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成書に奈良県飛鳥小学校跡旧大乗院庭園出土行軍将棋(長さん)

2020年に岩波書店より出版された、
”木簡 古代からの便り”に、本ブログで
本稿より1年以上前に紹介した、表題の、
明治時代の現在の旧大乗院庭園、当時の
飛鳥小学校跡とみられる遺跡から出土した、
行軍将棋約20個のうち、6枚程度が、
写真で紹介されている。上記成書で記事は、
奈良文化財研究所の研究員が担当して執筆
し、その箇所の担当者は山本祥隆氏となっ
ている。
 山本氏は、上記成書の中で、行軍将棋は、
詰め将棋から進化したとされるとの旨を書
かれているが、真偽は確認できない。
詰め将棋は、日本将棋の駒の一部を使う事
に特徴があり、ルールは同じで、攻め側は
常に王手を掛けなければならないという内
容である。ところが行軍将棋に、日本将棋
との間の駒名の繋がりがそもそも無い。の
で、

山本祥隆研究員前記記載の情報は、元情報
提供者の将棋知識に、信頼性の問題がある

のではないかと、私は疑っている。
 なお、今に残る行軍将棋以外のパターン
で行われる、原始行軍将棋のようなゲーム
に関する情報は、探しても特には見当たら
ない。類似のゲームをグローバルに見ると、
駒名を隠匿しない形の物が有るという程度
が、判っているだけである。そこでここで
は、行軍将棋の歴史を議論するのでは無く、
明治時代の奈良県の飛鳥小学校で、出土し
た自作行軍将棋駒を使って、

どのようなゲームを小学生がしていたのか
を論題

とする。回答から書く。

行軍将棋の駒は使ったが、行軍将棋では無
くて、回り将棋をしていた疑いがある

と私は考える。では、論を進める。
 この遺物の特徴は、当時から

販売されている行軍将棋のセットをわざわ
ざ使わずに、日本将棋の駒を改造している

という点にあるとみられる。
 オモテ面の日本将棋のオモテ駒名は、出
土駒の一部に、かなりの部分が薄くなって
いるものが有るのだが、

飛鳥小学校の小学生等が、紙やすり等で、
消そうと一応したからそうなのではないか

と私は疑う。
 山本祥隆研究員は、前記成書で、行軍
将棋の駒名は、朱書きと述べておられる。
元々使える日本将棋の駒の両側を紙やすり
で消したが、小学生のやる事なので、駒に
よっては字が薄く残っただろう。そして裏
面は、成り駒名が朱書きの、既成将棋駒だっ
た。ので同じような色で、行軍将棋駒名を
書いて、元の字が目立たないようにしたの
で、朱書きなのだと考えても、大きな矛盾
は無いように、私には思える。
 では、なぜわざわざ明治時代に、既製品
の行軍将棋の駒を買わずに、それより特段
に安価な訳でもないとみられる、日本将棋
の駒を、わざわざ奈良県の児童等が改造し
たのかだが。最初は普通の回り将棋をして
おり、

振り駒としての金将が欲しかったので、
日本将棋の駒セットを恐らく何組か買った

のではないのだろうか。
 行軍将棋駒で行軍将棋をするには、駒の
大きさが駒種によって、全く差が無い必要
が有るのだが。

仮に、日本将棋駒で回り将棋をする代わり
に、行軍将棋駒で回り将棋をするとすれば、
階級が高い駒が大きい方が、体裁は良い。

では、行軍将棋でわざわざ回り将棋をした
動機は何かだが。

当時は、奈良県に於いて仏教思想が小学生
の間にさえも、今より広く行き渡っており、
銀将より角行(道に外れた行いの意味)の
方が、位が高いという発想に、民衆の間で
は、違和感が依然有った為

ではないかと私は疑う。つまり、今でこそ
日本将棋は小学生でも良く知るようになり、
駒の価値が、玉将>飛車>角行>銀将>
桂馬>香車>歩兵である事は常識となった。
その結果、回り将棋で駒の昇格を上記の逆
順序で行う事に違和感は無くなったのだが。
当時特に、大きな寺院が多数林立する奈良
県の、その近隣地帯の飛鳥小学校では、そ
れをあたり前だと思うまでには、ひょっと
すると至らなかったのではなかろうか。
 それに対して、日本の軍隊の士官の階級
名は、明治の中ごろには、よりポピュラー
だったのであろう。そのため、

