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なぜモンゴル帝国時代に囲碁は西進しなかったのか(長さん)

以前に述べた、メトロポリタン美術館蔵の象棋図
は、美術館のサイトを見る限り、ゲーム種は
シャトランジのようである。しかし人物は、王と、
その左右の10人が、モンゴル人のようである。
元王朝で囲碁が打たれたのは確かであり、多分、
中国シャンチーも健在だったはずである。モンゴ
ル帝国がモンゴル共和国発だとしても、モンゴル
にも囲碁は有ったはずであり、元王朝は、典型
中国暦法の授時暦であるから、イスラムシャトラ
ンジは、元王朝内で指されない事は確かである。
メトロポリタン美術館の象棋がイスラムシャトラ
ンジなのは、イルハン国が、ナシル・エッディン
を台長にして、イスラム天文学式マラゲ天文台を
立てるほどに、イスラムびいきだったからなので
あろう。であるからにしても、元とイルハンの真
ん中の、オゴタイ・ハン国や、チャガタイ・ハン
国位では、元王朝の影響で、囲碁や中国シャンチー
が流行っても良いはずである。しかし実際には、
中国暦法の使用は元時代も、内モンゴル自治区の、
トンホワンあたりが西限だったようである。だか
ら逆にウルムチ博物館蔵のイスラムシャトランジ
のゲーム盤を連想させる、”将棋盤”が、元王朝
時代のものと疑われてくる。そしてタクラマカン
砂漠で、中国シャンチー駒が出土したという例は
あるもののたとえば13世紀に、サマルカンドに、
囲碁や中国シャンチーが有ったという話は、今の
所無いようである。
 そこで今回は、表題に示したように、このよう
になぜモンゴル帝国時代に、囲碁や中国シャンチー
は、余り西進しなかったのかのか。その原因を、
論題とする。
 回答から書く。
 元王朝のフビライ自体が、むしろイスラム文化
の吸収に、積極的だったからである。
 では、以下に論じる。
 イルハン国に、中国式星座がモンゴル帝国時代
に普及したと言う証拠は知られていないが、逆に
モンゴル帝国時代に、中国元王朝内に、西洋星座
が伝来したという、明確な証拠がある。
薮内清氏の”中国の天文暦法”平凡社(1969)
の232ページに、”『七政推歩』の星表・・”
という表に、例として8つのイスラム圏から、
イルハン国経由で輸入された、恒星の名称が載っ
ている。対応する中国星名は、その表には示され
ていないが、アラビア語をどう訳したのかは判っ
ている。
 中国訳         現代星名
金牛像内第十四星_おうし座α
陰陽像内第一星__ふたご座α
陰陽像内第二星__ふたご座β
獅子像内第六星__しし座γ
獅子像内第八星__しし座α
双女像内第十四星_おとめ座α
天蠍像内第二星__さそり座δ
天蠍像内第八星__さそり座α

中国式表現法は、プトレマイオスのアルマゲスト
の星座名を、そのまま中国語に直訳し、その後に
アルマゲストに、リストされた順序の通りに、
個々の恒星に番号を付けたのだと、薮内氏は説明
している。
 つまり、モンゴル帝国は、イスラム天文学を
取り入れようとしているが、

中国式の星座を特に、西域に拡大する政策を取っ
ている気配がない

とみられる。中国式の天文道は、モンゴル帝国に
侵略され征服されてしまった、南宋の天文担当者
が、元王朝に取り入る事によって、元王朝の領域
だけで、元の時代には採用されたとみられている
ようだ。なおジンギス・カンが、中央アジアの
サマルカンドで採用した暦法は、判らないらしい。
 従って、囲碁や中国シャンチーが、モンゴル帝
国に取り入れられたとしても、今の所その範囲は、
元王朝域内だけであって、オゴタイ、チャガタイ、
イル、キプチャク各ハン国へは、及ばなかったと、
一応は推定して良さそうである。(2020/04/11)

