SSブログ

神奈川県鎌倉市横小路遺跡で13C大将棋駒(長さん)

今回は、たいへん大きな発見の話題である。
集成鎌倉の墨書が発行されるのと前後して、
神奈川県鎌倉市横小路遺跡で、判読不明だが、
写真を見る限り2017年頃、竪行駒意識の

不成「悪行」とみられる木製将棋駒が出土

したようである。
 遺物の写真はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
115104_1_鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書37令和2年度
発掘調査報告(第2分冊)、西暦2021年3月、
鎌倉市教育委員会。
なお、この第2分冊発掘報告書には、
若宮大路周辺遺跡群・今小路西遺跡・横小路
周辺遺跡・山ノ内上杉邸跡・多宝寺跡等の調
査結果が載っているが遺物は横小路周辺遺跡
二階堂宇荏柄81番で発掘されたようである。
 遺跡の場所は冒頭第Ⅴページの表によると、
繰り返しになるが、神奈川県鎌倉市二階堂宇
荏柄81番の1、遺物が出土したのは、西暦
2017年前後のようである。なお鎌倉時代
には城だった場所のようであり町場では無い。
 遺物の成立年代は、第6層のピット中から
出土し、第6層は発掘報告書の第275ペー
ジ付近によると、13世紀中ばの

鎌倉時代中庸

と、発掘報告書では見られているようである。
不意のモンゴル帝国侵攻危機が迫る前とみら
れ、後鳥羽上皇期大将棋を想定した方が良い
時代と取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版26の
左上カラム:”6面ピット611”の、第2
段目左から2番目に、五角形の木製将棋駒の
形で、左から右へ有文字面・空白面と並んで
いて、第447番とナンバリングされている。
なお、スケッチ図については、同発掘報告書
のスケッチ図40:”出土遺物(23)”の、
左下の方にカワラケのスケッチ図と共に載っ
ているので、直接参照されたい。

鎌倉横小路悪行.gif

 上図から、スケッチ担当者は第2文字目が
行である事を見破ったが、第1字目の”悪”
が、ほぼ想定外だったと私は受け取る。(故)
増川宏一「将棋の歴史(平凡社;2013年)」
の55ページに海龍王寺制規と共に載ってい
るように、南北朝時代成立の遊学往来より前
に、大・小2種将棋以外の例えば中将棋系ゲー
ムが記載された、はっきり成立年代の確定し
た史料が現時点で無い為、鎌倉鳳凰駒等、
神奈川県鎌倉市で出土する駒の一部は大将棋
の駒というのが従来より有力である。そして、
この駒こそ、その

まさに大将棋系の駒の出土

だった。12世紀初中旬のこのときには、
横行の袖移動で、中央第2段目が空になるの
が気になったらしく、96枚制と、24節気+
72候の暦用語関連枚数になる事もあって、
横行の位置にこの駒を置いて、袖の方に横行
を2枚にして置いたかまたは、竪行と飛車の
間に横行は移動させずに、

横行の代わりに悪行を置いたかの、どちらか

だろうとほぼ、解釈出来るようである。更に、
福島県会津若松市出土の、鶴沼B遺跡土器と
組み合わせて考えると後者と併存し、ゲーム
の出来優先主義と、しきたり上流階級嗜好優
先主義とで分かれており、今回の鎌倉市出土
品は出土した場所から見ても、身分の高い者
の所有物と少なくとも同形式だったのだろう。
 私見だがこの新型大将棋に於いて、元横行
の位置に置かれた駒は、後退出来ず、竪行と
飛車の間に置かれた駒が、竪行の縦横交換の
動きにされただろうとも、ほぼ予想出来よう。
よって、この発掘による大きな新発見により、

本ブログの大将棋変化過程説は、拡張された
が、危機的に矛盾は起ら無いだろう

と考える。不成なので、麒麟抄成立の南北朝
時代よりも前の鎌倉時代の駒だろう。ただし、

悪の漢字の付く駒が、悪狼が初であるという
仮定は、ほぼ成り立たなくなった。

だから悪狼を作り易くなったという点で、本
ブログの論は、少し不利になったとは言える。
 今の所公式には、将棋駒のオモテ面とみら
れる墨書は、判読不能とされているのだが。
オモテ面一面だけで、大将棋類に分類できる
駒の、鎌倉市での初の出土となる、記念碑的
なイベントだったと少なくとも私見する。
なお現場は個人住宅らしく、土地にたまたま
手を入れる際、緊急発掘調査が行われた結果
だったという事だ。(2022/04/03)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー