口口,護兵,口鼓
前衛,神僧,軍匠,軍吏,舎餘,舎人,力士,親兵,記室
(中央列から右側)
口将,参謀,親兵,力士,舎人,舎餘,軍吏,軍匠,神僧,前衛
中軍,口鼓,護兵,口口,千総,口口,把総,口口,百総,後衛
仏狼,口象,口弓,口弩,口砲,口象,口弓,口弩,口砲,口象
口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,騎総
歩総,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩総,車総
牌総,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口
先鋒,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
先鋒,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
牌総,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口
歩総,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩総,車総
口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,騎総
仏狼,口象,口弓,口弩,口砲,口象,口弓,口弩,口砲,口象
中軍,口旗,護兵,口口,千総,口口,把総,口口,百総,後衛
口将,参謀,親兵,力士,舎人,舎餘,軍吏,軍匠,高道,前衛

エクセル画像だと、以下のようになる。

広将棋車1下初期.gif

結論から述べる。

ほぼこの変更で図星であり、前記の各変更を、広将棋譜愚解ルール
に施すと、かなりゲームが改善される。

では、ルール変更したゲームの状況を、以下に更に詳しく述べる。
 以下は、中盤の駒の取り合いが始まって、すこし進んだ局面だが、

広将棋車2走途中.gif

①騎総は相手陣を荒らす前に消えているし、
②車駒が、両軍にまだ何枚か残っている。

車が6段目に無いので、車自体が離れ駒にならないので、騎総は、
指し始めから出してみたが、大きな成果が上がらなかった。
また、車同士の取り合いが、2走では相当たりが余り起こらないの
で、これ自体が仏狼機でしか射られない特徴があるため、この少し
後に、弓、弩、砲、仏狼機を繰り出すと、有効に遮へい駒として作
用した。
 その結果、

狙い通り、弓等射駒の消耗率が、広将棋譜愚解ルールよりは減少し
て、ゲームとしては、出来の良い方向に改善

される事が判った。
 どうして、消耗率が減るのかを、より詳しく述べると次の通りで
ある。

この改善により、仏狼機の相対的な力が、砲に対して低下

した。理由は、仏狼機の射るルールが、砲と異なり、

跳び越え不可能なため

である。その結果、

7路先までの相手駒を2枚づつ射る仏狼機が、砲で撃たれやすい

という状況が生じたのである。そのため、局面が進むと、盤面に、

7路先まで射る仏狼機が無くなり、最高で砲の5路先になった。

その結果、

射る駒同士の同士討ちが、起こらないで特に砲が、すり抜けられる

ようになったのである。その結果、終盤まで少数の特に砲が残るよ
うになり、この将棋の

終盤に、多様性が発生して、ゲームの状態が良くなった。

以上のようである。
 従って、やはり、
広将棋譜愚解は、4段目以降の駒のルール、特に車のルールに問題
があり、

千葉県野田市せきやど図書館の、ルールの4段目以降が抜けている
広将棋譜愚解は、ルールの再現の不都合と、何らかの関係がある

のかもしれないと、疑われるようになった。
 とりあえず、以上のようである。その他に気がついた、この将棋
のルールに係わる点としては、成りが弱い点が挙げられる。現行知
られたルールでは、相手陣に入ると成る以外に、

①相手玉駒系を取った時に成る。
②力士、龍驤、招謡、霹靂を取った時、歩み駒が成る。
③仏狼機を取った時、馬兵が成る

がある。
が、これらだけでは成りヅラすぎる感じがある。

④1~2段目に配列されている、千総、把総、百総以外の駒は、
相手の走り駒、2回動きを繰り返す駒を取っても、成れて良い

ように思えた。元々これらの下段駒には、成りに特長があり、現行
伝わる、成りの条件に関するルールだけでは、

成り駒の動かし方のルールを覚える事自体が、徒労に近くなる

からである。
 尤も、いろいろいじると、内容がごちゃごちゃして、比較的ルー
ルの複雑なこの将棋の指し方が、益々複雑になるので、今回は、以
上の程度の指摘に、留める事にしたい。(2019/03/11)

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荻生徂徠の広将棋。荻生と広将棋譜愚解の差は車と車総か?(長さん)

前に、荻生徂徠の広将棋の、荻生没後40~50年後に
書かれたルール本、広将棋譜愚解の、千葉県野田市の
図書館、せきやど図書館蔵本の、2ページ落丁の謎につ
いて話題にした。
 広将棋については、(1)騎総が強すぎて、相手陣の
仏狼機の只取り筋が、指し初めに生じるという問題と、
(2)弓、弩、砲、仏狼機駒等が、ほとんど相討ちにな
り、終盤まで1枚も残らない事の多い、不自然さがある
点以上二点について、本ブログで問題にした記憶がある。
荻生徂徠のゲームデザイン力が、政治学の本職に比べれ
ば、たいしたことがないというニュアンスで、あのとき
は済ましてしまった。しかし最近、没後40~50年後
のルール本の一部、せきやど図書館本に乱丁があるのを
見て私は、荻生徂徠の広将棋は、没後40~50年後に、

ひょっとして、再現に失敗した箇所があるのではないか

と、私は疑うようになってきた。
 今回は、ずばり、荻生徂徠の広将棋を、少し後代の関
係者が再現するときに、何処が間違っていたのかを、論
題とする。
 回答から書くが、証明は次回以降にしようと思う。
では回答を書く。

車と車総の初期配列が、全部1段高い。荻生は6段目で
はなくて、5段目に配列していた。
また、車のルールが違う。5升目走りではなくて、2升
目走りが、オリジナルだった。

なお、欲を言えば、砲の射るのルールを変え、
現行の碑、車、車総、砲車、神機車射れるを、
碑射れる、車、車総、砲車、神機車は射れないので、弓
類駒相取りの車が残って、更に邪魔になるを、入れたほ
うが良いかもしれない。
 では、今回は車のルールが”臭い”という証拠を、以
下に指摘しよう。
 まず騎総で、相手仏狼機が、序盤最初に簡単に狙えて
しまう理由を考える。これは、初期配列で、7筋6段目
の車が、浮いているからである。車が全体として1歩、
後退した位置に初期配列であれば、仏狼機の騎総による
トン死は、生じないのである。だから車と車総の初期配
列を、再現のときに間違えた疑いがあるように、私には
思える。なお話が中断するが、国文学研究資料館の、
新日本古典書籍データーベースにある、広将棋譜愚解を
見る限り、騎総は後戻りできない(居喰いは出来る)と、
後段に書かれており、世界の将棋の表現が厳密に合い、
岡野伸氏自身の中国の諸将棋での解説と、wiki-
pediaの表現は、散漫なように私には見える。この
駒は居喰いできるが、”空升目跳び返り”は禁止と書い
てあるようだ。

馬兵成り騎総.gif

 次いで車の初期配列の、間違い仮説の傍証としては、
広将棋の初期配列の空升目は、桂馬跳び模様になるのが、
本来なのではないか。そうなっていないのは車と車総を、
1段高く配列している間違いが原因のように、私には見
える。
 次に、車や車総は、射るの例外ルールで、弓や弩の、
本来邪魔駒になり、相取り等が、歯止め無しに起こるの
を、避ける働きが備わっているはずである。しかし実際
には、車駒に関して、その性能が全く発揮されて居無い
理由を考えてみる。これは簡単で、現行の5升目走りが、
強すぎて、車同士の相取りが最初に起こってしまい、
相手の弓や弩や砲が、繰り出されるまでには、車自身が
消えているからだ。
 だから、
広将棋に関する広将棋譜愚解の、車の5升走りルールは

