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日本の将棋駒に”角行”があるのは何故か(長さん)

日本の将棋に角行が有るのは”西暦1110年程度
に成立した平安大将棋に、横行があって、それから
連想できるからだ”と言ってみせるのは、よく考え
てみると判るが、後知恵である。つまり横行、竪行、
角行、方行、鉤行等の存在を知っている人間が、そ
れが当たり前と思っているので、納得してしまうと
いう錯覚である。何故かと言うと、他方で

我々は、横暴な悪人の跋扈状態を、横行という熟語
の意味と信じて、将棋以外ではそっちを使う

からである。悪党、海賊、横行、来襲、略奪といっ
たふうに熟語が並んでいて、横行の関連語として、
角行や竪行が連想できたら、たいしたものだと私は
思う。
 ここまで私が言っても、まだ、ぴんと来ない方も、
中には有るかもしれないので、以上の論理は、

仮定として正しい

としてもらおう。それで、ひとまず次に進む事にす
る。では、それでも横行から、角行等の将棋駒種が

できたのは何故だろうと、その理由を以下で論じる。

回答から書き、見通しを良くしておく。

横行は、平安時代から鎌倉時代の前期には、日本語
では無かった

ので、その無知が、返って幸いしたのである。
 では、以下に説明を加える。
 実は、色葉字類抄には、二巻物に、見出し語とし
ての

横行は無く、十巻物には横行そのものが無い。

ニ巻物では”と”の雑物の所で、銅将の文字の下に、
小さく裏横行と書いてあるだけである。なお、その
銅将も、十巻物には無い。横行という熟語の見出し
は、色葉字類抄には、何処を探しても、今の所、私
には見つからない。”よ”の所、辺りに、有っても
良さそうなのだが。
 つまり、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃、

横暴な悪人の跋扈状態を横行というのは純粋中国語

だったのであろう。その中国語に横行が有った事は、

将棋史の研究者や、私のような愛好家の間では著名

だ。唐王朝時代の玄怪録の、小人の戦争に出てくる、
上将の駒の動かし方ルールで、縦横に縛られずに動
くという意味で、

前後左右に横行し・・

との旨が表現されているからである。
 学者の作った平安大将棋に取り入れられているの
で、上量階級で、中国の北宋王朝や朝鮮の高麗王朝
と繋がりがある、日本の皇族、貴族が、平安時代の
末期に、横行の意味は充分知っていたとみられる。
 しかし横行という熟語を頻繁に使うのは、現代に
於いて、大学の先生の一部で、論文を英文で書いて
いるのを強調する方々が、日本語と英語の単語を
1:1程度の頻度で、しばしば、シンポジウム等の
壇上で、混ぜ合わせて喋ってみせているのを、英語
を当時の漢文語に、交換したような喋り方をしてい
たと、少なくとも私には想像される、平安時代の
朝廷の、お抱え学者程度だったと考えられる。
 つまり、そこそこ識字が出来た程度の、中国語が
専門である訳でもない識者程度で、将棋の愛好家だっ
た平安期~鎌倉初期の人物にとって、横行は、

聞かされても、文字通り、”ヨコバシリ”の意味に
しか聞こえなかった

とみられる。だから、
横行の中国語としての意味を知っている、当時の
中国語の専門家や、今の我々、無論現地人と違って、
鎌倉中期の将棋指しや、デザイナーには、横行から、

竪行や角行が、我々以上に、たやすく考え出せた

と考えられるという事になる。なお、縦と竪で縦を
使わなかったのは、諸橋徹次の大漢和辞典を読む限
り、縦には少なくとも昔、”方々”という意味も有
り、前後かまたは上下に限定される、竪の方が勝っ
ていたためと考えられる。元に戻すとすなわち当時
は、色葉字類抄を見る限り、中国人との間で通訳が
出来た、当時の日本の中国語学者と違い、どうやら

通常の日本人には、横行が、日本語として存在しな
かった

ようである。恐らく”横行人”等の言葉として、
当時上流貴族間で、盗賊集団等を表すときに、隠語
で使われていた程度なのであろう。つまりそのよう
な熟語は、普通の和語としては、鎌倉時代半ばまで
は恐らく存在しなかったと見られる。
 なお、十巻物の色葉字類抄には、歩兵が”ふ”の
熟語の欄に登場する。少なくとも十巻物色葉字類抄
は、今で言う、詳しい辞書の類と見てよいような気
が、私にはする。
 ただし、悪狼を横行と同じような位置にもってき
た、南北朝時代以降の、後期大将棋のゲームデザイ
ナーは、そうしてみると、我々と同じように、悪党
を悪狼と洒落ていたのだろうから、横行の意味を、
知っていた事になる。
 時代が下るにつれて、上流皇族・貴族から、武家
等の大衆社会へと定説の通り、文化情報が、次第に
広がっていったのであろう。
 従って、史料としては、それらしいものとして、
目下、

栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の成り一文字金角行駒

と、”普通唱導集の大将棋の唱導唄で『仲人の所に、
角行筋が当たっている』ように聞こえるため、西暦
1300年までには角行は存在”程度しか無いので
あるが。

角行の発生は、明らかに、悪党の洒落である、鎌倉
時代末期の悪狼の出現よりは、少なくとも幾分か前
の事であろう

と、推定もできると言う訳になるのだろうと、私に
は考えられる。
 角行という著名だが、今でも日本語の熟語として、
将棋駒でしか使わない言葉は、以上のように、横行
という熟語が、茶の間の日本語では無かった時代が
有ったという事を知らないと、存在が説明できない
言葉なようである。(2019/04/10)

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中将棋デザイナー二中歴大将棋①桂馬抜②鉄将誤記利用(長さん)

実は本ブログでは、中将棋のゲームデザイナーが、
二中歴の大将棋記載で、うっかり写書のときに、
桂馬を落としたのを悪用して、桂馬の無い将棋を
定着させたと見ている。
 今回はその続きで、二中歴の大将棋で、鉄将の
駒の動かし方ルールで、下3方と横に行けないと
の旨の中で、”と横”を落としたのを利用して、
猛豹を1段移動させたという話をする。結論と
しては、従って、西暦1200年に二中歴が成立
して、更に写書の誤写があって更にしばらくした、
二中歴成立より150年前後以降の、

西暦1350年付近の、遊学往来での中将棋記載
少し前時期が、中将棋の成立時期と結論できる

と、以下結ぶ予定である。
 では、以下に説明を加えるが、次のような観点
について、この話には準備が要る。すなわち、
二中歴の大将棋の写書には、次ぎの3点の不備が
有ったと、本ブログでは独自に見る。

①鉄将の駒の動かし方のルールは、”玉将と違い、
後ろ3方と横に行けない。”との旨を記載しなけ
ればならない。にもかかわらず、ほぼ最初の著者
が”玉将と違い、後ろ3方に行けない。”という
ふうに、横へ行けないのに、行けるように間違え
て、記載した。
②桂馬が有るのに、飛ばして、鉄将の隣を香車に
した。
③”かくのごとく、仲人の行き方、後ろの歩兵も
そうなので、それに邪魔まされ一方、つまり前だ
け、よってかくのごとく、その成り方、歩兵に準
ずべし”などと、かっこつけて、
”如是(A)此是(B)”といった、奇をてらっ
たの英語で言う慣用句・熟語のような、凝った言
い回しをした結果、後世の写書者に、内容を間違
えられてしまい、

何が書いてあるのか、判らなくなった結果、

各駒の平安大将棋以降の、大将棋の金成りの範囲
が不安定化して、かつ定着しなかった。
 大切な事は、①と②は、単なる二中歴の著者や、
写書者の間違いで、将棋指しの間では”笑って済
まされた”事である。それに対して、実は
③はそうではなかった。しかし、そもそも中将棋
では、平安大将棋の駒の成り様のパターンについ
て、平安大将棋のパターンを結果として継承しな
かったので、③の影響は無かったのである。
 ところが、①と②についても、