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福岡県福岡市で”金歩口”木簡が出土か(長さん)

福岡県の福岡市埋蔵文化財センターによると、
たぶん福岡市内だとみられるが、古代に多い
墨書木簡の中に”金歩口”とも読めるものが
有るとの事らしい。なお、無理に読めば”口”
は”銀”のような感じもする。

金歩銀福岡市.gif

 ”木製遺物に書かれた墨字については、肉
眼では字が読みにくいが、赤外線だと字が判
る事がある”という一例として、web上に
表現しているがそれ以上の事は良く判らない。
urlは次の通り。
エイチティティピー:
//www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/dayori03.html
上記は”多彩な考古学”の解説部の画像であ
る。金は金将ではなく”金”一文字だし歩も、
歩兵ではなくて、下の字は兵では、たぶん無
い。後者についても”歩”だけなのでは、画
像からはなんとも言えないのかもしれない。
 何れにしても太宰府市だけでなく、福岡県
は福岡市の、将棋史に関連して未確認な木製
遺物にも、注意が必要なのは当然だと、私は
考える。(2020/04/10)

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中世インドに盤双六史料は多く存在(長さん)

以前本ブログでは、増川宏一氏1995年の、
ものと人間の文化史79-Ⅰ”すごろくⅠ”、
法政大学出版局を参照して、
”盤双六の存在は初期象棋をブロックしない”の
ところで”インドでは、盤双六が余り、流行らな
かったようである。”との旨述べた。だが、
西暦2007以降、そのようには

考えられていない

ことを知った。清水康二氏明治大学学位請求論文
”東アジア盤上遊戯史研究(2016)”の
194ページに、soar氏の西暦2007年の
インドのレリーフ研究が紹介されており、それに
より、インドに中世、盤双六がないとの認識が、
否定されたとの旨が載っている。さらに同文献に
は具体的に、197ページに、史料と成立年が載っ
ている。
 それによると、以下のようになっている。
盤双六を描いた、絵画史料として以下の物が有る。
アジャンタ石窟(西暦460-480年)
ソンドニー寺院(西暦530-540年)
シルプール(西暦650年)
ボロブドゥールの遊戯盤(8世紀末頃)
このうち清水氏によるとボロブドゥールの遊戯盤
が、ほぼ盤双六系遊戯盤とみて間違いないそうだ。

本ブログの先の記載内容は前世紀の間違った認識

だったようだ。
 なお、清水氏は、冒頭で紹介した論文で、中国
への盤双六の伝来経路について考察しており、
増川宏一氏による、→インド→東南アジア→日本
ルートを否定しているようである。そして清水氏
は、シルクロードによる、→西域→中国→
朝鮮半島→日本を、支持しているようである。
 中国では、古文書から盤双六は自国発生の論も
強いが。大阪電気通信大学総合情報学部デジタル
ゲーム学科の木子香氏の、西暦2019の論文の、
web上のPDFファイル
”中国における盤双六研究の現状について”、
によれば、インドよりの伝来論とイスラム世界か
らの伝来論が、外部起源論の中で拮抗状態との事
である。

インドでも盤双六は行われていたので、インド→
中国ルートを、否定する根拠も特に無い

という事なのであろう。盤双六の伝来経路は、
起点がヨーロッパのタブラだとしても、謎に包ま
れて、そのままのようである。(2020/04/09)

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2020/5/5都内小山氏の乱講演会緊急事態(長さん)

