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鳥取県湯梨浜町長瀬高浜遺跡で4C地龍墨書土器(長さん)

今回は鳥取県東伯郡湯梨浜町(旧:羽合町)の
官営跡があるとされる長瀬高浜遺跡で、漢字で、
「地龍」他の文字が書かれているように見える
土器が出土した旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
報告書のpdfファイル名は以下の通りである。
14087_2_長瀬高浜遺跡8・園第6遺跡.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
鳥取県教育文化財団調査報告書61長瀬高浜遺跡Ⅷ・園第6遺跡、
1999、財団法人鳥取県教育文化財団、建設省倉吉工事事務所。
 遺物は2つの遺跡のうち、冒頭で述べたよう
に、長瀬高浜遺跡の第8次発掘で出土したよう
である。
 遺跡の位置は前記pdfファイル末の抄録に
よると、鳥取県東伯郡湯梨浜町(旧:羽合町)
長瀬字高浜。遺物が発掘されたのは、西暦
1998年前後の事のようである。
 遺物は発掘報告書第1本文pdf:
14087_1_長瀬高浜遺跡8・園第6遺跡.pdf
が別にあり、その第25ページ付近の記載による
と、遺物は第246号竪穴住居跡から出土したが、
共出土した材木の炭素14同素体年代法により、
西暦350年前後の、4世紀半ばに成立したと取
れる旨が記載されている。
 遺物の写真は発掘報告書第2pdfの写真図版
第21の2段目左にあり、竪穴住居跡(SI)第
246号の土器(Po)32番との旨、付記され
ている。金魚鉢のような形の土器で、口に横筋模
様が入っている。

長瀬高浜地龍.gif

上図のように、一見は左端の黒い帯模様と、何ん
らかの漢字の縦列が目に付く。が、それとは別に、
ほぼ中央にかなり薄い灰色の模様が有って、
「他龍」等と漢字で書かれているようにも見える。

龍神信仰であり大局将棋の将棋駒の事では無いが、
「地龍」とは書いたのではないか

と疑われる。
 左隅の文字列は、はっきりしないが一例では
「家里龍住重護・・」等のように読めるように思
え、地龍神が家人を守護してくれるように祈って
いる文字が書かれているように疑われる。とする
と、4世紀半ばながら、鳥取県東伯郡付近で、ほ
ぼきちんとした漢字が書く事が出来ていて、通説
より早い漢字文化の成立の疑いが有るようである。
 官営跡との発掘報告書に記載が在るが、4世紀
半ばでは、その前であろう。 大陸から渡来した
者が一家で、鳥取県の浜辺付近にその頃、居して
いた跡であろうか。(2022/04/10)

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茨城県龍ヶ崎市外八代遺跡で古墳期王奔墨書土器(長さん)

今回は、王奉の墨書が、はっきり大きく書い
てある古墳時代の甕型土器の例の紹介である。
遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
16469_2_外八代遺跡.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告Ⅱ外八代遺跡、
西暦1980年、茨城県教育財団。
 なお、pdfファイルとして、前記の写真
図版pdfの前に、第1pdfとして、本文
pdfがある。その本文第1pdfによると、
発掘報告書冒頭の「調査にいたる経過」から、
遺跡の場所は茨城県龍ヶ崎市古城付近と判る
が詳しい場所の記載箇所が発見できていない。
また冒頭の例言から、今回紹介する遺物が発
掘されたのは西暦1977年前後と見られる。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの「まとめ」の第350ページ付近の
記載から古墳時代鬼高期(北関東)すなわち、
古墳時代後期の6世紀前後と、見られている
ようである。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfの写真図版(PL.)第244番:”
竪穴住居跡第073号出土遺物”の左に有り、
遺物番号は、073号竪穴住居跡遺物第1番
との旨、ナンバリングされて、甕と分類され
る、土器とみられる物品のようである。

外八代遺跡王奔.gif

 上の図のように、反時計回りに40°位回
転しているが、王奉と縦に大きく書いてある
ように私見する。過去、何例か類似の例を紹
介したと認識するが、字が明確に書かれてい
るという点で、優れた例示となると考える。
ただし、汚れかもしれないが、王奉では無く
て奉奉に見える、余分なやや薄い模様が有る。
 当時はまだ付近で塩でも取れて、豪族や大
和朝廷に納めたのであろうか。何か保存のき
く食料等を大量に詰めたような、印象を抱か
せる、大型容器である。(2022/04/09)

