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なぜ江戸天文方から遠い島根県石見銀山で囲碁盛ん(長さん)

本ブログによれば、天文道や暦道からの働き掛け
により、その時代の囲碁が隆盛するかどうかが決
まるとの論を取る。その際、江戸時代なら天文方
に近い、江戸では効果が大きく、地方では緩やか
なはずである。所が、貞享改暦の頃より少し後に、
東京都や京都府からはかなり離れた、島根県の、
石見銀山付近で、囲碁が隆盛していたという話が
有る。今回は、この事実が、本ブログの論と矛盾
していないのかどうかを、論題とする。

説明可能である。鉱脈を発見する山岳修験者は
宿曜道師に近く、そうした者が集まる銀山の伝統
が、天文道や暦道による、囲碁の隆盛を引き起こ
していると考えられる。

では、論を開始する。
石見銀山で、囲碁が盛んであったと指摘するのは、
以下の成書である。
”囲碁史探偵が行く”、福井正明(囲碁九段)
西暦2008年、日本棋院。
 この成書の第33話、166ページから169
ページ付近に、記載がある。
それによると、西暦1703年頃から少し後の当
時の、島根県石見銀山付近の強豪囲碁棋士として、

吉田嘉右衛門、
出雲の強豪棋士として僧侶の劫雲坊(23歳)
古田徳右衛門、
古田甚右衛門、

以上の4名が居て、”今の県大会優勝者クラスよ
りも、恐らく上である”と書かれている。西暦
1780年代過ぎに成立した、島根県石見銀山付
近に在住の、恒松和惣太の棋譜録で、それが判る
という事である。同成書で”銀山が江戸直轄なた
め、江戸からの往来が当時あった。それにより新
定跡が早く入手できたのであろう”との旨が、
記載されている。以下私見だが。

そもそも囲碁自体が流行らなければ、定跡を知る
者が、仮に江戸から石見に来ても、鉱山関係の仕
事をしただけで、戻ってしまう

と私は疑う。

石見で、天文道や暦道に詳しく、渋川春海の遠隔
操作ロボットのごとくに、現地で囲碁を流行らす
仕掛人が、囲碁が流行っている事自体を説明する
には絶対に必要

だと、私は考える。が、恐らく、

天文道家的な人物が元禄時代ないしその少し後に、
島根県石見銀山には居た

のではないか。鉱脈が先細ってきた頃だと、上記
成書に書いてある。だから鉱脈探しを、幕府が指
示していた時期だとみるのが自然だ。所で鉱脈探
しは、修験者がしばしばするものだとの旨が、以
下の、別の成書に指摘されているように思う。
”金属伝説で日本を読む”、井上孝夫著、東信堂
西暦2018。
 上記成書の、14~16ページに、修験者が、
しばしば鉱山の、鉱脈の探索に関わっている事実
がある事が記載されているように、私には見える。
所で当時は神仏混合だし、修験者は仏教の修行を
する行者であるし、在来仏教の僧は概ね、仏典と
同様なレベルで宿曜道に明るいから、

鉱山の鉱脈探索の現場に、宿曜道、天文道や暦道
に心得を持つ修験者が、江戸~石見銀山を往来し
なから元禄時代頃に、現地で鉱脈捜索活動に携わっ
ていたと考えるのが自然

だと私は思う。占行為で鉱脈が見つかるわけでも
無かったろうが。もともと理科が得意であろうか
ら、天文道や暦道や、化学に関連した鉱脈探査が、
修験者の一部には出来るのだろう。だから彼には、
占星術のための天体の位置把握に関連した、囲碁
の普及力も備わっていると見るのが、自然なよう
に、私には思える。
 よって以上の事から。新鉱脈を発見する必要の
ある時代の、幕府直営で、江戸とのつながりの深
い主力鉱山では、陰陽道・暦道からの働きかけに
よって、囲碁打ちを付近の住民へ、推進するよう
な要因が生じやすいとは、言えるのでないか。
 つまり冒頭に述べたように、石見銀山で囲碁が
江戸時代の元禄期より少し後に流行っていたとい
う事実は、天文道や暦道と囲碁とに繋がりがある
という説に、完全に反するという要因にはならな
い事だけは確かだろうと、少なくとも私には思わ
れるのである。(2020/03/04)

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