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福岡県福岡市博多築港間で平安末王奔墨書土器(長さん)

今回は、平安末の平清盛が支配した時代
の博多の遺跡で、土器の底に「王様」の
ようにも見える、字は黒々としてはっき
り見える墨書遺物が出土しているとの旨
の話題である。

使用者名で「王壌」等を意図して書いて
いる

と私見する。
 遺物写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
17224_1_都市計画道路博多駅築港線関係埋蔵文化財調査報告Ⅳ.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
博多駅・築港線第4次調査:福岡市
埋蔵文化財調査報告書第205集
1989年、福岡市教育委員会。
 発掘報告書冒頭「調査に至るまで」に
よると遺跡は福岡駅と築港線を結ぶ道路
となっているが正確な地番は発掘報告書
に記載されている箇所を発見していない。
又発掘報告書本文同じく冒頭の発掘調査
の経過によると遺物が出土したのは西暦
1984年前後の事とみられる。
 遺物の成立年代は、遺物は第1069
号土擴で出土したが、発掘報告書第
139ページ付近の記載によると、出土
物の内容から、平安時代末の11世紀前
半成立と見られているように読み取れる。
 遺物写真は発掘報告書写真図版(PL)
第37の最上段左にあり、図版の最下段
欄外に第1069号土擴で発掘された旨
の記載がある。スケッチ図第129図の、
第80番の杯状の土器と同一物とみられ、
発掘報告書第139ページ付近の記載に
よると、発掘報告書でも墨書土器である
と認識され、「王+花押」であると釈文
されているように読み取れる。

博多王奔.gif

 上記のように、墨書は明快であるが、
第2字目が謎である。そこでマイクロソ
フト社のimeパッドで検討すると、
「王壌」等と記載され、恐らく渡来系の
交易業務に携わる人物を意味する人名で
あり、器物の使用者名ではないかと疑わ
れる。
 平清盛が日南宋貿易を仕切っている時
代、現場に大勢の人間が往来/交錯し、
器物に使用者名等を書いておかないと、
紛失してしまうという環境に置かれてい
たと、想像出来ると私見する。(2023/03/21)

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大阪府大東市中垣内遺跡で弥生時代泰山墨書土器(長さん)

今回は、大阪府大東市で集落からもやや
外れた弥生時代耕作地とみられる場所の
発掘で、奉山と読める土器の破片が出土
し、大阪付近では弥生時代、ある程度に
字の書ける人口が、そうとうに多かった
という事実を物語っていると判る、遺物
の発掘例の紹介である。
 遺物の写真がweb上公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
17438_1_中垣内遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は以下のとおりである。
大東市埋蔵文化財調査報告第11集
中垣内遺跡発掘報告調査書、西暦1997年3月、
大東市教育委員会。
発掘報告書冒頭例言によると遺跡の場所
は、大阪府大東市寺川1丁目。
遺物が出土したのは同じく例言によると、
西暦1994年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物はA区の第5
遺構面から出土したが、発掘報告書第
39ページの記載によると、漠然と弥生
土器の破片のようであり、正確な成立年
代は、試料が小さくよくわからないとの
旨読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
25の最下段に在り、第26土溝(SD)
出土土器と付記され、遺物番号第44番
との旨、ナンバリングされている。

中垣内泰山.gif

 上図のように、小さくではあるものの、
左下隅に漢字で「奉山」と読めるような
模様が有る。
 大東市付近に高い山は無いとみられる
が、鉱物探査を目的に中国から漢王朝期
に渡来した外国人が大勢大阪府には居て、
識字出来たので、捜索をする日本の山岳
部を漠然と奉じて、写真のような墨書を、
弥生時代おそらく中期に、大量に残した
結果、集落から離れたところの破片土器
としても、前記のような墨書遺物が見出
されるのであろうと私見する。九州北部
と共に、大阪府付近へは、瀬戸内海を通っ
て弥生時代の中期以降、漢王朝期の中国
人等が盛んに行き来していたのであろう。
(2023/03/20)

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香川県大内町原間遺跡で弥生時代の王奔墨書土器(長さん)

