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知恵将棋(知慧将棋)は将棋Ⅰでも紹介(長さん)

以前に、立体駒を特注で作った中将棋では
ないかと述べた表題の知恵将棋であるが、
山本亨介氏(たぶん)だけでなく、西暦
1977年の段階で、増川宏一氏が、
ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰ、
法政大学出版局で、言及している。Ⅴ.
将棋のルール、7.将棋の他の遊び方の所
であり、古事類苑のパターンで、更に細か
く副題が並んでいる。該当するページは、
私の持つ初版第5刷では、204ページの
終わりから2行目、副題は、具体的には
”その他の遊び”となっている。山本氏の
記載は、文献が私には思い出せず、今の所
確認できない。後で述べた将棋Ⅰに関して
は、内容は、中身の紹介がまったく無く

名前だけであり、知恵将棋が存在する事し
か判らない。

なお増川宏一著、将棋Ⅰ以外では、小学館
の日本国語大辞典に、”知恵将棋”の項目
が有る。が、古事類苑の内容を、現代語に
直して、要約して書いてあるだけである。
よって”知恵将棋”について論じた文献は、
私の知る限りは、やはり存在を指摘した以
上のものは、従来無かったと認識して良い
ように、今の所思う。(2020/10/11)

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藤原行成1020年将棋駒成金草書と太宰府に不指導(長さん)

以前「新潮日本古典集成」の大鏡、161ページ
の藤原行成伝説を紹介したときに、南北朝時代に
麒麟抄の著者偽藤原行成は、この記載をヒントに、
銀将から歩兵までの成りの金将を、極崩した草書
で書くように、行成が指示したような話をでっち
上げたと指摘した。動機は、麒麟抄と大鏡の記載
は将棋駒と献上扇とでは違うが、話を整合させて、
(A)「麒麟抄が、さもさも藤原行成著作である
かのような雰囲気を醸し出すため、将棋駒の裏側
の字は、草書で書くと、藤原行成が麒麟抄を著作
して主張しているかのように、表現する」という
姑息な細工をしているというのが、本ブログの解
釈であった。
 その後行成が、太宰府権帥を藤原隆家と西暦1
020年前後に交代して着任しているため、(B)
「将棋駒書き字の指導は、(場所は九州ではなく
て、京都の世尊寺であっても)史実のようである」
と、本ブログではみなした。更に、麒麟抄の本当
の著作者の生きていた南北朝時代に、将棋伝来の
経緯が判っていただけでなく(C)「太宰府権帥
(1020時点)の立場として藤原行成が部下に、
武芸を上達させる観点で、作戦を練る技術を学ば
せるために将棋を指せるよう、

太宰府・博多の駒師に将棋駒の字書きの指導をし
て、最初期の日本の将棋の普及に手を貸したとの
事実が、伝説として南北朝時代までは幾分か残っ
ていた」ようだ

と考えるようになった。なお先任者の、将棋導入
責任者と疑われる藤原隆家自身が、将棋を指した
ように見える事は、彼の嫡男が長者の藤原道長に、
玉将を連想させる玉帯を、自身の元服の儀の返礼
品として西暦1018年に贈っているという、
御堂関白記の記事から、更に疑うようになった。
 では、藤原行成は、自身が将棋駒師に、将棋の
駒字の書き方を指導するような事が有ったとして、

(D)「麒麟抄の言うように、成りを極崩した金
と書くように指導した可能性がある」のかどうか

を今回は、論題とする。回答から書く。

(D)に関してNo.、すなわち”ほぼ無い”

と考えられる。
 では論を続ける。
 根拠は乏しいが、例えば出土駒について、鎌倉
時代の駒、神奈川県鎌倉市雪ノ下の成り一文字金
桂馬の、金が、幾分崩してあるものの、草書とま
では行かない点などが挙げられる。
 むろん、鎌倉時代の将棋駒の例えば桂馬の中に
は、今の崩し金も、秋田県の手取清水遺跡駒のよ
うに、有るのではあるが、