不自然

だ。2升目しか走れないとすれば、中盤まで、前段にあ
るのが原因の、互い取りが起こりにくくなり、その結果
消えずに残るので、弓や弩や砲、仏狼機同士の、単純な、
中盤の互い取りの、邪魔をする働きを、強くしたはずな
のである。だから車のルールは、5升目走りではなくて、

縦横2升目走りを、荻生徂徠は考えていた疑いがある

と私は思う。
 この事に関しては、次のような傍証もある。
 砲車や神機車の”5升目走り、前者の5升先まで射る
と、後者の7升先まで2駒射る”の、”5升目走り”は、

過剰だ。

2升目程度、砲車や神機車が走れれば充分な事は、実際
にゲームをしてみると直ぐに判る。
 砲車の車、神機車の車が、車だったので、動きをそれ
に掛けて、車と同じ形にしようとしているのだと、私は
思うのだが。後世の再現者は、そもそも車のルールを間
違えていたから、これらも間違えて、こうなったのでは
ないのか。
 そして5升目を2升目走りに変えれば、車の方は、冒
頭で述べたように、序盤に互い取りしにくくなる。する
と、碑と同じように、中盤まで車が残るようになるので、
少なくとも弓と弩が、すき放題に、相手駒を射る事が、
よりできにくくなるような気がする。
 それでも砲は、車を射れるから、砲同士の互い取りは、
従来通りだろう。それなら、火砲は、車や車総や、砲車
や神機車という、車の付く駒は、いっそ射れなくしたら
良いのではないか。そうすれば、車が目障りになり、砲
の射る働きも、従来よりは少し弱まるだろう。
 これで、近々広将棋をチェックしてみようと思ってい
る。結果は、そのときまた紹介しよう。
 何れにしても、車や車総のルールは、千葉県野田市の
せきやど図書館蔵の、広将棋譜愚解で抜けている部分に
あり、これで広将棋が改善されるようなら、抜けた原因
は、検討中であったものを、その他の場所で、リークし
て無理やり公にしてしまい、そこに間違いが有ったので、
広将棋そのものが、完全滅亡してしまったという、
荻生徂徠にとっては不運だが、名誉は回復されるという
ストーリーに、将棋史上の解釈は、将来代わる可能性が
有り得ると言う事になるだろう。(2019/03/10)

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洛中洛外図舟木本碁盤屋の黒碁石ケースは日本碁盤の元?(長さん)

国立博物館に、洛中洛外図(舟木本)という、屏風図が
あると聞く。調べてみると、左隻第1扇の上の方の右隅
に、マル8という碁盤屋が書いてあって、双六盤と囲碁
盤、碁笥と黒白の碁石が描かれている。江戸時代初期の
成立の絵画との事で、囲碁盤は、蓮座型の普通の囲碁盤
の足が描かれ、路は9路程度にデフォルメされている。
 問題は、下の図で、右の方の囲碁盤や双六盤ではなく
て、左の碁石の陳列ケースのデザインだ。

洛中洛外図.gif

黒碁石が、円形に近いショーケースに幾つか乗っている
ような絵が描いてあるのだが、このシューケースには、
赤い印を、私がつけたように、少なくとも2本

蓮座の足と、ひよっとすると囲碁の線のようなものも書
いてある

ようにも見えるのだ。私見だが、

丸であって四角くない

囲碁盤の上に、黒碁石を集めて、ほぼ隙間無く並べている
ようにも見える。

これはいったい、何なんだろうか。

ちなみに、その右に白碁石を載せたケースも見えるが、
お盆の上に置いているようにも見えるし、黒碁石のショー
ケースと繋がっているようにも見えるし、よく判らない。
が、こちらには、足と升目線は明らかに無い。だから、

黒碁石を載せた、ショーケースのようなものだけ問題

だと思う。
 問題のショーケースの足は、右の方に書いてある囲碁盤
のように、黒碁石陳列ケースでは蓮座なのは、間違いない
ように見えるが、黒碁石陳列ケースの盤線は、右の方だけ、
薄く見えるような、見えないようなで、

私には、はっきりしない。

なお上図は私の腕のせいだが、実物はもっと鮮明である。
 黒碁石の並べ方が、あたかも下の縦横線に合わせている
かのようで、ランダムに置いただけにしては、ラインが、
揃いすぎているようにも、私には一応見える。
 結局幾ら見ても私には、この陳列台が何なのかは謎だが、
囲碁の縦横線が引いてあり、その点で、全体の形が四角柱
ではなくて、円筒形であるという、囲碁盤類似の物体だと
仮にすれば、

仏像のような、底面の円に近い物体を置く台を、囲碁盤に
転用したようなものがモデルの、陳列台

だったのかもしれないとも私には思えた。ひょっとして、

絵師が、日本型、蓮座脚の囲碁盤が、仏像の台座の転用で
ある事を知っていて、カッコ付けにこのように絵を書いた

のだろうか。
 平安末期から鎌倉時代の初期にかけて、寺で戒律違反だ
と言われるので、こっそり囲碁を指すとき、仏像を置いた
台座を使い、仏像をどかさないと、囲碁盤だと判らないよ
うにしておいてから、御偉方が居無いときに、下っ端の
坊主たちが”囲棋”をしたのが、今使っている典型的な
日本の将棋盤の原型だと言うような事も、ひょっとすると、
有り得るのかもしれない。なお、この屏風図には、他にも
僧侶の戒律違反を書いた箇所(18禁)があると、成書等
で紹介されている。そのような点を合わせて、絵師が僧侶
に対して、あまり尊敬の念を抱いていないとの印象から、

僧侶の戒律違反に関する、情報の収集に興味が有って

このような絵を、実際にもショーケースを見かけたのだろ
うが、たまたま描いた。今回この屏風図を見てからは、私
は上記のように、この絵を疑うようになったのである。
(2019/03/09)

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荻生徂徠は11C酔象動き無知だが興福寺酔象は角行(長さん)

以前本ブログで荻生徂徠の広将棋を取り上げ、象の
ルールがビショップと同じく角行動きなのに、感嘆
を表明した事があった。今回は、荻生徂徠が何処か
ら、この情報を得たのかについて再度検討を加える。
最初に結論を書く。

荻生徂徠は朝鮮チャンギの象の縦横歩みからの2升
目制限された走り、2升目限定止まり(塞象眼有り)
ルールや、七国将棋の騎のルールで、縦横歩み、つ
いで斜め制限された走り0~3升目行きルール(本
ブログにより修正)が、”元々は象が角行動きだっ
たために、ゲーム種により、さいしょに象駒を調整、
のちに、馬駒と象がチャンギでは同化したため、馬
駒へも波及し、象と七国将棋の騎では、以上のシス
テムに基づいて、歩数調整したものである”、
との旨の情報を、清王朝時代の李氏朝鮮のゲーム史
本を見て知っていた。そのような、ゲーム史本の情
報が、朝鮮半島経由で日本に流入した事を示す

