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兵庫県加西市戸井町坪1号窯跡で平安初山泰墨書土器(長さん)

今回は兵庫県加西市の低山に囲まれた盆地
地形の山際にある平安時代の窯跡とみられ
る遺跡で、山奉と読める、杯型の墨書土器
が出土したとの話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下のとおりである。
18761_1_戸井町坪1号窯.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告第74冊
戸井町坪1号窯、西暦1990年3月、
兵庫県教育委員会。
 遺跡の場所は発掘報告書冒頭例言による
と、兵庫県加西市倉谷町字戸井町坪。
遺物が出土したのは、西暦1989年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第87ペー
ジ付近の「小結」の記載から、9世紀初の、
平安時代前期と見られるように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第19
の上カラム「第1次床面出土土器」の、左
上にあり、遺物番号第9番との旨ナンバリ
ングされ、杯土器の底・裏面の写真のよう
に、私には見える。

戸井町坪1号山泰.gif

 上図のように、中央に縦に、第2字目の
下部がやや薄いものの、漢字で「山奉」の
ように見える模様があり、大将ケ峰山等を
奉じているように見える。窯自体に山際の
祭祀場が平安時代に併設されて、存在した
のかもしれないと私見する。(2023/03/11)

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兵庫県淡路市おぎわら遺跡で弥生王奔墨書土器(長さん)

今回は表題の兵庫県淡路島の遺跡で、弥生土器
とされる遺物に、王奉と書かれているのではな
いかと疑われる遺物出土の話題である。

淡路島へも弥生期、大陸から渡来人が来て帰化

した事を示していると見られる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
19164_1_おぎわら遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告第263冊:北淡町おぎわら遺跡、
西暦2004.3、兵庫県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
兵庫県淡路市(北津名郡:当時)北淡町。遺物
が出土したのは、西暦1997年前後の事の、
ようである。
 遺物の成立年代は、抄録にもあるが、遺跡自
体が弥生時代後期後半のものとされ、発掘報告
書第46ページにも、繰り返し、2世紀程度の
遺跡で、4世紀に突然消滅した北淡路島の集落
跡であるとの旨、書かれているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第16:
”第2竪穴建物(SH02)土器群2出土土器”
の、下から3段目左に在り、遺物番号第85番
との旨、ナンバリングされている。土器の破片
のようである。

おぎわら王奔.gif

 上図のように、左に縦に黒々と漢字で太く「
王奔」とも読めるような模様が有る。鉢型土器
の破片と見られているようであり、発掘報告書
第17ページ付近の記載によると、第2竪穴住
居跡から出土した土器は、全部弥生土器に分類
されると見られたようである。
 六朝時代の中国の渡来人が、大陸の本国の王
か、または淡路島北の地元の初期の有力者に、
何か貢物をするときに用いた鉢型の入れ物に、
識字出来たので、漢字を書いたのかもしれない
と私的に推定する。瀬戸内海一帯に、渡来人が
2世紀には、分散して居していたのであろう。
(2023/03/10)

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兵庫県豊岡市袴狭遺跡で8C末奔戌墨書土器2(長さん)

 今回は、前回に引き続いて表題の遺跡で出土
した「秦」「泰」墨書土器の別の例を紹介し、
以前紹介した、泰戌、秦浄土器計7個と合わせ
て、墨書土器の性格、使用者名かどうかを議論
する。
 遺物の写真はweb上、奈良文化財研究所
発掘報告書データベース全国遺跡報告総覧に
紹介されていてpdfファイル名、発掘報告書
の名称、遺跡の場所、遺物の出土した時期は、
順に、以下の通りと言う事であった。
18828_4_出石郡出石町袴狭遺跡.pdf
発掘報告書の表題は次の通りである。
兵庫県文化財調査報告書第197冊袴狭遺跡、
西暦2000年3月、兵庫県教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言によると遺跡の場所
は、兵庫県豊岡市(出石郡出石町:当時)
袴狭字谷外、字内田、字下坂、字衛下、
字国分寺、字大坪、字深田、字保石原。
遺物が出土したのは、第1本文pdf冒頭
「調査の経過」によると、入れ気1989
年~1995年。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第195ページ~198ページ
付近の記載によると場所は出石郡衙付近。
奈良時代より平安時代初の墨書土器である
と解釈されているように、私には読取れた。
 以前に引き続いて第8番目は第4pdfの
写真図版第100:”墨書土器 内田地区⑤”
の、最上段左上に有って、杯土器の裏底の
ようであり、明らかに墨書で漢字で、”本存”
のように、私には見える黒い字が書いてある。
遺物番号は第109番とある。