ばらばらである。

だから、鎌倉時代には、特に成り金が統一されて
いたという形跡が無い。

誰かが、試行錯誤でやってみて、便利なので、
南北朝時代までには普及してきた

と、見るべきなのではないかと私は疑う。
 そもそも、麒麟抄が出た後でも、それが完全に
徹底されたかというと、室町時代の出土駒も、
石名田木舟駒のように、そうなっていない。
ただし、鎌倉時代末には、新安沖沈没船出土駒の
銀~歩の裏の金は、と金状に崩してある。また、
鶴岡八幡宮境内出土の歩兵に、成りが”と金”の
ものがある。だから麒麟抄の出版の影響が、一時
的に有った疑いは残る。
 何れにしても。藤原行成がその一人ではないか
と、本ブログでは疑っている初期の日本の将棋の
書き駒の指導者は、(D)’「金将の将の字を略
して書いて、元駒の金将と区別する事位は教えた」
としても、今回参照した文献「新潮日本古典集成」
大鏡、校注者・石川徹。発行・新潮社(2017)
の161ページの記載に韻を踏ませて、藤原

行成の一条天皇宛献上扇のように(D)「将棋駒
裏面を、草書ですばらしく書くように、実際に指
導した」とは考えにくい

のではないか。よって(A)「麒麟抄の将棋駒成
り金は極崩した草書」の旨の記載は、後の研究者
に、麒麟抄が11世紀成立であるかのように、間
違って認識させようという意図が、ホントの著作
者である偽藤原行成に有って、該書にそう表現さ
れているのに、過ぎないのではないか。
 以上のように、やはり私は現時点で、疑うので
ある。(2020/10/10)

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天明期成立芸術要覧の”知恵将棋”の正体(長さん)

古事類苑30遊戯部将棋の所にだけ記載され、
他に情報の乏しい将棋類に、江戸後期の天明期
に成立したとされる、芸術要覧記載の知恵将棋
がある。今回は、この将棋が何なのかを、ずば
り論題にする。回答から書く。

立体駒を工夫して作成した中将棋

だと本ブログでは今の所考える。では、議論を
開始する。
 この将棋種に関する議論は、多分だが、
山本亨介氏等、著名な将棋史家の誰かが言及し
ていたと考える。この将棋種の正体について、
即断していた者が居たという記憶が私には無い。
個人的に、

江戸後期の正体不明の将棋

と以前から私は考えていた。
ともあれ芸術要覧を更に要約すると、”

立体駒で10種類以上の違う形の物の有る将棋

という事である。京都の東寺の付近で、老人2
名が指しているのを、江戸時代後期に見かけた”
となっている。形態は比較的幾何学的に単純な
ものが多いが、角数の多い正多角形の変形の
ような形の物が有るようである。駒の動かし方
ルールは、東南アジアや西洋チェス同様、形で
区別され、駒名は駒には書かれていない。
幾何学形から有る程度類推できるようなルール
のようである。以上の情報から、知恵将棋とは
何者なのかを、判断する必要がある。
 ルールや盤の仔細が書いてないので、

確定は困難

だ。しかし、老人が新しいタイプのゲームをい
ち早く取り入れるというのは、別の時代である
にしても不自然であるし、

識字が出来なくても、中将棋を指そうとしてい
るという解釈が、最も自然

なように、私見される。つまり文面からゲーム
名を、老人から聞き取ったように読み取れるが、
中将棋を、知恵将棋と聞き間違えたと考えると
一応納得出来る。
 著作者は日本将棋を単に将棋と表現している
ようで詳しくないようあり、つまり江戸時代の
京都の者の見聞のようではあるが、見聞者が、
中将棋というゲームを確実に知っているように
は、私には芸術要覧の当該箇所からは読み取れ
ないという事実がある。
 恐らくだが、天明期には禁書が緩んでいるの
で、東南アジアに立体駒のゲームが有る事が、
中国書籍等に書かれていて、ゲーマーは知って
いた。そこで誰かに立体駒で中将棋を試作させ
たものを、デモンストレーションで、京都の東
寺付近で指しているのでは無いだろうかと疑う。
 目的は、庶民に中将棋が出来るように、字が
読めなくても指せるように、立体駒にしたとい
う普及目的が、一番尤もらしい。
 形の種類がたくさんあるのは言うまでも無く、
中将棋の駒種が多いためであり、成ると成り用
の駒と交換するといった、工夫が芸術要覧の文
面には無いが、更に施されていたのかもしれな
い。また、中将棋は取捨てだから、

