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岐阜市鷺山蝉遺跡発掘2007の王将写真(長さん)

岐阜県からの将棋駒の出土の発見例は少ないが、
表題の2007年、岐阜市での発見の王将駒は、
以前からweb上に公開されていた。
さいきんになり、
岐阜市教育文化振興事業団の発掘報告書が、
web上で見られるようになったようである。

岐阜市鷺山蝉王将.gif

報告書末備の奥付まとめ部等によると、将棋駒
の王将の出た現場は、戦国時代の掘立柱の所で
あるらしい。一乗谷朝倉氏遺跡に次ぐ、中部
地方での、王将駒の出土であろう。
なお、pdfファイルは以下の名前ものが、検
索するとhitして、ダウンロード画面に跳ぶ。
20220_1_鷺山蝉・鷺山仙道遺跡.pdf
pdfの表紙の表題は次の通り。
(財)岐阜市教育文化振興事業団報告書第15集
鷺山蝉・鷺山仙道遺跡
遺跡の場所は、
岐阜市大字鷺山宇閤蝉、宇車蝉、字問屋で、
鷺山蝉遺跡・鷺山仙週遺跡のうち、前の方の遺
跡で、将棋駒は2003年~2006年の調査
のときに出土したらしい。
 王将の裏が無地かどうかは確認できないが、
前記の写真から、多少細長だが厚みが厚くて、
近世に近くなっている。また、下部の方がここ
ろもち厚くなっていて、現代の駒に少しずつ、
近づいた時代のものである事が示唆されている。
何れにしてもこの追加情報は、調べている者に
とり、たいへんありがたい。(2020/04/30)

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増川宏一将棋Ⅰのイスラム圏15×15象棋は何者(長さん)

増川宏一氏の、ものと人間の文化史23-1、
将棋Ⅰ、1977、法制大学出版局の、97
ページ、Ⅲ日本の将棋、3平安時代の将棋、
大将棋の出現に、イスラムシャトランジ系の
駒数多数将棋の紹介が唐突にある。そこには、
3種の初期配列の自陣図の絵があるとともに、
”最も古い順に、10×11、12×12、
13×13、14×14、15×15の盤の
2人制象棋がある”との旨比較的簡単な記載
がある。今回は、このうち15×15升目盤
のイスラムシャトランジ系駒数多数将棋が、
他の文献にも、紹介が余り見当たらず、いっ
たい何者なのかについてを論題とする。
回答から書く。

スペイン象棋のグランドアセドレフに、イン
ドの14升目制アトランジの、女王、皇太子、
追加グリフォンと、3枚ポーンを各々に加え
たようなゲームなのではないか

と推定される。
 では、論を開始する。論が見えやすいよう
に、議論は末備から遡ってみる。まず、将棋
Ⅰの97ページの本文中のゲーム種は、次の
ゲームが、それぞれその内容だとみられる。
10×11盤:チムールチェス類で段が1段
少ないもの。
12×12盤:スペインの
グランドアセドレフ。
13×13盤:トルコの
シャトランジ・アル・カビール。
14×14盤:インド14升目制アトランジ。
なお、本ブログの見解では、12×12盤の
スペインのグランドアセドレフが最も初出が
早く、その他は盤が小さいほうから大きい方
へ順次出現したように思われる。14升目盤
のインドのアトランジは、女王があるので、
出来たのはかなり後だ。

だから15升目盤のゲームはかなり新しい物

と推定できる。なお、前後するが、増川氏の
将棋Ⅰの本文中では、図に示した一番上のゲー
ムである、イスラム圏での10×10升目ゲー
ム、シャトランジ・アツ・タマームには、
言及が無いと考えられる。実際には、この
10升目ゲームが、この中では一番出現が、
早いのであろう。
 ところで梅林勲、岡野伸氏著作の、
”世界の将棋”2000、将棋天国社には、
15升目盤将棋の紹介は無い。ただし、
ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰで、
増川氏が、このゲームの駒種に、王、
グリフォン、一角獣、獅子、鰐、麒麟、城、
兵がある事を示唆している。
この事から、この未知の15升目制60枚制
ゲームが12升目制の、スペインのグランド
アセドレフに類似であると、推定できる。
 また、本文中に、”動きの同じ駒が2枚づ
つダブって現われ、ダブルチェスや四人制
インドチャトランガを連想させる”と、取れ
る旨の記載もある。後者から、15升目制の
ゲームは、グランドアセドレフに、インドの
14×14升目のアトランジの中央駒を、混
ぜたものであると考えると、ちょうどツジツ
マが合う事が判る。
 つまり、グランドアセドレフで、左から
王、グリフォンの所を、左から、
グリフォン、女王、王、皇太子、グリフォン
等とし、アトランジとは異なり、女王を西洋
チェスの女王動き、皇太子は王と同じにする
というゲームが、一例として思い浮かぶ。
 増川氏は将棋Ⅰに詳細記載していないので