少尉で始まって、大将で上がるような、
回り将棋を、当時の飛鳥小学校では小学生
等が、当然の如くに出来た

のでは無いのだろうか。その証拠に、
遺物の中から、工兵とかタンクとか飛行機、
ミサイル、地雷と言った、既製品の行軍将
棋に有る駒が、18枚程度駒名が判読され
ているにも関わらず、一枚も見つかってい
ないという事が、有るように思う。
 小学生は行軍将棋もある程度、知っては
いたのであろうが。休み時間にするには、
回り将棋程度の方が、駒の個別勝ち負けが
判定できる、行軍将棋に熱心な審判役の児
童が休んでも気楽に出来るので、回り将棋
の方が、より人気が有ったのであろう。そ
れにそもそも木の将棋盤の方が、有ったと
すれば、紙の行軍将棋の盤より使いやすい。
 かなりの児童は日本将棋の駒名を使う回
り将棋の駒の取替え順序は判っていたのだ
ろうが。軍の階級の方が、明治時代の当時
には既に、メジャー判り易かったので、そ
れでやってみたいと思うようになった。
しかし日本将棋の駒セットが有ったし、回
り将棋用の振り駒の金将は、日本将棋の駒
をそのまま使う方が、4枚有るので便利だっ
た。ので、ひょっとすると

行軍将棋駒を日本将棋駒を改造して作る事
を思いついた

のでは無かろうか。
 何れにしても、軍隊の階級制度に一般大
衆の関心が高いような時代には、回り将棋
も、行軍将棋駒を駒として使うと便利な状
況に、なるものだったのではないか。
 以上のような理由で私は、この行軍将棋
駒はひょっとすると、小学校では行軍将棋
ではなくて、回り将棋をする為のものだっ
たのではないか。以上のような疑いを、最
近は、持つようになったのである。
(2020/09/10)

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2チァンネル風のサイトで摩訶大将棋起源説が議論(長さん)

以前に大局将棋の戦法に関して、早い時期に
2チャンネルにて、有効な情報が発信されて
いる旨、本ブログで言及した事が有った。
 その後2チャンネルで、駒数多数将棋の議
論がまとまった形で記載されたスレッドが、
そう多くは見当たらないように認識していた。
が、先月頃から、一つのサイトで、
①大局将棋の紹介
②清水康二氏の摩訶大将棋起源説反駁論文
関連の情報に関する議論
が、コンタミの形で積極的に行われているの
に、私も気がついた。
サイトのurlは、以下の通り。
エイチティティピー://bintan.ula.cc/2ch/将棋・チェス/mevius.5ch.net/1569502368/L
 なお参考までにだが、このスレッドから、
たとえば、摩訶大将棋起源説ないし、
摩訶大将棋起源説反駁の具体的内容を読み取
る事は、私には出来なかった。
 またサイト名に関しては、
5ちゃん> 将棋・チェス 板> 中将棋・古将棋・変則将棋
と、ディレクトリが切ってあり、何処かの
ホストの中の、2チャンネル風のスレッドの
1つに、この板が存在しているようである。
 私自身は、たまたまgoogle検索で、
”摩訶大将棋起源説反駁”(すべての期間の
画像)でこのスレッドページをhitさせた。
 何れにしても、このスレッドの存在が示す
ように、2チャンネル領域への駒数多数将棋
の話題に関する再度の食い込み傾向が、西暦
2020年になった頃から、再活発化したよ
うである。言うまでも無く将棋史に興味を持
つ有識者が、また増加している事を明らかに
示しており、

誠に結構な傾向

だと私には思えた。(2020/09/09)

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なぜイスラム4×16段象棋は隣国インドに伝来無(長さん)

世界の将棋・改訂版、将棋天国社、2000
梅林勲、岡野伸によると、恐らく中国の王朝
で宋代頃に、イスラム諸国に於いて、ゲーム
盤が4×16段のイスラムシャトランジの類
が指されていたという事である。ゲームの
名称として、シャトランジ・アツ・タウィール
と、同書では表現されている。今回は、この
形の将棋盤が、インドに逆輸入されなかった
理由についてを論題とする。見通しをつける
ため、回答から書く。

角行動きの象駒が、この時点の二人制チャト
ランガに有った為とみられるためである。

では、論を開始する。前記の16段型の
イスラムシャトランジでは、歩兵同士の間が、
2段のものもあれば、8段のものもある。
初期配列が一定しておらず、世界の将棋では
7種類記載されている。しかし、