今回は2年弱前に本ブログて「馬」墨書土玉、
「(不明4文字)」土器、「1」の文字土器
が出土し「馬」墨書だけ本物であろうとした、
表題遺跡を西暦1998年に発掘し弥生時代
後半の集落跡であると発掘報告書に書かれた
表題遺跡より、もっと鮮明に「王奉」と書か
れた墨書土器が出土し、私のミスでそれを見
落していたとの旨の紹介である。

 香川県の弥生時代の後半に王奉墨書が成立
していたと紹介した、善通寺市龍川五条遺跡
と、類似の例

であるように見られる。
 遺物の写真はweb上に公開されて、以前
紹介した発掘報告書に載っている物品である。
pdfファイル名、発掘報告書の名称(第1
本文pdfの冒頭に在る)、遺跡の場所、
遺物の出土年、遺物の成立年代(第Ⅲ調査区
で以前、2年前に紹介した遺物とほぼいっし
ょである)は、順に次のようになる。
pdfファイル名:
11139_7_原間遺跡Ⅰ.pdf
発掘報告書の名称:
埋蔵文化財発掘調査報告第39冊原間遺跡Ⅰ、
2002年3月、香川県教育委員会・
財団法人香川県埋蔵文化財調査センター・
日本道路公団香川県土木部。
遺跡の場所:
香川県大川郡大内町川東原間(末尾抄録)。
遺物の出土年:
1997年~1999年の間程度(末尾抄録)。
遺物の成立年代:
 前回出土した遺物は、弥生時代後期後半と
みられ、順に次のようになっている。
発掘報告書の85ページ付近に、「馬」墨書
土玉が出土した第3調査区の第7竪穴住居跡
の成立時期が、弥生時代後半後期との旨の
説明がある。
 また、不明4文字土器は、第3調査区の、
第02番溝状遺構で出土したが、成立時期は、
同じく弥生時代後半後期との旨の説明が発掘
報告書第114ページ付近に在る。
 「1」文字土器は、発掘報告書第152ペー
ジ付近に、「第3調査区の第03河川跡から
出土し、共出土した遺物の成立年代が下川津
第Ⅲ期等と記載され、弥生時代末とみられて
いる」との旨の説明が有るように読み取れる。
 今回の遺物は前回の第3番目の遺物と同じ
で、第3調査区の第03河川跡から出土し、
上記のうち「1」墨書土器と、成立年代はよっ
て同様で、弥生時代末と見られているように
私には読み取れる。
 遺物の写真は、今回紹介する「王奉」墨書
土器は、発掘報告書第7写真図版pdfの、
写真図版第201の、最下段左に在り、遺物
番号第730番との旨、ナンバリングされて
いる。高い台付き胚の台の部分のように、
私には見える。

原間王奔奔.gif

 なお、前回紹介した3個の遺物は、
馬と書かれた土玉形が、
発掘報告書写真図版第198の、3段目右側。
遺物番号代377番。
不明の文字の土器が、
写真図版第200の第3段目右で、遺物番号
第622番。
同じく「1」の字のように見える土器が、
写真図版204の2段目左の、遺物番号第
1068番。
以上の順で載っている。
 今回の遺物は、上図のように、かなり鮮明
だが、奉の字が、写真の中央に多重に書いて
あり、いっけん解釈困難である。しかし、

右上に王が書いて有るのに気がつけば、
「王奉」の意図で、杯に貢物を乗せた

のは明らかのように私見する。
 確かに「馬」土玉が鮮明で、他は不鮮明と
いう事では、弥生時代末に「馬」「王」とい
う簡単な漢字なら全て、香川県で使用されて
いたという論にとっては、曖昧だとみられる。
が、今回紹介した遺物から、弥生時代末に漢
字が有る程度書かれていたという事が有って、
なおかつ、実質酋長だろうが「王」と表され
る人物が発掘現場近くに有力者が居たことは、
以前の認識よりは、鮮明になったのではない
かと私見する。
 恐らく当時は「山奉」等の墨書土器も実在
し、香川県善通寺市龍川五条遺跡パターンと、
この遺跡の性格は、類似している疑いが在る
のではないかと、私は考えている。(2023/03/19)

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香川県善通寺市龍川五条遺跡で弥生期山泰墨書土器(長さん)

今回は、以下紹介する遺跡と発掘報告書自
体は以前に紹介しており、平成元年頃に、
香川県で出土した弥生時代とされる土器の
甕の破片に、表題のように道教の山岳崇拝
の意味である、山奉と漢字で書いてあるよ
うに見える遺物の話題である。