正確には判らない

のだが。インドとスペインのイスラムシャト
ランジ型のゲームを、たとえばオスマン帝国
時代に混合した象棋が有ったとしても、特に
おかしくは無いと、思われるのである。
(2020/04/29)

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富山県富山城下町跡から2014年に金将駒(長さん)

富山県と言えば、貴重な室町時代駒、石名田木舟
遺跡駒(福岡町)や富山市の郊外の願海寺城遺跡
等、だいたい6箇所の将棋駒の出土が、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003、天童
市将棋資料館)等で知られている。webの情報に
よると、江戸時代の駒として、富山駅により近い
富山市西区で、表題の富山城下町跡から2014
年に、金将駒が1枚出土しているという事である。
これで7箇所目という事になるのだろう。
 情報の出所は、pdfファイル名で、
”18676_1_富山城下町遺跡主要部発掘調査報告書.pdf”
となっているもので、検索してサイトに跳ぶと、
ダウンロード画面に移行するようである。
 そこの、後ろの方の、”図版十二 遺物”に、
金将駒の写真が載っている。

富山城下町金将.gif

前記pdfファイルの63ページ付近に、スケッ
チも載っていて、裏は無地の金将駒、一枚のよう
である。ただし裏に、横に一線、キズのような跡
が見られるようである。
 形からみても出土場所から見ても、この駒は、
江戸時代のものであろう。
 駅近くから出る事からは、鎌倉駒や平泉駒のパ
ターンから、武家屋敷地が個人的には連想される
が、報告書によると街道沿いの町場との事である。
(2020/04/28)

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チムールチェスは城引分ルールと交換ルールが余計(長さん)

今回は、チムールチェスのゲームの出来につい
て論じる。結論から書くと、表題のように、
①城ルールは、引分けルールとして残ったが、
どうぶつ将棋のトライ勝ルールにすべきだった。
②交換ルールは防御力が上がりすぎるので無駄
だった。
①と②から、無駄な細則が無ければ、ほぼパラ
ンスの取れた良いゲームだったようだ
との結果になった。
 では説明を開始する。
 チムールチェスは、以下のような初期配列の
ものが、一般には有名である。”世界の将棋”、
梅林勲、岡野伸、将棋天国社、2000年によ
ると、他に2つの初期配列バージョンがあると
言う。図で”割箸走”と表したキリン(ザラファ)
駒が出しやすいかどうかで、序盤が変わるので、
世界の将棋の第3初期配列の方が、駒の捌きが
幾分良く、下記の第1初期配列より第3初期配
列のルールの方が、少し出来が良い可能性もある。

チムールチェス初期.gif

上の図で、駒は元々のチムールチェスではなく、
動きの似た、日本の駒名に変えてある。ポーン
は、3文字を1文字に短縮するため、歩に変え
た。成駒が何なのかを判りやすくするため、成
駒名で”歩”を形容したが、実戦ではたくさん
成る事は無い。使っていて上のボードの歩兵名
が、小うるさい感じだ。しかしチムールチェス
のルールが、こうなっているので仕方が無い。
 なお、割箸走はザラファ(麒麟)の事であり、
割箸3はジャメル(駱駝)である。蛇足だが、
世界の将棋には、この両者が仲間のように書い
てある。が、これは間違いであり、説明文をよ
く読めば判るが、

麒麟は走り、駱駝は跳びのようである。

ゲームを始めると、たぶん駒組は、下のような
感じになるのであろう。出てきた八方桂
(アスプ)へ相手が取りを掛ける展開になって
戦いが、この配列だと比較的早くに始まる。
跳び駒が多いのが、このゲームの特徴だ。

チムールチェス駒組.gif

 そして更に中盤が終わる頃に、兵中兵(ピヤー
ダピヤーダ)が成って、下記のように”持駒歩”
が出来る場合がある。

チムールチェス兵成.gif

しかし、王将歩(シャーピヤーダ)は前進しに
くいので持駒歩から更に、3回目成王が出来る
のは至難である。だから太子駒が発生する事は、
このゲームではほぼ、無いと見られる。ただし、
終盤王は前進し、一例では、以下のような指終
図になる。