広めであり、4~6段空きが普通

である。そこで短手数で勝負を付けるのには
不向きと考えられる。だから、

ミャンマーでは、このようなゲーム盤を使っ
て象棋類は指さない

とみられる。では、より近間のインドではど
うかと言う事になるのである。
 実は、インドの北宋時代の将棋は、イスラ
ムの学者、アル・ビールーニによって記載さ
れた四人制チャトランガのみが知られ、2人
制のルールは、判っていない。しかし本ブロ
グによれば、第5の王がルールブックに記載
されているという、少し後の文献記載から、
二人制のルールを借用したに違いないと、本
ブログ独自に推定して来た。
 アル・ビールーニの紹介に関する記録が、
H・J・R・マレーも指摘していたように曖
昧で、インド11世紀古チャトランガの象の
ルールは、2人制についても4人制について
も同様に、飛車動きなのか、角行なのか、そ
の他例えば、銀将動きなのか、実ははっきり
しない。
 しかしながら、仮に本ブログがそう見てい
るように、この時代のインドの2人制古
チャトランガの象駒が角行動きならば、
イスラムシャトランジのような、4×16段
2人制インド古チャトランガは、少なくとも
発生しないはずだ。
 なぜなら、象が角行動きだと、相手陣を
直接睨める位置が無くなってしまい、
ゲームが、散漫になるからである。
つまり象がイスラムシャトランジのように、

斜めに2升先跳びの場合だけ、16段盤の
ゲームでも、なんとか我慢できる

という意味である。
 イスラムシャトランジは、少なくとも
表向きは、賭博用のゲームでは無かったので
あろう。中国や日本では、以下のような性質
のために嫌われたというのが、本ブログの、
これまた独自の見方なのだが。すなわち、

序中盤緩々と、馬と象が中断で小競り合いを
繰り返すゲームが、結構面白いのではないか
と見て、4×16段盤32枚制のタウィール
型イスラムシャトランジは、考え出されたの
ではあるまいか。

 逆に言うと、象が飛車、戦車または船が、
イスラムシャトランジの飛龍動きの象という、
ビールーニ反転したゲームが、11世紀
2人制インド古チャトランガなら、イスラム
シャトランジの変形を、インドでも真似て、
4×16段盤のインドチャトランガバージョン
が、出来たのかもしれないのではないか。し
かし、実際にはあいにく、ちょどその頃、

インドの将棋の象は角行動きで、長細盤は、
都合が悪かった

のであろう。その為、インド版の、
長方形版・チャトランガ(Oblong 
chess)は、出来なかったのではないか。
 だから根拠が淡いが、イスラムだけに長方
形チェスがあるのは、

11世紀にインドの2人制古チャトランガの
象駒が、角行動きが主流だった証拠になるの
かもしれない。

以上のように、私は考えるのである。
 なお、大駒が2段置きになる場合、インド
将棋・象棋ゲームのポーンの成りは、同じ列
の、どちらか一方というやり方になるようだ。
(2020/09/08)

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新潟県新発田市砂山中道下遺跡銀将は南北朝期(長さん)

西暦1998年の事であるから、かなり前で
あるが、表題のように、新潟県新発田市の
砂山中道下遺跡から、成り一文字金銀将駒と
みられるものが、出土している。

新潟県砂山中道下銀将.gif

 例によって発掘報告書が奈良文化財研究所
の発掘報告書データベース全国遺跡報告総覧
にも収録されている。web上に公開され、
pdfファイル名は以下の通りである。
24225_1_野中土手付遺跡砂山中道下遺跡.pdf
なお遺跡は、干拓した後に出来た、14世紀
頃まで有った集落だという事である。
 本遺物は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
(2003)にも写真が載っている。が、成
立年代が200年間位、違って紹介されてい
るようである。つまり、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に書かれてい
るように、成立は

室町時代・安土桃山時代ではなくて、鎌倉
時代末・南北朝時代と、少なくとも2006
年の発掘報告書には記載されている。

 上の写真には裏面が無いが、報告書中ほど
の図54に、スケッチがあり、普通の成り金
銀将駒のようである。形からは、天童の将棋
駒と全国遺跡出土駒で間違えたように、戦国
時代~江戸時代風の将棋駒のように、私には
見える。