と考える。逆に言うと、11世紀に興福寺で、酔象
が、どのようなルールで指されたのかを、知ってい
るわけでは無かったと考えられる。
 では、以上の結論につき、以下に説明を加える。
以上の問題を解くポイントは、

広将棋で象が弩、砲、弓と同じ段に並べられている

という点だと本ブログでは見る。そこで、その事実
を使用して、
荻生徂徠は、”自身の作成した広将棋で象の動きを、

①インド→中国→朝鮮半島→日本と伝来した、
チャトランガ11C象動きからチャンギ象の成立に
関する謎解き文書を参照した。
か、または
②インド→雲南→日本の興福寺と伝来した、
原始平安小将棋大理国バージョンの象ルールの口伝
を参照した。”

のうちで、どちらが正しいのかを、推定してみる。
広将棋の、

 弩・砲・弓が、朝鮮チャンギの象の最初の縦横を、
斜めに変更した上で動き先、次の斜め走り(2升限
定止・塞象眼有り)を八方5、5、3、升先射る
(砲だけ跳び越えあり)に交換して作り上げた

ものだと見れば、

元ネタが、大陸の文書であり①が正しい

事は明らかだ。
 ただし、大陸の、”元々は象という駒は、その走
り升目を、インドの4人制チャトランガの時代の2
人制チャトランガの角行走りから、升目数を∞では
なくて、2に調整したものであり、調整はイスラム
教徒によって行われた(本ブログ推定)”という、
推定されるこの、中国→朝鮮半島→日本という経路
で伝来したとみられる情報は、

中国シャンチーが成立する以前の、西暦1058年
日本の興福寺の酔象の時代には、中国の北宋王朝に
は、辛くも無かったと考えられる。

 つまり、イスラムシャトランジ動きの、
2升先跳びの象は、中国には無いわけだから、

興福寺の1058年酔象木簡の酔象は、角行動き

だったと、結論せざるを得ないと、本ブログでは、
推定するという事になる。
 清王朝時代には既に、ゲーム史の研究が有ったと
みられる事から、荻生徂徠は、象の動きを朝鮮半島
から伝来した、チャンギの成立論に基づいて、たぶ
ん作成したのだろう。
 しかし、西暦1058年にはまだ、中国シャンチー
も、完全成立はしていなかったはずだから、今の所

興福寺の木簡の酔象のルールは、荻生徂徠の象と
同じく角行

と考えざるを得ない。以上のように、本ブログでは
考える。(2019/03/08)

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古代中国の17路囲碁盤には聖目が無いようだ(長さん)

以前本ブログでは、将棋の聖目は、古代中国の17路の囲碁盤
に、5・4・4と、9つの星が付いていたのが起源ではないか
との旨、述べた事があった。しかし、

どうも、これは間違いだった

らしい。中国の古代の囲碁盤について、17路のものを書いた
絵画が、ウイグル自治区のトルファンのアスターナ古墳で発見
され、その囲碁盤には、

聖目(星)が書いていない

ように見えるためである。
 絵画は、日本の江戸時代の浮世絵に、似たような構図のもの
があるが、美人が一人で、囲碁を研究しているようなものであ
る。”仕女奕棋図”とか”囲碁仕女図”とか、言われている
らしい。唐代のシルクロード沿いの節度使が、トルファンを
支配した時代のもので、日本で言うと、飛鳥時代の末期から、
奈良時代に掛けて、7世紀から8世紀頃の絵画らしい。
 絵の全体の特徴は、美人が日本の正倉院の鳥毛立女屏風に
似ている点が特に、今の美術史では著名らしい。成書では、
”正倉院への道”米田雄介ら、雄山閣出版、1999年等にも
2箇所で重複して紹介がある。我々にとっては、碁盤・遊戯盤
が、どう書いてあるかの方が、美人の姿よりも肝心だが。
 そこで、囲碁盤だが、列が16路、段が17段のように見え
る。脚は正倉院の宝物の、囲碁盤と同じく古代の床脚である。

仕女奕棋図.gif

碁石が書いてあるので、判断が難しいが、聖目が書いてあるよ
うな形跡は無い。

列の路が1筋少ないが、17路盤を書こうとしたと、一応推定
できる。しかし、升目として見方を変えて、

升目を4つづつ、4つのグループに区分けするような、聖目を
書いたとの、証拠は、少なくともこの絵からは、見出せない。

 前の議論は、新安沖沈没船出土将棋盤(?)の、升目が15
の盤で、後期大将棋の将棋盤風に、升目群を5升目ごとに、
3区分しているように見えたため、その以前に中国に、古代の
囲碁盤の路を、17路であるから16升目と見方を変えて、
4升目で塊を作って、4つで16になるように、聖目が書いて
あるものがあって、それがデザインの元かと、私が思ったと、
言うものであった。しかし実際に、17路囲碁盤ではないかと
思われる、中国系の古代”囲碁仕女図”の盤を見てみると、

そうでは無いとする、史料が、少なくとも1つは有る事を示す

ようである。
 東福寺難破船(新安沖沈没船)が、大陸との間を往来してい
た船であるため、15升目将棋盤(?)が、大陸文化の伝来物
のようなイメージがあったのだが。そう決め付けるのは、間違
いだった可能性も、有るようだ。
 更に、調べてみようとは思うが、

日本の将棋盤の聖目のパターンは、もともと国内起源である事
も、視野に入れる必要が、ひょっとすると有るのかもしれない

と見られるようになったようである。(2019/03/07)

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摩訶大大将棋。大阪電気通信大学ルール旧バージョン(長さん)

表題の件については、現行の大阪電気通信大学ルールに関し
ては、言うまでも無く、大阪電気通信大学高友幸研究室の、
”摩訶大将棋のブログ”のページで最近の項目に載っている。
 ただし、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、

水無瀬宮保存の巻物

に準拠したルールには、今のルールはなって居無い。

水無瀬の将棋纂図部類抄記載のルールに対して、高見友幸氏
が、”全部は正しいとは限らない”と主張

し出したからである。陰陽道との繋がりで不都合があるとの
考えが、高見氏にはある。詳しくは、該ブログの最近のペー
ジを参照されたい。ただし、

旧ルールは大阪府の島本町にある水無瀬宮保存の巻物に準拠
しているという点で、それはそれで貴重な研究成果

である。将棋纂図部類抄はたとえば関東圏では、江戸時代の
前田藩書写巻物しか、都立中央図書館等で入手する以外、入
手困難だからだ。
 他方本ブログでは、

大阪電気通信大学摩訶大(大)将棋の昔のルール

等の名称で、該旧バージョンの大阪電気通信大学高見研究室
ルールに、何回か言及してきた。
 最近、少し前まであった、旧ルールのページが削除された
ようなので、該旧バージョンの具体的内容について、以下に
示しておく事にしたい。
 内容がオリジナルと違っているとすれば、本ブログの記載
がチグハグになるはずで、原因は高見氏と本ブログの管理人
との間の、伝達時の問題と判るという効果も、期待できるだ
ろう。なお、丹念に読めば、高見友幸研究室の摩訶大将棋の
ブログの過去の記載から全て、旧ルールの内容については、
今の所は、判るといえば、わかるはずの物である。では、
早速記載を始める。
大阪電気通信大学摩訶大将棋のルール旧バージョン