以前に本ブログで2020年5月5日
目黒区緑ヶ丘にて、
「小山義政の乱と小山若犬丸の乱―
『鎌倉大草紙』を読みなおす」という講演会
の”第1弾”が”南北朝時代を楽しむ会”の主催で
有るとの報告をした。しかし西暦2020年春より
蔓延した、新型コロナウィルス性肺炎の影響で、
西暦2020年4月8日より同5月6日まで、
東京都等に緊急事態宣言が出た。そうした流れの中
で、人間の集団の会合を、特に抑制しようという
事態になった模様である。
 南北朝時代を楽しむ会によると”西暦2020年
のこどもの日は、中世史研究家の呉座勇一氏による
『小山義政の乱・小山若犬丸の乱講座』を”との旨
宣伝していた。そのため本ブログでも、呉座勇一氏
のさいきんの研究成果に特に期待し、栃木県小山市
神鳥谷曲輪遺跡、西暦2007年発掘の、
裏一文字金(または2文字で、”金也”)角行駒
との関連に関して、この講演会には注視していた。
 しかしながら、緊急事態宣言の経緯を見ると過去、
行政が中止を要請しても、挙行された大き目の
イベントを抑止する事に、特に力点があるとみら。
その為、表題の、南北朝時代を楽しむ会のイベント
は、強行すれば行政ストップが、それなりに掛かる
パターンの一つだと懸念される。しかも、

4月8日から始まり、不運だったが予定の日より
少し後まで続く、緊急事態日の期間内と開催場所

だったようである。恐らく日を替えるか、宣言に
含まれない地域である、栃木県小山市等に、講演会
の場所を替えるか等しか、マスコミ報道を見る限り
は、開催は難しいように私見される。よって、とり
あえずは、

参加予定されていた方は、緊急事態宣言が東京都
に関して、国から施行強制された時点で、適宜、
南北朝時代を楽しむ会に、問い合わせされると
よろしいかと

思う。たまたま、このページは見ずに、本ブログの
開催の記事だけ見て、当日行こうとして、中止等を
知った方が万が一出たとしたら、たいへん申し訳
なかったと、予めお詫びしておきたい。(2020/04/08)

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ウイグル自治区ウルムチにシャトランジ盤?(長さん)

将棋の来た道メコン社1986年の85ページ
に、本文中に全く説明の無い、遊戯盤の写真が
掲載されている。今回は、サマルカンド駒に関
連する、イスラムシャトランジ型ゲーム盤だろ
うと述べる。
 史料が保管されている場所は、大内延介氏が
旅行で訪れた際に、撮影したとみられるもので、
”ウルムチ博物館の唐代の象棋盤”と大内氏は、
将棋の来た道で紹介している。

現在の中華人民共和国領土内で升目置き象棋盤
とされるもののうちの、唯一の史料例

だとみられる。”唐代だ”という以前に、碁盤
でも中国シャンチー盤でも無いと、

一目で判るメッシュ盤としては、ほぼ唯一

なのではないかと、私は認識している。

ウルムチシャトランジ.gif

 大内氏が、展示品を撮影した以上に、詳しく
調べなかったと、私には疑われる理由は謎だが、

どうみても、写実的なシャトランジ駒を置いて、
イスラムシャトランジを指す為の象棋ゲーム盤

のようにしか、私には見えない事は確かである。
なお、大内氏が成立年代を”唐代”と紹介して
いるのは、展示品に、その旨の札が付いていた
為のようである。もし本当に唐代の物とすれば、
西突厥国や唐王朝領域内の時代頃であり、そこ
では、中国暦法や中国星座は余り重んじられず、
シャトランジ系のゲームが指されたとしか考え
にくい。中国暦を使っていた場所なのではない
かと推定して、日本の将棋の伝来元候補からは、
圏外と、私は想定していたので、

本ブログとの整合性は、余り良くない史料だ。
つまり、大理国には将棋の直接的史料は無いが、
ウイグル自治区にむしろ、それが有る

という意味である。
 何れにしても、ウイグル自治区は中華人民共
和国の領土であるから、

中華人民共和国に、シャトランジ系のゲームが
唐王朝時代に無かったと言い切るには、たいへ
ん苦しくなるという意味でも重大な遺物

だ。つまりウルムチにあるのに、長安にはシャ
トランジが唐代に無いと言い切るのも、相当に
困難であるし、囲碁を打つ姫様の近所で、シャ
トランジも指していたという点でサマルカンド
駒よりも、ウルムチに置いてある”将棋盤”は、
更に重大な問題を孕んだ物品である事は確かだ。
(2020/04/07)