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鎌倉市横小路遺跡出土悪行が大将棋に導入できた経緯(長さん)

本ブログでは西暦2017年前後に神奈川県
鎌倉市の横小路遺跡で出土した悪行駒は、
後鳥羽上皇期大将棋の、2段目中央に配置され
たか、または横行の移動先である、袖の3段目
に、西暦1230~1250年の親王将軍又は
宮将軍誕生の頃まで配置・存続されただろうと
見てきた。その後は太子である釈迦と摂家将軍
=玉将、親王将軍=王将を比較して、後二者の
対モンゴル帝国戦に関するご利益の無さを揶揄っ
た成太子酔象との交換により、横行と酔象の組
み合わせが、悪行に代わって引き継いだはずで
ある。
 元に戻すと。すなわち初期配列は、全部不成
と見てオモテ面だけ書くと、前者の場合、
段目
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、悪行、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
後者の場合、
段目
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
③飛車、悪行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、悪行、飛車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、横行、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
となる。
 今回は、将棋は囲碁と同じく暦法に則って、
24節気、72候、その和の96、12か月や、
その3倍数の36、96の2倍の192、節気・
候・月数の和の108、等々を将棋駒総枚数と
して選択すべきといった、シキタリを重んじる
上流階級の96枚制将棋で上記どちらの配列を
取るにしても、どうやって特に、悪行駒が割り
込んで導入出来たのかを議論する。つまり横行
6枚は、初めから想定され無い理由を考えると
いう意味である。
 というのは、一見すると割り込めないように
も見えるからである。というのも割り込めそう
に無い要因として、
①上の配列では、権威が当時あったと見られる
二中歴の「横行中央第2段」シキタリに反する。
②下の配列では、余りに、はびこりすぎたので、
後鳥羽上皇の命令で親鸞が配流されるほど優勢
な阿弥陀経の教えで、竪と横とが対で並ぶとい
う配列のもっともらしさが、安易に排除される。
 以上の難点が有るからである。
 最初に回答を書くと、賭博場の常連の間で、

将棋マニアの自虐的表現として当時ウケタから

だと考えられる。根拠としては海龍王寺制規が
同時代ないしその前に成立しており、賭博に絡
んで、修業の妨げになったり用具の売却につな
がる等問題があった為もあり、囲碁将棋は強く
禁止措置となっていたし、修行の時間が、遊び
呆ければ、その分割かれるのは自明だと見られ
る点が挙げられる。
 しては恥ずかしい行為である事が、その行為
自体である囲碁・将棋ゲーム最中に明示されて
いるような、将棋駒種を敢えて付け加える事に
より、

少しでも罪を逃れようとする意識と、自虐的笑
いが遊戯場全体で巻き起こり、座が和んだり盛
り上がるという「逆効果」が期待出来るから、
敢えてそうしたと

いう、コミカルな発想があったという、そのよ
うな意味である。
 さて、そうした観点から初期配列図を見直す
と、権威有る

二中歴の平安大将棋の配列の2段目中央を否定
したとしても、最初の配列の方が悪行が真ん中
で目立つ分、難点は補って余り有るとみられる

事が判る。敢えて親鸞の布教法を打ち消したよ
うな、下の配列はメリットが少ないだけという
事だから、上の配列の方が、実際には採用され
るケースが多かったと、よくよく考えてみると、
予想出来るのではないかと思うようになった。
 なお、悪行と角行とを比較したときに、
Akugyouという音とKakugyouと
いう音とは一音違いな為、角行発明発端経緯の
少なくとも噂話として、悪行が角行よりも先に
発明され、

動かし方ルールとの引っ掛けによる分かり易さ
から角行だけ先に平安末成立した可能性が高い

ように、私には推定される。
 ゲームとしての出来はさて置く事にして、賭
博場の座の盛り上がりを考えると、94枚制の
後鳥羽上皇期大将棋の2段目中央の、広く空い
た場所に悪行を置くと、24節気+72候の
96枚制になって、ちょうど良いし面白いと、
特に上流階級の屋敷を使う賭博場では考えられ
るようになって「馬鹿笑い悪行入後鳥羽上皇期
大将棋」が成立・駒出土したのではないのだろ
うか。
 皆がその笑いに飽きて、成太子酔象を2段目
中央に入れた親王将軍誕生の頃まで、以上のよ
うにして94枚制を、96枚制に直した大将棋
が、京都や鎌倉の上流階級屋敷の賭場等では指
されたのかもしれないと、私は現時点で推定す
るようになって来ている。(2022/04/08)