摩訶大将棋、摩訶大大将棋の指し方

001.19×19の361升目の将棋盤の下から歩兵段
までで、6段に駒を並べる。7段目に仲人がおのおの2枚
づつ。6段目までが陣地であり、走り駒、踊り駒(後述)
と獅子・狛犬の成りルールに関係する。駒の総数は、相手
自分ともに、96枚ずつで、合計192枚になる。
終局条件について、駒枯れ・千日手引き分け、禁手負けが
無い限り、相手の玉将、自在王、王子を全て取れば勝ちで
ある。
002.取捨てで、持ち駒ルールは無い。ただし、提婆と
無明に、特殊な入れ替わりルールがあり、この駒の成った、
教王と法性は、玉将や王子、または同種の駒で取らない限
り、盤上から消えない。
003.成りは相手陣の6段目以内の、相手駒を取った
ときに、走り駒と踊り駒、獅子・狛犬が成る。成りは強制
で不成りは選択できない。ただし、麒麟と鳳凰は、踊り駒
だが、このルールに関して歩み駒に入る。桂馬と驢馬は、
歩みの類。夜叉、飛龍、猛牛は、踊り駒。
走り駒と踊り駒以外の、歩み駒、小駒の成りは、ルールが
違う。
004.麒麟、鳳凰、桂馬と驢馬および歩み駒は、相手の
駒を取ると、取る位置に関係なく成る。成りは強制で、
不成りは選択できない。
 以上の点が、日本将棋と大きく違う。
005.提婆、無明およびその成り駒の、教王、法性を
取った駒は、玉将と太子と自在王を除いて、相手の駒と
入れ替わり、
提婆か教王を取った駒は教王に、
無明か法性を取った駒は法性に
変化する。
このルールは強制で、変化しないを選択できない。
玉将と酔象の成りである王子で、これら4種の駒を取った
場合は、玉将は自在王に強制成り。王子は変化しない。
006.以下、踊りの動きについて説明する。
以下2、3、4・・の踊りとは、N踊りと表現する。踊り
では、可能な歩み動きをN歩繰り返して、達成される升目
に駒を動かした後に、間の駒のうち、相手の駒を任意に取
れるという動きを指す。ただし、途中経過する目に、味方
の駒が居ても通過できる。また、N踊りのケースは、1、
2、・・N-1歩目の升目には、N踊り駒は到達できない。
獅子、奮迅、狛犬、法性、教王等の例外を除くが、一般的
には通過して、N歩目の升目で止まれるだけである。
007.ここで、踊りのうちで、特にある方向だけに直線
的に歩む場合の踊りを、正行度の踊りと称する。特に言及
しない場合踊りとは、正行度踊りの意味で使う場合がある。
008.獅子および奮迅については、踊りが特殊で、
不正行度の踊りと表される。単位となる歩む動き1歩が、
定方向ではなくて、玉将の8方向歩みになるためである。
特に獅子と奮迅については、1不正行度踊り、2不正行度
踊りは何れも可能で、中身の詰まった踊りに例外的になる。
009.2不正行度踊りする動きで、2歩目が元の位置に
なる場合でかつ、相手駒を取るケースを特に居喰いと呼ぶ。
010.居喰いする駒は、獅子、奮迅のように1・2不正
行度踊り駒だけとは限らない。元々正行度の3踊り(中も
充填踊り)駒である狛犬も、不正行度踊りのうち、居喰い
だけは、不正行度で例外的にするという、特殊なルールが
ある。
021.玉将は最下段の真ん中に置く。八方歩み。
玉将は自在王に成る。
022.自在王は、盤面のどこへでも移動できる。ただし
自在王は、相手駒を取った時に、ただちで相手の他の駒で、
取り返される位置へは、取る相手が玉の類でも行けない。
023.王子がない場合、玉将か自在王が無ければ負け。
つまり玉将か自在王が無くても、酔象の成った王子が有れ
ば、この将棋では負けにならない。
024.玉将の左横に提婆を置く。反時計回りに横倒し
た金将の動きで、後退できない。
提婆は、前、左前、左横、左後ろ、右横の5方向歩み。
025.提婆は、相手の駒を取り教王に成る。
026.教王は八方に奔王の動きで走ると、八方3踊り
(ただし中身が詰まった)の狛犬の、主な動きを兼ねる。
入れ替えルールが適用される。
027.玉将の右横に無明を置く。順時計回りに横倒し
た金将の動きで、後退できない。
無明は、前、右前、右横、右後ろ、左横の5方向歩み。
028.無明は、相手の駒を取り法性に成る。
029.法性は八方に奔王の動きで走ると、不正行度
充填型2踊りの獅子の動きを兼ねる。入れ替えルールが
適用される。
031.提婆・無明について何れも横袖に、金将を置く。
金将は日本将棋の金将の動き。
金将は、前、斜め前、横、後ろの6方向へ歩み、斜め後
ろへ行かない。成ると奔金。
奔金は、金将の歩む方向に走る。
032.金将の横袖に銀将を置く。銀将は日本将棋と同じ。
銀将は斜めと、前升目の5方向に歩む。横と後ろへ行か
ない。成ると奔銀。
奔銀は、銀将の歩む方向に走る。
033.銀将の横袖に銅将を置く。銅将は中将棋の銅将
と、動きが同じ。
銅将は、前と斜め前と後ろの4方向へ歩む。奔銅に成る。
奔銅は銅将の歩む方向に、走る。
034.銅将の横袖に鉄将を置く。鉄将は前と斜め前歩。
鉄将は奔鉄に成る。
奔鉄は、鉄将の歩む三方向に走る。
035.鉄将の横袖に瓦将を置く。
瓦将は斜め前と後ろの3方向に歩む。瓦将は奔瓦に成る。
奔瓦は、瓦将の歩む3方向に走る。
036.瓦将の横袖に石将を置く。石将は斜め前に歩む。
石将は奔石に成る。奔石は石将の歩む、斜め前に走る。
037.石将の横袖に土将を置く。土将は前後に歩む。
土将は奔土に成る。奔土は前後に走る。
038.土将の横袖は端列で香車を置く。香車は前に走る。
香車は金将に成る。金将はこの段の、中央2列目に居る。
041.第2段目中央。玉将の前に酔象を置く。
酔象は、後退できない7方向歩み。王子に成る。
王子は玉将と同じく八方向歩み。
王子が有れば、玉将または、その成りである自在王が無く
ても負けにならない。
042.酔象の両隣に盲虎を置く。
盲虎は前進できない七方向歩み。盲虎は奔虎に成る。
奔虎は、盲虎の歩む7方向に走る。
043.盲虎の隣に、摩訶大大将棋では直ぐに猛豹を置く。
猛豹は、前後斜めの6方向歩み。猛豹は横に行けない。
猛豹は成ると奔豹。奔豹は猛豹の歩む方向に走る。
044.右猛豹の右隣袖に臥龍、左猛豹の左隣袖に蟠蛇。
045.右袖の臥龍は、金将の前後反対の動き。
臥龍は、前と両横、斜め後ろと後ろの六方向歩み。
臥龍は奔龍に成る。奔龍は臥龍の歩む方向に走る。
046.左袖の蟠蛇は、銅将の前後反対の動き。
蟠蛇は前と斜め後ろと後ろの4方向歩み。蟠蛇は奔蛇に成。
奔蛇は、蟠蛇の歩む方向に走る。
047.右袖の臥龍の右横は空き升目で次ぎの升目に古猿。
古猿は、銀将の前後が反対の動き。
古猿は、斜めと後ろ5方向歩み。古猿は山母に成る。
山母は古猿の歩む方向に走る。大阪電気通信大学のバージョ
ンでは山母は前に歩まない。
048.左袖の蟠蛇の左横は空き升目で次ぎの升目に淮鶏。
淮南子の鶏の意味と見られる淮鶏は、前進できない金将動き。
淮鶏は、斜め前、両横、後ろの5方向歩み。
淮鶏は、仙鶴に成る。仙鶴は淮鶏の歩む方向に走る。
将棋纂図部類抄と将棋六種之図式で、ルールが別である。
049.右古猿及び、左淮鶏の両袖隣は空升目で次ぎ猫叉。
猫叉は、斜め四方に歩む。猫叉は奔猫に成る。
奔猫は、角行の動き。奔猫は猫叉の歩む方向に走る。
050.猫叉の両袖隣は空き升目で、次ぎが端筋で反車。
反車は、前後に走る。反車の成りは金将。
061.三段目中央、酔象の前に、獅子を置く。
獅子は不正行度で2踊りする。居喰い可能。またこの踊り
は特殊で、1踊り、すなわち隣接升目での、停止もできる。
不正行度の踊りは特定の1歩みが玉将の動きで構成される。
従って2升目先の24升へ移動可能。また中将棋と異なり、
摩訶大将棋の獅子には、獅子に関する特別な規則は無い。
中将棋の獅子とは、このほか、隣接升目が全て味方の駒で
埋められていても、じっとの着手ができる点が違う。これ
は大阪電気通信大学で新発見された、踊りルールである。
062.獅子の両隣に左に麒麟、右に鳳凰を置く。
065.左の麒麟は、縦横4方向に正行度で2踊りし、
斜めに歩む。麒麟は踊り駒。ただし成り則は小駒の扱い。
麒麟は獅子に成る。獅子については、ひとつ前に述べた。
066.右の鳳凰は、斜め4方向に正行度で2踊りし、
前後左右に歩む。鳳凰は踊り駒。ただし成り則は小駒。
鳳凰は奔王に成る。
奔王は、八方に走る。
068.左麒麟、右鳳凰とも、両袖隣に悪狼を置く。
悪狼は前、斜め前、両横の5方向に歩む。
悪狼は、奔狼に成る。奔狼は悪狼の歩む方向に走る。
069.悪狼の袖隣は空升目で、その隣に盲熊を置く。
070.盲熊は、大局将棋の盲熊の動きを採用。
盲熊は、両斜め前後と両横の6方向に歩む。
盲熊は、奔熊に成る。奔熊は中将棋の奔猪の動きを採用。
桂馬跳び、2升目先跳び等はしない。
奔熊は、盲熊(大局・摩訶大)の歩む方向に走る。
071.盲熊の両袖は空升目で、次ぎに嗔猪を置く。
嗔猪は、後ろに後退しない嗔猪。嗔猪は前と横の3方向歩。
嗔猪は奔猪(摩訶大・水無瀬)に成る。
奔猪(水無瀬)は嗔猪(3方歩)の、歩む方向に走る。
072.嗔猪の両袖横は空升目で、次ぎ升目に老鼠を置く。
老鼠は、前と両斜め後の3方向に歩む。
老鼠は、蝙蝠に成る。蝙蝠は老鼠の歩む方向に走る。
073.老鼠の両袖は空升目で、3段目の端列になる。
081.4段目中央、獅子の前に狛犬を置く。
狛犬は八方3踊りの”狛犬の主な動き”に加え、隣の任意の
升目の相手駒を居喰いする、大阪電気通信大学ルールを適用。
なお、狛犬の主な動きについて。通常の正行度動きの中抜き
ではなくて、隣接升目にも行け、また2踊りも兼ねる、獅子
の動きに似た、特例が適用される。
狛犬は金将に成る。
082.狛犬の右に金剛、左に力士を置く。
083.金剛は前後左右4方向に正行度で3踊り。隣接升目
行きと2踊りは出来ない。更に斜め前の2方向に歩む。
金剛は、金将に成る。
084.力士は斜め4方向に正行度で3踊り。隣接升目行き
と2踊りは出来ない。更に両横の2方向に歩む。
力士は金将に成る。
085.金剛の右隣に夜叉を置く。
夜叉は、斜め4方向に2踊り、隣接升目に行かない。又前歩。
水無瀬兼成将棋纂図部類抄、摩訶大大将棋特有。下記に図示。
夜叉(水無瀬兼成の将棋纂図部類抄・摩訶大大将棋)
口口口口口口口
口着口口口着口
口口喰歩喰口口
口口口元口口口
口口喰口喰口口
口着口口口着口
口口口口口口口
元:元の駒位置。喰:踊り喰い。着:2踊りの行き先。
なお将棋纂図部類抄の”歩”の位置に関して、注記が見える。
最近の大阪電気通信大学ルールに採用されていないが、文献
に残る、興味深い記載である。
夜叉は、金将に成る。
086.力士の左隣に羅刹を置く。
羅刹は前に行けない金将動きで斜め前に3踊り隣接升目不行。
羅刹は両横・後3方歩み、斜め前2方3踊りで、歩と2踊は
出来ない。
羅刹は金将に成る。
091.夜叉と羅刹の両袖隣に飛龍を置く。
飛龍は斜め4方向に2踊り、歩まず。飛龍は金将に成る。
092.飛龍の両袖隣は空升目、その先隣に猛牛を置く。
猛牛は、前後左右に2踊り、歩まず。猛牛は金将に成る。
093.猛牛の両袖隣は空升目、その先隣に桂馬を置く。
桂馬は斜前の2升目先に跳ぶ。大阪電気通信大学ルールでは、