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メトロポリタン美術館東洋人遊戯図シャンチーか(長さん)

増川宏一氏の著書、ものと人間の文化史23-1
将棋Ⅰ(1977)の77ページに、絵だけ載っ
ていて、成立年等の情報が特に無い史料として、”
メトロポリタン美術館蔵のシルクロードにおける
将棋遊戯の図”がある。今回は、この絵がどこの
何時の遊戯を指し、将棋かどうかと将棋種を問題
にする。回答から書く。
舞台はカラコルムのモンゴル帝国を現しているよ
うでもあり、13世紀頃のものであり、はっきり
しないが、イスラムシャトランジのようでもある
し、交点置きで、序盤に自駒同士が連関している
中国シャンチーのようでもあり、ゲーム種はよく
判らない。
 では論を続ける。
 絵は、メトロポリタン美術館にあるという、
増川宏一氏からの1977年成書以外、私の所に
は正確な情報が無い。
 ターバンを巻いた男が白側、モンゴル帝国の兵
士のような人物に見える男が黒側を持って、確か
に盤上遊戯で、勝負を付けようとしている絵であ
る。審判のような位置に、私には王に見える人物
が、ゆったりとした椅子に座っている。見物人が
少なくとも10人居る。見物人はモンゴロイドで
あり、私にはモンゴル帝国に属する、王侯貴族の
ように見える。
 盤は、この絵ではデフォルメされて、真上から
見下ろした感じに描かれている。
 8段8行ないし、それより少し升目または路が
多いようだが、詳細は増川氏の成書上では良く判
らない。駒は升目置きしているのかもしれないが、
真ん中に、やや大きな駒が先後手共にあるようで
あり、正確に書いているように、私にはとても思
えない。一応”雰囲気としては”9筋ある、

中国シャンチー

の可能性を、否定できないようにも見える。
 冒頭でも書いたが、黒側の駒と白側の駒が分か
れて分布しており、その点では西洋チェスのよう
だが、駒の置かれ方の雰囲気は、中国シャンチー
の序盤の感じもする。2段目に黒の駒があり、や
や不自然だが。
 絵が何を言いたいのか、私には正確には判らな
いが。ひょっとすると、黒い髭を生やして、ター
バンを巻いた、イスラム教徒を連想させる男も、

モンゴル帝国時代には、中国人といっしょに、
自国のイスラムシャトランジまたは、中国シャン
チーか、何らかの象棋ゲームをした

という意味なのかもしれない。
 中国シャンチーは、モンゴルやチベットで現在
指されていないが。このメトロポリタン美術館の
絵が正しいとすると、

モンゴル帝国の首都の、カラコルムの宮廷等では
指されていたし、そばに居たイスラム教徒も一時
期にだが、指していた疑いがある

という意味なのかもしれないと、今の所一応、疑
う事にした。言い訳になるが、増川氏の成書の本
文とは、つながりが良く判らなかったので、今ま
で私は気がつかなかった。将棋Ⅰの77ページの
図は成立が8世紀ではなくて、13世紀の絵と見
ると、むしろ、価値が高い事が判る。
 なおwikipediaのシャトランジの項目
の”14世紀のペルシャのシャトランジ画”と、
増川氏の成書の図の絵は、たぶんだが同じもので
はないか。だとすると、モンゴル帝国の一ハン国
である、イルハン国衰退混乱期の、どこかの諸侯
の城で指される、イスラムシャトランジの絵だと
いう事になろう。(2020/04/06)

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2020年時点での後期大将棋の現状推定(長さん)

