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島根県出雲市天神遺跡で中世毒兵墨書土器(長さん)

今回は、将棋駒の名前として発見されてい
無いとみられるが、それを思わせる漢字で、
「毒兵」等と墨書されているように見える、
恐らくだが、室町時代末から戦国時代にか
けて、成立したのだろうと解釈できる出土
土器破片の紹介である。
 遺物の写真がweb上で公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
2174_1_天神遺跡第7次発掘調査報告書.pdf
 なお、本文pdfは、
2174_4_天神遺跡第7次発掘調査報告書.pdf
であり、その後に後半本文が、第1pdf
に続き、途中で写真図版に代わり、そのあ
と、2番目の写真図版pdfが第2pdf
であり、最後の写真図版pdfが第3
pdfとなっている。以上のように、たま
たまデータベースに乱丁登録されている。
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
出雲市駅付近連続立体交差事業地内
天神遺跡第7次発掘調査報告書、
1997年3月、島根県出雲土木建築事務所・
出雲市教育委員会。
 遺跡の場所は、第4本文pdfの冒頭
例言によると、島根県出雲市塩冶有原町
3丁目38番地。遺物が出土したのは、
西暦1995年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、本文第4pdfの、
第36ページ付近の記載により、A地区で、
須恵器・土師器が出土し「陶磁器等が出土
しない遺構について、その成立年代は、
古代~中世である」と、取れる旨の記載が
ある。問題の遺物は「化学兵器を使う」と
の意味の墨書であり室町時代末か戦国時代
のものなのだろう。
 遺物の写真は、第1pdfである、写真
図版pdfの写真図版第9の第2段目中央、
遺物番号でA地区の53番との旨でナンバ
リングされている土器の小さな破片である。

天神遺跡車兵.gif

 上図のように、何か漢字で横に、左から
右に3文字、遺物土器の右下の方に書い
てあるようにも見え、第3字目が比較的判
り易く「兵」のようである。第2字目は、
ぱっと見に「車」にも見えるが、ゆがんで
いてはっきりしないが、

「毒」に近い

ように良く見ると見える。毒兵という将棋
名は、在り得そうだが無いので、将棋とは
関係なく、

戦国時代の戦で化学兵器を使う本当の兵士

の事かもしれない。第1字目はニンベンが
誤字で、”てへん”が正しいとすると撹拌
や撹乱の撹の字で、

「撹毒兵」となり、化学兵器をばらまく兵
隊の武器となる薬品入れ容器

等の意味では無いのだろうか。戦国時代に
出雲市内で、西暦1560年代の原手合戦
等、激しい戦が有ったのだろう。
 毒薬を入れる器が、記念に近くの社等に
近世の頃まで置いてあったものが、後に埋
設してしまったのかもしれない。(2022/04/20)

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会津若松市鶴沼B遺跡”歩悪”墨書土器に”竪”(長さん)

今回は以前紹介した”立馬歩奔王・玉”墨書
土器の発掘時にそれとは別に、古代の流路跡
から出土したとされる、”歩悪”土器の”悪”
の字の右下に、”竪”と書いてあるように見
え、第3段目袖に角行竪行悪行と並んでいて、
横行の無い西暦1230年頃の94枚制大将
棋(後鳥羽上皇期大将棋)の亜種が存在した
のではないかという話題である。会津若松市
鶴沼B遺跡の2013年の発掘では、以下
”立馬歩奔王・玉”土器、”歩悪”土器、
”縦線不足亜”土器の3つの将棋関連疑墨書
遺物が出土していて、今回は真ん中の遺物に
関する話題である。
 以上の3遺物を記載する発掘報告書名は、
会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告14
桜町遺跡(5次)・西木流C遺跡(2次)・
西木流D遺跡(1次)・鶴沼B遺跡(1次)、
2014、福島県教育委員会。
pdfファイル名は、以下の通りである。
23464_1_会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告.pdf
 今回再考した遺物は、発掘報告書に遺物の
写真が有り、発掘報告書の図版42:”
南区1号流路跡出土土師器”の左下隅に存在
して遺物番号(スケッチ図第50番)の19
番とナンバリングされ、土器の破片である。
 その写真の、不鮮明に漢字の悪に見える、
色相が煤のような模様の有る、左下の部分を
拡大すると以下の図のようになる。