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北海道千歳市美々遺跡で縄文晩期奔王墨書土器(長さん)

今回は、文字文化を持たないと言われる
北海道千歳市の、北海道の縄文時代晩期
成立の土器に、奉王と墨書されているの
ではないかと疑われる、謎の出土遺物の
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デターベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
28542_2_美沢川流域の遺跡群14.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
北埋調報69美沢川流域の遺跡群ⅩⅣ:
美沢3遺跡・美々3遺跡・美々8遺跡、
西暦1990年、財団法人北海道埋蔵文化財センター。
遺物はこのうち、美々3遺跡で出土した
ようである。美沢3遺跡と美々8遺跡は
近接しているが、美々3遺跡は、これら
に対し、西1km程度離れたところにあ
るらしい。美々8遺跡からは近世の遺物
も出土している。千歳空港の、当時建設
中の新しい滑走路の中に有る遺跡だとい
う事らしい。
 遺跡の場所は、第1pdf冒頭の調査
の概要によると、北海道千歳市美々
988-25で、苫小牧市との境近くの
ようである。また、遺物が出土したのは、
西暦1990年前後のようである。
 遺物の成立年代は、美々第3遺跡の、
ピット46から出土したが、北海道の
縄文時代晩期の頃のものと見られるとの
旨が、発掘報告書第1本文pdfの、
第176ページ付近に記載されているよ
うに読み取れる。紀元前の事であろうか。
 遺物の写真が、発掘報告書の第2写真
図版pdfの写真図版Ⅲの第76の、
中央左に在り、多分だがピット46の
遺物だと見られる。ナンバリングが特に
無い、大型の広口瓶のように見える土器
である。

美々奔王.gif

 上図のように、

土器の下部に王と書いてあって、

口の部分の黒い煤の模様が、奉のように
も見える。その他、王の左下に重なって、
もう一つ王が有り、元々の大きな王の字
の少し上にも、擦れて奉の字に見える、
煤のような模様がある。
 口に太い縞が数本と、細かい縦じまが
全面に入り、

北海道晩期の縄文土器だと言われれば、
確かにそう見える

が、北海道にその頃文字文化は無かった
はずである。
 とりあえず、

王が墨書だとしたら、それだけで問題

になるのではないかと認識する。
 目下のところ、第1字目の奉が2字共
に不明確なため、偶然模様としておきた
い。後日たくさん見つかったら、アイヌ
の時代に「奉王」という記号が、後代に
なって意識的に忘却されたと解釈しなけ
れば、ならなくなるかもしれないと思う。
(2022/04/07)

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茨城県つくば市六十目遺跡で平安期龍王墨書土器(長さん)

今回は、茨城県つくば市で前世紀の終わり
に、杯裏面に上と濃く墨書され、その他、
何か書いてあるとされる、古代成立の墨書
土器に、龍王等との字も書かれていると私
が疑う、奇妙な字の墨書の有る遺物の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
18916_2_六十目遺跡.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第160集
六十目遺跡、西暦2000年3月、
都市基盤整備公団茨城地域支社・財団法人
茨城県教育財団。
 発掘報告書は、前記の写真pdfと、
第1pdfである、本文pdfとに分けて、
データベースに登録されている。
 発掘報告書冒頭の抄録によると、遺跡の
場所は、茨城県つくば市大字刈間字東浦
1638-1。遺物が出土したのは、同じ
く、西暦1998年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第
104ページ付近によると、遺物は第23
号住居跡から出土したが、住居の底面から
出土した土器の形等から、住居跡と同じく、
9世紀前半の、平安時代初期の成立と考え
られているようである。
 遺物の写真は発掘報告書の第2pdf、
写真図版pdfの、写真図版第48:”第
23・27・28号住居跡出土遺物”の、
左下に在り、遺物番号第23住居跡の第9
番との旨、ナンバリングされている、杯の
形の土器である。

六十目龍王上.gif

 上図のように裏面に、漢字で一見して
「上」という濃い墨書が在り、その右側に、
発掘報告書第1pdfの103ページ付近
の、スケッチ図第69図の記載によると、
「十口凹(2行目)上火へ」等の記載が有
ると見ているように取れるようである。本
ブログの管理人には、もともと不明確だが

十口凹(2行目)龍王に見える。

発掘報告書の「上火へ」は土器の傷か撫で
模様であり無視してよく、その下の薄い
濃淡模様が本物の墨書で漢字で、龍王と書
いてあるというのが本ブログの解釈である
という意味である。
 何れにしても、「十口凹」とはその類の
字が書いてあるように見え、謎が在る。
 発掘報告書を読んだ限りでも、「上」と
は書いてあっても、殿様に献上する杯とは
思えず、

神棚に上げるという程度の意味ではないか

と、漠然とだがこの例については疑われる。
十口凹は、設えられた龍王殿の略図かもし
れないし、あるいは無理に読んで

口凹は「くちぼこ」では無くて、「蓋付杯
の絵」。”それを十個神棚の上へ置く事”

程度の意味のどちらかなのではなかろうか。
 祭祀用に使われる杯なので、置く場所を
家人が間違えないように、祭ってある神
(龍神)の印と共に、設置の配置指示図が、
書かれているのではないかと、今の所私は
考える。将棋やその棋譜等とは、この平安
時代初期成立の遺物は、ほぼ無関係だろう。
(2022/04/06)

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青森県五所川原市十三盛遺跡で平安期奔王墨書土器

今回は、奔に似た奉が第1字の奉王墨書の
例であるが、黒地に白い色材で書いてある
ように見える、変わった土器について報告
する。

朝廷に献上する為、容器の飾りにも青森県
五所川原市の遺跡の住人は平安時代に気を
使った

のだろうか。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
32750_2_十三盛遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
五所川原市埋蔵文化財調査報告書第33集、
十三盛遺跡、2013年3月、五所川原市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は、青森県五所川原市大字長橋字広野。
遺物が出土したのは、西暦2010年前後
のようである。十三盛遺跡は、著名な
十三湊遺跡の南20キロ前後の所にある。
時代は互いに関連しないようである。
 遺物の成立年代は、冒頭に遺跡が平安期
のものであると記載され、その時代のどこ
かだと解釈できそうである。将棋の遺物は、
初期のものなら出土しても良い時代である。
この回の発掘で、材木や下駄なども出土し
たが、近世の遺物が混在しているらしい。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
180番:”遺溝(SK)(2)出土遺物”
の上段右に、大きく甕の形で写され、遺物
番号第2873番とナンバリングされ、
土坑の第33番から出土との旨
が付記されている。

十三盛奔王.gif

 上図のように、中央に煤ヨゴレに埋もれ
ているが、大きく奉王と

白い字で書かれている

ように見える。良く判らないが。右上の模
様は、太陽の絵だろうか?
 煤を一面に載せた後、何かで削ったのか、
どうやって作成したのかは、私にはよく判
らない。
 土器に直接墨で書くよりは、新品の状態
では、見栄えがしただろう。青森県から
京都市へ送る物品としては、そうした方が、
受け取る側は、ありがたみが増した、きら
びやかな時代だったのかもしれない。何を
入れたのかは謎である。
 日本の中世後期南北朝時代から後頃には、
東日本でも陶器の出土が多発する。しかし、
素焼きの土器であっても必要に応じて、
何らかの加工をする事は、奥州でも古代に
既に、行われていたようだという事が判る
ように思える。(2022/04/05)

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長崎県雲仙市十園遺跡で奈良期歩行墨書土器

今回は、長崎県雲仙市の古代製鉄跡遺跡で、
漢字で歩行と書かれているとも取れる模様
のある、字そのものが奇妙な奈良・平安期
の墨書土器破片を紹介する。鉄鋼石発掘に
関連した古代の、陰陽五行道祭祀に伴う遺
物で、