チムールチェス指終.gif

実際には、青側の王は、冒頭で述べたように、
②のルールにより、一回逃げる事ができる。し
かし、このケースで判るように、このルールは、
攻め側にとって、余りに不利で、ゲームを面白
くしていない。

②は不要

だったと、ほぼ断定できる。またこのゲームが、
相手陣の城に入城して、後手青側の勝ちだった
としたら、先手黒側の逆転負けになり、

①は、どうぶつ将棋のトライルールになってい
た方が、実際の引き分けよりも面白かったのは、
明らか

である。だから①も、日本将棋の入玉による、
持将棋状態を、チムール・ペルシャの図書館在
職ゲームデザイナー(一例)が、中国人から
聞いて、間違って理解して、真似たのかもしれ
ないが、

①は片方入城なら、入城側を勝ちにすべき

だった。
 よって、このゲームは、麒麟駒の存在により、
ゲームバランスは取れた、

15世紀としては、出来の良いゲーム

であった。が、細則の調整が不足だったと結論
された。
 恐らく図書館在住ゲームデザイナーやゲーマー
の広報努力により、チムール帝国期のイランを
中心に、一時期有名なゲームになったのだろう。
が、アラブ人には、馴染みの無い極東ルールも
入っていたため、現地ではさほど指し込まれず
に、やがては衰退してしまったのであろう。
(2020/04/27)

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チムールチェス”兵の中の兵”は持駒ルールを示唆(長さん)

大阪電気通信大学の高見友幸氏が最初に言い
出した事だが。ペルシャの15世紀の象棋、
チムールチェスは、日本の小将棋~摩訶大大
将棋の影響を受けている疑いがある。このう
ち、高見氏の説で印象がもっとも深い、
1)成太子酔象型駒があるというのは中将棋
にとって、最も興味の深い部分だろう。
 しかしながら、その他、このゲームには、
2)槍手駒が隣接升目停止不可の角行になっ
ており、平安大将棋の研究に関連。
3)王が詰まれても、一回制限の有る自在王
動きができると言うのは摩訶大大将棋の15
世紀時点での存在を、かなり匂わせている
ようにも見える。
 ただし、一般の方から見たら、これよりも、
4)”兵の中の兵”駒が、相手の駒に対して
利いている位置で無ければならないという制
限があるものの、最奥段より自由位置変更が
できるというルールが、現行の日本将棋の

持駒ルールに実質近い

という点に、関心が集中するのではないだろ
うか。
 なぜなら、持ち駒ルールの出現は、最も遅
い推定をする、増川宏一説だと児教訓の西暦
1500年頃だが、チムールチェスは、恐ら
く京都曼殊院の、将棋図の成立の頃と同じく、
西暦1443年の頃に存在したと、みられる
ものだからである。
 今回は、”兵の中の兵”駒の1回目の成り
に於いて、持駒のような、自由位置転換が
できるというルールが、

日本の小将棋類の、持駒ルールを真似たもの
なのかどうか

を論題とする。結論から書く。

真似た疑いが濃い。だから、持駒ルールは、
児教訓よりも前に、有った疑いがある。

では、説明を開始する。
 チムールチェスは、中将棋と同じく、
11×11、121升に、城升目2個のある、
123升目に、56枚の駒を置いて行う、
世界の将棋のインド近年チャトランガ拡張の、
駒数多数象棋である。チムール帝国時代15
世紀のペルシャにて、行われたとの記録があ
る。(将棋天国社、西暦2000年、
”世界の将棋(改訂版)”、梅林勲・岡野伸。)
 大阪電気通信大学の高見友幸氏が初期に注
目したように、インド・チャトランガ/シャ
トランジ同様、兵駒が相手陣奥で、相手初期
位置駒に成るが、

王に成る兵駒も2種存在する

という特徴がある。
 よく調べてみると、冒頭で述べたように、
1)以外に2)~4)の性質もあり、以前に
本ブログでも、述べたとおり

南北朝時代から室町時代前期の日本の将棋情
報が、明王朝期の中国人を通して、チムール
帝国の、一例では図書館在職の情報担当者に
流れて出来たゲームではひょっとしてないか