鶴沼B歩悪竪拡大.gif

 悪の字の右下にズレて、別の煤の塊のよう
な模様が在り、はっきりしないが輪郭が、

どちらかと言えば”竪”の字に似ている。

これと、歩に見える模様の3字を、それぞれ、
歩兵、悪行、竪行の存在する大将棋を示して
いるのだと見れば、真ん中2段目の横行は、
会津若松市のケースは非存在、鎌倉市で鎌倉
時代に指すときには存在させるとして、
前に示した96枚制の後鳥羽上皇期大将棋の
モデルで、袖に悪行を置くタイプも否定でき
ないとの結論になる。以下は鎌倉市型である。
段目
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
③飛車、悪行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、悪行、飛車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、横行、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
上記の配列図のように、竪行の近くに、悪行
を置く、棋譜を遺物は連想させる為である。
なお鎌倉市横小路遺跡で発掘された悪行駒が、
本ブログの管理人には、いまや既知な為、

今回紹介した墨書土器の「悪」は、実在する
将棋種を示している可能性もある

と認識出来るようになった。小山若犬丸が
断末魔の合戦の折に、部下から小山悪四郎と、
系図上の名称で呼ばれていて、それに因んで
いてもい無くても、特にどちらでも構わなく
なったという意味である。あるいは、悪行駒
の入った大将棋を知っていさえすれば、西暦
1230年型大将棋を指して、土器に悪戯書
きする人物が、南北朝時代の小山氏の乱:西
暦1397年時点の、懐古主義者の兵士で無
くても、特に構わなくなったとも言える。
 ただし以上の事は、系図上で小山若犬丸が、

小山小四郎では無くて、小山悪四郎と記載さ
れるようになったのが、大将棋を所持してい
てかつ、悪行を働いた人物とされた為である

という議論を、格別に否定するものでも無い。
繰り返すが、小山市神鳥谷では悪行・竪行族
の駒である成一文字金角行駒が出土している。
 何れにしても上図のように、この土器の模
様自体が曖昧で、議論に不確定性が依然大き
いのであるが。
 仮に悪と竪が書いてあるとすれば、96枚
制の、後鳥羽上皇期大将棋の2つのモデルは、
上記の配列図で、横行と悪行が、悪行と横行
になる、もう一つの場合も含めて、どちらも
在り得えそうだと考えざるを得ないと、現時
点で私は認識する。(2022/04/19)

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山梨県甲府市大坪遺跡で古代王将墨書土器(長さん)

今回は、7世紀末~10世紀前半成立の
山梨県の遺跡で発掘された土器に、発掘報
告書が墨書有りと認め、第(亭の意味)と
読んだのだが、字がカスレており、

草書で王将かもしれないと、注意すべき

土器遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
6782_1_大坪遺跡.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
大坪遺跡、2002年、社会福祉法人清翔会・
大坪遺跡発掘調査会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、山梨県甲府市横根町546番地等。
遺物が出土したのは、西暦2000年前後
のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第18
ページ付近から、繰り返すと7世紀末から、
10世紀前半の古代のように読み取れる。
平将門の乱以前と、取れそうである。ただ
し、この遺跡からは中世の遺物も出土して
いるようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
17の右側の第5段目に在り、更に第6段
目に同じ遺物の内面底の拡大図とみられる
写真も在る。発掘報告書では、墨書が有り
「第」の異字(草カンムリ)であるとの釈
文が書かれている。

大坪遺跡王将.gif

 上図のように、草カンムリか竹カンムリ
かは問題で無く、第等の弔部分の

中央縦線が、本当に有るのかどうかが肝

である事が判る。

無いと仮定すると漢字で2文字で、尻切れ
トンボの草書で”王将”と書いてあるとも
解釈できるのではないか

と、本ブログの管理人は、個人的には疑っ
ている。ただし、杯だと思うが、それを置
く家が邸宅、つまり”~亭”と周囲から言
われている、平安時代の日本語で言う「第」
である事を杯に書いて、単に正しい置き場
所を示していたとしても、さほどおかしく
無いとは私も思う。
 中世遺物も出土しているし、10世紀初
成立だとすると、山梨県が茨城県から、極
端に離れてもいないので、平将門関連も、
100%は否定出来ないだろう。だから警
戒して、「王将」0.5個分位には
カウントして置くべきかもしれないと、個
人的には疑っている。(2022/04/18)