「月が星(近くを)行く」との天体観察
結果を書いたもの

と見られる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
46606_7_十園遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
国見町文化財調査報告書(概報)第4集:
十園遺跡、2004、長崎県雲仙市(当時;
国見町)教育委員会。
発掘報告書第2pdf冒頭の例言によると、
遺跡の場所は長崎県南高来郡国見町。
話題にする遺物は全部西暦2000年前後
に出土した物のようである。
 成立年代は、発掘報告書第3分冊の奈良・
平安時代のところにまとまって記載されて
いて、第12~14区の1番土坑(SD)
より出土し、奈良・平安期に成立したと見
られているようである。
 遺物の写真は、前記発掘報告書第7分冊、
写真図版第20:”12~14区SD01
出土土器(土師器類・坏類:スケッチ図
第47ページ32図)の下段の右から2番
目に有り、遺物番号第49番との旨、
ナンバリングされている。今回は全部そう
だが、坏類土器の破片のようである。

十園歩行.gif

 上図のように、右下に行の字が見えその
上に、大きさが不揃いで、やや小さいが、
歩のように読めて、漢字で

歩行と書いてあるようにも見える。

 将棋駒名の歩兵と角行を組み合わせたよ
うな単語だが、意味はこれでは不明であり、
奈良時代等に、将棋が伝来していた事は、
示唆しないだろうと、一応言える。
 そこで、同じ12~14区の第1番土坑
で発掘された坏類土器の写真を見てみると、
その2つ上の写真図版18に第6番土器の
オモテ面と、第7番時のウラ面に、以下の
ように、奉王、奉山と漢字で書かれている
ような模様が有るのに気がつく。

十園6奔王.gif

上は6番目で図版18の右下2段目に在る。

十園7奉山.gif

上は7番目で図版18の右下隅に在る。
 特に7番目から、山岳信仰や鉱脈探索を
する修験者の類の雲仙岳信仰が連想され、
陰陽五行に基づく鉱脈の発見を目指して、
月星の相互接近すなわち会合現象等を観察
していたのではないかと私には想定される。
 つまり、第49番遺物の

「歩」は誤読であり星マークが書いてある

という事である。またその左側の月模様は、

実際に月と読ませようとしており、月が星
の近くを通過した事を示している

のではないかと疑う。それに対して五行説
から説明を付け、それを拝して例えば現地
に在ると見られた鉄鉱脈が自分たちによっ
て発見できるように、諸々の先祖神に祈っ
たというシリーズ物の遺物ではないかとい
う事になる。そしてナンバー第6番の奉王
は、鉱脈が実際に発見され、鉄等が無事に
精錬された、あかつきには製品等が、朝廷
にも納められていた事を示しているのでは
ないだろうか。
 将棋とは間接的に関連するが、本ブログ
では、古代の鉱山採掘は陰陽道の陰陽五行
の五行に則り、相克等の「原理」に従い、
金や貴金属・鉄鉱石が有りそうなところを
探すという方法を取っていたのだろうと、
以前にブログ内で指摘している。
中国シャンチー朝鮮チャンギと違って将棋
が五角形駒で普及したのも、元々は火山国
で、鉱山・鉱脈が古代には豊富で、探索者
が、国の内外に居て、かなり盛んだったか
らだろうと見る。
 特に今回の遺跡は、雲仙岳に近いので。
鉄鉱石の採掘は、昔から盛んだったようで
あり鉱脈探査を業といる修験者も多く居て、
祭祀を目的とした墨書が疑える、今回紹介
した遺物も残したという事なのではないか
と、個人的には想像している。(2022/04/04)

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神奈川県鎌倉市横小路遺跡で13C大将棋駒(長さん)

今回は、たいへん大きな発見の話題である。
集成鎌倉の墨書が発行されるのと前後して、
神奈川県鎌倉市横小路遺跡で、判読不明だが、
写真を見る限り2017年頃、竪行駒意識の

不成「悪行」とみられる木製将棋駒が出土

したようである。
 遺物の写真はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
115104_1_鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書37令和2年度
発掘調査報告(第2分冊)、西暦2021年3月、
鎌倉市教育委員会。
なお、この第2分冊発掘報告書には、
若宮大路周辺遺跡群・今小路西遺跡・横小路
周辺遺跡・山ノ内上杉邸跡・多宝寺跡等の調
査結果が載っているが遺物は横小路周辺遺跡
二階堂宇荏柄81番で発掘されたようである。
 遺跡の場所は冒頭第Ⅴページの表によると、
繰り返しになるが、神奈川県鎌倉市二階堂宇
荏柄81番の1、遺物が出土したのは、西暦
2017年前後のようである。なお鎌倉時代
には城だった場所のようであり町場では無い。
 遺物の成立年代は、第6層のピット中から
出土し、第6層は発掘報告書の第275ペー
ジ付近によると、13世紀中ばの