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の編集者も、
駒の形から、分類するときに錯覚した

ような気が、私にはする。しかしながら、発
掘報告書では”共出土した土器から14世紀
のものと考えられる”との事である。神奈川
県鎌倉市佐助谷遺跡より出土している駒の輪
郭と比べると、鎌倉期~南北朝期のもののよ
うに、見えない事が良く判る。
 なお、この遺跡からは14世紀説を裏付け
るように、土器の他に、宋銭が複数出土して
いる。が江戸時代の寛永通宝も、1枚だけだ
が出土しているらしい。将棋駒も同様の紛れ
物なのではないか。しかし正確な事は良く判
らない。目下の所、私には

成立年代が謎の駒

としか、言いようが無い。(2020/09/07)

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鳥獣戯画7×7升目?遊戯図は平安末期成立かも(長さん)

私は知らなかったが、鳥獣戯画の丙巻の
人物画部分は、最近の調査結果、鎌倉時代
成立ではなくて、数十年以上も遡り、

小型の日本将棋図とも見られる部分も、
成立は平安時代

だという話が、出て来ているらしい。
 西暦2020年7月に出版された、
”もっと知りたい鳥獣戯画”、土屋貴裕
(第1部著)東京美術に、その旨が書いて
ある。
 ただし、史料が発見されたのではなくて、
オリジナルとみられる細めの画線の、成立
年代に関する精査によるものらしい。
 本ブログでは、”6×6升目の超小型の
大理国型原始平安小将棋が描かれているの
ではないか”とし、興福寺1098年史料
から、概ね西暦1260年型大将棋の時代
の間の

酔象の温存策を示すのかもしれない

としてきた。その際当然ながら、
鎌倉時代説だと、西暦1200年前後の、
二中歴小将棋の、更に後に、6×6升目型
平安小小将棋が存在する事になる。が新説
だと、むしろ鳥獣戯画が先か、ほぼ

並存と解釈すべき

だと考えられよう。そうすると西暦
1250年代頃に大将棋の本ブログで言う
1260年型で成り太子酔象が復活するま
でに、鳥獣戯画丙巻成立説との間に、数十
年程度空白が有った事になってしまう。つ
まり、できるだけ西暦1250年の近くに、
鳥獣戯画7×7升目?遊戯図が、成立して
いてほしかったのだが、そうなっていない
という事である。なお、京都市上久世遺跡
で、南北朝時代の成り不明酔象駒が出土し
ているのが、興福寺の次の酔象史料である。
 つまり興福寺の、西暦1098年の将棋
の時代からみて、忘れ去られない程度の時
代に、鳥獣戯画の将棋画が描かれてしまう
と、別の温存証拠を探さなくてはならない
と言う意味であり、本ブログにとっては、
キツイ話である。(2020/09/06)

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タイ・カンボジアの”狐と鵞鳥”は”虎と牛”(長さん)

本ブログでは、西暦1260~1300年
程度の普通唱導集時代の大将棋の2段目に、
猛虎と対に猛牛が置かれていたはずだと、
繰り返し表明している。鬼門が源であり、
実際には袖に向かって虎、牛、猪、龍だが、
十二支円環の順序で書き直せば、牛、虎、
龍、猪であり、つまり12支円環の、近似
的な五等分を表現しているという解釈であ
る。猪点、丑寅点、龍点が正五角形の隣接
する3頂点との意味である。ここで五等分
の五は、将棋駒の五角形の五、また五行の
五と考えている。
 ただし、日本の将棋以外に、牛駒は見当
たらず、虎駒も、モンゴルシャタルの副官
駒が、イメージとしてそのような雰囲気が
あるだけである。特に、日本将棋の伝来元
が中国雲南である事にちなんで、日本で
猛牛を作成した時に、牛が、牛の国(猛:
ムアン)を表現しようとしてそうしたと言
うには、東南アジアや中国南部の象棋に、

虎駒と牛駒が無いとキツイ。

なお、闘獣棋には虎はあるが、牛は無かっ
たと記憶する。では、東南アジアのボード
ゲーム類に、虎と牛を駒としたものが無い
無いのかと言うと、

実は十六ムサシ系のゲームに、それはある

のを、最近知った。西暦2020年に、
大阪商業大学アミューズメント産業研究所
の研究員の、高橋浩徳氏が著作した、
”伝統ゲーム大事典”朝倉書店に、それは
次のように出ている。