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宮崎県西都市日向国分寺跡で10C頭王将墨書瓦(長さん)

今回は平将門の乱かそれ以前の、8世紀後
半から10世紀頭成立の国分寺の瓦に、
漢字でいっけん王将と書かれているように
見える、宮崎県の出土遺物の話題である。

誤読であり、国奉と書かれている

とみられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
8029_1_日向国分寺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
西都市埋蔵文化財発掘調査報告書第56集
日向国分寺跡、2009、西都市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の
場所は宮崎県西都市大字三宅宇国分。遺物
が出土したのは、西暦1995年から西暦
2006年の間のようである。
 大量の瓦が出土し、アトランダムに写真
が載っている。成立年代は、ほぼ古代とし
か特定できないが、発掘報告書の第280
ページ付近の記載によると、8世紀後半の
奈良時代後期から10世紀頭の平安時代に
かけてであり、平将門の乱と同じか、それ
より前、律令時代から後と見られるようで
ある。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
44番(PL44)の下に在り、写真図版
の表題が、日向国分寺跡丸・平瓦等となっ
ている。写真図版44-8番とナンバリン
グされているが、大量の出土瓦のうち、た
またま発掘報告書に、この瓦を載せただけ
のような説明がある。

日向国分寺王将.gif

 上図のように、瓦の内面とみられる左の
写真に、とにかく何か漢字が全面に散漫に
書いて有るようにも見える。特に下中央の
やや右に、漢字で王将に、いっけんすると
見えるような線模様が有る。

関東から遠いので、平将門では説明がつか
ない。

 そこで、その右から縦に読んでみると、

第1行目に奉奉行と書いてあり、将と一瞬
読んだ部分のツクリは存在し無い

事になってしまう。2行目で将に見えた、
ヘンは爿ではなくて、別の奉

である。そして、王に見えた部分には薄く、

国カマエがあり、国奉と書いてある

ようである。つまり「奉奉行国奉」と書い
てあり、建築資材が国分寺建設のための
国有財産である事を示するため、瓦の一部
にもその印が付けられていたような、跡な
のではないかと、疑われてくる。
 よってこのケースは、将の字は無いので

将棋には関係なく

平安将棋の類が10世紀に存在した事も、
平将門の勢力が、九州の宮崎県まで及んで
いた事も、特に示していないと結論してお
きたい。(2022/04/17)

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宮城県仙台市下飯田遺跡で飛鳥期奔軍墨書土器(長さん)

今回は、奉墨書土器ではあるが、奉るのが
王ではなくて、蝦夷討伐軍ではないかと
疑われる奉軍と読めるような煤模様のある、
仙台市出土の土器遺物を紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
9419_1_下飯田遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書名は、以下の通りである。
仙台市文化財調査報告書第191集
下飯田遺跡発掘調査報告書、西暦1995年、
仙台市教育委員会・日本道路公団。
発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所
は、宮城県仙台市若林区下飯田。同じく抄
録によると、話題にする遺物が発掘された
のは西暦1991年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、第4河川跡第11層
から問題の土器は出土し、この層の成立
年代が出土遺物の形から、7世紀後半の
飛鳥時代と考えられているように、発掘
報告書の198ページ付近の記載からは読
み取れる。なお律令時代に、ここより
3.5キロメートル程度西南西の地点に、
神柵遺跡という遺跡名称で知られる官営跡
があるとの事である。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
26:”土師器(D群)”の最下段右側に
有り、スケッチ図第221図の第97番土
器との旨等の注釈がある。甕のような形の
土師器のように、私には見える。

下飯田奔軍.gif

 上図のように、いっけんして、中央やや
右の所に、「軍」と書かれているような、
漢字の模様に見える煤のように黒い模様が
在り、更に単語を作ろうとすれば、左すこ
し上に、第1字として奉と漢字書いて有る
ような、やや薄い模様が有る。
 大局将棋に右軍・左軍という名の将棋駒
が在るが、奔軍は無い。しかも第1字目が
奔では無くて、奉なので、この飛鳥時代の
遺物は、将棋とは関連せず、