以前には「棋+偶然模様」「王+偶然模様」
であり「棋象」、「王将」とは読めないと、
本ブログでは結論した、弥生時代前期後半
の遺物2個を、共出土品として

を紹介している。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っており、発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
以前に紹介しており、pdfファイル名、
発掘報告書名、遺跡の場所、遺物の出土年、
そして遺物の成立年代も最後はたまたまだ
が、ほぼ前に話題にした遺物といっしょで
ある。すなわち、
pdfファイル名:
10465_5_龍川五条遺跡I.pdf
発掘報告書の表題:
龍川五条遺跡Ⅰ第1分冊、1996.12、
番川県教育委員会・財団法人香川県埋蔵文化財
調査センター・日本道路公団。
 発掘報告書のpdfのうち、1と2が
本文であり、3の途中までが遺物観察表、
3の後半から4の途中までが遺構の写真、
4の後半から5、6、7、8が遺物の写真
となっているようである。今回紹介する
遺物は、第5pdfに、写真がある。前回
の2個はたまたま別の第6pdfに、写真
が在った。
そして今回紹介の遺物の説明は本文pdf
の第1pdfに記載されている。
遺物が発掘された遺跡の場所:
冒頭例言により香川県善通寺市原田町。
遺物が出土した年:
同じく例言によると、西暦1989年。
遺物の成立年代について:
遺物の成立年代は、発掘報告書第107ペー
ジ付近の記載によると、遺物は第50内環壕
と名づけられた堀り跡から出土し、形状から
弥生時代前期~中の初めころの遺物とみられ、
土器破片だが、元は甕型土器と見られている
ようである。以前紹介した「棋象」「王将」
墨書が疑われた遺物が出土した、第3~4河
川跡等の近くのページ説明があり、ほぼ同一
年代の物品と、みられているように、私には
読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版のう
ち、第5写真図版pdfの写真図版第82:
”(1)SD50出土遺物(12)”の、
下のカラムの上段左に在り、遺物番号第
633番との旨、ナンバリングされ、小さな
破片だが、繰り返して言うと「甕型土器だっ
た」と言われればそのように見える物である。

龍川五条山泰.gif

 上図のように、中央やや右に寄って縦に2
文字「山奉」と書かれているように私見する。

弥生時代中期頃の、漢王朝時代の中国人の、
道教に基づく山岳信仰の祭祀用

であると私は考える。他、前に紹介した墨書
が疑われる出土遺物の文字、「棋」「王」と
組み合わせると、渡来人の頭目の名が「棋」
等であり、また王+(何がし)墨書土器は
「王将」ではなくて「王奉」と書かれていた
疑いがあり、以前紹介した、青森県青森市の
上野尻遺跡と、成立時期まで含めてほぼ同一
パターンの香川県の遺跡の遺物ということに
なる、疑いが濃いと私見する。「将棋」の
「棋」だと考え遊戯と関連するのではないか
と、以前には私は思った第1遺物の第1字目
は、実は人名だった可能性も、浮上したよう
に私は疑う。(2023/03/18)

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青森県青森市上野尻遺跡で縄文晩土奔墨書土器(長さん)

今回は、以前に縄文時代後期後半と成立年
代が飛びぬけて早い、青森県青森市の
上野尻の墨書土器「山奉」を紹介したが、
それに引き続いてその2例目として、漢字
で「土奉」と書いてあるように見えるとい
う遺物が、以前紹介した同じ発掘報告書に
載っているという旨の話題である。