タイと、カンボジアに1種類ずつあり、

ゲーム名は、タイのをスア・ギン・ニュア、
カンボジアのをクラーシコと記載している。
 駒は虎と牛で、ゲーム盤は前者が5×5、
後者が4×4で、西洋の狐と鵞鳥とゲーム
パターンが同じで、狐鵞鳥型とでも言うべ
き、十六ムサシ類のゲームであるようだ。
なお、日本の十六ムサシは、挟まれ取り型
なので、跳び越え間取りの狐と鵞鳥とは、
ルールが少し違うらしい。
 十六ムサシは将棋類ではないので、タイ
とカンボジアに、駒名が、虎と牛の十六
ムサシ系ゲームが有ったとしても、近隣の
中国雲南の猛(ムアン)の、その国の牛に
ちなんで日本で猛牛駒を作る動機付けは、
弱いと見る向きもあるかもしれない。
 ところが、前記伝統ゲーム大事典による
と、王と兵の二種類の駒のある、日本十六
ムサシ型の、互いに王を取り合うゲームが
カンボジアにあると言う事である。ゲーム
名は、”レク”と言うそうである。駒の
取得条件は、挟まれ取りに加えて、挟み
将棋の2枚で相手駒を挟んで取るパターン
の、どちらでも相手駒が取得(取捨て)に
なるというものらしい。十六ムサシ系のゲー
ムに、王、兵駒があるものがカンボジア
に存在するという事であろう。だから、

象棋系のゲームに、虎と牛を使うと似合う
という発想が、タイとカンボジアにあると
みなすのは自然

なのではないか。いろいろ理由はあるのだ
ろうが。牛を狙う虎を表現したテン国の造
形物は、東南アジアに情報として、ある程
度広まっていという事があるのであろう。
また鬼門という概念が、中国から日本だけ
ではなくて、十二支と共に東南アジアにも
広がったのが、虎と牛という組合せの理由
の一つであったろうと推定も出来る。
 ちなみに高橋浩徳氏の前記著作以前にも、
増川宏一氏が、ものと人間の文化史、29、
盤上遊戯、法政大学出版局(1978)で、
タイに、包囲ゲームの一種で、レン・チュア
という名称のゲームがあり、その駒は虎と
人ないし家畜であると記載していた(144
ページ)。レン・チュアは、高橋浩徳氏の
紹介しているスア・ギン・ニュアとは、路
塞ぎ型なので、少し違うようだ。タイと
カンボジアには、恐らくこうしたゲームが、
複数あるのではないかと私は思う。何れに
しても増川氏が、たまたまだったが、彼の
成書で”牛”を例示しなかったのが、残念
であった。
 従って今の所、全貌が判った訳でもなく、
情報はまだ淡いが。少なくとも後期大将棋
には有る猛牛は、中国南部から東南アジア
に掛けての牛を表現しているという証拠は、
雲南が牛の国(猛・ムアン)であるという
以外にも、ゲームの駒としても東南アジア
では使われる事があるからだと、更に明確
な理由付けは、出来そうなように、私には
思えて来た。(2020/09/05)

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大橋家古文書”大局将棋駒”の史料は3種類構成(長さん)

さいきん、関西将棋会館の旧将棋博物館の顧問
で、将棋盤駒の制作職人として著名な、熊澤良尊
氏の2020年8月24日の記事に、将棋博物館
に所蔵されていて前世紀未確認だった、新確認の、
将棋家・大橋家古文書の”大局将棋駒”の構成に
関して、

重要な情報が、web上に提供された。

従来史料は、
①駒804枚の配置図
が著名だが、
その他に、
②209種類の駒それぞれの名前と行き方
③実物大と思われる盤の原図
が、発見当時は存在したとの旨である。

なおこれらの文書は、全部行方不明で現存しない。

このうち②・③とも貴重で、③は大局将棋のデザ
イナーが将棋の大橋家の者である事を示唆する。
が、②は、駒の動かし方ルールの細則、特に
イ:制限ない跳び越え駒のルール詳細
ロ:踊り駒のルール詳細
以上を示唆するという点で、

跳び抜けて重要な、情報の熊澤氏による開示

と考えられる。
 以下、補足する。
 ロについては、踊りという用語が、②209種
類の駒それぞれの名前と行き方の説明書き部分で、
使われているかどうかで、影響は決定的になる。
 ただし、
イ:制限ない跳び越え駒のルール詳細は、