本ブログの論では、現行の大将棋、すなわち
後期大将棋の極めて薄い痕跡は、ほぼ明治時代
に成立し、成りに関して悪狼、嗔猪、猫刃、
飛龍、猛牛、桂馬が金将成りである事を、主な
特徴とした、中将棋ルールの援用タイプという
事であった。今回は半ば、余興で作ったとみら
れる、web上ユーチューブ動画(マニア向け)
の大将棋の紹介を素材にして、本ブログの論を
検証してみる。回答から書く。

最も人気が有るのは、wikipediaで、
web上で普及度の高い、世界の将棋ルールの
後期大将棋である事が判る。

では論を開始する。web上ユーチューブ動画
には、事実上指される事のない、現代の大将棋
を、遊び半分で、あたかも存在するかのように
論じた動画が、今では若干存在する。

どのように指すルールなのかは、動画の中では
明解に示していない例も存在する。以下の画像
は、そのようなものの一例であり、

詰め後期大将棋が提示されている。

ここから、この詰め将棋が成立するとして、
詰め将棋になるようにするには、細則に関して
どのようなルールで指す、後期大将棋なのかを、
類推してみる。

詰め大将棋21手詰.gif

上の画像の例では、以下のような21手詰めな
のではないかと、私には疑われる。
▲10三飛車(龍王に)成、△9一玉将
▲8ニ鉄将△同8二玉将▲9三龍王△8一玉将
▲7一と金△同7一玉将▲9一龍王△7二玉将
▲9二龍王△7一王将▲6一猫刃(金将に)成
△同6一玉将▲8一龍王△5二玉将▲7二龍王
△5一玉将▲7一龍王△5二玉将▲6二龍王迄
21手詰み。
 以上の事から、飛車が、龍王に成るルールで
ある。猫刃が金将に成るルールである。成りは、
相手陣に入ったとき以外については、相手陣で
相手駒を取ったときにだけ成る、中将棋型であ
る。悪狼が将棋纂図部類抄や、wikipe-
diaや、世界の将棋ルールの、いわゆる
平安大将棋の鉄将型の悪狼である。以上の事が
明らかである。従って、net上の後期大将棋
は、情報入手が容易な、wikipediaの
大将棋の項目から取ったと疑われ、かつ、成り
に関して悪狼、嗔猪、猫刃、飛龍、猛牛、桂馬
が金将成りである事を、主な特徴とした中将棋
ルールの援用タイプであると、推定できる。
 以上が、現実として”今に残る後期大将棋”
であると見なせる可能性が、最も高そうである。
(2020/04/05)

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東アジア盤上遊戯史研究に河界無し駄馬賦象棋盤(長さん)

今回は、表題の”駄馬賦象棋盤”については、
清水康二氏著作の”東アジア盤上遊戯史研究”
(明治大学学位請求論文、2017年)の94
ページに図が示されているが、web上での、
片側駒20枚制打馬の説明および、前記論文の
本文中での説明と違い、

河界の存在が確定的でない

との内容の紹介をする。恐らくだが、清水康二氏
への中国からの情報に、不確定性の存在が疑わ
れる。
 日本の将棋伝来中国説でかつ、比較的清水氏が、
中国シャンチーの完全成立期に関して、早めに見
る傾向がある事から来る、

彼の論が中国伝来派で、たまたまあるための、無意
識の偏りが多少懸念されると私見する。すなわち、
西暦1134~1136年時点で、11段シャン
チーが残存して、ルール不統一だった疑いもある。

では、以下に論を開始する。
 今の所、問題の”駄馬賦象棋盤”については、
前記の清水氏の論文の94ページに図でしか、
私には確認されていない。今後この図が、別写書
等として存在し無いのかどうか、情報を更に詳し
く調べてみる必要があると、以下の理由で私は見
る。ともあれ清水氏は、以下のように冒頭で示し
た、彼の論文の本文中では紹介している。
(以下引用)
『事林広記』(13世紀中頃)に所載の「打馬図
経序」(1134年)に附属する河界を持つ可能
性がある象棋盤の図がある。
ので、この図が『事林広記』成立時点に遡るもの
であり、李清照の「打馬図経序」が記された時の
ものであれば、南宋初頭頃には河界の存在を確認
できるかもしれない(陳元装 1999)。
(以上引用。陳元装の”装”は仮に当てた。)
以上に述べた後、清水氏は、朝鮮チャンギと中国
シャンチーの河界の有無について論じている。
 ところで、論文に載せられた図だが、