第1字目の上部が切れていて、実際には、
「王奉」と書かれた墨書キュウス型土器

の疑いがある。
 遺物の写真がweb上に公開されており、
発掘報告書に載り、発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名・発掘報告書名・遺跡の
位置・出土年・遺物の成立年代は、「山奉」
土器と「王奉」土器とでまったくいっしょ
である。各々以下の通りである。
pdfファイル名:
34151_1_山下遺跡・上野尻遺跡.pdf
発掘報告書名:
青森県埋蔵文化財調査報告書第258集
山下遺跡・上野尻遺跡、1999年3月、
青森県教育委員会。
遺物は、第2例も上野尻遺跡で出土である。
 遺跡の位置:末備の抄録により、
青森市大字矢田字上野尻54、
発掘調査:末尾抄録により西暦1998年
前後。
 遺物の成立年代:どちらも上野尻遺跡B
地区で出土。青森県の縄文時代後期後葉
(後半)。西洋紀元前後ではないかと私見。
 遺物の写真は第1例とさほど離れていな
い、発掘報告書の図版18の最上段右端に
有り、本文中スケッチ図58の第47番と
ナンバリングされている、キュウスのよう
な形の土器で、全形がほぼ再現できたが、
上部が欠けている。私には縄文時代よりは
新しく、縄文晩期時代成立のように思う。
 この遺物も第1例同様縄文模様が私には、
良く判らない。写真は前面と側面を横から
撮影し、問題の漢字のような模様は下の
方のコマの、側面に在る。

山下遺跡土奔.gif

上図のように、やや右に縦に漢字で土奉
と書いてあるように見え、奔土では無いの
で摩訶大/大大将棋から来てはいない。が、
上が欠けており

「王奉」の意図ではないか

と私的に考える。以前の山奉土器と字の書
き方は、豪快で大き目である点似ており、
組み合わせて考えてみると、縄文文化地帯
への、前漢王朝期に対匈奴戦争対応のため、
武帝等の指示で、武器の原料の鉄鉱石捜索
を目的として本州最北端の青森県の地へも
西日本同様に、中国人が鉱物探査の為渡来
し、結局定住した。そしてその少し経つと、
その中国からの渡来人の一部が、弥生時代
のもとから居した日本人よりも、文明国か
ら来た人間である為、知識人として実力を
持ち、青森県のこの遺跡付近では、長老と
してのし上がり、「王」と評する者も存在
した。
 更にそうしたが中国人に対し、仲間の識
字層が「王」また鉱山捜索の「山の主」と
して他界後も称え、現地の縄文時代後期後
半すなわち西日本の弥生時代中期にその王
が亡くなった際に祭祀を行った結果、それ
に使用する土器が出土したようにも見える。
 帰化人「王」にとって、家来が弥生土器
で貢物をよこしても、晩期縄文土器で貢物
をよこしても、元々が遺族も中国人と意識
された為に差に関心は無く、どちらでも良
かったので、縄文土器に、たまたま墨書の
有る例が、青森県の該遺跡では出土してい
るという事ではないか。以上が私が以前に
も本ブログで表明した事のある解釈である。
上野尻遺跡は、まさに西洋紀元前後の東日
本の遅い時代の縄文土器に、九州北でよく
みられる弥生時代中期の墨書の有る典型例
ではないかと、私には疑われる。
 特に第2例目は、山岳部での鉱脈探査が
得意の「王」・「長老」が、この発掘調査
地点付近に、西日本の弥生時代中期に存在
した事を、以前の山ではなくそれに加えて
「王」の字の墨書として出土したことによっ
て、より鮮明にしたという事になるのでは
ないだろうかと私は疑っている。
 つまり西日本では、そのころ弥生文化が
進行しつつあったのであり、人種に関わら
ず簡単で良く使う漢字である「山」や「王」
は、青森県の縄文後期後半頃には日本全国、
特に津軽半島以南には、浸透しつつあった
のではないのだろうかと、私は依然疑って
いるという事である。(2023/03/17)

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茨城県茨城町奥谷遺跡で平安期龍王墨書土器(長さん)

今回は、表題の茨城県東部の遺跡で、
龍王で、第1字目を違えたようにも見え
る、「隆王」と書かれているとみられる、
平安期成立の墨書土器が出土していると
の旨の話題である。
 遺物の写真がweb上公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
18438_2_奥谷遺跡・小鶴遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第50集
奥谷遺跡・子鶴遺跡、1989年3月、
財団法人茨城県教育財団。
 遺物はこのうち、最初の奥谷遺跡で、
出土したようである。両遺跡は川を挟ん
で対岸同士で、子鶴遺跡が別の川の合流
点に現在たまたま在る弥生時代の遺跡。
奥谷遺跡はそれより規模がやや大きく、
縄文時代から中世まで続き、古代は律令
集落だったと見られているようである。
 さて発掘報告書冒頭例言・第21ペー
ジ付近の「遺跡の概要」によると、遺跡
の場所は、茨城県東茨城郡茨城町奥谷字
小柄1105。遺物が出土したのは例言
によると、西暦1986年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第1本文
上巻pdfの、第102ページの遺物観
察表によると、墨書土器であり「隆」の
字が書かれ、第29号住居跡で出土して
おり、第100ページに、平安時代成立
と、共出土した遺物から判断されている
ように私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の第2下巻
pdfに続く写真図版(PL)第117
の第4段目右に在って、遺物番号土器
(P)の第194番との旨ナンバリング
され、杯型土器の側面に、天地逆に漢字
で2文字墨書されているように、私には
見える。