とも、本ブログに於いては疑われている。
 中国人が媒介している事も、

奇数升目のこの象棋ゲームで、王駒が、
七国将棋(司馬光)や北宋象棋の偏、裨駒の
動きの駒に左右挟まれている

事から、かなり可能性を匂わせている。
 ここで、冒頭4)で述べた、”兵の中の兵”
駒の、最初の成りでの、持ち駒ルール型の動
きというのは、先に引用した世界の将棋によ
れば、次のようなものとされる。
チムールチェスには3通りの初期配列バージョ
ンがあるが、”兵の中の兵”は兵(ポーン)
駒の一種であり、初期には概ね、どのバージョ
ンでも、3段目の左端筋に置かれる。
 西洋チェスのポーンと同じ動きをするが、
初期2升動きと、経過捕獲は無い。3段成りを
するが、11段目で1回目の成りをし、

使用2手目からは差が無いが、使用1手目だ
け、相手の何れかの駒に対して、利いている
位置に、盤面自由に位置変えをする。

その後、また11段目に達して2回目の成りをし、
使用2手目からは動きがポーンのまま変化し
ないが、使用1回目に、自陣の”王に成る兵”
の位置に跳んで”王に成る兵”に変わる。
 更に敵陣の最奥11段目に達すると、3回
目の成りをし、”自分の城にも入れる王”に
成る。この駒は動きが玉将であり、かつ、玉
駒であり、王と異なり、相手陣城の、引分け
確定升目だけでなく、邪魔駒として自陣城に
も進める。
 以上のような、ルールとの事である。
 以上のルールのうち、行き所の無い最奥位置に
居る”兵の中の兵”は、持ち駒台にあるのと、
大体一緒であり、

控えて打つ事が出来ないが、相手の大駒取り
を掛ける位置等に、自由に場所を変えられる
というルールは、日本将棋等の持ち駒ルール
に、比較的近いもの

である。
 なお、チムールチェスが14世紀頃の日本
の将棋を真似たものではないかとされる、
冒頭1)2)3)のルールは次の通り。
1):初期に”王に成る兵”が存在し、
最奥段で、王に成る。なお、”王に成る兵”
は、元々はポーンの類であり、中央筋の3段
目ないし、2段目に初期配列される。また、
繰り返すと、”兵の中の兵”駒も、3回目の
成りで王に近い駒に成る。都合双方それぞれ
に、3枚まで玉駒が出来る可能性がある。
2):象駒系の駒に、”槍手”という駒が有
り、西洋チェスの僧侶と同じく、角行類似の
動きをするが、隣接斜め升目で停止できない。
(但し塞象眼がある。)これは”四隅の遠く
へ行く”と二中歴の、平安大将棋の飛龍動き
を解釈した、本ブログの見解が正しければ、
チムールチェスの槍手と、日本の平安大将棋
の飛龍とは、ルールが同じという事になり、
時代の前後関係から、前者は後者の模倣では
ないかと、当然疑われる。
3):イスラムシャトランジ型の
ステイルメイトルールのバリエーションかと
も疑われるが、チムールチェスには、王を2
回詰まなければならないというルールがある。
すなわち一回目は、取られる懸念の無い自分
の駒と位置交換し、王が逃げられるというルー
ルである。ただしこの特例は、成って王にな
る”王に成る兵”の王や、3回目成り後の
”兵の中の兵”の王には、適用されない。
 これは、摩訶大大将棋で、玉将がしばしば、
自在王に成って、逃げる事が可能で有る事を、
効果や元駒限定の類似性から連想させる。
 以上の通りである。
 よって、1)~4)のチムールチェスの
ルールの、日本の将棋臭さから、4)が、
日本の当時の、標準平安小将棋(持駒ルール
有)の、

持駒ルールがペルシャへ伝来して、
チムールチェスで真似られた経緯から来る

のではないかと、疑われるという事になる。
 以上のようにして、冒頭の結論が導かれる
のである。(2020/04/26)

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なぜ3人以上の20n枚制日本将棋は流行らない(長さん)

日本に近代生まれた多人数の将棋ゲームとして、
国際三人将棋や、9枚×4人=36枚制四人将棋、
こちら亀有公園前派出所四人将棋が知られている。
このうち最後のゲームは、雑誌漫画に出てくる
架空のもので、80枚制のようだが、指された
記録は見当たらない。こんかいは、中国シャンチー
の歴史的なバージョン”n>2友象棋”とは異なり、
20n枚制のn>2人制日本将棋(持ち駒有り型)
が実際には流行らなかった理由について考察する。
回答から書く。

