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小山若犬丸が普通唱導集大将棋を残したいならどうする(長さん)

これまでの本ブログの史料調査は「何が
有るか判らないからヤミクモに探す」と
言うべき方法であった。実際にはそうで
あろうから、それで間違ってい無いので
あろうが。
 逆に今まで述べたように栃木県小山市
に関連する小山若犬丸は普通唱導集時代
の大将棋を熟知していたと疑われるので、
自分が小山若犬丸で、大将棋とはどんな
ゲームであるかを、半永久に残したいと
いう志を持っているとすれば、どのよう
な史料を、能動的に残すだろうかと今回
は、一例として考えてみた。

瓦状の”盤”四枚に、13×5段の初期
配列陣を4列5段20升目ずつに分けて
墨書し、4枚盤を重ねて間に粘土を挟ん
で地中に複数埋める

のではないかと、疑われる。
 その4枚盤の墨書内容は、順に以下の
ような感じだろう。

若犬丸1.gif

若犬丸2.gif

若犬丸3.gif

若犬丸4.gif

作ってから後で気が付いたが。駒名の文
字は、縦書きの可能性の方が大か?
 裏面には、「辺駒除玉将飛車成金将
成三枚酔象成太子麒麟成獅子鳳凰成奔王
此即駒百八枚応永太将碁 小山若犬丸」
とでも、縦書き墨書するのかもしれない。
 そもそも瓦4枚に初期配列を分けるの
は、瓦だと大きくするほど、割れ易くな
る為であり、4枚重ねて粘土で繋ぐのは、
厚いと、割れ難いからだと予想される。
 小山若犬丸ごときが、こんな史料を
造るのに財力が不足な訳も無く、何百年
後に、何処かに埋めて1組ぽっちでは、
山崩れが数百年間に何回かあったりして
後で見つける事が出来る、はずも無いと
当然考えるだろうから。瓦盤2~300
枚は用意して、そこらじゅうに、合計
数十組程度は埋設し、質より量で情報保
存を図っているとも、期待できるだろう。
 数十組作っても全国に分散させては、
見つかる可能性も低くなるだろうし、そ
れは行為自体難しいだろうから。自分が
かつて居していて、比較的作業がやり易
すかった場所の近くに集中して、埋めて
いるのではないかと思われるのだが。

 具体的にはその場所は、福島県いわき
市付近の菊田荘(現:遠野地区)

では無かろうか。栃木県小山市の小山城
周辺は、西暦1396年前後に一瞬奪還
しても、直後に要撤退は若犬丸には折込
済みだったに、記録の様子から見て違い
ないから。生まれ故郷の小山市周辺には、
神鳥谷曲輪で角行駒が出土してはいるも
のの、埋設大将棋瓦は無いような気も、
私にはする。
 何れにしてもこんな事は、当の本人に

やる気があるとすればが前提だが。

 比較的に長期間、若犬丸が平穏に過ご
したとみられる地点で、長時間かけて作
成して埋め散らすような気が私にはする。
 以上のような仮想史料は、掘り出した
ら水で洗って接着させている、間の粘土
の3層を、取り除いて墨書内容を読めば
どんな将棋だったのか、現代でも察しが
付くのは、当たり前なので、若犬丸の目
論見(?)は達成されるだろう。

出土したら、本ブログにとっても万歳三
唱だ。

 発掘報告書群を見るとかなり稀な、珍
しい物品に属すはずであり、類例は無い
ように認識するが。
 元々福島県いわき市何がし遠野町何が
しという地点は、今まで集中的に発掘調
査が行われた事の無い、栃木県栃木市星
野のごとくの言わば、「ルバロワ石核」
でも田んぼから忽然と出土しそうな一帯
なようである。仮に将来福島県いわき市
のその地点を発掘調査すると、ポツンと、
今述べたような粘土でくっついた瓦墨書
遺物盤が、我が国の考古学誌記録に現れ
ても、余り不自然感は、無いかもしれな
いと私は疑う。
 いわき市のホームページや、同市の教
育委員会発行発掘報告書を見れば判るが。
現地に南北朝時代に、栃木県小山市拠点
の小山氏の分家、藤井氏一族が居した事
は、文献に記録がある。しかしながら、
小山若犬丸が年単位で潜伏可能だった事
から明らかなように。その菊田荘

藤井氏一族の南北朝時代の館位置伝説等
は、どうやら記録が今に伝わってい無い

ようだ。その為、とっかかりが不足で、
事有っても、いわき市遠野地区を集中的
に調査する事が過去余り無かったらしい。
しかも、かなり広い面積が有るようだ。
 だから食器に比べて密度は低そうな、
前記のような形態の史料が出る予兆が、
今まで全く無かった事は、一応仮説と矛
盾してはい無いように私には思えるので
ある。(2023/09/21)

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