奥谷龍王←隆王.gif

 発掘報告書でも墨書杯型土器と解釈さ
れ、発掘報告書第2下巻pdfの、第
611ページ付近の記載によると、平安
期の成立で、一文字「隆」であり、人名
との旨解釈されているように読み取れる。
上図を見ると、杯を伏せたときに漢字は
正立し、「隆」の右に小さく「王」の字
が有ると私見する。「龍王」と書こうと
して、「隆王」と書いてしまったとも、
解釈できるのではないかと、私は考える。
祭祀用で、付近の幅広の河川部に生息す
ると当時は考えられた、竜神信仰行事の
為の杯か、地鎮で土器を埋める際に、
地下に龍が居ると見て、龍王の意味で、
隆王と書いたのではないかと、個人的
に疑がっている。人名で無いと否定する
のは困難であるが。発掘報告書の、第
612~613ページの墨書土器釈文表
から、「東」と「西」の墨書遺物の割合
が大きく、繰り返すと地鎮の印象が、個
人的には強い。幅の広い河川川岸なので、
水面下や川岸の地下には龍が生息してい
ると、平安時代には考えられたのでは、
ないのだろうか。(2023/03/16)

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佐賀県佐賀市西山田二本松遺跡で古代龍馬墨書土器(長さん)

今回は、西山田二本松遺跡で龍馬と読める
墨書土器が出土しているが、同一発掘で、
「天虎」と読める、大大将棋の大虎駒の
仲間のような、比較的珍しい字の書かれた
別の遺物も出土したとの旨の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
18570_1_西山田二本松遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
西山田二本松遺跡、1996年3月、
佐賀県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の抄録によると遺跡の場
所は、佐賀県佐賀市(佐賀郡大和町:当時)
大字川上字二本松・三本松。今回話題とす
る遺物が出土したのは、西暦1985年
前後の事のようである。
 遺物は、龍馬遺物が、西山田二本松遺跡
のA区、天虎遺物が西山田三本松B遺跡で
出土している。字名が別々で東西で接して
おり、それらの更に西に、西山田三本松A
遺跡が、別に存在するようである。
 遺物の成立年代は、龍馬墨書土器は西山
田二本松遺跡の第77号竪穴住居で出土し
たが、別の重なった住居跡との関係や、出
土品から奈良時代、8世紀成立であると、
発掘報告書第87ページ付近の記載から判
断されたようである。
 それに対して「天虎」土器は、西山田三
本松B遺跡の第Ⅱ区で出土したが、墨書土
器であると発掘報告書に書かれ、「何がし
広(旧字)」ではないかと、発掘報告書第
278ページ付近に記載され、発掘報告書
第269ページ付近の記載によると、同じ
く奈良時代、8世紀成立と、見られている
ように読み取れる。
 遺物の写真は「龍馬」墨書土器が、発掘
報告書の写真図版(PL.)第31の上段
カラム:”第77号竪穴住居(跡:
SB077)出土土師器”の集合写真上段
右に在る。写真図版にナンバリングはない
が、発掘報告書のスケッチ図第63に遺物
番号365番とナンバリングされている
遺物と見られる。土師器の小型の甕と、
発掘報告書では見たようである。

西山田二本松龍馬.gif

 上図のように、右側に汚れがあり、余り
明確ではないが、写真のほぼ中央若干下に
ズレて、かつ反時計回りに少し回転して、
縦に漢字で2文字「龍馬」とも読めるよう
な、黒い模様が読めるように私には思われ
る。
 それに対して、「天(いっけん)虎」墨
書土器が、同じく発掘報告書の写真図版(
PL.)第45:”西山田三本松B遺跡
Ⅰ区出土土師器・須恵器(1)”の最上段
右上に、裏面の拡大写真と見られる写真の
コマで存在して、遺物番号第235番との
旨、ナンバリングされている。杯の裏側の
ようである。