桂馬跳びではない。

桂馬は、金将に成る。
094.桂馬の両袖隣は空升目、その先隣に驢馬があり端列。
驢馬は前後に2升目先に跳び、両横2方向歩み。
驢馬は、金将に成る。
101.5段目、狛犬の前升目に奔王を置く。
奔王は八方走り。不成り。
102.奔王の右隣に鉤行を置く。
鉤行は、必ず折れ曲がりながら飛車の動きを2回繰り返す。
駒をひとつ取ったら、その先へは行かない。後戻りしない。
鉤行は金将に成る。
103.奔王の左隣に摩羯を置く。一般に魚辺で”カツ”を
書かないと誤字との説が、将棋史学会では強い。私見だが、
西洋星座の”やぎ座”が、”まかつ”の源であるから、誤字
ではないと、本ブログでは考える。”台風に追っかけられ魚
に化けそこなった、現代星座やぎ座の神話”を参照されたい。
摩羯は折れ曲がりながら、角行の動きを2回繰り返す。ただ
し、相手駒を一つ取ったら、そこから先へは行けない。後戻
りできない。
摩羯は、金将に成る。
104.鉤行と摩羯の両方の袖隣に龍王を置く。
龍王は縦横に走り、斜め4方向に歩む。龍王は不成り。
105.龍王の両袖隣に龍馬を置く。
龍馬は斜め4方向に走り、前後左右に歩む。龍馬は不成り。
106.龍馬の両袖隣に角行を置く。
角行は斜め四方向走り。角行は金将に成る。
107.角行の両袖隣に堅行を置く。
堅行は前後2方向に走り、両横2方向歩み。堅行は金将成り。
108.堅行の両袖隣に横飛を置く。
横飛は、両横2方向走り、斜め4方向歩み。横飛は金将成り。
109.横飛の両袖隣に横行を置く。
横行は、両横2方向走り、前後2方向歩み。横行は金将成り。
110.横行の両袖隣に、左に左車、右に右車を置く。
111.左車は右斜め前左斜め後ろ前3方向走り、左横歩み。
左車は金将に成る。
112.右車は左斜め前右斜め後ろ前3方向走り、右横歩み。
右車は金将に成る。
113.左車、右車共に、その両袖横に飛車を置く。端列。
飛車は前後左右4方向に走る。飛車は金将に成る。
120.端列を繰り返すと、車駒と例外的に驢馬で構成され、
1段目から5段目までで、香車、反車、空升目、驢馬、飛車
となっている。
131.第6段目に歩兵を19枚並べる。ここまで自陣内。
歩兵は前に一歩歩む。金将に成る。
135.第7段目角行の2つ前の升目に、仲人を左右に置く。
仲人は、