江戸後期なら何らかの方法で色分けされていた

のであろう。
 無論以上の推定は、情報源の情報内容がはっ
きりしないため、確定出来ない。他の記録が出
てこないと、これ以上の解明は、なんとも進ま
ない、もどかしい話だと私は思う。(2020/10/09)

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厩図の将棋は、どのようなルールだったか(長さん)

西暦1500年頃に狩野元信が描いたと伝わる、
国立博物館の「厩図」の将棋部分には、3人の
人物が絵かがれている。そして左側の僧侶が、
ゲームで勝ち名乗りをあげているような構図で
ある。右側の烏帽子の人物は、負けましたとい
う表情。残りのもう一名は、敗者の配偶者で、
”楽しそうですね”と笑顔で旦那を見ているよ
うな、ほのぼのとした構図である。増川宏一氏
は、僧侶の手に将棋駒が書かれていると、前に、
持ち駒ルールの成立年代に関連して述べている。
本ブログでは、この

僧侶の手の平の、将棋駒状の四角の中に”金”
のようにも見える文字か、筋の有るように見え
る模様の有る物品について、言及しなかった。

今回は、本ブログでも

増川氏の見立てが正しそうに見えてきたので、
駒の有るのは認める

として、ここから

将棋のゲーム種が割り出せないのか

を論題とする。回答から書く。

僧侶は”拙僧のもとには、まだ歩兵が一枚ござ
いまする”との旨を述べており、日本将棋で、
二歩の規定が、今のより緩いバージョンではな
いか

と疑われる。では、論を続ける。
 増川氏も指摘していたかもしれないが、左側
の僧侶は、左手の掌の上に、将棋の駒を持って
いるだけでなく、

右手の人差し指を一本立てている。

だから、私は、左側の僧侶は持っている将棋駒
について、

1枚は、特定の駒種だと主張している

のだと考える。なお、左僧侶の左手の平の駒の
枚数は、私には良く判らない。
 またこの絵では、盤上の駒が、すべてデフォ
ルメされていて、描かれていない。
 ところで、この当時の小将棋には、日本将棋、
駒のハンデの有る日本将棋や平安小将棋(持駒
有りタイプ)、平安小将棋(持駒有りタイプ)
が並存していて、転移期だったと本ブログでは
見る。このうち、平安小将棋(持ち駒有りタイ
プ)は、駒の個性差が少なく”特定の駒種の持
駒が、一枚有る”事を自慢する可能性は少ない
のではないかと、一応疑っている。
 だから、西暦1500年前後の厩図の将棋に
は飛車と角行があり、日本将棋を描いたように
見える。
 次に問題は、僧侶の手に持っている駒種で
あるが、手で握ると、持ち駒が何かが、わかり
にくい駒であろうから、