西山田三本松天虎.gif

 上図のように、こちらは明確に墨書土器
で、私には天虎といっけん読め、大大将棋
の大虎を連想した。第2字目が広の旧字で
あるとの発報告書の意見には、第1字目が、
「天」なのは、かなり確実なため、意味不
明ではないかと懸念する。
 そこでよく見ると、

「天写(写は旧字「寫」)」のようである

と思う。
 祭祀用で天空を崇拝する道教系の大陸か
らの渡来信者が、佐賀県に古くから居住し、
奈良時代にも存在し祭祀を行っていたので
はないかと、私的に疑う。(2023/03/15)
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茨城県岩井市姥ヶ谷津遺跡で5C龍驤墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代の遺跡が点在していると
見られる茨城県岩井市の遺跡で、荻生徂徠
の広将棋の駒名である、龍驤と書かれてい
るかにいっけんすると見える、墨書土器が
出土しているとの旨の話題である。

龍「言玄(言へんに玄)」等と書かれて
いると見られる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
18659_1_姥ヶ谷津遺跡・南開遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第89集
姥ケ谷津遺跡・南開遺跡、西暦1994年、
茨城県・財団法人茨城県教育財団。
 なお、今回話題にする遺物は、2つのお
互いに近接した遺跡のうち、最初の方の、
姥ヶ谷津遺跡で出土したようである。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、茨城県岩井市大字幸田字谷津台
1405-1番地。遺物が出土したのは、
西暦1992年前後の言のようである。
 遺物の成立年代は、ここで話題にする
遺物は、姥ヶ谷津遺跡の第8号住居跡より
出土したが、発掘報告書第95ページ
「まとめ」によると遺物の形から古墳時代
中期中頃の、5世紀中頃成立とみられてい
るように、私には読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版
(PL)第19:”姥ケ谷津遣跡、第7・
8・9号住居跡出土土器”の、第3段目左
に在って、スケッチ図27の、遺物番号第
1番との旨、ナンバリングされている。
椀のような形の土器の、側面写真のように、
私には見えるが、胚型土器に発掘報告書
では分類されているようである。

姥ヶ谷龍譲.gif

 上図のように、左にやや寄った部分に縦
に漢字で「龍+何がし」と書かれているよ
うに見える。ただし「龍」の字は時計回り
に倒れているので、そのつもりで見ないと、
見落とす。王や馬ではなくて、荻生徂徠の
広将棋の「驤」に似ていると見れば、将棋
に関連しそうだが、第2字目は、はっきり
しない。ヘンの中央から下が無いが、言
(ゴンベン)と見て、ツクリが「玄」なら、
冒頭に示したようになる。
 「リュウゲン」と読んで「黒龍」を意図
したのかもしれない。玄武の玄と糸へんの
玄は類語のように考える。とすれば、古墳
時代に、茨城県南西の湿地帯の現地で、

当時の沼等に生息されると見られていた
龍神信仰に使用する器物

かもしれない。あるいはそれにあやかって
調合される漢方薬入れか。少なくとも「龍」
という漢字は、比較的はっきりしているよ
うに私は見るので、5世紀中頃に漢字が、
今の利根川流域地帯で成立していた、証拠
と言える遺物の一つなのではないかと私見
される。現代中国語では、第2字目の漢字
候補「言+玄」は「大」の類。日本語では、
「虚偽の」の意味で使われると、web上
からは情報が得られるが、それでも意味は、
はっきりとはし無い。(2023/03/14)

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茨城県取手市甚五郎崎遺跡で古代山泰墨書土器(長さん)

