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なぜ普通唱導集大将棋車駒三種は不自然感が無い(長さん)

以前述べたが本ブログに於いては、既に飛車の、
大将棋への導入は、徳島県川西大将棋時代の、
西暦1230年程度に有ると考えられている。
実証できるのは、だいたい西暦1300年頃成
立の、普通唱導集の大将棋唱導唄の第1節から
である。何れにしても本ブログでは、大将棋で、

飛車、反車、香車で、最初の3組駒が出来た

と考えている。なお、第三の飛車自体は、中国
シャンチーの普通の車や、更に前に伝来した、
東南アジア系か、イスラムシャトランジの普通
の車がモデルだと考える。何れにしてもこの史
論が妥当として、飛車の動きを考える事自体は
簡単で、かつ名称も、古代からある単語なので
可能だとは言える。しかしながら、平安大将棋
の作者が、それぞれ縦と横と斜め走りの3種類
の駒を作り、それぞれを奔車、横行、飛龍で表
したから、奔車が香車の前に来たのであろうが。

川西大将棋(仮説)の時点で2種を3種類の車駒に、
増量すること自体を不自然と思わなかったのは
なぜなのか、

一応普通唱導集の唱導唄が、その通りになって
いるので、事実として正しい事は確かとしても、

なぜ3組駒が、こうも早く簡単に作れたかのか

についてを、今回は論題とする。
 回答から書く。

 中国星座の、上・中・下台座から、思いつい
たのかもしれない。

 では論を開始する。
 平安大将棋が陰陽寮で作成されたと、ひとま
ず仮定する。陰陽道の占いでは、北斗七星が
占い盤の模様として描かれるほど、それとの連
想性が高い。平安大将棋は、西暦1110年に、
陰陽道流の星辰の運行に関連付けられて作られ
たと、川西大将棋の作者には、西暦1230年
より少し前に、了解されたに違いない。
 ところで北斗七星は、

中国漢代より天帝の乗る車

である。だから端筋に、北斗七星の車を連想さ
せる、車駒が大将棋で配列されたと連想しやす
いだろう。ところで、中国星座でも、

おおぐま座は、全体としてまとまりを持って
理解され、西洋星座の熊の足に対応する、
2星一組で構成される、3つある一列の並びに、

自動車の車体の下部を連想させる、上台座、
中台座、下台座という星座が存在する。

これらは、西洋星座で言う、おおぐま座ι・κ
星の組を上台、おおぐま座λ・μ星の組を中台、
おおぐま座ν、ξ星の組を下台の星座に、先頭
の西から、後続東に向かって、それぞれしたも
のである。つまり、

車輪は片側に3個のように、表現されている

とも取れる。なお漢代の壁画では、上、中、下
台を、天帝の乗る車の車体の下部とは、見てい
るように書かれて居ない。しかしながら、見よ
うと思えば、そう見るしか無いはずである。
 以上のような事は、平安大将棋から西暦12
30年頃に、

川西大将棋を作成するときに、考慮に入れられ
てもおかしくない

ように私には思える。平安大将棋は陰陽寮作だ
ったのだろうが。川西大将棋の作者も、陰陽道
に絡んだ者か、または、平安大将棋が、そのよ
うなもりである事を理解して、真似る程度の能
力を持った者の作だったのであろう。
 そのため、北斗七星の南方にある、おおぐま
座としてみる、熊の足先の3組の2星ペアを、
車輪と連想して、車駒を2種類から3種類へ、
自然に増やせたのではないか。モデルとしては、
だから、平安大将棋の初期陣形は全体として、
中国の天帝と、その乗る車のようなイメージの
形で、整形されるような方向で、まさしく陰陽
道流に進んだのでは無いか。
 以上のように、本ブログでは、推定するので
ある。(2020/03/16)

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