袴狭奔存.gif

 ひとまず草書体のように見えるので「秦存」
という人名と解釈しておく。
 第9番目は第4pdfの写真図版第100:
”墨書土器 内田地区⑤”の、第2段中央に有
って、やはり土器の裏底のようであり、明らか
に墨書で漢字で”秦安”のように、私には見え
る黒い字が書いてある。遺物番号は115番と
ナンバリングされている。

袴狭奔安.gif

 泰が苗字であるとして、名前が一文字となっ
たと考えても、今のところ矛盾は無いので人名
としておく。
 第10番目は第4pdfの写真図版第101:
”墨書土器 内田地区⑥”の、最上段左に有っ
て、やはり土器の裏底のようであり、明らかに
墨書で漢字で”秦女”のように、私には見え
る黒い字が書いてある。遺物番号は116番と
ナンバリングされている。

袴狭奔女.gif

豪族、秦一族の娘用の器であるとの意味のよう
にも私には見える。
 更に第11番目は第4pdfの写真図版第
101:”墨書土器 内田地区⑥”の、下段左
に有って、やはり土器の裏底のようであり、こ
れには墨書で漢字で”戌”のように、私には見
える黒い字が書いてあるが、第1字目に”泰”
が有ったように見える。遺物番号は118番と
ナンバリングされている。

袴狭奔戌2.gif

 祭祀用が確かに自然な「泰狗」墨書土器が、
以前に紹介した物品と合わせ、2個以上有るよ
うである。が2個共に、複数個体飼われていた
大型犬用の食器でも、強いて解釈すれば、通り
そうである。
 その他、本ブログで既に紹介した墨書遺物の
他一字だけしか無く、内容の判らない墨書土器
が他にもあるが、大体以上11個が、意味の明
快な物品として私には目に付く。

書いてある字が「奉」では無く「秦」か「泰」
と明確に分かる

という点で、内容がいかにも独特な墨書である。
 2字目が祭祀用として意味が取りにくい物も
中には有り、第1字目が秦のケースがかなり有
る為、

全体として遺物は、実際に食器等として使用

され、その使用者名が書かれているのではなか
ろうか。特に「秦女」が祭祀用の器物に書かれ
ているというのでは、意味が良くわからないよ
うな気が、私にはする。
 狛犬を祭っていた可能性、地鎮で西北西の戌
の方向に、その土器を埋めるつもりであった可
能性も否定できないが。大型犬を、大家族で複
数飼っていて、可愛がっていた可能性も、ゼロ
とまでは行かないのではないかと私見する。繰
り返すと祭祀用にしては、「秦」という文字の
遺物が、よそと比較したとき、必要以上に多い
と私は疑問視している。(2023/03/09)
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兵庫県豊岡市袴狭遺跡で8C末奔戌墨書土器(長さん)

 今回は、兵庫県豊岡市の袴狭遺跡で、
秦氏を連想させる秦+一文字の墨書土器
が複数出土しているという、比較的珍しい
例と本ブログの管理人の見る、墨書遺物の
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファィル名は以下の通りである。
18828_4_出石郡出石町袴狭遺跡.pdf
発掘報告書の表題は次の通りである。
兵庫県文化財調査報告書第197冊袴狭遺跡、
西暦2000年3月、兵庫県教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言によると遺跡の場所
は、兵庫県豊岡市(出石郡出石町:当時)
袴狭字谷外、字内田、字下坂、字衛下、
字国分寺、字大坪、字深田、字保石原。
遺物が出土したのは、第1本文pdf冒頭
「調査の経過」によると、西暦1989年~
1995年の間のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第195ページ~198ページ
付近の記載によるとかなりの数の墨書遺物
が出土した事から、出石郡衙がこの付近に
存在した事を示しており、文献と照合して
奈良時代より平安時代初の墨書土器である
と解釈されているように、私には読取れる。
 遺物は第1字目が「秦」や「泰」のよう
に読めるもので、発掘報告書に複数在り、
かつ字はかなり鮮明であり、発掘報告書で
もそれぞれ墨書土器と認識されている。
 1つ目は、発掘報告書のうち冒頭で紹介
の第4写真pdfの写真図版第96:
”内田地区①”の第3段目中央に在り、
遺物番号第73番との旨、ナンバリングさ
れている。皿のように私には見える土器の
側面に、横に寝る形で縦に、漢字の2文字
が在る。