今回は、表題の茨城県取手市の遺跡で、
平安時代前期成立と見られる皿型の土器に、
漢字で泰山の反対、山泰に似た「山本」と
読める墨書遺物が出土したとの旨の紹介で
ある。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
18678_1_取手都市計画事業下高井特定土地
区画整理事業地内埋蔵文化財調査.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
茨城児教育財団文化財調査報告第107集
甚五郎崎遺跡・下高井向原Ⅰ遺跡・下高井向原Ⅱ遺跡、
西暦1996年3月、
住宅・都市整備公団首都圏都市開発本部・
財団法人茨城県教育財団。
 遺物はこのうち最初の、甚五郎崎遺跡で
出土したようである。
 発掘報告書冒頭例言内の表によると、
遺跡の場所は、茨城県取手市大字下高井字
甚五郎崎1626番地。
遺物が出土したのは西暦1994年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、例言の表にも「墨書
遺物は平安時代の成立である」との旨記載
があるが、発掘報告書第25ページ付近の
記載によると、遺物は第3号住居跡で出土
したが、出土した遺物の形から9世紀後半、
平安時代前期に成立していると見られてい
ると、私には読み取れる。
 遺物の写真は、写真図版第8の中段第2
段目の左側に在って、第3住居跡(SI3)
の第4番との旨、ナンバリングされている。
皿のような形の土器の、底面裏側のように
私には見える。

甚五郎崎山泰.gif

 上図のように、はっきりと墨書土器であ
ると判り、中央やや左に縦に漢字で「山本」
と書かれていて、「本」は「十」の軸が、
上部とズレていて、「大と十が切れた夲」
であり、奉に近い方の漢字である。「山奉」
の意味であり、筑波山を奉じているのであ
ろう。発掘報告書第123ページの記載を
見ても、住居跡と郡衙等官営の施設等とは、
直接的な繋がりは無いように読み取れる。
普通の律令集落のようである。
 ほかに庄屋の「庄」。袋の「衣」を中央
に入れる別字、「三」等の漢字の、ほぼ
同時期成立とみられる墨書遺物が付近から
出土したという事である。明確では無いが、
今述べたその他の墨書の文字は、遺物土器
類の何らかの用途分類の為の、記号のよう
に私には見える。(2023/03/13)
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兵庫県八鹿町夕垣古墳群で古墳期逸行墨書土器(長さん)

 今回は、兵庫県八鹿町の古墳で、古墳
の副葬品の土器に「逸行」と、摩訶大大/
摩訶大将棋等の駒名である鉤行を連想さ
せるような文字のある出土遺物の紹介で
ある。

意味を解釈するのは、かなり困難である。

 遺物の写真がweb上公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
18740_1_夕垣古墳群・夕垣遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
夕垣古墳群・夕垣遺跡発掘調査報告書、
西暦1983年、兵庫県教育委員会。
 発掘報告冒頭の例言により遺跡の場所
は、兵庫県養父郡八鹿町下網場字夕垣。
遺物が出土したのは西暦1981年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘調査自体がこ
の回は、古墳全体のうち9号墳について
のみ行われ、発掘報告書第44ページ付
近の記載によれば、9号墳は6世紀末~
7世紀初頭に使用されたと、解釈されて
いるように、私には読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
30:”夕垣9号墳墓・構内出土遣物
(須恵器)”の第2段目右にあり、遺物
番号第6番との旨、ナンバリングされて
いる。台付き杯型土器のように、私には
見える。

夕垣9号墳逸行.gif

 上図のように、第2字目の右に、淡い
汚れとみられる模様がある上に、第1字
目の、シンニョウのツクリが、免のよう
に見えるが、はっきりしないものの、強
いて読めば、表題に示したように「逸行」
とも読めるような、暗い模様がある。
 意味は、将棋類の「鉤行」を更に、相
手を倒すまで、何回でも直角進路変更出
来るように、拡張した駒名のようにも見
える。が、埋葬者の性格を示すとしても、
飛鳥時代に近い後期古墳時代に兵庫県で、
このような文字が識字層によって、何の
為に葬送の際であろうが、書かれたのか
は、一見して謎である。
 飛鳥時代早期の、活動・行動勝手御免
の上流社会の者が、この遺跡のこの墳墓
に埋葬されているという、あるいは意味
なのであろうか。それとも、私には由来
が個人的に分からないが、現代の中国の
旅行事業団体に、日本旅行を専門にする
情報ネットワークを運営する者として
「逸行」がweb上に最近からだろうが
知られており、「中国から日本へ行く」
という意味が、古くから中国では有った
事に、現代ロゴが由来していているのか
もしれない。古墳時代末期の当時から、
その意味が中国では有ったという、故事
でも存在するのであろうか。
 とすれば、埋葬された仲間に対して、
副葬品を作成して字を書いたのは、たま
たま隋王朝期の、日本渡来中国人等だっ
たのかもしれないと、疑えるはするので
あろう。(2023/03/12)

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