五角形駒は、敵味方の駒が180°互いに回転し
ていないと、意匠的におかしいから

とみられる。では、説明を開始する。
 事実としては国際三人将棋も36枚制四人将棋
も、日本将棋のように20×n枚制ではない。だ
から、

今の議論では考慮しなくて良い。

ただし、ヒントとして、

国際三人将棋の盤升目は6角形なので、

四角升目盤が、作りにくかったのではないか

という点を、最初に考えてみる必要がある。
 結論から書くと、作れるので理由にならない。
下に日本将棋用三人将棋の将棋盤の一例を示す。

3人将棋3角 .gif

この将棋盤で、60枚制三人日本将棋は出来る。
ただし、
飛車は中央地点で分岐できる事。
角行は自陣右袖から相手陣に走り込んだとき、必
ず右袖に突入する事。
桂馬は、図の自陣4筋四段目の地点から、相手陣
の方へ動いたときに”前升目に進んで左右前角に
跳ぶ”というルールではあるものの、図のように
黒丸と緑丸だけでなく、斜め前隣接中央升目に、
まず斜めに進んでから、前隣接升目へ進んでも良
いと考えて、ピンク色の升目へも動いてよい事。
日本将棋の持ち駒の歩兵の二歩の禁に関しては、
煩雑なため、それぞれの四角い領域の4段の縦筋
についてのみ、2歩を禁じる程度に、ルールを緩
める必要がある。ただし行き所の無い駒の打ちの
禁止についてはルールを更に工夫する必要がある。
以上のような点を、ルールに付け加えれば、対応
可能だと考えられる。
 また”着手は時計回りに行うが、王手を掛けら
れたときには、次の着手は、時計回りの左隣ゲー
マーに王手が掛かっているので無いケースには、
王手を掛けられた、右側のプレーヤーへ、順番が
戻る”。プレーヤーの一人が投了した後、そのプ
レーヤーの持駒は捨てるが、盤面の駒は玉将だけ
捨てて、他は残して”邪魔駒”にすると、2人将
棋になった局面での、寄せが複雑して面白い。以
上の細則を作れば、この3人将棋は、より面白く
なるはずだ。つまり盤形やルールについて、

日本将棋の3人将棋は、デザイン可能であり、本
来あってもおかしくないはずの物であると、考え
られる

のである。
 だが、このような将棋は実際には現存しない。
そして、それが何故なのかを考えてみると、
日本の将棋駒が五角形であるという事が、余りに
顕著に、ゆきわたっているため、王冠型7角形ま
たは、9角形型、原爆ドーム型のような、以下の
形の駒が作られにくくなっている
という、現実が浮かび上がって来るのではないか
と私は思う。

三人将棋用駒.gif

すなわち、五角形駒の場合、

相手との駒の向きが180°のときしか、意匠的
に、サマにならない

という事だと私は思う。つまり3人将棋のように、
120°だとすれ違い衝突だし、4人将棋だと、
相手の頭が、横腹に当たっている感じになって、
2人のときに比べて、闘争中のイメージを醸し出
しにくいという事があるのではないかと、いう意
味である。
 そして、それを防ぐには、頭を2また3またに
して、相手とぶつけるとか、半円同士の接触にす
る等しか、恐らく無いのだろう。
 なぜなら、

無理やり180°にゲーム途中で曲げると、誰の
駒だが訳が判らなくなる

ためである。恐らく、

駒の形のせいで、マージャンが行われた国である
にも関わらず4人日本将棋が誕生しなかっただけ

なのではないか。以上のように、私は推定するの
である。(2020/04/25)

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新潟県窪田遺跡代官所跡から江戸時代風銀将駒出土(長さん)