袴狭奔戌.gif

 上図のように、泰戌と読め大局将棋の、
奔犬をも連想させる。しかし、字が違うの
で祭祀用の、狛犬に添える器であろうとも、
又は、大型犬用の食器のようでもあるよう
だと私見する。
 2番目は同じく第4写真図版pdfの、
写真図版第98:”墨書土器 内田地区③”
の、最上段に在り、遺物番号第95とナン
バリングされ、蓋型土器の上面に漢字で縦
に書かれているようである。なお、その下
のやはり蓋の形の第96番遺物にも、ほぼ
同じ漢字が書かれていて以上で3個になる。

袴狭奔浄1.gif

どちらにも、秦浄と書かれているように、
私には見える。使用者名と私見する。
 第4番目は同じく第4pdfの写真図版
第99:”墨書土器 内田地区④”の右上
の4個、遺物番号97、98、100、
102の4つには、縦に秦浄と書かれてい
るようである。これで7個になる。

袴狭奔浄2.gif

 議論がごちゃごちゃするので、今回は、
ここで一旦止める。秦氏の家族の使用品の
ように見えるが、発掘報告書では祭祀場も
想定しているらしい。近々、他の遺物も合
わせ、一家使用者名で、説明できるかどう
かについて考察してみたい。(2023/03/08)

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茨城県六十目遺跡龍馬墨書第1字走(長さん)

今回は以前に、茨城県つくば市の古代集落
跡とみられる遺跡から、「盤」と分類され
た出土土器の器物に「十一凹龍馬上」と
複数の文字が書かれているとみられた、
墨書土器の出土を紹介したが、

第1~3字目は「十一凹」ではなく、
「走一口」であると読み直した

という旨の紹介である。また、最左列の、
「上」の下に「者」と、第7字目が書かれ
ているようである。
 遺物の写真はweb上に公開されて、
発掘報告書に載り、発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース 
全国遺跡報告総覧に登録公開され、pdf
ファイル名と発掘報告書名は、以下の通り
であった。
18916_2_六十目遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告書第160集
六十目遺跡、西暦2000年、
都市基礎整備公社茨城地域支社・
財団法人茨城県教育財団。
発掘報告書冒頭の抄録によると遺跡の場所
は、茨城県つくば市大字刈間字東浦
1538-1。遺物が出土したのは西暦
1998年前後の事。
遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第104ページ付近の記載から、
9世紀初の平安時代初期と考えられている
との事だった。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
49の最下段左に在り、遺物番号として、
第23住居跡の第9番との旨、ナンバリン
グされている。前記発掘報告書第104
ページ付近によると、墨書土器であり、
盤に分類される須恵器で、「上」と「口
(くち)」の2文字が読取れるという事
であった。

六十目龍馬改.gif

 上図のように、左から縦に「走一口
(改行)龍馬(改行)上者」と、少なくと
も7文字で記載され、「速度の速い優秀な
馬を、(都へ)献上する」との意のように、
私見される。なお「走」は異字体なので、
判読に工夫が必要だったという経緯である。
 つまり、

第1字目は「十」では無いようだ。

 以前述べかつ冒頭に示したように、駿馬
の平安朝等への献上が、古代9世紀初の、
つくば市在の律令集落で行われたようにも
見え、比較的高級な須恵器が、俊馬に添え
られたとの経緯が、画像処理を改善して読
み直すと、今回は以前に比べて、はっきり
と判るようになったと私は思っている。
(2023/03/07)