前後に加えて、水無瀬の将棋纂図部類抄、大阪府島本町の
水無瀬神宮巻物、(後期)大将棋の図を参照して、左右横、
以上計4方向に、大阪電気通信大学ルールでは歩む。

 この解釈は、水無瀬宮巻物の大将棋仲人の横打点は、後世
の中将棋後注釈部”仲人”解釈を誤った、水無瀬宮巻物書写
者の加筆とみる本ブログでは、この仲人横歩み動を、別の所
では採用していない。大阪電気通信大学ルールは、あくまで、

江戸期?水無瀬宮巻物書写物作成者個人の解釈に基づくもの

と、本ブログは断定する。なお書写者は、兼成の印鑑を所持
していたとみられる。
 つまり書写巻物作成者は中将棋後注釈部”仲人”の説明で、
”仲人は横へ行けないので、相手陣で酔象に成る”の記載を
”仲人は横へ行けない。相手陣で酔象に成る。”と、横と、
で(立)、の間で、改行が無いにもかかわらず、

理由づけを、ルールそのものと解釈してしまう間違い

を犯している。動かし方のルールが書いてあると巻物編集者
は勘違いしたので、後期大将棋の仲人部分を、オリジナルか
ら改変したというのが、我々の見かただ。だから本ブログは、
この大阪電気通信大学のルールは、そこだけのルールと見る。
なお、将棋纂図部類抄水無瀬宮巻物中将棋後注釈部”仲人”
には、実際には次のように書いてあると読む。横に読んでか
ら下の段へ進むと考える。
 仲人は横へ行けないので、相手陣で酔象に成る。
 ある説によると、獅子は居喰いができるという。
 仲人は自陣の外(実際にはすぐ前の段)に置く。
 鳳凰や仲人等の駒の動かし方ルールは、(中将棋では)
 大将棋と同じである。
”ある説によると”が、何処まで掛かるのかは、現代語訳し
ても、曖昧だが、今訳した所には、仲人の動かし方のカテゴ
リーに分けられる、内容の記載そのものがない。だから、
大将棋の図で、”それとツジツマを合わせる必要性”そのも
のが、本来見当たらないのである。
 前田藩書写本の後期大将棋の仲人が、仲人本来の動きに
なっているのは、前田藩が江戸時代に、本ブログと同じ見か
たをした上で訂正したためと、本ブログでは考える。
136.仲人は奔人に成る。大阪電気通信大学ルールでは、
奔人は、前後左右に走る。奔人は飛車の動きと同じになる。
138.ここでは、仲人に関する更に特別なルールは、
”その後更新された、旧バージョンでは無かったルール”と
しておく。
141.千日手は、連続王手ないし、駒取りが掛かった場合、
掛けた方ないし、掛け始めた方から、変えなければならない。
通常の千日手は、協議により引き分け。
150.その他の細則は、定まっていない。

以上の、概ね100条弱程度のルールと、私は解釈している。
以上は、特に何も見ないで記憶で書いた。のでオリジナル
と、違いが酷いようでしたら、御教示頂けると助かる。
 なお、前に紹介した、”早繰り無明対策の棋譜の例”では、
以上の旧バージョンのルールに準拠して、局面を設定してい
る。ただ、横飛の前の離れ駒の歩兵は、余りに気になったの
で、桂馬のルールだけ、普通の桂馬跳びに変えている。 以
上は単なる棋譜の例であるから問題ないとして、一応、その
際には旧ルールの棋譜例を出した。実際には表計算ソフト、
エクセルで、手作業で、新しいルールでの将棋を指すかどう
か、だけの話である。(2019/03/06)

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囲碁盤の聖目。現在と同じ9星で古い史料(長さん)

前に、将棋を18×18升目で、囲碁盤を兼用して行わな
かった理由として、聖目のパターンが自陣3段の場合しか、
使えないという点を指摘した。その際、平安末期から、今
の囲碁盤の9星の聖目(星)パターンになったのだろうと
述べたが、今回は裏づけとなる史料を挙げる事にする。

源氏物語絵巻に出てくる囲碁盤は今の聖目パターンである

可能性が強い。それ以前については、証拠を挙げるのは、
けっこうしんどいと思われる。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
 囲碁盤の古いものとしては、正倉院の宝持の囲碁盤が
有名だが、

聖目が今のパータンと違い、17目有る。

周囲の9星の間に、それぞれ一つずつ星が有って、四方で
8星増えて、17星になるのである。ただし、その場合も、

将棋盤として使うと、18升目制の自陣3段将棋に適する

事には変わりがないので、一応議論に影響はない。
 囲碁盤の星が9つではないかと思われる史料で、比較的
古いのは、12Cの前半に成立したと言われる、

徳川美術館所蔵の源氏物語絵巻に出てくる逆L脚の囲碁盤

である。

源氏物語.gif

上の図で、黒番右袖下の星が元来あるはずの部分には、既
に石が置いて有るように見え、隠れているが、その手前方
の中央列の、赤い矢印で示した、黒丸は、石よりも大きさ
が小さいので、私には聖目が書いてあるように見える。
 この絵では、
その他の聖目は、人物の体や袖などで、隠れているはずだ。
だから、

12Cに成立した、源氏物語絵巻の碁盤の聖目パターンは
現在とたぶん、同じだろう

と、私には思える。
 ちなみに、絵画では、聖目や碁石は、省略されるものも
多いので、判定は厳密には難しいだろう。
 例えば下の例は、16世紀後半の、厩図と同じか少し後
の、狩野派の画家による襖絵である。聚光院方丈壁画と呼
ばれ、その絵の中に囲碁盤がある。この囲碁盤には、前に
紹介した厩図の囲碁盤と同じで、碁石・聖目は正しく書か
れて居無いようである。

