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小右記藤原隆家宣明1014年12月中在京(長さん)

本ブログでは、既に述べたように藤原隆家が
宣明暦の(主に)西暦1015年1月頃、
大宰府から後一条天皇玩具の黄金平安小将棋
(恐らく「原始追っ付け日本平安小将棋」立
体成金塊金将駒28個/増量2個分付き)を、
運搬したと仮定している。
 大宰府権帥に眼病希望で11月に就任した
ので、直ちに眼病治療の旅をするだろうと
見たのである。
 しかしながら最近、現代語訳小右記(吉川
弘文館/倉本一宏)の6に、

ネガティブな情報が有るのを発見

した。

 西暦1014年宣明暦12月17日に、
京都の皇后領花山院が火災消失し、現場で、
小右記著作者の藤原実資と会っている

と記録されているようである。
 藤原隆家に関する藤原実資の情報は、頻度
中程度であり、月あたり2件程度で、西暦
1014年宣明10月から西暦1015年
宣明5月まで、ペースは落ちてい無い。隆家
下向の式典が内裏であり、5月は前記日記
に登場する頻度が高く、そこから先は隆家が
交易品を京都に送る等し無い限り、しばらく
記載が消える。
 つまり、

西暦1014年12月にも、京都に藤原隆家
が居た事を示す記事が書かれているという事
であり、

西暦1014年10月から、翌年大宰府に出
陣の儀に当たる式典をし、ついで藤原実資と
和歌を交わして下向したという西暦1015
年4月22日~24日まで、毎月記載される
というペースである。ただし、

小右記に西暦1015年1月~3月末の抜け
があるのが、痛い。

 全体を眺めると、とかく藤原道長の悪口を
藤原実資に告げる事の多かった「藤原隆家は、
三条天皇が退席していて居無い席で藤原道長
から西暦1014年相当11月上旬に、独断
で、大宰府行きを告げられ哀れな和歌を西暦
1015年5月24日を詠んで、九州に下向
した」という印象が持てるような書き方を、
小右記を通読してみると、しているように私
には読み取れる。
 西暦1014年10月26日が藤原実資に
よる、藤原隆家の藤原道長悪口紹介であり、
次いで11月6日が藤原道長による「独断的
藤原隆家、大宰府権帥就任決定」。その後、
11月11~12日夜に藤原隆家と藤原実資
が何事か密談。12月17日に前記火山院の
家事での実資・隆家の出くわし、飛んで西暦
1015年4月13日に、藤原隆家から藤原
実資へ、三条天皇から「自分が気分が良いと
き、藤原道長の調子が悪い」と聞いたという
意味の、藤原道長に対する悪口連絡となって
いる。
 藤原道長の孔雀が卵を産んだ話が記載され
るのは、小右記では落丁した後直ぐの、西暦
1015年宣明暦4月11日と同4月16日
である。この孔雀は仮説将棋盤・駒と一緒の
一例北宋王朝期中国交易商人周文裔を介した
輸入、但し御堂関白記に「藤原蔵規取り扱い」
と書かれているというのが、本ブログの従来
の説である。
 小右記の落丁期を狙って西暦1015年の
宣明1月から3月へ、藤原隆家は大宰府へ、
眼病治療に行ったと変えるのは、苦し紛れ
なら通るかもしれないが。

大宰府権帥に就任が決まった11月に直ちに、
眼病治療を開始し無い不自然さが、説明出来
無いことには変わりない

と、この史料との整合性の悪さに、私は現在
頭を抱えた状態である。
 ただし、藤原隆家が往復早馬だけを使って、
忍びで、医者に診てもらいに行ったとしたら、
西暦1014年11月13日から12月17
日は33~34日有るから、飛脚が片道10
日で書物を伝達出来た当時なら、九州での眼
病治療が入院期間無しなら、京都から往復は
出来たであろう。
 行きはwebによるとまだ十代の藤原蔵規
を伴い、手ぶらで大急ぎ。帰りは、嵩張らず
割れ物でも無い周文裔が持ってきた将棋具や
御香を従者/大宰府軍に持たせて、早馬とい
う手はずであろうか?
 その後、博多から若狭湾まで、藤原蔵規と
孔雀を積んで、周文裔が唐船で、大荷物ない
し生物の新内裏備品を輸送という事ならば、
藤原道長の孔雀/卵話や、三条天皇の西暦
1015年4月13日の、「眼は余り見え無
いが上機嫌」話とは一応矛盾は無いのであろ
うとは、私も考えるのだが。
 なおそのケースは、本ブログ版日本へのい
わゆる「将棋の伝来」は、私がイメージし、
この記事の冒頭のように宣明暦西暦1015
年正月では無く、ユリウスまたはグレゴリオ
暦西暦1015年正月かもしれない。全ては
周文裔等と繋がりの有る、藤原道長独断の
藤原隆家下向命令等、日程計算の上での事だっ
たのかもしれないようにも見えると、私には
疑われるようになって来た。(2023/09/26)

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