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島根県中尾H遺跡で6C山泰刻書土器(長さん)

 今回は、島根県大田市の遺跡で土器に
刻書で、山奉または上奉と記されている
ように見える、出土物が有るとの旨の
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
19083_2_旭山遺跡・中尾H遺跡3区.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
旭山遺跡・中尾H遺跡(3区)、西暦2016年3月、
国土交通省松江国道事務所・島根県教育委員会。
 遺物はこのうち後者、中尾H遺跡
(3区)で出土したようである。
発掘報告書の例言等によれば遺跡の
場所は島根県大田市久手町・刺鹿。
遺物が出土したのは西暦2013年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第2
図版pdfの末尾の抄録に「中尾H遺跡
は、元々縄文時代の遺跡であるが、第3
区では、河川流路跡が在り、遺物が複数
発掘されたが、古墳時代後期6世紀の
成立である」との旨書かれているよう読
取れる。発掘報告書第1本文pdfの、
第52ページ付近にも「杯は古墳時代の
後期の成立」と解釈されているように、
私には読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書第2写真図版
pdfの写真図版第42の第2段目左に
在り、遺物番号で第47スケッチ図の第
4番との旨、ナンバリングされている。
徳利のような形状の土器のカケラの側面
に見えたが、発掘報告書によると杯の裏
底の写真のようである。

中尾H山泰.gif

 上図のように、写真の中央やや下に、
明快だが一部がカスレたような刻書が在
り、縦に「山奉」か「上奉」と記されて
いるようにも見える。仮に「上奉」なら、
「かみほう」と読むべきかもしれない。
 6Cに、現代でも神社で見られる、山
を奉じる祭祀に使われる神酒入れの盃に、
山奉と記したようにも、取れるのではな
いかと私見する。古墳時代後期の6世紀
には、刻書も存在したのではないのだろ
うか。(2023/03/06) 
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沖縄県ナガンダカリヤマ古墓群で戦前日本将棋茶碗(長さん)

今回は第二次多選末頃成立の飯を盛る茶碗
に、ハンコ型印刷物の日本将棋絵柄のつい
ている瀬戸物が、沖縄県那覇市首里で出土
していたという紹介である。
 沖縄ではシャンジーだけでなく

大戦末期には、日本将棋は知られていたと
いう確定的証拠の発見

と見られる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されていてる。
 pdfファイル名は以下の通りである。
19186_1_ナカンダカリヤマの古墓群.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書第26集
ナカンダカリヤマの古墓群、2005年3月、
沖縄県立埋蔵文化財センター。
 発掘報告書冒頭の抄録によると遺跡の場
所は、沖縄県那覇市首里金城町。遺物が出
土したのは、西暦2002年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第21ペー
ジ付近の記載によると、遺物は第1号墓跡
前の前庭型地形の地点から出土し、第49
ページの記載によると、絵柄が近代のハン
コ型印刷法を用いるもので、明治時代以降、
沖縄戦末期まで成立の物品と、読取れるよ
うに思われる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
20:”第1号墓出土遺物(3)”の、
右下隅に在り、遺物番号第118番との旨、
ナンバリングされていて皿状の、絵柄は略
印刷したように見える瀬戸物食器とみられ
る物品の出土遺物である。



 上図のように、明快に「王将」「飛車」
「金将」「と金」「歩|」と書かれた、
将棋の駒が絵柄として描かれている。
 よく知られているように、沖縄県では、
第2次世界大戦前までは、沖縄シャンジー
が比較的盛んであり、日本将棋は日常語に
残る程度までは遊ばれてさえ、いなかった
とみられている。
 しかし、少なくとも第二次大戦の戦争末
期までには「ゲームを知っているので、絵
柄が、日本将棋の駒を印刷した瀬戸物を、
敢えて購入する」という者が沖縄県那覇市
に居るという程度までは、日本将棋自体が
知られていたという動かない証拠の物品の、
出土なのではないかと私には疑われる。
 本土デザイナーが、たまたまだったのか
もしれないが。歩兵駒の兵だけを省略する
書体で描いてくれているので。少なくとも
昭和初期程度の作であると判るようである。
以上の事からありきたりの物品であるもの
の、出土地点が貴重な遺物だと私には、遊
戯史上、とてもありがたい情報であるよう
に思える。(2023/03/05)