中将棋のゲームデザイナーは、間違えた内容の方
が正しいと、強弁する事が可能になった。なぜか
といえば、問題が発生してから、150年経った
後なので、口伝派よりも古文書研究派の方が、
より優位になる状態だったから

である。以上の認識が以下の議論には必要になる。
 そこで、中将棋デザイナーのした事を説明する
以前に、①と②がなぜ単なる間違いとしか、13
世紀等の大将棋棋士には見なされなかったのかを、
簡単に説明しよう。
①は”平安大将棋は最下段がサイコロの目の形の
順序で、駒の動かし方ルールが決まっている”と
いうのが、口伝として正しかった。
②は、”小将棋と大将棋とで、袖の馬と車の存在
は同じ”と、伝えればよかった。
 以上の

簡単なセリフを暗記すればそれで良いだけだった

から、二中歴、口伝ダブルで伝承できたのである。
それに対して、
③は、”明らかに人間である駒は金成り。その他
の人間以外の動物か、良く判らないか、無生物を
意味する駒は、相手陣奥の段に到達した時に、動
きが取れないか、または、
後方に配置された駒が、前方一方向動きである為
に、奥の段で、問題の駒と後方に配置された駒が、
共に後退できなくなるときには、例外的に金成り、
そうでない場合には、不成り”と、かなり

長い語句で表現しないと、説明できないルール

が、口伝としては正しいルールだったとみられる。
そのため棋士が代替わりすると、③のルールだけ、

文書が間違えると伝承させる事が、相当に難しい

と、本ブログでは推定しているのである。
 ③のルールに関する事項が、大将棋に関して、
江戸時代の初期まで、周期変動していたとみられ
るのは、主としてそのためと本ブログでは考える。
 何れにしても、多彩な成りという手法を導入し
た中将棋は、室町時代初期以降、③の問題からは、
解放されたと、ここでは見る。
 それに対して①と②については、棋士仲間には、
神奈川県鎌倉市の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡出土の中将棋木札(現物紛失)の”もうしひゃ
(う)”という、”しひ”は、”し”と”ひ”の
中間音で発音するのだろうが、面白がって棋士が、
デザイナーの言い草を真似て居るような、猛豹を
”まうへう”と正しく書かない、木札の字の書き
方から見ても、デザイナーのバレバレなウソを、
棋士が面白がっているらしい事が判る。つまり、
中将棋のゲームデザイナーが、

①の鉄将の件については、猛豹を鉄将の所に移す
とともに、角行成りと決定するときに、この錯誤
を逆用して、中将棋の、一義化と発展を誘導した。
②の桂馬件については、桂馬列を除いて、14升
目を12升目に直す、絶好の口実として使った。

以上のような事が存在すると、本ブログでは推定
できると見ている。そして、

②については、既に本ブログでは述べている

という事である。
 だいぶん前置き説明が長くなったが、次に、①で

鉄将が横に動けるように間違えると何が良いのか

について、説明する。
 答えを書くと、

鉄将が、銅将より強く、銀将程度の駒と見なせる

からである。
 これについては、平安大将棋、中将棋の駒の構
成と、駒の動かし方ルールを知らない方に言って
も、残念ながら、ただちにピンとは、来ないかも
しれない。とにかく駒の強さが、中将棋について、
金将>銀将>銅将>鉄将という、五宝の普通の
イメージではなくて、鉄将が横に動けると、その
分価値が上がるので、そのように、間違えてくれ
ると、駒の現実の価値は、

金将>鉄将≒銀将>銅将

になると言う事だけ、そういうものだと今の所し
て以下を読んでほしい。そこで、この状態で、

駒の価値が、鉄将≒銀将≒猛豹になっている

と説明すると後は話が見えるだろう。
つまりだから、

鉄将の所に猛豹を入れても良い

わけだし、成りの駒の価値が、

飛車>角行>竪行>横行

であるから、中将棋で金将の成りは飛車、猛豹の
成りは角行、銀将の成りは竪行、銅将の成りを横
行にできたというわけだ。
 それが、元々鉄将の駒の動かし方ルールが、
正しく二中歴に記載されていたとしたら、
猛豹という、銀将格の駒を、鉄将の位置に配置で
きなかっただろうし、鉄将の成りは盲虎の成りの
飛鹿と対の、”走兎”程度にしなければならなかっ
たはずだ。そのため、

横行の使い所が無くて、中将棋というゲームが、
亜流がたくさん発生して、不安定化してしまう

はずだったのである。つまり、中将棋の成立にとっ
て、ちょうど良く、二中歴の大将棋の

著作者や写書者は、ルールの記載を間違えてくれ
ていた。

のでたまたま、中将棋のゲームルールの、統一化
におおいに役立ったという、わけなのであろう。
 逆に言えば、

中将棋の確立にとって、それ以前の西暦1200
年頃に、二中歴の大将棋が公開されている事

と、二中歴の鉄将の駒の動かし方ルールを、西暦
1200年に著作者が間違え、桂馬を、たとえば
西暦1250年頃の写書のとき、写書者が、うっ
かり飛ばしてしまってから、

ほど良く、ほとぼりが冷める100年程度経った
ときに、中将棋は成立していなければ、つじつま
が合わない

事になる。
 よって本ブログでは今の所、自費出版された、
岡野伸氏の中将棋の記録(一)に記載等されてい
るように、

中将棋の成立は、西暦1372年の遊学往来の頃
より、幾分前の1350年頃

という説を変えて居無いのである。
 むろんこの、岡野伸氏も表している説は、二中
歴と、西暦1300年成立の普通唱導集にともに、

中将棋が記載されていない

という事実とも、良く一致する。以下メモ書き程
度に記載すると、海龍王寺の将棋禁止令に中将棋
が無いのと一致、中将棋出土駒の初出が、京都市
上久世の大きな酔象駒程度と見られ、それは南北
朝時代なので一致する。なお、神奈川県鎌倉市の
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札
(現物紛失)の推定年代には、30年程度の不確
実性が有る。上記の西暦約1350年という値の
エラーバーも、その程度と見る。
 ようするに簡単に言うと、”大将棋は、
鎌倉時代に指されて、概ね南北朝時代に衰退。
中将棋が、それに取って代わられた。”とする、
現在の定説と、上の年代推定は良く合うという事
である。(2019/04/09)

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色葉字類抄は聖徳太子も読んだのか(長さん)

尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄(西暦1565年雪竹老人
編)の第1冊/4冊末尾近くの、雪竹老人による後書きに
よれば、”色葉字類抄の書形式は、6世紀の聖徳太子の
サトシに源(みなもと)を、発するものであり、

聖徳太子の読み物である”

と言う。所で色葉字類抄の尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄
には、

”き”の所と”と”の所を合わせると中将棋の記載がある。

従って、通説の色葉字類抄の成立年、西暦1144年~
1164年が

間違い

であって、6世紀に有り、色葉字類抄は、聖徳太子の読み
物だったとしたら、

中将棋の成立は、6世紀

という事になる。
 今回は、この”奇説”は、どのように否定されるのかを、
論題とする。
 答えを最初に書く。
雪竹老人は尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄(西暦1565
年雪竹老人編)の第1冊/4冊末尾近くの、雪竹老人によ
る後書きの直ぐ後で、それより、多少小さい字では、ある
ものの、

橘先生が色葉字類抄を作成したのは、西暦1144年から
西暦1164年頃の事であると、自分で書いている。

では、以上について以下補足する。
 今回の論題は、頭の体操的なものである。webの情報
だけ頭に入れて進むと、それを否定するような論者が出て
きた時に、

はてなと、なってしまう

例の一つだと思う。そこで、web等に記載された、論壇
が論じている内容は、根拠を常に考えながら読む癖をつけ
たいものだという、これは教訓の一例とみられる。
雪竹老人は、なぜか前書きではなくて、しかも書の途中の、
第1分冊/4冊の後の方の、自分が書いた、”後書き”
だけで述べているのだが、ようするに書の宣伝のため、

聖徳太子も色葉字類抄は読んだんだぞ!