それ以上に重要

だ。何故なら、大局将棋が短手数で終わるのでは
ないかと、このゲームの出来の悪さが疑われてい
るのだが。それはそもそも、四天王、大鷲、大鷹、
霖鬼等の跳び部分には、

全く制限が無いとの情報がweb上行渡っている

からに他ならない。これは①駒804枚の駒の行
き方朱点入り配置図だけの情報が、web上で
知られているだけの、

片手落ちが原因によるもの

とみなせる。なお、梅林勲・岡野伸氏著書、西暦
2000年の世界の将棋も、この情報だけを頼り
に、前記制限無い跳び越えを記載し、それが
wikipedia等に行渡って、

大局将棋は異常短手数で終わる、出来の良くない
もの

との評判等が、2チャンネルや本ブログの見解等
で広まっていると考えられるのである。
 実際には、短手数で終わるようだとの見解は、
トリビアの泉で、伊藤博文六段と安用寺孝功四段
(段位は当時)の対局が3805手になったとい
う話と整合しないし、古作登氏のweb上に公開
されている論文”大局将棋考案の背景と創作過程
に関する考察”
https://core.ac.uk/download/pdf/233905191.pdf
の、ゲームの出来に関する、古作氏の評価の内容
とも整合していない。
 前記、車兵(大局将棋)の成り駒である四天王
等の制限無い跳び越えには、
”相手玉駒に繋ぎ駒が付いている場合は、制限無
い跳び越えで、その玉駒を取る事が出来ない”
といった類の、

”細則”が付いていないと、話が合って来ない

のである。
 恐らく、今述べた情報が②209種類の駒それ
ぞれの名前と行き方に原文記載が有ったが、
web上で欠落していて、ルールブックのコピー
を取得していた結果、伊藤博文氏、安用寺孝功氏、
古作登氏の、だいたい3名にだけ知られている。
しかし、当たり前かもしれないが、大阪商業大学
の古文書大局将棋駒の研究者は、個別の、大局将
棋の細かいルールに、取り立てて興味を持っては
いなかった。その為、大局将棋のゲームとしての

出来の良し悪しに関する情報は、無念にも風化し
つつある。

以上の、大きな懸念が内在する疑いが有るのでは
ないか。だから熊澤氏のブログの内容から私には、
この将棋種の未来が直近危惧されるようになった
のであった。何れにしても元史料は大阪商業大学
へ、ただちに返されるべきである。(2020/09/04)

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摩訶大大将棋の各駒成ルールは同一デザイナー作(長さん)

本ブログでは、将棋種の特定に関して、原則
初期配列とオモテ駒の名称同一を基準にして
いる。だから、最下段の多くと歩兵と、
歩兵段下走駒、端駒が

金将成り、

酔象、麒麟、鳳凰が王子、師子、奔王成り、
無明、提婆が法性、教王成り、その他の袖駒
の多くが不成りであるような、今に残るルー
ルと違う、仮想の摩訶大大将棋または、
摩訶大将棋が、先行して存在したとしても、

別種ゲーム扱いはしない

という判定規則を、大将棋の場合と公平にす
る為、ここでローカルに推薦している。なお
仮に水無瀬兼成が、横龍を横飛に間違えて写
したという事が有ったとしても、そのような
単純エラーによる誤伝は、別ゲーム種に分け
る要因にならないとする。
 では、そうであるのだが、実際に摩訶大大
将棋が創設されたときと今とで、成りのルー
ルが全く違うという可能性は、どの程度ある
のだろうかというのが、今回の論題である。
回答から書く。

ほとんど無い。

つまり同一デザイナーが、現在の摩訶大大将
棋の成りを考えたのではないかと疑っている。
 では、論を開始する。つまり今回の論題は、

奔金、奔銀といった駒が、最初から有ったの
かどうかという内容

である。結論はYES.と見ているという事
になるが、根拠は以下の通り。

淮鶏の仙鶴成りを見るのが、問題を解くポイ
ント

であると私は見る。
 あくまで本ブログの推測だが。この駒淮鶏
は、前漢時代の淮南子の作者劉安に関しての
伝説である、古事熟語”一人得道、鶏犬昇天”
に関連し、”淮南子の鶏犬”を詰めて淮鶏に
したものと考えられる。そして成りに関して
は、鶴になったわけでは無いのだろうが。少
なくとも第1字目の仙の仙人とはそうなった
劉安の事であり、”仙人の鳥、例えば鶴”を、
同じく詰めて、成り名の仙鶴にしたのであろ
うというのが、本ブログの推論だ。だから、
淮鶏だけで、作り終わりになる訳が無いので、