新潟県(当時)岩船郡神林村(現村上市)南田中
字窪田にある、窪田遺跡より、西暦2007年に、
形から江戸時代ころのものではないかと疑われる、
裏一文字金銀将駒とみられるものが、一枚出土し
たそうである。
日本海沿岸東北自動車道関係発掘調査報告書13、
PDFファイル名:24238_1_窪田遺跡1.pdf
の後ろから10ページ前後、前の所に図版(出土)
”木製品”に写真が出ている。調査報告書を発行
したのは、新潟県教育委員会と、
新潟県埋蔵文化財調査事業団である。
 web上に情報があるが、サイトを検索して、
Hitさせると、PDFが直ちにダウンロード
される状態になる。窪田遺跡の中でも、字窪田
1252番地付近にあると書かれ、詳細判らない
が、近くの金屋という地点に、江戸時代の代官の
陣屋が、有ったとの事である。
 新潟県では、砂山中道下遺跡から幾分か古い、
室町時代~安土桃山時代にかけての、裏一文字金?
銀将駒が出土していたが、近世風の駒は余り
知られていなかったと、私は認識している。
 写真のように、近世・江戸時代風の成り一文字
金銀将駒のように見える。

新潟窪田遺跡銀将.gif

 江戸時代には東北地方までは、仙台伊達藩の大
名のような富裕層だけでなく、庶民層にも着実に、
日本将棋が普及していたという事柄は、南部絵暦
に、将棋の駒の絵が有る点等からみても自明だが。
はっきりとした現物証拠が、ここへ来て出揃って
きたようだ。以上の点で、この新潟県の出土駒は、
興味深いものがある。(2020/04/24)

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”アリュートチェス”は何時何処から来たのか(長さん)

アメリカ・アラスカ州のアリューシャン列島
には、シットゥインの自由配列を思わせる、
8段7筋のチェス・ゲームが存在すると言わ
れる。西暦1910年代には少なくとも存在
したようである。今回は、ではこのゲームが

何時、何処から伝来したのかを論題とする。

回答から書く。
 差別的に労働力としてアフリカから狩出さ
れて、アメリカ人として渡った黒人労働者が、
18世紀の終わりにエチオピアのセヌティジ
系のゲームを、現地に伝来させたのが、始ま
りなのではないかと推定される。
 では、論を開始する。
 一番判りやすいのは”シットゥインが伝来
した”と解釈する事だろう。しかし、そうだ
としても、19世紀終わりに、

シットゥインを知っている、エチオピアの
セヌテイジの指し手が、アメリカに渡り、
一例鉱山労働者として、アラスカにやってき
たとき、アリューシャンからの出稼ぎ島民に、
中盤局面から始めるチェスの一種である、
”アリュートチェス”を教えたのが始まり

と考えた方が、伝来者がアリューシャン列島
に居るという動機付けが、明らかに存在する
事から見て、更に尤もらしいと考えられる。
 つまり、ミャンマー人がアリューシャン列
島に居るというのは、余り尤もらしくないが、
労働者として、アフリカのエチオピア等から、
マダガスカルにかけての一帯に、元々は居た
住民が、白人に狩り出されて、アメリカ大陸
に渡ったので、アラスカ州にも19世紀終わ
りにアリュートチェスが誕生したいう方が、
より尤もらしいという事である。
 すなわち、エチオピアのセヌテイジには、
マーシャリングと言われる、中盤局面まで、
陣形を自由に整えられるルールがあり、これ
は、ミャンマーのシットゥインの初期配列と
セヌテイジのマーシャリングの後の配列とが、
類似である事を示す。そして19世紀終わり
ならば、エチオピアにミャンマーの象棋の話
が、伝わっていると推定できる。そのため、
ローカルに、エチオピアからマダガスカルの
間のアフリカのどこかに、19世紀終わりに
”アリュートチェス”が有ってもおかしくは
なく、それがアリューシャン列島に19世紀
末伝わったと考えても、余りおかしくないの
ではないかと私は思うのである。
 なお以前述べたが、マダガスカルの象棋で
ある、サマントシィでは、アリュートチェス
と同じく、ポーン駒が”子供”という名前で
ある。この点でも、アリュートチェスは、
アフリカよりの19世紀伝来ではないかと、
疑われる。
 加えて、アリュートチェスは、