と、大きく出ているようだ。この後書きは写書者、推薦人
計4名の、後書き・推薦書き記載の中では、最も面白い。

書の末備ではなくて、目立たない途中なのが残念だ。

 しかしこの本では、実際には、尊経閣文庫蔵二巻物
色葉字類抄(西暦1565年雪竹老人編)の、第1分冊/
4冊の雪竹老人の後書きの、次のページに、

成立経過が、雪竹老人自身の手によって、A氏、B氏、
雪竹老人と写書された年号を示す事によって、詳しく述べ
られている、おおいに親切な本

である。
 しかも、相互の相対的経過年数を、西暦のない時代は、
計算が、さぞめんどうだったのではないかと私は思うが、
雪竹老人は、それも書いている。よほど暦の、好きだった
方なのであろう。
 そのおかげで、

中将棋が聖徳太子の時代に有ったという、奇説が有っても、
概ね否定できる状況になっている。

 ちなみに尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄(西暦1565
年雪竹老人編)の本文中で、恐らく雪竹老人自体の作だろ
うと、本ブログでは独自に見るが、銀将の方は只の”金”
と書いた上で、

香車に金今の”今”を付けてくれたおかげで西暦1500
年以降の加筆。銅将の裏横行で、”裏”と書いてくれたお
かげで、作成者が、大将基馬名と小将碁馬名と同一である
事が判る

という、とても親切な書き方に、

奇跡的に

なっていると、私には感じられる。
 以上の事から、戦国時代の寺院に関係し、公家出身の方
だと疑われる、尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄の編者の

雪竹老人とは、ずいぶん歴史研究者にとってフレンドリー
な方である

との心象を、私は個人的には持つのである。(2019/04/08)

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色葉字類抄で大将基・小将碁馬名追加を雪竹老人は自認(長さん)

八木書店が西暦2000年に発行した、古文書の
復刻本、尊経閣善本影印集成19色葉字類抄ニ
(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編は、西暦
1565年に雪竹老人が、3人目の写書を行った
後に、江戸時代の西暦1715年頃に加賀前田藩
が購入し、文庫に保管した本である。これには、
イロハ順の漢字の形態辞典としての主な部分の
ほかに、5ユニットの、付属文書が追加付与され
ている。
付録①:大将基馬名(後期大将棋)
付録②:小将碁馬名(日本将棋)
付録③:「牧」(甲斐・武蔵・上野各国の牧場名)
付録④:禅僧耆旧(禅寺僧の役職一覧)
付録⑤:異字(集)
 ここでは、色葉字類抄が「橘先生」によって、
西暦1144年から1164年にかけて成立した
ときに、付録①及び、付録②が付与されたのでも
無ければ、仮にA氏、B氏と名付けた、雪竹老人
より前の、2回の写書者が、作成した物でもない
と、当の
雪竹老人(記号では以下、C氏と示す事がある)
が、自身が編集した、尊経閣善本影印集成19
色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編
そのものの、

編者の構成自体で、はっきり示している

という点について、以下に述べる。
 なお、結論を述べる前に、A氏とB氏とC氏が、
この書の写書をした、年を記す。次の通り。
西暦1164年(長寛2):原本成立:橘先生著。
西暦1315年(正和4):1回目写書:A氏
西暦1423年(応永30):2回目写書:B氏
西暦1565年(永禄8):3回目写書:雪竹老
 結論から述べる。
A氏、B氏、雪竹老人、書の推薦者の「あとがき」の、
以上4つの項目の後それぞれに、書いた人間毎の
付属文書が、必ず来るように、C氏とイコールで
ある雪竹老人が、代表して最後に、この古文書の
構成を決めた。そのため尊経閣善本影印集成19
色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編
では、

付録④がA氏著作、
付録③がB氏著作、
付録①と②がC氏(=雪竹老人)自身の著作。
以上であると、読者にも判るようになっている。

なお付録⑤についてだけは、誰が書いたのかとい
う事が、問題にならないような、内容なので、
書の推薦者の「あとがき」の後に、”推敲した”
という朱色点印を入れないで、散漫に字群が記し
てある。字体から本が出来た後、付録⑤異字一覧
は、C氏である雪竹老人が、書いたのかもしれな
いと見られる。
 では以上の結論について、以下に補足説明する。
 4冊本のオモテ表紙、第字や前書きや本文は、
議論と関係ないので、以下は本文より後の、奥書
の内容だけ書き出す。
 なお、奥書には、いわゆる成書の”後書き”と
”書誌記入”(特に完成の年月日)とが大きな
要素としてあり、それらを、誰が書いたのかが、
目の付け所となる。
第1冊/4冊の奥書部
1-(1)”後書き”:C氏(=雪竹老人)
1-(2)”書誌記入”:C氏(=雪竹老人)
(遊紙×1)
1-(3)付録①:大将基馬名(後期大将棋)
1-(4)付録②:小将碁馬名(日本将棋)
(遊紙×3)→裏表紙
第2冊/4冊の奥書部
2-(1)”後書き”:B氏
2-(2)付録③:「牧」(東国3国の牧場名)
2-(3)”書誌記入”:A氏の後B氏(B氏作)
(遊紙×2)→裏表紙
第3冊/4冊の奥書部
3-(1)”写了記入”:A氏B氏C氏(書体別)
(遊紙×3)→裏表紙(大和・・の書き込み有り。)
第4冊/4冊の奥書部
4-(1)”後書き”:A氏
4-(2)”書誌記入”:A氏
4-(3)付録④:禅僧耆旧(禅寺僧の役職一覧)
4-(4)”書了記入”:C氏(=雪竹老人)
4-(5)書の推薦者の「あとがき」:竹圃叟
4-(6)付録⑤:異字集(筆跡雪竹老人。推敲無)
(遊紙×2)→裏表紙

以上の内容から、
後書きと、場合によって完成年月等を、特定の写書
者(ABC氏)が記入した後に概ね付録が来ており、

後書きを書いた人間が、著作した付録が、その直後
に付与されている

との印象を、読者に強く与える、コンテンツ構成に、
この西暦1565年写本ではなっている事が判る。
なお、西暦1565年写書完成の、
色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編本
の構成を決められるのは、当然の事ながら、最後に
写書した、C氏、すなわち、雪竹老人だけであろう。
つまり、雪竹老人は、
付録④がA氏著作、
付録③がB氏著作、
付録①と②がC氏(=雪竹老人)自身の著作と、

読者が判るように、書を4冊化する時に、再編集し
ている

と、考えられる。従って、雪竹老人が所持していた、
色葉字類抄ニ(二巻本)の原本は、巻物だったとす
ると、以下のような巻構成に、なっていたはずだ。

旧①一巻目本文(1冊目/4冊、2冊目/4冊の合)
2-(1)”後書き”:B氏
2-(2)付録③:「牧」(東国3国の牧場名)
2-(3)”書誌記入”:A氏の後B氏(B氏作)
旧②ニ巻目本文(3冊目/4冊、4冊目/4冊の合)
3-(1)”写了記入”:A氏B氏(書体別)
4-(1)”後書き”:A氏
4-(2)”書誌記入”:A氏
4-(3)付録④:禅僧耆旧(禅寺僧の役職一覧)
ひょっとすると、末尾に、
4-(6)付録⑤:異字集(当時B氏筆跡。推敲無)