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兵庫県多可町坂本土井の畑遺跡で鎌倉期火鬼墨書土器(長さん)

 今回は、平安末にだけ賑わっていたとみられ
る表題の、居住地遺跡で、少し衰退期に入った、
鎌倉時代のものと見られる土器の破片に、火鬼
と墨書されているのではないかと疑われる遺物
出土の話題である。

「人鬼」と書いてあり、厄払いの呪いの道具か

とも、疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイルの名称は、以下の通りである。
19275_1_多可町坂本・土井の畑遺跡.pd
発掘報告書の名称は以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告第462冊多可郡多可町
坂本・土井の畑遺跡、西暦2014年3月、
兵庫県教育委員会。
発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所は、
兵庫県多可郡多可町中区坂本。遺物が出土した
のは、西暦2011年前後のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第04番土坑で
出土したのであるが、発掘報告書第62ページ
付近の記載によると、第04番土坑は、出土
遺物の形態と埋土の質から13世紀の鎌倉時代
のものではないかと、見られているように読取
れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第40の
最上段右に側面外、第3段目右に側面内の写真
が在ってここで話題にするのは、下の方の内面、
遺物番号は、第1区出土の第37番土器破片と
の旨、ナンバリングが在る。下段に”第04番
土坑出土土器”との旨、付記説明書きでも書か
れている。

坂本土井の畑火鬼.gif

 上図のように、漢字で「火興」か「人興」か、
「火興」か「火鬼」か「人鬼」か。何かはっきり
し無い黒っぽい模様が有る。

第1字目を「火」と読むのは無理読みで、「人」
であり、天竺大将棋等とは関連しない

のではないかと、今のところ見る。廃墟付近で、
何か「呪い」をしているようなイメージに、私
見される。内面に「人鬼」と書いて「人体に住
む鬼」、あるいは「疳の虫」を意図しており、
酒でも注ぎ、それを飲んでそれらに起因する厄
を払うのであろうか。正確な所は、解明困難で
あろう。
 魔術とは関連するのかもしれないが、火鬼で
無く人鬼とすれば将棋の成立とは、繋がらない
と私見する。なお、不明確な模様であるためと
見られるが、発掘報告書に模様に関する指摘は、
発見出来てい無い。(2023/03/04)

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大阪府八尾市中田遺跡で4C初泰山墨書土器(長さん)

 今回は大阪府八尾市の古墳時代初期、
4世紀の古墳から出土した棺桶材の一部
のように見える土器に、「山奉」と墨書
されているように見える、葬られた人間
の性質、そのものずばりが漢字で書かれ
ているような、出土土器の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
19373_1_萱振遺跡、北木の本2丁目遺跡、
成法寺遺跡、中田遺跡、西郡廃寺.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
公益財団法人八尾市文化財調査研究会報告151
1.萱振遺跡(第28次調査)・
2.北木の本2丁目遺跡(第1次調査)・
3.成法寺遺跡(第27次調査)・
4.中田遺跡(第55次調査)・
5.西郡廃寺(第6次調査)・
6.西郡廃寺(第9次調査)、
2016年、公益財団法人八尾市文化財調査研究会。
 遺物はこのうち、第4番目の中田遺跡
(第55次調査)で出土したようである。
 発掘報告書第44ページ付近の、
中田遺跡(第55次調査)の例言による
と遺跡の場所は、大阪府八尾市八尾木北
六丁目30。遺物が出土したのは、西暦
2012年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺跡は古墳時代の
古墳の在った地点のようであり、土器棺
墓第231で、遺物が発掘され、棺桶の
一部のように発掘報告書第54ページ付
近で解釈されている。成立年代は早く、
古墳時代の前期前半、4世紀の始め頃と
解釈されているように、私には読取れる
ように思われる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第7
の最下段に在り、遺物番号第35番との
旨ナンバリングされている。かなり大型
の、壷の口が破損した土器の大きな破片
の、側面写真のように、私には見える。