西洋チェスのルールではなく象駒が、イスラ
ムシャトランジの象(跳ぶ飛龍)ではないか
と私には疑われる。

初期配列が、僧侶に関して、走りの角行動き
ではなく、跳びの飛龍の方が良いような配列
だからである。つまり、角行ルールにしては、

角道を開けにくいように、配列しているとい
う不自然さがある。

一応、初期配列と駒の動かし方ルールに関し、
将棋天国社、2000年”世界の将棋”
梅林勲・岡野伸著書の情報から推定すると、
次のようになっているようである。
 初期配列については、次の通り。
盤の升目は既に述べたが、列7列で段数8段
の56升目の変則盤である。また盤には市松
模様が有り、自陣の右下を、その駒色にして
いる。そして、問題の配列は下記の通り。
1)兵駒:子供=ポーンは、白側、黒側共に、
右袖3列は、4段目に、残りの4列は3段目
より下に配置する。シットゥインと異なり、
控えめに配置する事が許される。またポーン
は、斜め駒取りだが4列目が3段同士になる
ため、シットゥインと異なり、初期で”当り”
が無い。ゲーム盤を7列にしているのは、そ
の為とみられる。
2)王(老人)は1段目の、その駒の駒の色
の升目で、端列以外の所(3筋か5筋)に
おき、クイーンは、同じくその駒の色の升目
で2段目でかつ、王の斜め前の位置で、かつ
端列以外に配置する。
 また、城(船)は、王の隣とクイーンの隣
に配置し、王、クイーン、2つの城(船)で、
四角の配列の塊の形にしなければならない。
3)僧侶(象)は、同じ段でかつ、端列以外
に2個、横に並べて配置しなければならない。
4)2)と3)のユニットの外袖に分かれて
一つずつ、馬を配置する。馬は端列に来る事
が多いが、せいぜい2筋目に置かれる。
 次に、世界の将棋には、特に書かれていな
いが、駒の動かし方ルールは、恐らく、
大内延介氏がインドで指した、インドのシャ
トランジと同じであり、ただし、子供が、
相手陣奥で、クイーンに成ったのではないか
と、想像される。
王(老人):玉将の動き。
副官(クィーン):奔王の動き。
象:跳ぶ飛龍。
馬:八方桂
城(船):飛車
ポーン(子供):ポーンの動きだが、いつも
前1歩。相手駒を取るときだけ斜め前。相手
陣奥で、副官(女王:クィーン)成り。
キャスリング、アンパッサンは無し。ステイ
ルメイトは、負けであろう。

つまり、角道が開きにくい、象の配列だが、
跳び駒だったので、この初期配列ルールで良
かったのであろう。
 インドの現シャトランジのルールの情報が、
エチオピア~マダガスカルのどこかに伝わっ
て、アリュートチェスになり、それがアリュー
シャン列島に、比較的後の19世紀末になっ
て伝わり、20世紀の初期に、
H.J.Rマレーが調査したときには、現地
に存在が確認されたという経過なのではない
かと、私は疑っている。(2020/04/23)

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2006年にも大坂城から将棋駒出土(長さん)

”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”(西暦2003
年、天童市将棋資料館)に、大坂城下町遺跡と記載
されている出土駒のうち、記号でD、I、J、Mの
ものは、巻末の史料別発掘報告書一覧表によると、

大坂城城内

との事のようである。理由は不明だが、

裏龍王飛車と、裏一文字金または二文字金将桂馬と、
不成金将と、裏”と金”歩兵が多く、例外は”裏金
か金将”香車が1枚しか、出土しない

という特徴がある。当然だが、前記文献にリストさ
れているのは、前世紀の発掘分である。しかるに、

又不成金将だった

ようだが、西暦2006年にも1枚だけのだが、
将棋駒が出土したらしい。
 pdfファイル名は、”17493_1_大坂城址.pdf”
であり検索してページへ跳ぶと、たぶんダウンロー
ドが即始まる。報告書名は”大阪府文化財センター
調査報告書 第144集”で”大坂城跡Ⅲ”である。 
大坂府警察本部棟の新規第2期工事に伴う、発掘
だったようであり、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
で言う、大坂城下町遺跡出土駒のMの仲間らしい。
 報告書の123ページに、スケッチが載っていて、
”水無瀬駒ではないか”とされ、スケッチから普通
の金将の書体のようである。報告書の画像からは、
この程度が、確実に判る全てである。なおこのPD
Fファイルには裏表紙が無く、報告書の全文が本当
に見れているのかどうかは、よく判らない。
 なお、西暦2000年前後の発掘でM地点からは、
裏龍王飛車(1枚)、裏一文字桂馬(1枚、欠有り)、
裏と金歩兵(1枚)、裏崩し今金歩兵(1枚)の、
計4枚が、今回2006年より前に出土していると
いうのが、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒からの情
報である。