淮鶏と仙鶴の作者は、たぶん同じ

だと見る。所で鶴は飛ぶのであるから、仙鶴
が走り駒で無ければ、おかしいのであり、
摩訶大大将棋の”オリジナルの作者”は、
小駒の成り駒を、小駒のその方向に走る大駒
にしようとしていたのは、ほぼ確かだとこの

淮鶏と仙鶴の例だけで直ちに判る

と私は見る。つまり、

摩訶大大将棋、摩訶大将棋は、最初から今の
ような成りである疑いが、かなり濃い

と私は思う。
 以上で、今回の論説明は、基本的に終わる。
 なお、だとすると古猿の成りも、最初から
山母だった事になる。ちなみに古猿の成りを、
山母になぜしたのかというと、山母に関して
古猿の歩む方向に走るようにし、頭の歩みの
ルール表記の為の打点を、たまたまだが

点でなくて、ある程度面積を持った円にして、
図に描く。

すると、その円を頭と見た場合に、足の無い
幽霊が、襲い掛かってくる

デッサン画になる。

ので、成りを妖怪山姥と表現したというのが、
本ブログ解釈である。なお、水無瀬将棋図よ
り松浦大六氏所蔵の将棋図式の方が、山母の
ルール表現に関してだけは、たまたま正しい
と私は思う。だから摩訶大大将棋、
摩訶大将棋の古猿の成りも、

最初から山母だった疑いがある

と考えるのである。そして小学館の
日本国語大辞典によると、謡曲の山姥が初出
とみられる、この単語一語から、

摩訶大大将棋、摩訶大将棋の成立が、西暦
1440年前後と逆算可能

というのが、本ブログの論である。
おそらく19升目の囲碁盤対応型361升目
ゲームは、中国広象棋に対抗して作られ易い
ため、対応日本ゲームの存在が、平安時代以
降は、記録に残らなくても、恐らく複数ある
と推定出来るだろうというのが、本ブログ従
来の論である。そして他方、京都の曼殊院で、
そうした、室町時代前期より前の、古い将棋
類は忘れ去られた挙句にようやく、そうした

囲碁升目将棋の一種の、摩訶大大将棋が、西
暦1443年頃に成立して、当の曼殊院将棋
図が完成した疑いが、かなり濃いと見ている

のである。他の19升目型の日本の将棋ゲー
ムとは異なり、このゲームが今に残ったのは、
当時

曼殊院の住職(問主)であった洞院家の冠位
の高い藤原氏族の貴族(洞院満季の時代か?)
が制作責任者として名を連ねた上で、文書に
記載されて、伝承された為だと見るのが自然

なのではないか。以上のようにも、本ブログ
では、今の所推定もしている。(2020/09/03)

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新型コロナの中2020年8月猪俣百八燈は開催(長さん)

8月末と古い成書に書いてあるが、近年は月遅れ
盆の8月15日の晩に開催されている、埼玉県
児玉郡美里町の猪俣百八燈は、新型肺炎コロナ
ウィルスの、埼玉県を含む蔓延で、一般の立ち入
りが制限されたものの、2020年も開催された
という事である。
 近郊の美里町広木上宿で、南北朝時代に成立し
たとみられる出土遺物、”五色宝塔”が出土して
いる事。猪俣百八燈の塚の中心2柱を、”五重塚”
と呼んでいる事。これが平安大将棋以降の大将棋
系の、玉、金、銀、銅、鉄、各将駒に対応する事。

塚が将棋の枚数に対応して、百八柱である事。

合戦を象ると南北朝時代、異制庭訓往来に記録さ
れた将棋の、その駒に対応して、武士団の先祖の
霊を祭る行事である事。猪俣党が西暦1381年
に、白旗一揆のメンバーとして攻め込んだ、小山
義政の本拠地、栃木県小山市上鳥谷曲輪遺跡から、
108枚制(仮説)普通唱導集大将棋の成り金将
(一文字金+也?)角行駒とみられる遺物が、
西暦2007年に出土している事。西暦1381
~2年小山義政の乱鎮圧軍司令官であり鎌倉公方
でもある足利氏満が、義政息子の小山若犬丸の乱、
離反者小田氏(孝朝等)の乱前後の西暦1386
年に、続く合戦での味方の戦死者を弔う機能を持
つ寺、美里町地元の大興寺の新設を、助成・推進
したようであるという事。などの点から、従来よ
り本ブログでは、