雪竹老人は2巻目の奥書を、写終了書名だけ、3冊/
4にもってきて、その他の2巻目の奥書を4冊/4
で使い、どの奥書き内容も必ず一回使って、2度は
使わず、昔の人らしい、白紙と書物の一部という、
物理的な物を、大切にする精神を発揮したようだ。
 B氏の奥書きは、元本では恐らく巻物の1巻目末
に有ったので、2巻物写書者の先達の書の存在に、
敬意を表して、第2冊/4冊奥書で、B氏の奥書を
使い、

雪竹老人(C氏)は、4冊割り本を作った責任者

だから、第1冊/4冊の後ろの後書きを、担当した
という主張だろう。むろん、A氏は橘先生本を写書
しようという行為を最初にした、最も大切な人物で
あるから、第4冊/4冊の後書きは、A氏のを当て
たと考えられる。だから結局の所、書の推薦者の
竹圃叟(webによると鎌倉建長寺の竹圃和尚の事)
の後書きの直前に付録①:大将基馬名(後期大将棋)
や、付録②:小将碁馬名(日本将棋)が、

最後の方に書かれているという事がこの本では無い

のであろう。
 以上のように、西暦1565年写書完成の、
色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編本
の写書本では、書籍編者でもある雪竹老人は、
書籍編者としての立場で各付録を、写書者の後書き
内容の直後に持って来るという方法を、取る事によっ
て、西暦1565年に、

付録①の大将基馬名(後期大将棋)と、付録②の
小将碁馬名(日本将棋)は、自己が著作した物であ
る事を、読者に示して見せている

と、本ブログでは考えるのである。(2019/04/07)

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色葉字類抄、雪竹老人写書本。将棋駒追加以外での改竄(長さん)

前に述べたように、尊経閣善本影印集成19、色葉字類抄
ニ・二巻本、前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店2000
年発行には、形式の問題なので、セクション名や記載箇所
は除いて、書いてある中身だけ書くと、ようするに、

日本将棋に、王将、金将、銀将(金成り)、桂馬、
香車(今金成り)、飛車、角行、歩兵が有る事。
中将棋に、玉将、金将(飛車成り)、銀将(竪行成り)、
銅将(横行成り)、香車(白駒成り)が有る事。
後期大将棋に、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、
桂馬、香車(金成り)、酔象(太子成り)、盲虎、
猛豹、猫刃、反車(金成り)、師子、麒麟(師子成り)、
鳳凰(奔王成り)、悪狼、嗔狼、猛牛(金成り)、奔王、
龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車(金成り)
歩兵、仲人(金成り)があるという情報が、加わっている

という意味で、”増補”されているという事だった。
 今回は、加筆部”著者”とみられる、西暦1565年写
書者の雪竹老人が、

その他に、色葉字類抄の2巻本を、4冊化写書をしたとき、
何か”増補”や”手直し”していないかどうかについて、
ここでは議論

する。
 回答を書いて、その後で説明を加える。

している。”く”の動物の鯨鯢の、国語辞典としての意味
説明の内容を、原本から、鯨が雄と、平安時代から考えら
れていたかのように、手直しした

と、本ブログでは疑う。
 では、以下に説明を加える。
 鎌倉時代初期に完成されたと言われる、十巻物の伊呂波
字類抄によると、
鯨鯢の国語辞書としての、伊呂波字類抄の説明は、読みは
単なる”くじら”で、意味は”魚の王様”である。その次
ぎに書いてある句の意味は、私には良く判らないが、鯨の
性別については、記載していないと考える。そして雪竹老
人の所持していた、元本も、おそらく十巻物と同じような、
語句説明だった疑いがある。それを、二巻物を写書して、
4冊物の色葉字類抄ニ・二巻本、前田育徳会尊経閣文庫編、
(後に八木書店が、復刻版を西暦2000年に出版)にし
たときに、

雄鯨である鯨という字と、雌鯨である鯢という字を合わせ
て、夫婦鯨という熟語が形成されたという説明にした

と考えられる。しかし、実際には、平安時代の
二巻物が完成したときに、鯢には雌鯨の意味は有ったが、

鯨に雄であるという性別があったと言う話は無く、これに
関しては、戦国時代の雪竹老人のでっち上げ

で、多分に御ふざけ的な寓話と、関連する疑いがあると思
われるフシがあると私は考える。
 つまり、

鯨という字に性別があるという話が、平安時代にあるとい
う本当の証拠は無いのではないか

と、私は疑っているという事である。尚念のため付け加え
ると、3巻本の色葉字類抄の”く”部は、消失部分である。
 では何故、このようなでっち上げの話を、捏造しなけれ
ばならなかったのかと言うと、

戦国時代には、鯨一文字で鯨を表していて、平安末期の
ように、時鳥でホトトギス、蝙蝠でこうもりと言うように、
鯨鯢でクジラとは、読まなくなっていた

からではないかと考える。しかしその程度なら、実際に
鯨鯢の所に、雪竹老人4冊写書本では書かれているように、
雄鯨雌鯢と、国語辞書的語句説明などせずに、元のままで
放置して置くか、十巻本と本来同一主旨だった、原本の
国語辞書的説明を、

削除する程度でも良かった

はずだ。ところがそうしなかったのは、

鯨鯢が当時主流の中将棋の将棋駒で使われており、中将棋
の棋士内で、”鯨鯢で、鯨の一種を表してはいるが、鯢は
雌のようだが、修飾詞で戦力ダウンになるというイメージ
の鯢をつけて、2文字化したのは何故なのか”という議論
が、戦国時代に有った為

とみる。
 中将棋に肩入れしていたのであろう。雪竹老人は、矛盾
を避けるために”禅寺では南北朝時代から言われているよ
うに”と、前置きした上で、

”鯨は雄と(勝手に)解釈する。2頭で力を合わせるから、
単なる鯨駒よりは、反車の成りとして、強大な力を持つよ
うになったのだ”

とか何とかいうような話を、将棋の仲間にして、落語の、
長屋の御隠居様話ではないが、将棋仲間の喝采を、浴びた
のであろう。それで

気を良くして、色葉字類抄2巻本を写書したときに、その
話を、鯨鯢にうっかり入れてしまった

のではあるまいか。元々中将棋の成りを決めたデザイナー
は、

鯨鯢と2文字で、中国語の”keigei”の和訳で
”クジラ”と読んていた、だけの程度だった

のであろう。所が、時代が室町時代、戦国時代と移るにつ
れ、鯨という字一つで、”クジラ”と読むように、日本語
が変わった。そのため中将棋棋士の間だけで、”へんだね”
と、小さな世界の中だけで、際立って問題になっただけ、
だったのではないのか。
 そもそも、本当に、
色葉字類抄二巻物の写書本以外に、鯨が雄だと書いてある、
日本の中世の史料が確実にあるのかどうか。”唐韻に書い
てあった”という話を私も知っているが、そもそもそれは
信用できる情報なのかどうかを、国語の研究者に聞いてみ
たいものだ。雪竹老人が真犯人とまでは、断定できないに
しても、日本の南北朝時代の、禅寺で作成した日本人の
漢詩に、鯨は雄の話が、始めて出てくる程度の疑いが、
諸橋徹次の大漢和辞典の鯨の、

雄だという説明の出典は”疏”だ

という記載から、私にはする。
 だからようするに、
尊経閣善本影印集成19、色葉字類抄ニ・二巻本(156
5年写書)、前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店2000
年発行の、たとえば西暦1565年本の写書者が、