鎌倉時代中庸

と、発掘報告書では見られているようである。
不意のモンゴル帝国侵攻危機が迫る前とみら
れ、後鳥羽上皇期大将棋を想定した方が良い
時代と取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版26の
左上カラム:”6面ピット611”の、第2
段目左から2番目に、五角形の木製将棋駒の
形で、左から右へ有文字面・空白面と並んで
いて、第447番とナンバリングされている。
なお、スケッチ図については、同発掘報告書
のスケッチ図40:”出土遺物(23)”の、
左下の方にカワラケのスケッチ図と共に載っ
ているので、直接参照されたい。

鎌倉横小路悪行.gif

 上図から、スケッチ担当者は第2文字目が
行である事を見破ったが、第1字目の”悪”
が、ほぼ想定外だったと私は受け取る。(故)
増川宏一「将棋の歴史(平凡社;2013年)」
の55ページに海龍王寺制規と共に載ってい
るように、南北朝時代成立の遊学往来より前
に、大・小2種将棋以外の例えば中将棋系ゲー
ムが記載された、はっきり成立年代の確定し
た史料が現時点で無い為、鎌倉鳳凰駒等、
神奈川県鎌倉市で出土する駒の一部は大将棋
の駒というのが従来より有力である。そして、
この駒こそ、その

まさに大将棋系の駒の出土

だった。12世紀初中旬のこのときには、
横行の袖移動で、中央第2段目が空になるの
が気になったらしく、96枚制と、24節気+
72候の暦用語関連枚数になる事もあって、
横行の位置にこの駒を置いて、袖の方に横行
を2枚にして置いたかまたは、竪行と飛車の
間に横行は移動させずに、

横行の代わりに悪行を置いたかの、どちらか

だろうとほぼ、解釈出来るようである。更に、
福島県会津若松市出土の、鶴沼B遺跡土器と
組み合わせて考えると後者と併存し、ゲーム
の出来優先主義と、しきたり上流階級嗜好優
先主義とで分かれており、今回の鎌倉市出土
品は出土した場所から見ても、身分の高い者
の所有物と少なくとも同形式だったのだろう。
 私見だがこの新型大将棋に於いて、元横行
の位置に置かれた駒は、後退出来ず、竪行と
飛車の間に置かれた駒が、竪行の縦横交換の
動きにされただろうとも、ほぼ予想出来よう。
よって、この発掘による大きな新発見により、

本ブログの大将棋変化過程説は、拡張された
が、危機的に矛盾は起ら無いだろう

と考える。不成なので、麒麟抄成立の南北朝
時代よりも前の鎌倉時代の駒だろう。ただし、

悪の漢字の付く駒が、悪狼が初であるという
仮定は、ほぼ成り立たなくなった。

だから悪狼を作り易くなったという点で、本
ブログの論は、少し不利になったとは言える。
 今の所公式には、将棋駒のオモテ面とみら
れる墨書は、判読不能とされているのだが。
オモテ面一面だけで、大将棋類に分類できる
駒の、鎌倉市での初の出土となる、記念碑的
なイベントだったと少なくとも私見する。
なお現場は個人住宅らしく、土地にたまたま
手を入れる際、緊急発掘調査が行われた結果
だったという事だ。(2022/04/03)

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和歌山県和歌山市川辺遺跡で弥生時代奔象墨書土器(長さん)

今回は、和歌山県で弥生時代とされる土器
に、かなり複雑な漢字の墨書に見える墨書
が在り、近畿内では渡来の漢王朝人住居が
広がっていたのかもしれないと疑われる
遺物の紹介である。第2字目が不明確で、

偶然模様の可能性も、無いとは言えない。

遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
22159_1_山口遺跡・川辺遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
山口遺跡・川辺遺跡発掘調査報告書、2005年3月、
和歌山県文化財センター。
 遺跡の場所は、末尾の抄録によると、
和歌山県和歌山市川辺、遺物が出土したの
は、西暦1999年前後のようである。
 遺物の成立年代は、第2次川辺遺跡発掘
現場の住居跡611号で出土し、共出土し
た土器カケラの模様の付け方から弥生時代
と推定されている旨が、発掘報告書の第
126ページ付近に記載されているように、
読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
(PL.)86の第3段目左に在り、遺物
番号第138番とナンバリングされている、
土器の破片のように、私には見える遺物で
ある。