つまり不成り金将駒(1枚)は、大阪府警本部建設
現場では、始めて

だったとの事のようである。
 大きさが良くわからないが、輪郭の形は金将駒も
他の4枚と同じく、近世的であり、

安土桃山時代当時から見て、かなりモダンなもの

だったとみられる。
 単純に考えると、金、桂、飛車、歩で4種類。
玉、銀、香、角で4種類であり、城内からの出土は
今回のも入れて、14枚のようである。13枚が
全部前者で、香車が1枚というのは、確率でたぶん
千分の一位だろう。
 玉と銀と角と香車しかない、特殊なミニ将棋が
大坂城では流行って、別の場所へ駒が移動して失わ
れたとか、説明が全く不可能なわけではないが。
出土駒種類が、日本将棋にしては、城内だけバラツ
イている本当の原因は、依然としてよく判らない。
(2020/04/22)

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なぜマダガスカル象棋サマントシィの馬16方跳び(長さん)

イスラムシャトランジの色を濃く残す近世の
象棋に、アフリカマダガスカル島の象棋の、
古形サマントシィがある。駒の動かし方ルー
ルは現在、西洋チェス化しているとの旨が
世界の将棋に出ている。が、古くはイスラム
シャトランジ型の動きだったと同書に記載さ
れる。ところがその中で馬の駒だけが、八方
桂の動きに加えて、跳ぶ飛龍と跳ぶ猛牛の動
きを加えた、16方向動きになっているとい
う。このような動きのルールは、20世紀の
アメリカの駒多数チェスにあると言われるが、

馬を取り替えたと判る例は無い。

そこで今回はマダガスカルの、イスラムシャ
トランジ型象棋の時代のゲームの馬が、16
方向動きなのは、どうしてかと、それから何
が判るのかを、論題とする。回答から書く。

外国文献を現地人が読んで広めたゲーム

てかつ、文献の表現が曖昧なのでそうなった。
そしてこの事からは、

中国の宝応将棋の天馬が”3尺飛ぶ”と玄怪録
に書かれていても、八方桂や桂馬の動きの事だ
と、疑って良い事を示している

と考えられる。
 では論を開始する。
 梅林勲氏と岡野伸氏共著の、『世界の将棋』
(改訂版)将棋天国社、西暦2000年の66
ページによると、アフリカ、マダガスカル島の
象棋、古形サマントシィの、駒と動かし方ルー
ルは、以下の通りとの事である。
王:八方歩み
大臣→皇太子:猫叉
象→銃:跳ぶ飛龍
馬:16方1升目先跳び。八方桂馬+跳ぶ飛龍+
跳ぶ猛牛
戦車→鳥:飛車。ただし、隣接縦横升目に他の
駒が居る場合、その障害物を跳んでから、その
先は走るとの説がある。
兵→子供:ポーンの動き。ただし初手1升動の
み。最奥段で、インド型の相手初期配列駒に
成るが、ただし王位置では世界の将棋に明確な
記載は無いものの、恐らくは皇太子に成るとい
うルールとみられる。
 以上の事から、この象棋は、

イスラムシャトランジではなくて”世界の将棋
のインド2人制チャトランガ”である

事が判る。
 馬のルールについては、近代に入ってインド
近世象棋の文献が、現地にもたらされて、その
文献を読んで普及したと考えるのが、尤もらし
いとみられる。理由は、

マダガスカルとインド間は、イスラム世界より
も遠い

からである。インドの将棋文化のチャトランガ
が著名という説は近世、18世紀以降になると
よく知られたから、インドの将棋文献は、将棋文
献の中では、マダガスカルでは一番伝来しやす
かったのだろう。
 馬駒の動きが、

”3つ目の升目へ跳ぶ”と表現されるのは将棋
の古文書に関して良く聞く話

である。だから、

文献だけ読んで、インドの象棋をマダガスカル
で始めたとすれば、馬が16方向跳びになるの
は、少なくとも有り得る話

なのではないか。よって、少なくとも原因とし
て、マダガスカルでは象棋・将棋は、文献によ
る文化の伝来だったのではないかとは、一応疑
うべきだと私は思う。
 そして、このような例が有るという事は、古
来より、桂馬跳び動きが3升目先跳びとか、
3尺跳んで行くとか、表現されることがまま有っ
たと言うことであろう。だからたとえば、

玄怪録岑順/小人の戦争の天馬の記載も、見か
け、力士の斜め跳びのような書き方であっても、
実際には桂馬跳びだったのではないかと疑うべ
きである事を示している

のではないか。以上のように私はマダガスカル
の象棋のルールからは、推定するのである。
(2020/04/21)

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