中将棋に興味が薄ければ、鯨鯢の改竄の可能性が薄くなる

と、私は推定もする。つまり、将棋史と国語の研究とが、
尊経閣善本影印集成19、色葉字類抄ニ・二巻本(156
5年書写)、前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店2000
年発行の、西暦1565年写書本で、

今の所私が見た限り鯨鯢だけのようだが、とにかく接点を
持つようになった

という事を、これは意味しているのではないか。
知りえる範囲で調べた所では、以上のように、私には推定
できる、という事である。(2019/04/06)

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1565年書写二巻物色葉字類抄本文将棋駒記載の意(長さん)

以下今回は、各巻の題字から奥書の間の、漢字の書き方
の範疇である、八木書店が西暦2000年に発行した、
尊経閣文庫蔵(西暦1565年写書)二巻物色葉字類抄
中の”本文中の将棋駒記載”に関して特に、

同書、1冊/4冊、奥書後付加のセクション大将基馬名、
セクション小将碁馬名との関連性を中心

に議論する。
ようするに、

どれも、西暦1565年の写書時の成立だと見える

という点について、根拠を述べる。
 以下述べようとする論題は、次の①~③の三点である。
①本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記載(と部)は、
中将棋についてだけ、記載されているのか。
②本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記載(と部)、
セクション大将基馬名、セクション小将碁馬名の4つの
ユニットは、全部同一者の作か。
③作者は何を考えて、具体的に、本文将棋駒記載(き部)、
本文将棋駒記載(と部)の、記載内容範囲を決めたのか。

答えから先に書く。
①小さい字の金と金今以外は、全部中将棋についてであ
る。飛車と竪行と白駒は、金将、銀将、香車の中将棋の
成り駒の書き方を、説明している。小さい字の金と金今
は、話題を変えて、日本将棋の、西暦1565年頃の、
書き駒の字体を説明している。
②同一者作とみられる。本文将棋駒記載(と部)銅将と、
セクション大将基馬名の小さい字で示された、成り駒名
が、裏○△形式で一緒である。それに加えて、”中将棋
をなるべく少ない言葉で説明せよ”、という試験問題の
回答として必要な内容だけ、駒種を選んで、本文中に書
いていると、この本の内容を、統一的に把握できる事か
ら、そう推定できる。ちなみに、西暦1565年は、
フランシスコ・ザビエルが既に来日していた時代である。
③後期大将棋の構成駒を最下段から順に、
セクション大将基馬名で説明し、日本将棋の構成駒を最
下段から順にセクション小将碁馬名では、先ず説明した。
だから”中将棋をなるべく少ない言葉で説明せよ”とい
う、冠位の昇格試験問題にでも出そうな問題の、回答と
して必要な内容は、判りやすくは最下段について、
中将棋は後期大将棋と日本将棋の中間駒種数の駒構成に
なっているのを、示せば良いのである。だから、その
模範解答に必要な、中将棋の駒種だけ、八木書店が、
西暦2000年に発行した、
尊経閣文庫蔵(西暦1565年写書)二巻物色葉字類抄
中の本文には、本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記
載(と部)とを小合計すると、すっぽり含まれる駒だけ
載せた。その結果、セクション大将基馬名、
セクション小将碁馬名とを合わせて見ると、試験問題の
回答になるように、してあるという事である。

では、以下に補足しよう。
①の、本ブログでは最近発見された、本文2箇所は、ほ
ぼ中将棋だという点についてだが。大事な事は、以前に、
同一主旨の話を、たまたましたが、

飛車と竪行と白駒は、金将、銀将、香車の右下に裏と書
いてから、書いてしまうと、ざっと眺めたときに、加筆
である事が、小さい字の割合が多すぎてバレると言う事

である。だから、”き”や”ぎ”で始まらないのに、
飛車と竪行と白駒が有るのである。その結果、現代の
研究者等さえもが、外見が、他と余り変わらないので、

うっかり、正常だと思って、読み飛ばしてしまうのを、
西暦1565年時点で雪竹老人等が、既に期待していた

と言う事だと私は思う。加筆は、褒められることは無い
からだ。
 つまり、本来なら、・玉将・金将裏飛車・銀将裏竪行
・香車裏白駒と書くべき所を、・飛車、・竪行、・白駒
をデッカクして、中将棋についてだけ、書くのが主旨な
のだが、体裁を揃えたと言う事であろう。しかしそれだ
けでは、寂しいので、・銀将と・香車の下に、小さく金、
金今と書いて、オマケとして日本将棋の成りルールも、
同時に示し、これによって一見して

色葉字類抄の本文風にした

と私は見る。だからこの字が成立した時代には、中将棋
と、日本将棋は有ったと断定できる。しかも香車の下の
金今は、銀→桂→香→歩で、成りの崩しを、変える事を
示し、かつ銀将の成りと違って、香車の成りが今、つま
り”と金”に近い時代だという事だから、成立は滋賀県
の坂本城跡出土駒(1500年)等より、少し後であり、
セクション大将基馬名、セクション小将碁馬名といっしょ
の西暦1565年頃のもの。だから多分皆、雪竹老人作
が、濃厚だと思われると言う事になる。
 次に本文将棋駒記載(と部)の銀将裏横行は、もろに
中将棋であり、説明の要は無い。
ただし大事な事は、

玉将と金将と銀将と香車は”ぎ”や”き”で始まるので
キの所に書き、銅将は”ど”で始まるので、トの所に書
いて、色葉字類抄の規則に則っている

と言う事である。つまり、
玉将、金将、銀将、銅将、香車を、雪竹老人先生は、
書写する二巻物の色葉字類抄には、限定して入れたかっ
たようだ。その証拠に、たとえば

猛豹は、何処を探しても見つかっていない。

以上で①の説明を終わる。
 次に②の本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記載
(と部)の2ユニットの作者が、恐らく雪竹老人で、
同一者の作と見られるという事について、既に根拠を
一つ示している。すなわち熟語”銅将”に付加された、
”裏横行”という字の表示形式(”裏+成り駒)が、
大将基馬名の飛車、香車、反車、猛牛、仲人といっしょ
で、本文将棋駒記載(と部)の銅将でも裏横行と、
”成”を使って書いて居無い。つまり書き方がいっしょ
だという、以前述べた共通性が、有ると言う事である。
 以下には、今述べた点とは別に、更に存在する根拠
について書く。
 ようするに、まず、最下段で桂馬、酔象、猛豹といっ
た動物を、中将棋とは何かを尋ねられたときには、高
貴な試験官に対して、下品で失礼だから、言及しない
と仮定しよう。
 その上で、小、中、大の将棋の最下段の駒種類を並
べると以下のようになる。なお平安小将棋と日本将棋
は、その点では同じである。
小将棋 王将、金将、銀将、香車(王将は皇族使用型)
中将棋 玉将、金将、銀将、銅将、香車
大将棋 玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、香車
(ただし、後期大将棋が、戦国時代には大将棋の代表
となっていた。)
 つまり、
中将棋は他の二つの将棋の構成駒を、述べた後で、

”その中間であり、最下段について、大将棋の鉄将と
石将が無く、小将棋には無い銅将が有るというイメー
ジものである。”

と、答案用紙に書けば良い事になる。そのためには、

玉将、金将、銀将、銅将、香車と、成り駒の漢字が
判っていないと、答案用紙が書き辛い

という事である。

だから、2巻物を西暦1565年に書写するときに、
雪竹老人は、本文中に、従来の色葉字類抄の規則で、
今述べた、中将棋の駒を、今述べた分だけ過不足無く、
何らかの昇格試験の、受験生等のために入れたかのよ
うだ

と、本ブログでは思考する。
 だから、本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記載
(と部)、セクション大将基馬名、セクション小将碁
馬名の4つのユニットは、