聚光院方丈壁画.gif

 なお縦横の線についても言うと、路の数は、列が19で
正しいが、恐らく体裁を整えるため、

厩図と聚光院方丈壁画の囲碁盤は、段が24~5路程度
で、実物より、ほぼ同じパターンで線が多い。

厩図と聚光院方丈壁画とで、どちらが早いのか、正確には
私は知らないが、

狩野派同士で、囲碁盤の筋のフォームを合わせているのは
明らかだ。

 なお、聚光院方丈壁画は中国人が囲碁を打っている絵。
厩図は、日本人が囲碁を打っている絵である。そのため、

聚光院方丈壁画の囲碁盤には足が無く、欄干の間から見え
るように、別の大きな床脚の有る台座に、碁盤が乗ってい
る形になっているようである。

 恐らく、少なくとも狩野派の絵師には戦国時代、碁盤の
足のパターンが、中国と日本とで違うと共通認識

されていたのであろう。
 聚光院方丈壁画の囲碁盤と厩図の囲碁盤とを比較すると、

蓮座形の木の囲碁盤脚が、どうやら国内起源であるらしい

という事も、少し見えてくるようだ。(2019/03/05)

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広将棋譜愚解。せきやど図書館版は、袋とじ1枚分不足(長さん)

前に述べたように、荻生徂徠の広将棋のルール本である
広将棋譜愚解の千葉県野田市の、せきやど図書館所蔵分
は、webに電子閲覧すると明らかに、広将棋の配列で
4~7段目の駒の動かし方ルールが記載された、2ペー
ジ分が飛んでいる。そこで、さいきん現地へ行き、実際
に該当古文書を確認した。

袋閉じで、文書が書かれた紙が続いていて、2ページ分
の一枚が無いよう

に見えた。
 では以下に、経過を説明しよう。
 webの電子図書を見ただけでは、用紙が1枚四ペー
ジで使われているのか、袋とじでオモテ面だけに、字や
絵が描いてあり用紙1枚で2ページであるのかは不明で
あった。そこで実際に、千葉県野田市にある、
せきやど図書館の3階に行き、図書館の事務室で、現物
をチェックしてみた。
 綴じは、近年に処理されたものであったが、綴じてか
ら破られた跡は無いようだ。袋とじで2ページづつ、連
番で、コンテンツが記載されている形になっている古文
書で、概ね馬兵から先鋒までの、駒の動かし方ルールの
記載された、一枚だけが無いようであった。

袋綴形式のため、前方のページが抜ける事がなく、最初
から無いのか、編集のとき間違えたのか、落丁なのか
よく判らなかった。

 ただし、その後の、成りの特殊ルールの部分の記載が、
国文学研究資料館の新日本古典書籍データーベースにあ
る広将棋譜愚解とは違って、全部漢字なため、

版が別な広将棋譜愚解が、2種類有る感じが依然する。

 国文学研究資料館の新日本古典書籍データーベースに
ある広将棋譜愚解と、ページ構成は、象のルールまでいっ
しょで、そこで改ページされている。ので、やはり元々、
せきやど図書館蔵にも、馬兵~先鋒の駒ルールは、有っ
たような気もするが、残念ながら判然とはしなかった。
 なお、現物はwebの内容と確かに同じだ。図書館の
一般書籍のコーナーにも、複写物は館内閲覧、貸し出し
禁止用図書として置かれていた。
 以上で今回の論題は、ひとまず終わる。
 ちなみにここの図書館については、行った日は雨で、
客が少なく、空いてて快適だった。
 やはり持ち出し禁止だったが、増川宏一氏著書の、
ものと人間の文化史23-2、将棋Ⅱが、広い図書館内
で、ゆったりと、日がな一日閲覧できた。
 また帰りがけだったが、関根金次郎記念館(同じ建物
の5階)にも寄った。日本将棋を中心に図書が、かなり
多く置かれていたが、書棚のスペースが限られていて、
2列積みだった。ありきたりの建築師が設計した、周囲
の会議室を適当に潰して、ここの物品や別カテの図書を、
移し、日本将棋本をもっと余裕で置いた方が、建物自体
が、もともとゆったりとして大きいのに、5階の記念館
の図書の保管庫がやや狭苦しく、建物スペースの、やや
不経済な使い方のように、私には思えた。
 日本将棋以外の日本の将棋、将棋の歴史、世界のチェ
ス・象棋関連の本が少し、関根金次郎記念館にはあった。
が、今の所名人と、これら記念館から見て”特殊な分野”
との、強いつながりを示唆する情報は無いと思う。
ただし”中将棋が元々中国で指されていたものである。”
との間違っていて、当時も不確かだった情報が存在し
た事に関して、関根名人が生前、流布した事情を説明した
事実がある。
 岡野伸氏の書籍と共に置いてあった、”マックルック”
や中国シャンチーのかなり大振りの盤駒は、増川宏一氏
や山本享介氏の著書、将棋の来た道や、持駒使用の謎等

本ブログの世界の本

といっしょに、関根金次郎記念館の近くの、別の現
”会議室”等で、別途展示していても、特におかしくは、
ないのではないかと思われる。ちなみに今回話題にした、
千葉県野田市せきやど図書館の広将棋譜愚解は、”この
史料については、元々関根金次郎十三世名人の、所有物
という訳でも無かった”と言う話を、せきやど図書館内
で聞き取っている。(2019/03/04)

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広将棋の著、広将棋譜愚解に自陣三段目駒ルール迄の物有り(長さん)

荻生徂徠の広将棋は、徂徠の没後約50年後に、広将棋譜愚解
としてルール本が、提示されたと言われる。世界の将棋で、
ルールが紹介され、wikipediaのルールは、判りやす
く記載されている。古文書と比べても、抜けは見当たらない。
 ところでまだ仔細不明だが、
千葉県野田市(旧関宿町)東宝殊花にある、将棋の13世名人

木村金次郎関連の図書館、野田市せきやど図書館蔵の、
広将棋譜愚解には、4~6段目駒のルール記載が見当たらない

のに、最近私は気がついた。
 web上に、電子図書形式で、中身の閲覧のできるページが
野田市の図書館紹介のページであり、そこで内容を見て判った
のだが、

駒の動かし方ルールで、象のルールで書物の主な内容が終わり

のようなのである。
 以下に、駒の動かし方の説明が終わり、相手陣に入らなくて
も成れる、特例についての記載が続く部分を示す。

広将棋譜愚解.gif

 上の図のように、野田市せきやど図書館の広将棋譜愚解のバー
ジョンは、駒の動かし方の説明が、車、前峰等で終わらず、
象で切れていて、4段目以降の説明が、無いように、私には見
える。
 世界の将棋は、別の広将棋譜愚解の文書を参照にしたのだろ
うか。

それとも、馬兵から上段の駒のルールは後作なのか。後者だと、

幸田露伴の将棋雑考や、本ブログの前の記載に解釈誤りが有る

事になる。つまり、広将棋の、4段目から6段目の駒のルール
の、なんとなくの出来の悪さ、特に騎総のルールが、強すぎて、
玉がトン死してしまう問題は、

後世のツクリ物のせい

という事も、疑われると言う事だ。つまり、

広将棋のオリジナルの出来は、もっと良かったが、後に改変

されたという意味である。
 以前、埼玉県北葛飾郡杉戸町の鷲巣等へ行った帰りに、埼玉
県春日部市の西宝殊花へ寄り、様子を本ブログで紹介した事が
有った。そのときうっかり、江戸川を渡らず、”将棋書の宝庫”
をどうやら見逃したようである。なので、近々、千葉県野田市
東宝殊花の、将棋十三代名人関根金次郎生誕地記念と見られる
”せきやど図書館”へ行って、広将棋の本を、実際にチェック
してみようかと、思っている。
 蛇足だが昨日まで、”せきやど図書館”は、蔵書の整理で、
休みだった。
 なお、国文学研究資料館の新日本古典書籍データーベースに
広将棋譜愚解があり、象の後、先鋒までの2ページ分が、書い
てあるのを、その後みつけた。千葉県野田市せきやど図書館の
WEBにも出ている広将棋譜愚解では、単に抜けていただけな
のか。webを調査して、現時点で以上の事実認識となった。
(2019/03/03)