中田泰山.gif

 上図のように、中央やや左のやや上に、
左側に黒い影が余分に在るが漢字で「奉」
にも見えるような、灰色の模様が在り、
縦にその下に、同じく漢字で「山」のよ
うにも見えるやはり灰色の模様が見える。
 遺物は、古墳に埋葬された埋葬者の
棺桶の胴の部分のようであり、別の蓋と
見られる土器も出土しているようである。
 埋葬者は、

「山」に準えられた

のであり、知識人で鉱脈探索の為に畿内
の山岳部に入山した大陸からの識字層だっ
たのであろう。古墳時代の初・前半には、
有力者となり、古墳に埋葬されるような
人物に、畿内でのし上がったのではない
かと、私には疑われる。(2023/03/03)

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奈良県御所市名柄遺跡で古墳~古代泰山墨書土器(長さん)

 今回は、これまで何度も紹介した大局
将棋の駒名の泰山に似た、奉山墨書土器
のようであるが、古墳時代から平安末の、
奈良県の遺跡から、

「奉(改行)山一山」と読めるような、
不思議な字模様の土器が、同じ発掘現場
で2個出土しているようだ

との旨の紹介である。
 池に、奈良県の山が映った情景の表現
かもしれない。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
19570_4_名柄遺跡第6次発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
御所市文化財報告書第41集名柄遺跡
第6次発掘報告、西暦2012年3月、
御所市教育委員会。
 発掘報告書第4pdf末尾の抄録による
と遺跡の場所は、奈良県御所市大字豊田。
遺物が出土したのは、西暦2011年前後
のようである。
 遺物の成立年代は、1個目が発掘報告書
第2本文pdfの第30ページ付近の記載
によると、第100号溝で出土したが、こ
ちらは共遺物の形から、12世紀中~12
世紀後半の平安時代末の遺物とみられてい
るように発掘報告書からは読取れる。
 2個目が第3住居跡より出土したが、発
掘報告書第3本文pdfの第34ページ付
近の記載によると、こちらはかなり早く、
古墳時代初期の遺物であるように読取れる。
 なお遺跡自体は、各時代を通じて、まば
らな集落ではないかとの事である。近代に
なり山麓部に、溜池が作られたとの事であ
る。発掘報告書の冒頭に、西に葛城山や、
金剛山が見える地形との説明が有る。
 遺物の写真は1個目が、第4写真pdf
の写真図版第6の第4段目右側に在り、
スケッチ図第18の第8番土器との旨、
ナンバリングされている。椀のような形の
土器を側面から見た写真のように、私には
見える。

名柄泰山1.gif

 上図のように、かなり黒く写真の中央、
やや左、破片を跨いで大きく「泰」と書か
れ、その左側に、かなり濃くゴシックで、
「山一巾」と読めるような、黒い模様が、
はっきりと有る。
 上部の山が、水面に映って、上下ひっく
りかえって見えている景色を、表現してい
るようにも見える。古代に溜池が有って、
葛城山と金剛山が水面に、映っていたのか
もしれない。
 2枚目は、同じく発掘報告書第4写真
pdfの、写真図版第9の中段左のかなり
大きな甕型土器で、スケッチ図第20の第
38番との旨、ナンバリングされている。
 模様は、写真で右端の縁に近い所に有る
ように、私見される。

名柄泰山2.gif

 上図のように、この古墳時代とされる
遺物の右端の破片に、薄いが縁に大きく、
漢字で「泰」と書いたようにも見える、
グレーの模様が在り、さきほどの遺物同様、
その左だが、今度は左上に、かなり小さく
「山一山」と漢字で書いたようにも見える、
やはりグレーの模様が有るようである。
 2つの遺物で、成立年代がかなりズレる
が、同様な墨書が有るように私には見える。
 山が例えば葛城山だとして。調整池に現
代の御所市大字豊田では、なってしまうの
が難点だが。一例で下のような感じの事を、
言っているのであろうか。

名柄泰山3.gif

 長い年月に亘って溜め池が有り、奈良県
御所市の名柄遺跡の西側の山が、同様の動
機で祀られたのではないかと、私は疑って
いる。都の奈良では、情報の保存状態が、
古墳期~平安期にかけては、かなり良好な
状態だったのではないかと私は疑う。
(2023/03/02)

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