大宝律令等の規則とは別に、蝦夷討伐目的
等の大和朝廷軍隊に対し、仙台市の住民が、
何らかの奉納品を差し出した事

を示しているようにも見える。過去本ブロ
グで紹介した範囲では、甕のケースには馬
である事が多かったが。写真面から明確に、
付帯の馬用水桶等であるとの証拠となる
墨書きは、少なくとも私には、今の所特に
検知出来てはい無い。
 何れにしても、古文書以外に出土遺物か
らも、飛鳥時代の歴史が示されている可能
性が高い事を例示する物品として、比較的
判り易い例のように私には思える。
(2022/04/16)

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中曽根遺跡のカンザシ香車。なぜ成りが奔俥(長さん)

以前に富山県高岡市中曽根遺跡で、成立年代が
少なくとも13世紀から16世紀の間に入ると
される、奔駒に成る香車駒型飾りの付いた
カンザシと見られている出土金属物を紹介した。
 その際本ブログでは、奔車に成るとしたが、
写真画像から見て不正確であり、傷かもしれな
いが、第2字目は車ではなくて俥である。今回
は、この第2字目を集中して問題にし、

奔俥である、その理由について考察する。

前回、第2字目を誤読したのは、本ブログの管
理人の、ほぼ単純な不注意であり、彫跡は歪ん
でいて、きれいに削って有るとは言えないが、
車ではなくて、実際にニンベンは有るとみられ
るという意味である。そこでこのケースは、

実際に「俥」の字が彫られていると見なす。

中国シャンチーの現代の書き字作駒には、俥が
あり、本ブログでは興福寺1058年物習字板
の酔像は、中国象棋書き字駒手法の模倣との解
釈を取っている。イスラムシャトランジや、
宝応将棋を中国流に唐王朝時代に模倣したとき
に、車と俥を輜車・輜俥等と書いて使ったので
はないかと疑っているという意味である。その
ため、

明らかに成立時代がそれより後のこのカンザシ
のケースには、中国シャンチー駒敵味方区別法
の、敵駒の車の「俥」の字は、国内で真似が出
来る

と解釈する訳である。なお俥は日本で発明され
たとの説が通説のようであり、平安末に中国シャ
ンチーで、実際に具体的に車駒が字体で区別さ
れるケースが、有ったのかどうか未確認である。
中国では、象は相手を像では無く相と書いて区
別する等、日本と具体的な流儀は違う。何れに
しても。
 しかしその解釈は、カンザシに奔俥と彫る理
由の説明としては、全く意味不明である。単に、
車という漢字が、類似品として別に有るから、
シャンチーでは、敵と味方駒を区別するために
俥を使っているという用途だからである。実際、
馬とニンベンの馬とは、意味まで全く違うが、
敵味方駒を区別できるという理由だけで、中国
シャンチーでは、ペアにして使う場合が有る。
 そこで、出土中世カンザシに奔俥が使われる
理由を、奔車では都合が悪い原因が、自明で無
いため、別に考え無ければならない事は明らか
となる。
 前提として、奔車は馬や牛の引く大型の、運
転手が運転が、へたくそで動きが正常ではない
車両。奔俥は、引く人間が乱暴な人力車とイメー
ジし、それで正しいとして以下議論する。後者
を使う理由は、日本の

中世の婚期女性が低年齢で、成人女性よりも、
かなり身長・体重共に小さかったから、それを
イメージして、カンザシ飾りの文字も書かれて
いたのではないか

と考える。つまり元々、

十歳代前半女性の付けるカンザシだったのでは
ないか

という意味である。
 以上の解釈は、恐らくカンザシを普段つける
ような日本の中世の女性は、政略結婚等の横行
により、十代前半で嫁ぎ先が決まり、よって、
カンザシを付けているような時代には、成人時
の体格よりも、平均してかなり小柄であったろ
うという推定に基づいている。当時はカンザシ
をつける女性として、そのような十代前半の
小柄の女性が、一般的にイメージされたので、
カンザシ造りの細工師も、

大型車両をイメージする字を、将棋駒型面に書
いては、用途として的確ではない

と考えたのではないかと疑われる。身長・体重
共に、まだ小さい女性が使う車両をイメージ出
来るような単語を、将棋駒名のイメージから、
はずれ無い範囲で選択すると、香車は元々華奢
な乗り物がイメージされるから良いとして、