この伝統行事を、大将棋や摩訶大大将棋にひょっ
とすると関連する物

と疑って見てきた。なお、付近に摩訶池という名
の、農業用水池があるとの事である。
 結局、観光客同士の三密を避けるため、観客を
山に入れないようにしたようであるが。継続しな
いと、特定の青年が、未経験者で成長するのを避
けるために、中断が許されない行事と、地元では
当然考えられたようである。そのために、中止に
ならずに済んだようだ。すなわち2020年のよ
うな、開催が厳しい、ひどい悪条件の中でも、イ
ベント自体は無事開催され、伝染病の蔓延により、
伝統行事自体が途切れる事は、無かったという事
である。

本ブログでも正直ほっとした。

関係者、特に当事者の若者たちの並々ならぬ努力
には、第3者の立場で見ても、ただただ頭が下が
る思いである。(2020/09/02)

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盗み将棋と振り将棋を繋いだゲームの起源(長さん)

たぶん江戸時代の古文書等に書いていないと
認識するのだが。子供の将棋遊びのカテゴリー
であるぬすみ将棋、つまり山崩しと、振り
将棋は、駒種によって、個別に駒に価値を付
与して、その取得総駒における数値で勝負を
決めるという点で、他の将棋遊びには無い共
通性がある。違いは、金将は振り将棋で取引
値を決める道具として使うので、ぬすみ将棋
では価値点数が決められるが、振り将棋のと
きには対象外になるという点だけである。他
の子供将棋遊びでは一般に、駒の種別による
点数付けという作業は行われない。ただし回
り将棋には、駒種により序列が存在する。
 そこで、金将を取り除いて置くか、ぬすみ
将棋で0価値にして置くか、どちらかにして
おけば、この2種類のゲームは、最初に盗み
将棋(山崩し)をしてから、山が消えた後に、
一般に不平等な駒の配分状態から、引き続い
て振り将棋を始めて、それを続けるうちに、
最後まで、破産しなかった者を勝ちにすると
いう方法で、複合ゲームをする事が可能であ
る。
 東京都の下町で、このようなゲームが具体
的に、数十年前に行われていたというような
話題を、本ブログでした事が有る。がこの複
合型ゲームの、成立年代や発祥地等はもとよ
り不明であった。しかるに最近、この複合ゲー
ムが、

昭和の初期に、栃木県でも行われていた

との旨と取れる情報を得た。
以下の成書に、ぬすみ将棋と振り将棋が連結
されて、1つになったゲームが紹介されてい
たからである。
 文献名は以下の通り。
江戸の子供遊び事典、中田幸平著、八坂書房
2009年。そこの148ページ以降の、
”将棋遊びいろいろ”に、江戸の文献は特に
引用せずに、”盗み将棋は振り将棋の前哨戦
である”と取れる旨が、紹介されている。
 なお、中田氏は栃木県栃木市の出身で、
20歳で東京に出て、劇団に加わり、後に、
劇団俳優座に所属して活躍した人物でるとい
う。つまり彼は、太平洋戦争以前に、児童で
あった世代であり、

当時は、栃木県在住だった

との事である。つまり

昭和の初期、北関東に、表題の連結型子供将
棋遊びが、有った事になる。

以上の事から、恐らくだが、

このゲームは、関東一円で行われる事が多かっ
たらしく、大正時代末期頃にはすでに存在し
た可能性が、かなり高い

と推定される。更に中田氏は、駒の点数に関
して金額換算だったと取れる旨、交換のとき
に”付け”にする事が出来たとの旨を述べて、
それを示唆している。
 なお、

東京下町数十年前のバージョンでも、駒の価
値の表現単位は”円”であり、厳密には”点”
という表現は使わなかった

と、実際にゲームに加わった経験者である私
は認識している。
 直接には繋がっていないのだろうが。シャ
ンチー駒を貨幣に準えていた、宋代の中国人
と共通性のあるゲーム思想である点に、この
遊びに関しては、注意を向ける必要が有るだ
ろうと私は見ている。(2020/09/01)

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