河界は無いように、私には見える。

以下の点は本ブログで前に述べたが、web上で
記載されているゲーム、片側駒20枚制打馬の説
明、”ゲーム盤に背景画として、中国シャンチー
の盤を描く事と、河が打馬の盤の升の一部として
使用される事に特徴が有る”とも一致していない。
清水氏の論文の図を見る限り、ゲーム盤は、象棋
盤を使うようであり、ゲーム説明の雰囲気を出す
為に、役や打馬のルールを、描いたゲーム盤の周
辺や、盤の一部の中に、ちりばめてあるような、
ゲームポスター図が”「打馬図経序」(1134年)
に附属する河界を持つ可能性がある象棋盤の図”
のようである。そして、

河界があるように見えるのは、説明部分の挿入部
が、盤中央に、たまたま有るためだけ

のように、図から私は疑う。その証拠に、河界部
分に半分だけだが、第2線が書かれている。また、
webの説明とちがって、ルールの文言が、河界
だけではなくて、第3段目にもあり、そこの部分
は、両側の列線が消えている。つまり、

文字を入れたいので、盤線を消しただけ

のように、私には、この図からは見える。つまり、
幾つかの成書、清水氏の説明、webの説明とも

図の内容が、説明と完全には整合していない。

なお成書、清水氏の説明、webの説明の3者間
では、余り矛盾する情報は無いように、私には見
える。
 だから、清水氏が論文中で図として載せている
中国側から提供されている、”『事林広記』
(13世紀中頃)に所載の「打馬図経序」
(1134年)に附属する河界を持つ可能性があ
る象棋盤の図”は、

情報が不自然

なように、私には見える。よって更に、別の書写
バージョンの情報等を、探すべきだろうと現時点
で私には考えられた。
 更に、清水康二氏紹介の”河界を持つ可能性が
ある象棋盤の図”には、河界が無いだけでなく、

現行の中国シャンチーに比べて、段線が1段多い

という問題もありそうだ。現在の河界にあたる部
分の中央に、もう1線入っているのではないかと
疑えるような図が、実際には書いてあるように、
私には見えるからである。こっちの方が問題が大
きいと私は考える。すなわちもし、この図が本
当だとすると、

西暦1134年時点で、中国シャンチーが統一
ルールになっていない、可能性さえ有りそう

だ。清水氏は、冒頭紹介論文の127ページでは、
北宋末等に、11段シャンチーが有ったとの説明
は、特にしていない。しかしながら、河が無いだ
けでなく、段が、北宋末象棋で不安定だったとし
たら、彼の伝来論にも、影響が出るだろう。なぜ
なら、東南アジア将棋伝来説の増川宏一氏は、

日本の小将棋の、中国シャンチーの成立時期に対
する早さを、中国伝来説への攻撃材料にしている

からである。従って中国側文献から提供された、
”「打馬図経序」に附属する象棋盤の図”に不明
確な点が有ると言うのは、今述べた点で更に問題
だと、私は思う。
 清水氏の論文を読むと、玄怪録の”岑順”も、
中国の近年著作の引用だと、出だしの駒の動きを
記載した直後に、唐代伝奇集の、前野直彬訳では、
”こうして鼓の音は次第にせわしくなり、両軍と
も兵力を繰り出して、矢玉飛び交う激戦となった”
となっていたが。”両軍は鼓の音に合わせて交互
に着手を繰り返し、砲矢石が飛び交う戦闘になっ
た”等と、