それが存在する動機がいっしょなので全部同一者の作

だと、本ブログでは推定するのである。
 最後に③については、色葉字類抄の読者は、
冠位昇格試験の受験参考書のレベルに近いものに、
雪竹老人は、書としての売れ筋の観点から、しようと
したであろうと、少なくとも本ブログは考える。
ので、

社会的にマイナーな、中将棋のゲーマーの事を考えて、
本文に他の、
酔象、太子、盲虎、飛鹿、猛豹、白駒、獅子、麒麟、
鳳凰、角行、反車、鯨鯢、奔王、龍王、飛鷲、龍馬、
角鷹、飛車、竪行、飛牛、横行、奔猪、歩兵、と金、
仲人等までは、入れて居無いのであろう。そのため今
の所、色葉字類抄、八木書店2000年、尊経閣文庫
(前田)本2巻物(1565年書写)には上の字が、
辞書の字か、成り駒の表記としては一部有っても、
将棋の元字としては見つかって居無い

のではないかと、私は疑っている。
 なお私は、三井文庫の、前後大将棋を見て居無いので、
飛鹿と奔猪だけ知らないが、他は元駒として使われ、成
りが白駒が大駒、鯨鯢が大鯢、奔王が奔鷲、飛鷲が大鷲、
角鷹が大鷹、飛牛が火牛、というふうに、一応全部有る
と認識する。
 ③については、それ以外は、②で述べた事の繰り返し
だ。つまり一例として、試験問題として中将棋とは何か
を答える問題が出題される為に、漢字が必要という用途
が、戦国時代の貴族の立場で存在し、それに答えるため
の、国語に関する、必要知識のカテゴリーに、八木書店
2000年発行(1565年書写)2巻物(4冊物)
色葉字類抄の、合計4箇所の将棋”加筆”内容は、トー
タルが、きちんと、収まっているという事である。
 何れにしても、八木書店が西暦2000年に発行した、
尊経閣文庫蔵(西暦1565年書写)二巻物色葉字類抄
中には、

後期大将棋、日本将棋の他に、中将棋が記載されている。

以上の点について、

大阪電気通信大学、高見友幸研究室の”摩訶大将棋のブ
ログ”の前年度、すなわち令和の知られて居無い平成の
時代の、西暦2019年3月31日以前に記載の情報は、
中将棋が抜けているという点については、間違っている。

最後に述べた点に注意する事が、web内だけで情報を
調査するときには、大切な事とみられる。(2019/04/05)

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八木書店西暦2000年出二巻物色葉字類抄将棋駒一覧(長さん)

いきなり、結論を書いて、事情がわかりづらく、
たいへん恐縮だが。今回は、

色葉字類抄前田藩2巻物の”と”の雑物に”銅将裏
横行”が書いてある

のを含めて、八木書店が西暦2000年に発行した、
尊経閣文庫蔵の西暦1565年書写、加賀前田藩の
文庫の中にあった、色葉字類抄二巻物の中にある、
将棋駒に使われている熟語の一覧を、”き”雑物の
”・玉将・金将・飛車・銀将・竪行・・”の話と、
一冊/4冊目末備の、大将基馬名と小将碁馬名
の話は、ごちゃごちゃするので、その2点だけ簡略
化した上で、以下に示す事にする。

ようするに、八木書店の成書を見れば良いという話

なので、結論からとっとと書いたという意味である。
 一覧は以下の取りである。
 八木書店発行(2000)”色葉字類抄ニ(二巻
本)、前田育徳会尊経閣文庫にある、将棋駒として
使用されている熟語の一覧:
い 霹靂(豊隆と同じ訓読みで、イナツチナル)
い 犬(イヌ)
は 白駒(ハクク。日名。webに月日の説明有り。)
ほ 鳳凰(ホウオウ)
ほ (正確には公の下に鳥の)公時鳥(ホトトギス)
と 銅将(以下右下に小さく)裏横行
と 飛車(トブクルマ)
”を”と”わ”の間に、大将基馬名と小将碁馬名の
セクションが、挿入されている。ただし”を”の後
の、上の上の奥書の更に後の、遊紙の中に挟まる。
か 大将(読み不明)
か 蝙蝠(カハホリ)伏翼(同)
か ”狛”(獣辺。人事。意味不明)
う 鶉(ウツラ)
お 大鷹(オオタカ)
お 弩(オオユミ)
く 角鷹(クマタカ)
く 鵰(クマタカ)
く 孔雀(クシャク)
く 鯨鯢(クチラ)(右と右に小さく)雄鯨・雌鯢
こ 狛犬(狛は犬辺・人事)(コマカク)
て 天狐(テンク)または天狗(狗は異字体と記載。)
き 麒麟(キリン)(麒のツクリが棊になっている。)
き 馬麟(キリン)(馬は騏。キリンのような白馬。)
き ”・玉将・金将・飛車・銀将・竪行・香車・白駒”
等の記載が、雑物に有る。(銀は金、香は金今にも成。)
し 師子(シシ)(動物。二千キロ/日走る・・。)
し 自在(ジザイ)(畳字の所に記載されている。)
す 水牛(スイギュウ)(潜水できる牛との説明。)

 まだあるかもしれないが、現時点で私が見落とし
ているだけだ。大切なものが出てきたら、逐次別途
報告しよう。ともあれ。
 以上の事から、前に問題にした、大将基馬名と、
小将碁馬名の話と、”き”の”・玉将・金将・・・
白駒”の記載2箇所の、将棋ルールの記載部分を除
いて、熟語”銅将”以外、”裏○△”という形式の、
成りルールにおける、具体的な成り駒を、明らかに
意味する、”将棋の本のような”説明書きが無い事
が判る。
すなわち、との雑物の中間に有る、

銅将という熟語以外は、”将棋加筆の3ユニットの
大物”を別にすれば、単なる普通の辞書の、熟語の
項目を示しただけ

であると考えられる。
 銅将という単語は、上の上の奥書の後、裏表紙に
挟まった遊紙の内部に有る、”大将基馬名”にも、
銅将として、当然入っているが、そこには、

裏横行という記載は、当時の大将棋駒なので無い。

 しかし、

裏○△と書いて普通は○△成と書く内容を記載した

という点では、”と”の雑物の銅将と、”を”と
”わ”の間の大将基馬名の、たとえば”飛車”の
下に記載の”裏金”とは、形式がいっしょだ。
 なお、”と”の雑物の銅将も、色葉字類抄の中
で、今の所見つかっているのは、八木書店発行
(2000)”色葉字類抄ニ(二巻本)、前田育
徳会尊経閣文庫の、この本の中だけだ。
 つまり、銅将を”と”の雑物に追加したのと、
大将基馬名というセクションを作ったのは、結局

同一人物だ

という事のように、私には思える。
 今回は以下煩雑なため、このへんで一旦切ろう。
より詳しい議論は、次回以降にしたい。(2019/04/04)

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大将棋の成り金駒数の歴史挙動。背後にあるもの(長さん)

以前述べたように、普通唱導集時代の大将棋も含めて、
後の後期大将棋には、金に成る駒種数が、周期的に、
増減していると思われるフシがある。
 今回は、そのメカニズムを論題にする。
 回答を先に書き、今回は数学を使って説明を後で
しよう。回答はこうだ。

寺に残る文物古記録の2倍の周期で、成り金数は
入れ替わっており、寺で”昔の大将棋の記録”を、
各時代に発掘した権威者のルールが、その時代の主流
に、とって代わられる事の、繰り返しが見えている

と、考えられる。
では、以下により、詳しく説明しよう。
 ようするに、大将棋の駒の成り金数に関しては、
主として社格の高い、大きな規模で、発掘された情報
が信用できそうな寺院の古記録を、それなりに信用で
きる人間が、流布させれば、前代の違うパターンのルー
ルを押しのけて、少→多→少というふうに、変遷して
きたのではないかと、推定できるだろうと言う事であ
る。
 現代に関して言えば、古い寺院に残る古記録は、

約150年前の明治維新程度の事物がウエイトが高

である。この約150年前というのは、中世だろうが
近世だろうが、定数に近かったのではあるまいか。
 それは、その時代の大将棋の成り金駒数が多いとき
には”昔は少なく”と、少ないときには”昔は多く”
という内容、つまりサインカーブで位相が、180°
ズレたものだった。だから、

いろいろな人間が、寺に行って、古記録を調べると、
だいたい、情報は150年前が定数

だったために、大将棋の各駒成り金ルールについては、
 西暦1100年から、1175年までは減少と、
初期条件として波立ち傾向が有ると、1175年極小

1325年極大、1475年極小、1625年極大、
1775年極小、1925年極大、2075年極小?

