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宮崎県西都市日向国分寺跡で10C頭王将墨書瓦(長さん)

今回は平将門の乱かそれ以前の、8世紀後
半から10世紀頭成立の国分寺の瓦に、
漢字でいっけん王将と書かれているように
見える、宮崎県の出土遺物の話題である。

誤読であり、国奉と書かれている

とみられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
8029_1_日向国分寺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
西都市埋蔵文化財発掘調査報告書第56集
日向国分寺跡、2009、西都市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の
場所は宮崎県西都市大字三宅宇国分。遺物
が出土したのは、西暦1995年から西暦
2006年の間のようである。
 大量の瓦が出土し、アトランダムに写真
が載っている。成立年代は、ほぼ古代とし
か特定できないが、発掘報告書の第280
ページ付近の記載によると、8世紀後半の
奈良時代後期から10世紀頭の平安時代に
かけてであり、平将門の乱と同じか、それ
より前、律令時代から後と見られるようで
ある。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
44番(PL44)の下に在り、写真図版
の表題が、日向国分寺跡丸・平瓦等となっ
ている。写真図版44-8番とナンバリン
グされているが、大量の出土瓦のうち、た
またま発掘報告書に、この瓦を載せただけ
のような説明がある。

日向国分寺王将.gif

 上図のように、瓦の内面とみられる左の
写真に、とにかく何か漢字が全面に散漫に
書いて有るようにも見える。特に下中央の
やや右に、漢字で王将に、いっけんすると
見えるような線模様が有る。

関東から遠いので、平将門では説明がつか
ない。

 そこで、その右から縦に読んでみると、

第1行目に奉奉行と書いてあり、将と一瞬
読んだ部分のツクリは存在し無い

事になってしまう。2行目で将に見えた、
ヘンは爿ではなくて、別の奉

である。そして、王に見えた部分には薄く、

国カマエがあり、国奉と書いてある

ようである。つまり「奉奉行国奉」と書い
てあり、建築資材が国分寺建設のための
国有財産である事を示するため、瓦の一部
にもその印が付けられていたような、跡な
のではないかと、疑われてくる。
 よってこのケースは、将の字は無いので

将棋には関係なく

平安将棋の類が10世紀に存在した事も、
平将門の勢力が、九州の宮崎県まで及んで
いた事も、特に示していないと結論してお
きたい。(2022/04/17)

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