孔子等の大の大人が複数人乗車する、運転の下
手な大型車両の奔車の表現では、カンザシの使
用人物の、十代前半女性のイメージに合わない

という事になって、人力車という比較的小型の
車両に、運転が雑なの意味で奔を付けた、奔俥
にしたのではないかという事になる。
 逆に言えば当時の摩訶大大将棋/摩訶大将棋
(変種)の香車の成りを、敢えて奔俥と称する
事は実際には、ほぼ無かったのではないかとも、
予想される。作駒で敵味方を区別するために、
これらの将棋の香車を香俥と書いたり、反車を
反俥と書いたりする事が、絶対無かったとは言
えないが。プレーヤーがそう表現する事は、誤
解を生むだけで、ゲームする上ではメリットも、
取り立てて考えられない為、ほぼ無かったに違
いないという事である。ただし、そのような駒
が有るという話は、現代人の中国シャンチーに、
そのような作駒も有ると知られている程度には
知られていたとすれば、カンザシ職人にもまね
て書けたのであろう。
 以上のような考察から、確かに香車の成りか
ら来ていて、実在していたとはいえ、奔俥とい
う単語は、実際には日本の中世の婚期であった、
十代前半の女性用のカンザシの将棋駒型の刻字
等でしか、頻繁には使用され無かった単語なの
ではないかと、本ブログでは今のところ疑って
いるという事になる。(2022/04/15)

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富山県高岡市中曽根遺跡で室町期摩訶大将棋簪飾り(長さん)

今回も、本ブログの主題に隣接する、
摩訶大大将棋/摩訶大将棋に関連する
遺物出土の大きなニュースである。
 web上に、この記事のほぼ20日ほど
前に公開された。

曼殊院将棋図成立の頃、摩訶大大将棋が
存在しており、成り規則の一部に、フレ
が有った

とみられる。駒名は、

「成り奔車の香車」でありそれががモデル
のカンザシ飾り

とみられている出土品である。
 裏面の文字を、普通の日本将棋の香車の、
崩した一文字金で発掘報告書では読もうと
したために、大阪電気通信大学の高見友幸
氏のブログを含めて、公開1か月満たない
現時点で、ほかのwebサイトでコメント
されている形跡は見い出せないようである。
じきに話題になるだろう。ともあれ。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
115690_1_中曽根遺跡発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
富山県文化振興財団埋蔵文化財発掘調査報告第78集
中曽根遺跡発掘調査報告、2022年、公益財団法人
富山県文化振興財団埋蔵文化財調査課。
 発掘報告書末尾の抄録等によると、遺跡
の場所は富山県高岡市中曽根。遺物が出土
したのは、西暦2019年~2020年
前後の事のようである。この遺跡は以前か
ら良く知られていて、発掘報告はこれが初
めてでは無い。
 遺物の成立年代は、遺物が土溝(SD)
第50番より出土して、発掘報告書「総括」
の163ページから13世紀から16世紀
の間と取れる記載がある。平均して、西暦
1443年近くの、曼殊院将棋図成立とさ
れる、室町時代前期15世紀初とみなして、
今回は議論する。発掘報告書第164ペー
ジ付近に、出土遺物の成立年代表等が記載
され、幾つかの土溝(SD)50番遺物包
含層出土物が、この時代のものとされるよ
うである。
 遺物の写真は発掘報告書の(写真)図版
40:”土器・陶磁器 土製品 金属製品
SD50(191)包含層”の右下に在り、
左が将棋面としてのオモテ、右がウラと、
解釈されているようである。遺物番号は、
第402番とナンバリングされている。
カンザシの飾りが、将棋駒になっているよ
うである。

中曽根香車.gif

出土遺物としても、比較的珍しいカテゴリー
の物品であると、本ブログの管理人は認識
する。
 そして上図のように、オモテ面は香車、

ウラ面に奔車とかなりはっきり書いてある

ように私見される。発掘報告書では繰り返
すとオモテ面香車、ウラ面不明。ただし、
一文字金が普通で、金が崩されているので
はないかとの旨のコメントが、あるように
読み取れる。

未発見の将棋亜種だが、奔駒を成りとして
いる事から、摩訶大大将棋/摩訶大将棋と
見なせると、ほぼ断定できる

ように私には見える。摩訶大大将棋等では、
香車の成りは、従来の文献史料からは日本
将棋と同じで金将であり、一文字金と、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄で表現される。
 奔車は反車と同じ駒の使い方規則であり、
摩訶大大将棋が成立した初期には、最下段
の成を金将より袖は、統一的に奔駒にする
案も有ったと見るのは、余り不自然では無
いのであろう。
 曼殊院将棋図の現存品が無いため、不確
定性がこれまで大きかったが。少なくとも
水無瀬将棋図よりも前の時代の、戦国時代
以前に摩訶大大将棋や摩訶大将棋は有り、

曼殊院将棋図に摩訶大将棋/摩訶大大将棋
が記載されていたのが本当である可能性が、
以前より、更に高くなって来たと見るべき

であろうと私は考える。(2022/04/14)

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千葉県千葉市大膳野南貝塚で縄文後期奔行墨書土器(長さん)

今回は、千葉県の遺跡で縄文時代の典型縄文
土器に、漢字で奉行と書かれているように見
える煤模様が有るとの話題である。
 千葉県の弥生時代等に、土器が掘り出され
て、貢物入れに利用されたのではないかと疑
われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
22593_2_大膳野南貝塚発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書名は、以下の通りである。
千葉市大膳野南貝塚発掘調査報告書、
西暦2014.6、三菱地所株式会社・
公益財団法人千葉市教育振興財団・
国際文化財株式会社・
(株)玉川文化財研究所共同企業体。
 発掘報告書本文第1pdf末尾の抄録によ
ると、遺跡の場所は千葉県千葉市みどり区
おゆみの中央九丁目19番。遺物が出土した
のは、同じく抄録によると西暦2010年の
前後1年間程度の間のようである。
 紹介する遺物の成立年代は、遺物がJ40
号住居跡から出土し、遺物土器の形から、
千葉県の縄文時代後期の初め頃とみられると
の旨の記載が、発掘報告書本文第1pdf:
22593_1_大膳野南貝塚発掘調査報告書.pdf
の第402ページ付近に記載されている。
 遺物の写真は発掘報告書第2写真図版
pdfの写真図版158の最上段に有り、
写真にはJ40号住居址出土土器との旨、
付記されている。

大膳野奉行.gif

 上図のように、装飾円弧状曲線が目立つ、
甕のような縄文土器であるが、行の字が、
模様を避けるように、へんとツクリを離して
書いた点を特徴して、漢字で「奉行」と書か
れ、古代の税の納入を連想させる貢物入れ用
墨書土器のようにも見える。

千葉県の縄文時代後期初に、奉という漢字が
成立していたとすれば、紀元前2000年前
に漢字が有るという事になり、中国の漢字の
明確な成立より前になる等通説と大きく違う。

 そこで上図の写真をよく見ると、縄文土器
に円弧線模様をつけた縄文人とは別の、より
時代の下る人物が、納税用の容器として使う
土器を新たに作成する手間が省けるので、た
またま現地に露出していた、縄文土器に奉行
と書いて、このケースには、税となる奉納物
品用の容器として、

二次利用したよう、私見では見える。

円弧線模様作成者イコール「行」の字墨書者
だとしたら、漢字が書けるように模様の方を
予め調節するはずだからである。
 何れにしても、この事は、晩期縄文人にも
弥生時代の為政者・豪族は、貢物を差し出す
ように指示していた事を、支配者層が容器に
不自然感を感じて、い無いと見られることか
ら示している。よって以上のことから、

奉という漢字が、晩期の縄文時代の土器に、
関東晩期縄文時代人によって、書かれていた
としても、不思議では無い

事を示唆しているように、私には疑われる。
奉行の奉という漢字は、支配者層にとっては、
相手の人種が何んであっても、学習させるべ
き知識内容であり、恐らく大将棋等の奔王の
奔の字に、かなり形の近い

「奉」の字は、漢字の中でもわが国では第一
級に成立が早かった

事を示しているのではなかろうかと、以上の
事から私は考えているのである。(2022/04/13)

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宮城県大和町一里塚遺跡で藤原京期走馬木製鋤(長さん)