といったふうに、周期関数になるような、性質のもの
なのではあるまいか。ただし正確に見ると、近世に入
ると、寺の古記録に頼るだけにはならないので、西暦
1600年代以降は、だんだん法則が、ズレてきたの
であろう。
 これだと、寺の記録はそれぞれ同士の間で、きちん
と、位相が合っていなければならないように、いっけ
ん見えるが、

数学の参考書を見ると、そうではないらしい。

位相はばらばらだが、周期が150年と一定の、三角
関数の重ね合わせは、ある決まった位相の三角関数へ
変換できるという点については、以下の数学の成書に

ヒント

がある。
”史上最強図解・これならわかる!三角関数”
佐藤敏明(都立日比谷高校教諭)ナツメ社2013年。
その中に、
”sinとcosを合わせたらどうなるの?”という
セクションがあり、

a・sinθ+b・cosθ、つまりsinθと、
sin(θ+π/2)と、0とπ/2だけ、
90°位相のずれたカーブは、r・sin(θ+α)
という、一種類のsinカーブと、等価である

と書いてある。
 結論を言うとようするに、残念だが、この先生の本
には、その直後で”第4章 三角関数の微分と積分”
に入る間に、
”0°が原点のsinと、π/2以外の、一般角度、
つまり別の角度で始まるsinを合わせたらどうなる
の?”という旨の、セクションを作らなかったという
事が

はなはだ残念

だ。
 つまり、この先生の日比谷高校での授業には、生徒
の理解を決定付ける

何かが1つ足りないレクチャーを、常々している疑い

があるようではある。
 結論はそうだが、元に返って、sinθと、
sin(θ+π/2)と、0とπ/2だけ、つまり、
90°位相のずれたカーブは、r・sin(θ+α)
という、一種類のsinカーブと、等価である点に
ついては、三角関数の、加法定理で説明されていて、

この本は、わかり易い。

つまり、加法定理は

sin(θ+α)=cosαsinθ+sinαcosθ

と、この問題用には変形できる。rを掛けると、

rsin(θ+α)=r・cosαsinθ+r・sinαcosθ

となっているだけだ。
 だから、戻ってa・sinθ+b・cosθを、上
の加法定理の左辺のrsin(θ+α)にしようとする
わけだから、

r=√a2乗+b2乗。
α=アークコサイン(a/r)かまたは、
α=アークサイン(b/r)で計算される。

rとαを使い、rsin(θ+α)を決めればよいの
で、角度がαで始まる、一義のsinカーブと同じだ。

以上の旨が書いてある。しかし、
sinθとsin(θ+π/2)の合成ではなくて、
sinθとsin(θ+h)で、hは、弧度法変換で
(180/π・h)°といったケースの合成の説明が、
佐藤氏の本には書いて無いのである。
 しかし、後者については、加法定理を2回使って、
sin(θ+h)を(何とか倍)sinθ+(別の倍)cosθ
に、

最初に変換できる事に、佐藤敏明氏の授業のあとで、
生徒が気がつけば、理解不能の落とし穴に、はまるの
は防げる。

すなわち、簡単な2つだけの場合で、数が増えても
一緒なので、2つのケースだけ考えると、
a・sinθとb・sin(θ+h)の合成は、
予め、sin(θ+h)に加法定理を適用して、
b・sin(θ+h)=b・coshsinθ+b・sinhcosθ
 だからこの問題は、
(a+b・cos(h))sinθと、b・sin(h)・
sin(θ+π/2)の合成問題、つまり、

(a+b・cos(h))sinθと、b・sin(h)・
cos(θ)の合成問題と同じである。

rはr=√((a+b・cos(h))の2乗+b・sin(h)の2乗)。
αはα=アークサイン(b・sin(h)/r)
等に代わるだけとみられる。
 そして、
”0°が原点のsinと別の角度で始まるsinを、
合わせたらどうなるの?”というセクションは、
”これならわかる!三角関数”には、第6章で出て
くる”フーリエ変換”の

目標となる、中村先生にだけ当たり前と感じられる
と思われる式を、生徒にもその、ありがた味が何な
のかを伝えるためにも、絶対に必要

だったように私には疑われる。
 つまり実用の世界でよく見かける”フーリエ変換
した結果のパワースペクトル”とは、aやbの視覚
的なグラフの事ではなくて、パワーrの、各三角関
数の変数である角θに掛け合わされている、振動数
パラメータnについての、分布グラフの事だと、
私は理解しているからである。n毎にh(n)は、
それぞれ有るが、実社会ではhの方が、同じ周波数
の各要素成分がまとまると、どうなっているのかは、
余り問題にされないと、私は認識する。
 今紹介した成書は、私が若い頃購入した、培風館
の新数学シリース4の”三角法”の、定価で3倍強
するようなので、この本の該当部分には、

流行のバカチンマークを一応つけて置く事にしたい。

 話は長くなったが、以上のように、位相のズレた、
いろいろな史料が、寺に有り、複数の権威者が、そ
れぞれに史実を将棋界に広めても、

結果を合成したものの状態は、反転情報発生年の、
2倍の周期である事には変わらない

事が、数学上は、以上のようにして説明できるとい
うわけであろう。
 従って、冒頭に述べたように、大将棋の金成り駒
数の経年挙動は、
寺に残る文物古記録の2倍の周期で、成り金数は
入れ替わっており、寺で”昔の大将棋の記録”を、
各時代に発掘した者のルールが、その時代の主流に
とって代わられる事の繰り返しの結果が、現象とし
て、我々にはほぼ見えていると、考えられると言う
結論になる訳なのであろう。(2019/04/03)

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尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄の写者雪竹老人は何者か(長さん)

表題本の4冊/4の奥書にも書いてあるし、八木書店
(2000年発行)本の”解説”にも出ているが、
江戸時代の加賀前田藩の文庫、尊経閣文庫の、西暦
1565年写書、二巻物色葉字類抄の写書者は、
”雪竹老人”となっている。
 本ブログでは、少なくとも、巻上の上の奥書の後に、
大将基馬名、小将碁馬名という表題で記載された
内容である、後期大将棋と日本将棋の駒記載部分の
執筆者として、西暦1565年時点の、”雪竹老人”
を疑っている。そこで今回は、