川辺遺跡奔象.gif

 上図のようにごく薄いが、中央寄りのや
や左上に、漢字の奉の字のような模様が在
りその右下に象と書いてあるように見える。

奔象という将棋駒名は有るようで、実際に
は無い。字は奉象であって将棋の弥生時代
の成立は意味しない。

が、日本人が弥生時代に「象」という漢字
が書けたのかどうかも謎である。なお、象
という字の左側に、それと重なって、もう
一字書いてあるように見え、字は写(寫)
のようにも見える。象の絵を土地の有力者
に納めるという意味かもしれないが、更に
謎である。
 そこで字を良く見ると、寫+象は誤読で、
本当は食ヘンに蒙と書いて、1字であり、

食料を大量に奉納する

の意味だと解釈する方が、自然である。
 ただし、

食ヘンに蒙という、web上で、ブログに
表示さえ出来ない特殊な字が、当時日本人
に書けたとしたら奇跡

なように私は考える。前記どちらの解釈に
しても、漢王朝人が弥生時代に和歌山県に
居て、自国の言語で墨書したとしてしか、
説明の出来ない漢字墨書である。
 もともと第2字目が薄いので、象、寫、
食へんに蒙は、全部間違いで、奉だけ1字
が書いてあり、後は偶然模様であって、
日本人筆なのかもしれないと、ひとまず
結論しておくが。

意味が一応通るだけに、奉+食へんに蒙で
「ホウモウ」も、可能性ゼロとまではいか
ない

のも確かであろう。(2022/04/02)

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栃木県宇都宮市聖山公園で奈良期龍王墨書土器(長さん)

今回は、奈良時代成立とされる甕のような形の
土器に、漢字で龍王と書いたような模様がある
遺物の紹介である。龍神信仰が思い浮かぶが、
何らかの調理用の器具(一例:肉回しの回転体)
として使用されたと、出土状況から推定されて
いるらしい遺物である。つまり

器ではなくて、回転体:コロの役目をする物品

であったようである。
 遺物の写真がweb上に公開されており、
発掘報告書に記載されている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
71427_2_聖山公園遺跡・根古谷台遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
聖山公園遺跡・根古谷台遺跡(古代・中近世編)、
西暦1993年、宇都宮市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所は、
栃木県宇都宮市上欠町。遺物が発掘されたのは
西暦1985年前後のようである。なお、この
遺跡は、この時点で聖山公園遺跡と呼ばれてい
たが、この後直ぐにその一部で、より古い遺跡
の重なりが発見され、そちらに根古谷台遺跡と
の名称が、付与されたとの事である。
 今回紹介する遺物の成立時期は、発掘報告書
第1pdfの第180ページによると、遺物が
出土した第48号住居跡は、奈良時代成立とし
て分類説明されており、出土した土器も、その
頃の物とされたように読み取れる。
 遺物の写真は、第2写真図版pdfの、写真
図版(PL)第69:”①48号住居跡出土遺
物(2)”の左上に在り(スケッチ図第204
番の)第8番とナンバリングされている。

聖山公園龍王.gif

 上記のように、写真の中央少し上の口の下か
ら縦に、かなり大きく、龍王のようにも読める
煤のような模様がある。
 龍神信仰の祭祀用土器かといっけんすると思
うが発掘報告書によると、カマドで調理に使っ
ていたように書いてある。
 そこで、煤のような模様を良く見ると、依然
はっきりしないが、どちらかと言えば

転(轉)子と書いてある

ようにも見える。
 発掘報告書によると、ほぼ同じ甕形をした7
番土器と繋げて、カマドの上方で食材等が転が
るようにするために使用されたように、読み取
れる。ので、出土品に蒸す食材を入れた後土器
同士で蓋をしてカマドの縁石に挟んでおいて火
の上にかざし、蒸肉を焼くための回転体に使用
する等の意味で「転子」等と、甕の一方に墨書
したのかもしれない。古代の火葬棺桶型蒸器か?
 何れにしても、墨書の字が「龍王」では無い
可能性が、少なくともこのケースに関しては、
どうやら有りそうである。(2022/04/01)

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