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囲碁盤兼用の18×18升目の将棋。なぜ作られなかった(長さん)

本ブログで再三述べたが、摩訶大大将棋は少なくとも通説
では、囲碁の路数とおなじ数の、盤升目19×19、
361升目を使用する将棋である。361という数字が、
囲碁の場合も、一年の日数と関連が有ると、少なくとも日
本の中世には考えられており、将棋も、それに習ったもの
である事は、虎関師錬の異制庭訓往来や、水無瀬兼成の、
将棋纂図部類抄から明らかである。これは

ようするに、囲碁盤と、将棋を関連づけたものとみられる。
が、361にこだわらず、18×18=324で我慢して、
升目と見立てて、その中に特注小ぶり将棋駒を並べ、物を
大切にするはずの昔の人が、囲碁の道具を将棋に兼用しな
かったのは何故

なのか。以上を、今回の論題にする。
 回答を最初に書いて、後で説明を加える。

囲碁盤の9つの聖目に、昔の人は大いにこだわっていた。
聖目の下の段に、歩兵列を作り、自陣がそこまでになると
いう発想に固執した。そのため、18升目で自陣が3段の
将棋を、作るわけにも行かなかったから、18升目の将棋
は、ほとんど作った痕跡が残らなかった

と考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 そもそも、18×18升目の将棋が作れるのかと言えば、

作れる。

19×19升目の摩訶大大将棋と、17×17升目の、
プロト摩訶大大将棋については、本ブログで紹介済みであ
る。
 奇数升目から、偶数升目への拡張を、中将棋を参考にす
るとして、前に紹介した17×17升目の、
プロト摩訶大大将棋から18×18升目の将棋を作ると、
一例では、奮迅、夜叉、羅刹を1枚ずつ敵味方に加えて、
168枚制を174枚制にするとすれば、以下のようにな
るだろう。
 2分割したのでやや見辛いが、下の配列で、前半が先手
から見て、左袖から中央の列、後半が、中央列から右袖を
示している。コピーして、エクセルで読み込み、左右を
繋げれば判るだろう。なお、偶数升目将棋なため、下図で、
上と下のパーツは、同じ数の駒が並ぶ。

香車,土将,石将,瓦将,鉄将,銅将,銀将,金将,酔象
反車,猫叉,口口,古猿,口口,猛豹,口口,盲虎,鳳凰
驢馬,口口,嗔猪,口口,臥龍,口口,悪狼,口口,金剛
口口,桂馬,口口,猛牛,口口,飛龍,口口,夜叉,狛犬
飛車,右車,横行,横飛,堅行,角行,龍馬,龍王,奔王
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
口口,口口,口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
飛車,左車,横行,横飛,堅行,角行,龍馬,龍王,奮迅
口口,桂馬,口口,猛牛,口口,飛龍,口口,羅刹,獅子
驢馬,口口,嗔猪,口口,蟠蛇,口口,悪狼,口口,力士
反車,猫叉,口口,淮鶏,口口,猛豹,口口,盲虎,麒麟
香車,土将,石将,瓦将,鉄将,銅将,銀将,金将,玉将

玉将,金将,銀将,銅将,鉄将,瓦将,石将,土将,香車
麒麟,盲虎,口口,猛豹,口口,淮鶏,口口,猫叉,反車
力士,口口,悪狼,口口,蟠蛇,口口,嗔猪,口口,驢馬
獅子,羅刹,口口,飛龍,口口,猛牛,口口,桂馬,口口
奮迅,龍王,龍馬,角行,堅行,横飛,横行,左車,飛車
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口,口口,口口
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
奔王,龍王,龍馬,角行,堅行,横飛,横行,右車,飛車
狛犬,夜叉,口口,飛龍,口口,猛牛,口口,桂馬,口口
金剛,口口,悪狼,口口,臥龍,口口,嗔猪,口口,驢馬
鳳凰,盲虎,口口,猛豹,口口,古猿,口口,猫叉,反車
酔象,金将,銀将,銅将,鉄将,瓦将,石将,土将,香車

では、なぜ駒木地を小さく調整して、囲碁盤で上の将棋を
やらなかったのかと言えば、聖目が3段目と4段目の間に
有って、歩兵列と仲人列の間の所には来ないからだ。

将棋盤で、相手の側の聖目を跨ぐと、相手陣だ

という観念が、今と同様、昔の人にも有ったと想像される。

そう考えないと、18×18升目の将棋が、日本で作られ
た形跡が、ほぼ無いのが全く説明でない。

古いので単に記録が残らない可能性が、無いとは断言はで
きないが。
 高槻城三の丸遺跡から、江戸時代のものと見られる、

囲碁盤用に、将棋駒の大きさを調整したのではないかと
疑われる中将棋の駒が、多数出土しているので、”記録は
失われただけであり、痕跡が無くてもおかしくはない”
という考えは、若干分が悪い

ように、私には思える。
 前に述べたが、高槻城三の丸遺跡中将棋駒は、

周辺の3段3列を使わず、外側の聖目内を、中将棋の12×
12升目盤と見なして、囲碁盤で中将棋を指した

のだと、本ブログでは解釈している。
 18升目の将棋も、作ればよさそうな物だが、作らなかっ
たのは、

聖目が、陣の内外と紛らわしく、そこが大いに問題と、中世・
近世の将棋指しには考えられ、逆にそれまでして、囲碁盤に
こだわるほど、将棋盤には困っていなかったため、結局、
18升目将棋ゲーム、そのものが作られなかった

のだろうと、私は思う。
 材木は、もともと大振りなので、

将棋盤は将棋駒より作りやすい。

 将棋の道具は、小から大ではなくて、大から小であろう。
だから、将棋駒を多数作る方が、19升目の特注将棋盤を用
意するよりは、よっぽど骨が折れるのであり、聖目がズレて
いるのを我慢してまで、囲碁盤を活用しようとは、物が貴重
だった昔でも、しなかったのであろう。
 逆に言えば、

囲碁盤の現行の9星の聖目の位置は、平安末期も同様だった

という証拠の一つになると思う。
 また、将棋史にとっては、

”大大将棋と摩訶大大将棋に、敵陣、味方陣が無い”と言う
のは、江戸時代からの習慣であって、たとえば室町時代まで
は、摩訶大大将棋にも、”自陣”という概念が、かつては有っ
たらしい

という事を、薄く示唆している点で、ゲーム・ルール史を
解明する上で、重要なように思える。
 高槻城三の丸遺跡から、小ぶりの中将棋駒が、過去発掘さ
れた事は、小ぶりと言う点が、これまで大きく取り上げられ
たような気配が、私には感じられないが、

それ自身の中に重要な知見を含んだものだった

と結論できると思う。中世考古学は、文書学に隠れて、他の
歴史分野では注目度が、昔は低かったと聞いている。が、今
では、少なくとも将棋史では、史料としては明らかに花形だ。
今後更に、遺物がたくさん出土するよう、本ブログとしても、
心より祈りたいものである。(2019/03/02)

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