中国シャンチーに宝応将棋が、接続するとの説に
とって、少し有利なように、作り変えられている
疑いもあると、前にも本ブログでは述べたが問題
がある。

 よって、今述べた点から考えても、中国の近年
執筆の遊戯史書は、注意しなければならないし、
「打馬図経序」に附属する象棋盤の図に関する、
たまたま清水康二氏が引用した、中国近年の
解説書の中にあるという事かもしれない情報には、
妙な点があるのかも知れない。
だから、更に調査が必要なように、私には疑われ
た。以上が結論である。(2020/04/04)

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アンコールトムの遊戯図のゲーム種は不明(長さん)

日本将棋の東南アジア起源説で、よく引き合い
に出される史料として、アンコール=トムの
遊戯図のレリーフがある。今回は、カンボジア
の遺跡のレリーフの遊戯図について、表現され
たゲーム系統を特定できるかどうかを議論する。
結論としては、

囲碁とも将棋(象棋)とも競争ゲームとも、
見ようと思えば見れるものが、3枚揃っており
断定して判定は困難とみられる

との見解を示す。
 史料は複数の成書、web上に載っているが、
清水康二氏の、明治大学学位請求論文”東アジ
ア盤上遊戯史研究”(2017)web上の、
PDF版には、3つ揃って載っていて、これが
最もよく判る。
 アンコール=トムの”ぼた餅状”の駒が3個
程度盤上に載っている”カンボジア古代将棋図”
が最も有名だが。私は清水氏の前記論文を見る
まで知らなかったが、他に、

アンコール=トムのレリーフにもう一枚と、
アンコール=ワットのレリーフに、盤上遊戯図
だと疑われるものが、もう一枚有る

ようだ。さっそく、大事な視点から述べる。
 すなわち”ぼた餅状駒”のアンコール=トム
レリーフのゲーマーは4人のようでもあり、
サイコロは記載が無いものの、競争ゲーム。
 他のアンコール=トムのレリーフのゲーマー
は2人で、盤に対して囲碁盤より接近して座っ
ているので、むしろこの、余り有名でないレリー
フである、別のアンコール=トム
”盤上遊戯レリーフ”の方が、将棋(中国シャ
ンチーが、伝わって、シットゥインが、交点置
きに、変化していたのかもしれない)を、指し
ているかもしれないように見える。ただし、遊
戯駒はかなり、小さく描かれているようであり、
盤升目は無理やり数えて見ると、一辺10升目
(11路)前後のような”感じ”もしている。
 それに対して。
アンコール=ワットのレリーフは、隠れている
のか、もともと遊戯図では無いのか、よくわか
らないが。人物は一人であり、この図から
ゲーム系統種を推定するのは、困難に見える。
 描かれている人物の顔が四角く、囲碁打ちの
貴族というイメージも、日本人の私にはする。
よって、以上の事から事実認識としては、

一般にカンボジアの古代将棋かとみられている
有名なレリーフは、4人制サイコロ競争ゲーム
かもしれず、

少なくとも直接指しているとみられる、2人の
人物の、背中にいる

残りの2人の人物の正体が謎

である。
 これらのレリーフが仮に12世紀末頃のもの
とすれば、カンボジアでは、囲碁もシャンチー
も、四人制サイコロゲームも、ようするに、全
部知られていたという、それだけの事なのかも
しれない。以上のように、アンコール遺跡の
レリーフについては、その

史料としての重さに関して、遊戯史界の多数派
意見の正しさに関して、個人的な疑いを多少抱
かざるを得ない状況。

以上のように、私には感じられる。(2020/04/03)

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日本の将棋”雲南省伝来説”は大内延介起点か(長さん)