今回は、土器ではなくて鋤の形の木製の遺物
に、漢字で走馬と書いてあるようにもいっけ
ん見える、出土遺物の紹介である。

「高臺」と書いてあるように見え不明確

である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
9840_1_一里塚遺跡-第44・47次発掘調査報告書-.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
宮城県文化財調査報告書第179集一里塚遺跡、
西暦1999年3月、宮城県教育委員会・宮城県
土木部。
 遺跡の場所は、発掘報告書末尾の抄録によ
ると、宮城県黒川郡大和町吉岡字東柴崎・
吉田字桧木地等との事である。
 遺物が出土したのは、同じく抄録によると、
第47次発掘の1997年の集落部跡調査の
ときのようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書まとめの、
第146ページ付近の記載によると、7世紀
後半から8世紀頭の藤原京時代のようである。
 遺物の写真は発掘報告書の図版第36:”
木製品・土製品・凝灰岩製支脚・凝灰岩切石”
との旨の、左上に2枚並んで裏表の写真が有
り、どちらがオモテ面か、私にはよく判から
ないが、右側の面の写真の方に、漢字のよう
にも見える模様が有るようである。

一里塚遺跡走馬.gif

 私には鋤のシャベル状の部分を材木を削っ
て作成した物品に書いた字のように上図は見
え、シャベル部の中央上に、いっけんすると
「走」、左端の方に「馬」と書いてあって、
大局将棋の走馬のようにも見える。

が、意味はほぼ不明

である。そこで、字を良く見ると、

走は誤読で、台の旧字である臺

のようにも見えてくる。馬も、このケースは
はっきりせず、実は左が第1字目であって、
左から右に読み「高台」との旨が書いてある
だけかもしれない。

鋤を使う場所を、書いて指示した

のであろうか。官営跡が第44次発掘で検知
された場所から数百メートル地点のようなの
で。識字層が居て、本品のような、文字史料
を残したという事なのかもしれない。木に、
将棋関連の文字が書いてある、比較的珍しい
例かと思ったが、よく見ると、このケースは
読み間違いだったようだ。(2022/04/12)

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宮城県仙台市養種園遺跡で近世成立王将墨書陶器(長さん)

今回は湯のみ等の、恐らく使い古し食器の
内側の白い部分に、将棋駒名の漢字を習字
をしたように見える。恐らくだが江戸時代
成立と見られる墨書遺物が城下町の仙台市
で発掘されているという話題である。なお、
場所は、江戸時代の絵図の国分小泉御屋敷
の池と見られる地点であるという事である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
9895_1_養種園遺跡.pdf
報告書の名称は、以下の通りである。
仙台市文化財調査報告書第214集養種園遺跡、
1997年3月、仙台市教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書末尾の抄録に
よると、宮城県仙台市若林区南小泉一丁目。
 遺物が出土したのは発掘報告書第6ペー
ジ「調査の経過」から、1991年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、伊達藩の別荘が出来、
城池が存在したのが17世紀後半であり、
江戸時代と考えられるようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真-61の
4とナンバリングされたカラムにあり、第
4カラムは、第Ⅲ(城池)地点の西第Ⅶ区
出土遺物3例との事である。今回紹介する
遺物は3つ並んだ内の右2つであり、遺物
番号は発掘報告書の231ページによると、
419番ないし、430番のようであるが、
どちらがどちらか私にははっきり判らない。
 一方は戦国期の陶器とされるようである
が、文字を書いたのは、17世紀の池が出
来た頃であろうと、私は個人的に推定して
いる。

養種園王将.gif

 上図は、中央の陶器の恐らく内面で、
ヨゴレが多いが、右上に大、下に将が目立
ち、よく見ると大の下に一、将の上に王と
漢字が在って「大一王将」のように読める。

養種園王門.gif

 次の図は第1遺物と同じく縦に読むと、
王門(改行)王のような漢字が書いてある
ようにも見える。2個の遺物から、習字が
私には連想される。
 そして第Ⅲ(城池)区第2トレンチから、
以下のような類似の陶器が出土していると、
写真-60に載っている事からも、更にそ
の感が強くなる。

養種園金将.gif

 上図は、写真-60第12カラムの”第
Ⅲ(城池)区第2トレンチ”から出土した
とされる遺品陶器の左上のものであり、3
文字で「王金将」と漢字で、内側の空白面
に習字したようにも見える。
 伊達藩仙台城からは既に将棋駒が出土し
ているので、城の中で将棋は指されたので
あろう。が場所に関係なく、別荘等至る所
で将棋が趣味の武士が大勢いて指したり、
将棋駒作りをしたりしていた事を、こうし
た遺物は示していると見なせる疑いが、濃
いのではないかと私は思う。(2022/04/11)

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