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大理国原始平安将棋が李朝ベトナムに無いのは北宋無関係(長さん)

本ブログでは従来より、日本の現将棋の伝来元は
中国雲南省の11世紀初に存在した大理国である
と主張している。
 中国伝来、東南アジア伝来、日本発明の各説と
異なり、この事から将棋文化の本ブログ説固有の
「飛び地問題」が発生する。つまり一例東南アジ
ア説では増川宏一著将棋Iにあるように、海岸か
らの船舶を使用した海洋だけを挟んだ、中間陸地
の無い伝来として、問題を回避している。
 しかしながら、中国雲南省からの伝来では、伝
来元が内陸山岳地帯の盆地であるため

途中に中国南部かベトナム北部を経過する事にな
り、東南アジア説のように飛び地問題を回避でき
ない。

 そこで、本ブログではかつて「北宋との軍事的
緊張関係により、戦略参謀が、中央集権化により
国の権力と一体化した11世紀初のベトナムでは、
参謀学の自由な切磋琢磨としての将棋は、あたか
も、現代のロシアでプーチン政権のもと、
プリゴジンのような人物を多数輩出させて、対外
国戦争の際の統率を乱すために法度とされた為、
ベトナムには、後の日本の将棋文化は、着地出来
無かった」というような旨の説明をした。だが、

この説明は、西暦1010年頃の政治情勢と、
きちんと対応してい無い。

当時のベトナムと北宋王朝は中間的間氷期のよう
な状態にあり、後者の圧力が、ベトナム国王太祖
の絶対的権威を伴う、ベトナム国軍参謀の存在を、
確定的とまではし無いとみられるからである。
 本ブログの論には、大理国説を取る場合は、こ
の飛び地問題に関して、他説に無いウィークポイ
ントを抱えるため、よりしっかりとした厳密化が
必要とみられる。しかしながら、

この部分の議論に曖昧性が有った

ように、今から振り返ると思えるという訳である。
 そこで、以降はベトナムと中国との11世紀初
の軍事的緊張が、ベトナム国軍参謀と並び立つ、
地方有力軍事参謀の形成を阻害したのでは無くて、
ベトナム北部に、初の独立王朝である、李朝の
太祖体制が、出来たばかりであった為、中央集権
化に対して

たまたま最初である為力が入っている時期だった

と、説明を変えようと考える。
 中国の南進は、交易権限の拡大等を狙ったもの
とみられるが、西暦1000年代の10年間で北
宋王朝の範囲がほぼ確定すると、北方隣国である
遼への財政支出等で王朝は圧迫されて、領土拡大
の余裕が無くなり、南方ベトナム大越との間では、
緊張が一旦緩和されたと見るのが自然とみられる。
 その中で、李朝大越が誕生したばかりだった為、
建国の国軍参謀は、一時的に皇帝太祖の分身とし
て、おおきな権威と排他性を、ベトナム北部国内
で持っていたという意味である。その後次第に
中央集権はベトナムでは形骸化して中国文化が
11世紀末に流入し、そのタイミングで完成した
中国シャンチーが流入し、ベトナムのカートン
(ヴェトナムのコー・トゥオン)となりチェス/
シャンチー/将棋系ボードゲームのナショナル
標準になったという訳である。
 だが繰り返すと11世紀初には、建国ほやほや
の大越で、確定していたとみられる対外戦争参謀
の権威に対抗するような行為を、ベトナム北部で
大っぴらに行う事は、後の日本の将棋が、そこに
あった大越国を通過する時点で、10年20年と
いう、さほど長く無い時間のスパンだけ、たまた
ま強く危険視されていたと、推定できるだろう。
 それに対して、北宋との間に緊張関係が薄く、
対外的に太平でかつ、王権では無く貴族が力を持
って中央集権が中だるみになり、大内裏もしばし
ば警護が薄くなって放火続きという状況の日本で
は、後の金国軍に関連するとみられる刀伊の入寇
が「黒船」となり、寝耳の水で急に、対外国戦争
参謀が必要になるという、慌てふためき状況だっ
た時代に「その将棋」がタイミング良く輸入され
たとみられる。そうした空気のもと、後一条天皇
に将棋の玩具が贈られた数年後である為、大宰府
で将棋を指す事が、ベトナムとは大きく違い、こ
れから「将棋選手権」を開催して誰を名人にする
のかを決め、中央政権の代表参謀を選出するとい
う意味で、むしろ歓迎される状況という空気だっ
たと見て正しいのではないか。
 以上のような、「飛び地文化の形成メカニズム
論」を本ブログでは以降、取りたいと考えている。
(2023/09/05)

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