西暦1986年出版された、大内延介氏の
将棋史書、”将棋の来た道”の中国篇に、
雲南省と日本の将棋の関係を示唆している
一節が載っている。今回は、この記載は、

大内延介氏が日本の将棋、11世紀雲南省
よりの伝来説の”祖”と言えるのかどうか

を検証する。なお、本ブログでは、少なく
とも、

大内延介氏が、日本の将棋が雲南省に関連
するという点にも言及はした、恐らく最初

と認識はする。回答から書く。

たまたま将棋の来た道”中国篇”では、
中国国内の地域の名称を、著書の中に取り
入れただけに、近い状態であり、雲南伝来
説の祖というには、余りに主張が曖昧だ

と本ブログでは考える。では論を開始する。
西暦1986年出版された、大内延介氏の
将棋史書、”将棋の来た道”には、いわゆ
る、照葉樹林文化論と、インド南部言語の
海のシルクロード伝播、日本漂着説を取る
と、webの複数情報からみて取れる、
元学習院大学の大野晋氏の、日本語起源説
を、組合せて述べている。
(引用)
もう一つ、”雲南省と日本語”の関係を
研究されている学習院大学の大野晋教授は、
雲南省と日本の文化の共通性を主張して
おられる。多民族間で戦闘を繰り返した西
域とは違い、雲南省は農耕民族、稲作民で
あり、ここの文化は日本にも多大な影響を
及ぼしているのである。将棋も何か関係は
ないか。
(以上)
ここで、インドから日本への日本語の伝来
は、海のシルクロード(マレー半島経由)
であり、さらにマレーシア→フィリピン→
台湾→沖縄→日本と大野晋氏仮定している
とみられる。それに対して、インドから、
バガン→ピュー→雲南→揚子江→寧波
→紅海→日本と続く照葉樹林文化地帯の分
布の事実とが、大内氏の記載ではごちゃ混
ぜで、将棋の伝来に援用しようとした時に、
具体的に伝来する直前の、元将棋繁栄地点
を特定不能である。大野晋氏流では、一般
に南インドで照葉樹林文化は発生して、
バガン→ピュー→雲南→揚子江→寧波→
紅海→日本と伝来するという事も、有り得
ると見ているのかもしれないが、日本語と
いう個別項目については、インド(海を渡っ
て)→マレーシア→フィリピン→台湾→
沖縄→日本と見ているようである。つまり、
結果として稲作等については、雲南もかぶっ
た同じ文化圏が、広がったと主張しただけ
であって、言語伝来に関しては揚子江流域
と日本とで共通性が有るとは述べていない。
だから、インドから日本に来る途中に、
特定文物が

雲南を通ったとも別経路だとも、明確に判
定できる記載を大野説は特に示していない。

従って、大野晋氏の雲南と日本語との関係
を引いても、インドから日本に、文物が来
るとしたときに、雲南経由なのか、マレー
シア経由なのか。はたまた将棋具を所持し
た北宋商人は、ベトナムを通るのか揚子江
を下るのか、詳しい点について判然とはし
ない。よって、大野晋氏の日本語伝来経路
論を、著書”将棋の来た道”の中で引いて、
雲南省と日本の将棋との関係を確かに大内
氏は示唆はしている。が、将棋に関しては、
むしろ雲南からバガンに戻って、
マレーシア→フィリピン→台湾→沖縄→
日本の経路を主張しているだけなのかもし
れない。だからこのケースは、マレーシア
(シュリーヴィジャヤ国)が日本へ、将棋
が伝来する直前に、元将棋が普及していた
地域という意味に、大内氏の主張は、この
一節だけからは取れるようにも思える。
よって大野晋氏の論にに同意したという、
ただそれだけで、

大内氏が、日本の将棋が中国の雲南省から
来た可能性を、はっきりと主張したとは、
結論しにくい。

 ひょっとすると実際に、タイだけでなく、
雲南も伝来元の候補かもしれないと、大内
延介氏は生前考えていたのかもしれないが。

それを明確に証拠立てる成書が、今の所見
当たらないのも事実。

以上のような状況ではないのかと、私は現
時点では推定するのである。(2020/04/02)

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