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鎌倉時代”雲南省の牛”が注目された元は何か(長さん)

本ブログでは、鎌倉中期の将棋のデザイナー
に対して、雲南省の牛または水牛に対する
啓蒙が、中国よりの唐物書籍の一である、
『太平寰(かん)宇記』により有ったとの
仮説を取っている。普通唱導集大将棋に、
”猛牛(牛の猛~国:ムアン)が存在したと
見ているからである。しかし太平寰宇記
に””雲南省の牛から1頭当り、600kgの
肉が取れる”等と書いてあるにしても、

弥生時代までに西日本は牛の産地になって
いたので、輸入牛に対する需要が多くはない

はずである。つまり牛は大量ではないにし
ろ、潤沢に国内に存在するにも関わらず、
中国雲南省から輸入してまで貴重ともとれ
る発想が、日本でなぜ生まれたとみるのか。
将棋のゲームデザイナーに、中国のたとえ
ば雲南省の牛が、産物として、特に注目さ
れたのはなぜなのかを今回は論題とする。
回答を書く。

西暦1012年に、北宋商人の周文裔が、
中国恐らく揚子江以南から10頭の牛を
運んできて、その牛に対し、当時の権力者
藤原道長が良い評価をしたのも要因

だとみられる。では、以下に説明を加える。
 日本に今居る牛は、大陸から伝来したに
しても、北方系であり、朝鮮半島産が伝来
元であると良く言われている。DNA解析
も有ると聞く。他方、中国人の交易商人が、
日本に牛を、もたらしたとするケースは、
寧波の港付近か、それより南の、南方系の
牛を持ってくるものと考えられる。
 つまり、奈良時代以降の中国の交易商人
は、仮に日本に牛を輸入させたとすれば、

西日本に牛は潤沢に存在する状況で、新た
に中国産の牛を持って来たという事になっ
ていたはず

である。だから、品質が日本に古代に存在
した牛よりも、かなり良いと日本人が感じ
る、なんらかの要因が無いと、中国人交易
商人の、たまたま運んできた、中国南部産
の牛は、

特に日本人ゲームデザイナーの注目を浴び
ない

と考える事ができる。
 他方、藤原道長の御堂関白記に次の記載
事実がある。
(1)西暦1012年宣明暦9月2日に、
北宋商人の周文裔が博多に来たとの旨の連
絡を、藤原道長が太宰大弐の平親信(当時)
から聞いて、三条天皇に報告している。
(2)西暦1012年宣明暦9月10日に、
三条天皇へ藤原道長が碁盤を献上している。
中国人と天皇が接触する際の、体裁のため
ではないかとも疑われる。
(3)西暦1012年宣明暦9月21日に、
三条天皇から、藤原道長経由で閣僚へ、”
周文裔は来朝が余りに頻繁なため、追い払
うかどうか皆で結論を出せ”との旨の命令
が下り、翌9月22日に閣僚で協議の結果、
”三条天皇の即位記念という意味も有るの
で、特別に許すべきである”との旨の決定
が有ったとされる。
(4)西暦1012年宣明暦10月30日に、
太宰大弐の平親信(当時)が牛10頭等を
献上してきて、藤原一族で(牛車用か?)
山分けにした。その際、

藤原道長は”まあまあの牛である”の旨を
御堂関白記に書いている。

 以上の事から逆算すると、西暦1012
年の周文裔の博多漂着が西暦1012年の
8月半ば。以下、情報伝達や物品輸送に、
博多~京都間で、半月程度掛かっていると
推定できる。つまり(4)で太宰大弐の
平親信(当時)が献上してきた牛10頭等は、

周文裔が、今回の交易を認めてくれた、
藤原氏閣僚に対する、謝礼挨拶である
と取るのが自然

だと考えられる。つまり、御堂関白記には
明確に書いて居ないが、
(4)で太宰大弐の平親信(当時)が献上
してきた牛10頭等は、周文裔が、中国の
寧波ないしそれより南の、揚子江以南から、

海を渡って運んだ牛であると、当然取れる

と私は考える。そしてそれに対して、

藤原道長が、良(まあまあ)の評価ならば、
民衆のレベルで見れば、特上品

だと考えるのが、恐らく自然だと考える。
 御堂関白記は後代に読まれただろうから、

中国産の南方系の牛は、国産の上品の牛と、
同等だという旨の根拠の一つになり得た

と見るのが自然だと私は考える。つまり、
ほかにも根拠が無いとは言えないが。
恐らく、

平安末期から鎌倉期の貴族の間で”上クラ
スの中国産の牛は、たいそうな良品である”
という根拠として、御堂関白記の西暦10
12年9月30日の記載を引く事が出来た

とは、間違いなく言える事であろうと考え
られる。つまり、

周文裔という人物が将棋道具を運んだのか
どうかは仮説だが。中国産の牛に対する、
日本の貴族の評価を上げた人物だったとい
う点については、史料としての根拠が有る

と、結論する事が出来るのではないかと、
私は考えるという事である。(2020/03/23)

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