”雪竹老人”の正体について何者かを、論題とする。

回答を書いて、後で説明する。
 甘露寺家の系統で東寺の大僧上、

覚勝院了淳のような人物が疑われる。

では、さっそく以下に説明を加える。
 重要な事柄から順に書くと、

在来仏教は、禅宗と中世にも親和性が高く、在来仏教の
僧が、京都でも禅宗の寺と、頻繁に交流していたと、少
なくとも私は考える。

 すなわち、雪竹老人という、写書者の”ペンネーム”
とみられるものは、老人が”書家”である事を示してい
ると、私は考えるが、雪竹とは雪竹図の事であり、禅宗
僧の中世画家の画題であって、禅僧を連想させる熟語だ
と思う。なお、今問題にしている二巻物の前田家古文書、
尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄の、第4冊/4冊奥書の
少し前には、禅僧耆旧という項目が、挿入されていて、
この項目は、写書者が雪竹老人であっても、執筆者は、
別のようにも見えるが、全体として、この書の写書者に
関して雰囲気を、かもし出す内容のようにも見える。

つまり水墨画家で禅僧また画僧の「雪舟」「雪村」の類

だと、自分を紹介しているのだろう。
 禅宗に詳しく、日本将棋の玉駒は、王将と書く人物。
しかも小将棋は”小将碁”と書く人物だと言う事になる。
 また将棋駒の字の確認を、頻繁にする人物が身内に存
在するらしく、成りは”裏”と表現する人物だと言う事
である。
 将棋の好きな甘露寺親長の子の覚勝院了淳は、西暦
1524年時点で在命である事が、三条西実隆の日記か
ら明らかである事が、増川宏一氏の(2013)将棋の
歴史、㈱平凡社等から判る。が、西暦1565年に存命
だったかどうか、までは私には判らない。
 何れにしても、

前田本二巻物、西暦1565年尊経閣文庫蔵色葉字類抄
の写書者として、覚勝院了淳はぴったり来る人物の一人

のように、私には思える。
 なお、八木書店出版(2000)の、色葉字類抄
ニの解説部には、”1565年の色葉字類抄ニ巻物、
前田家の文庫、尊経閣文庫の写書者は、雪竹老人である”
としか書いてない。
 この文を書いている時点で、問題の戦国時代の写書者
についての学説を、私は調査していないが。定説が有る
としたら、この八木書店から近年になって出版された本
に、はっきりと書いて有りそうな気がする。つまり、
定説では、色葉字類抄2巻物の西暦1565年写書者の
雪竹老人とは、謎の人物の事なのであろう。(2010/04/02)

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尊経閣文庫蔵2巻物色葉字類抄の”き”雑物に駒名羅列(長さん)

八木書店が2000年に発行した、加賀前田藩の
文庫、尊経閣文庫の色葉字類抄のコピー現代本、
尊経閣善本影印集成19色葉字類抄ニ(二巻本)
前田育徳会尊経閣文庫編(2000)の

408ページ第一行目の内容

が今回の、報告内容の全てである。
前に紹介した巻上の上の奥書の後に書いてあった、

・大将基馬名と・小将碁馬名の話とは別の話

なので、その点に注意してほしい。
 今回報告するのは、巻下の下の

本文中の内容そのもの

である。
 最初に内容をずばり書こう。”き”の○雑物に、

・行・黄久里・玉将・金°将・飛車・銀将(左下
に小さく)金・竪行・香車(右下に小さく)金今
・白駒

と書いてある。ここで、”き”の○雑物のセクショ
ンは終わり、次からは○光彩のセクションに入る。
”き”で付く漢字を集めた章の

途中に、この内容が記載されている

という事である。少なくとも、この発見をも誘導す
るように、注意はしてくれたのだが。従来の、
摩訶大将棋のブログで、大阪電気通信大学の

高見友幸氏が流布している話とは、矛盾する別の話

である。今度の話は、”飛車が金に成る”のでは
なくて、香車の成りが崩した金か、はたまた白駒な
のかが、悩ましい所だ。つまり、大将棋と小将棋だ
けでなく、特定の古文書一冊だけのようだが、

中将棋が、色葉字類抄2巻物には書いてある

と言う事である。
 この古文書は、元々将棋のルール本では無くて、
たとえば、”き”で始まる漢字の姿を墨書で書いて、
書き方を教えるという主旨の、漢字の辞典の古文書
である。そうなのだが、
玉将や金将は確かに、”ぎ”や”き”だから良いと
して、

飛車と竪行と白駒は、将棋の駒だが、”き”で始ま
る字ではない

と、少なくとも私は思っていた。つまり、

将棋のルールが、辞書の内容そのものに挟み込まれ
ている

という事である。
 なお、この古文書によると、”と”にも記載され
ている飛車は、”とぶくるま”と現代感覚に、より
近く読むそうだ。脱線したが、冒頭述べた記載によ
り、いっけんして、

中将棋が西暦1140年代に存在したと解釈できる

内容である事が判る。

たとえば白駒は、中将棋の駒として特徴的

だからだ。
 ただし、尊経閣善本影印集成19色葉字類抄ニ
(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店
発行(西暦2000年)の解説部には”この本で、
色葉字類抄の3巻本に無い字が出てきて特に、各セ
クションの末尾な場合には、書写したときに追加
されたと考えられたし”との旨が、記載されている。
 そこで、国会図書館の電子図書で、webで自由
に見る事のできる、3巻本の類かとみられる
色葉字類抄:尊経閣叢刊丙寅本の”き”の雑物を
見てみると、黄久里で終わっていて、ついで○光彩
のセクションに入るので、

・玉将以下の内容は、書いて無い。

 つまり、問題の成書の解説に従う限り、

中将棋の出現は、かなり早かったが、西暦1140
年代とは限らなかった

という事になろう。奇しくも前田藩ゆかりの金沢か
ら、不成り龍馬を、桂馬と読み間違いしている、鎌
倉時代の大将棋らしい駒の出土例が有るように、
出土駒のカテゴリーを入れれば、駒数多数将棋の出
現は、一般には、かなり早そうではある。が、駒の
構成が判るという意味で、中身のある文献では、
中将棋に関しても、これまでは、水無瀬兼成の
1590年将棋纂図部類抄が、詳しいものとしては
比較的古い例だ。これも、高見友幸氏の言う、
後期大将棋の文献の話と一緒で、固有名詞を中将棋
に入れ替えて、

中将棋の文献として、将棋纂図部類抄よりは古い例

という事に、なるのだろう。
 最後に、優先順位が、以上の衝撃的内容に比べて
下位と私は見て、上で説明を飛ばしたが、

・金°将の”°”を説明

する。将という字の”ノツ”の部分の右上に○印が
有って、

金将についてだけ、”将の字が、今ひとつ”と、
1565書写事業の監督と疑われる雪竹老人先生が、
書写した弟子を怒って付けたような、小さな
”バカチンマーク”の赤丸の印のように見えるもの
を、冒頭で”°”と私が表現

してあるという意味である。字を良く見ると、雪竹
老人は、旧字体の将の夕で、もう一つゝが入る部分
のノが、今ひとつ短すぎると思っているようだと、
見て取れる。
 以上で、事実関係の説明を終わり、考察は次回以
降とする。
 本日は書き込みが、西暦2019年4月1日に、
たまたま、なってしまった。そのため、事実の報告
と、主張し辛い日に当たってしまった。私は早稲田
大学の、高田早苗記念図書館に、上記の内容等を確
認しようとして、先だって、門前払いを喰らった。
なお高田早苗という人物の、社会全体に対してした
貢献は、webを調べても良く判らないが、ようす
るに後に、早稲田大学の関係者しか、使用できない
図書館が設立されているらしい。
 それはさておき。
 興味ある方で、エイプリルフールに歴史の愛好家
の私が漏らした、以上の色葉字類抄に関する内容の
真偽をもし確かめられたければ、各自適切に、職場
での役職や、将棋界での所持タイトルを示すなりし
て、自己の権威を主張して図書を入手し、上記図書、
尊経閣善本影印集成19色葉字類抄ニ(二巻本)
前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店(2000)
の408ページを、実際に開いて、ごらんになられ
ると、よろしかろうと考える。(2019/04/01)

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