歩兵ではないか

と疑う。元々18枚有るから、持ち駒として1
枚を強調するとしたら、歩兵を手に持っている
事をジェスチュアで示している疑いが濃い。
しかし、

現在の日本将棋では、二歩禁のルールが完全

な形になっているから、と金の分を考慮しなが
ら、盤上の各筋の残歩兵の様子を見て行くと、
現実として

相手の隠し持つ歩兵は、数の見等が付きやすい。

 よって、僧侶が持ち駒歩兵一である事を強調
するところを見ると、

所々の筋が、2歩になっていて、相手の持ち駒
の歩兵の数が把握しにくい、原始的な日本将棋

を指しているような気が、私にはしてならない。
 なお恐らく右側の烏帽子の相手棋士は、玉が
追い詰められていて、その歩兵で必死になると
いう局面と、ここでは推定している。
 また前に本ブログでは本因坊算砂と大橋宗桂
初代の棋譜を議論した時に、1570年前後に、
二歩禁のルールが、やや緩い日本将棋の存在が
あるのではないかと、示唆している。
 相当に曖昧だが。ひょっとすると厩図の将棋
は、そうした初期の日本将棋のバージョンの
存在を、淡く示唆しているのかもしれないと、
私は疑う。持ち駒を日本将棋で隠匿しなくなっ
た時代つまり近代には、隠匿されても持ち駒が
推測できる整備されたルールに、とっくに進化
した後だったのかもしれないと、言う事だと私
は思う。(2020/10/08)

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日本風土記の日本の将棋駒は先が丸い(長さん)

安土桃山時代に、日本将棋に関する情報を、
交易等から得て作成したとみられる、明代
日本風土記の将棋の記載は、日本の将棋に関
する情報が、中国シャンチーが、日本で普及
する江戸時代早期よりも少し早く、
安土桃山時代程度の情報に基づくものと見ら
れる。そこには日本将棋のルールが、今と
変わらず記載される他、末広がり五角形型の、
江戸時代以降の将棋駒に近いものを想定させ
る、将棋駒の形に関する記載がある。今回は、
後者を問題にするが、

表題のように実際の江戸時代将棋駒と、少し
形が異なって記載されている

点を論題とする。結論を書くと、

見間違いの可能性も高いが、名札の類を流用
したとの情報が、中国には、それ以前に有る
から、なのかもしれないとも考えられる。

では、議論を開始する。
 日本風土記の問題の記載は、古事類苑30、
遊戯部、将棋の”棋子”の項に記載されてい
る。大体の私の意訳であるが、問題の箇所は、
以下の副題が付いており、次に述べる意味の
事が書いてある。
日本風土記(中国明代。収録”古事類苑”)
将棋駒の作成方法
将棋駒の形は、上を丸くかつ尖がらせ、下を
角型にする。それは上が円形の天であり、下
が方形の地である事を現している。また、
上を薄く、下を厚めに作り、天は清らか、
地は濁りの形になっている。(以下略)
 以上のようになっており、

正確には五角形であるとか、五行に関係ある
とかは、明代の中国では、理解されていない。

 何れにしても、将棋駒型は、

五角形とは理解されず、

名札に字を書いたようなものと、認識してい
るようにも、読めるような気がする。
概ね、情報エラーとみられるが。

中国では、日本の将棋が名札に字を書いたも
のが起源

という記憶が、存在したのかもしれないと私
は思う。残念ながら、”尖がらせて丸い”が、
”{”の時計回り90°回転の事のようだが、
正確とも言えないので、よく判らないのだが。
将棋駒の元が経帙の牌(札)との増川宏一説
とも、合う感じが私にはするので。一応注意
はしたい記載と考える。(2020/10/07)

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なぜ1672年成立摩訶大将棊の図は京都条坊準拠(長さん)

今回は、以前に述べた西暦1672年成立の
”摩訶大将棊の図”に関して述べる。
以前述べたが、この図で盤線が19×17段路
に対応する、19×17段升目の、升目置き将
棋と表現されているのは、京都条坊が根拠との
見方を、本ブログも取る。以下は、

京都条坊を模した盤升目の駒数多数升目将棋が
何故有るのか

を議論している。回答から書く。

長安、藤原京、平城京、平安京の中で、道路の
走り(条坊)が、19路の碁盤に似ているのは
平安京なのは、平安時代から江戸の元禄時代ま
で有名だったから

と本ブログではみる。
 では、以下に議論を開始する。
 平安京は、私の認識によれば、その設計段階
で、南北37路×東西33路の碁盤升目状の
条坊を市中に形成した町と見られる。一本づつ、
道路線を間引きすると、

19路×17路(東西)になるから、囲碁盤の
19路×19路に、長安、藤原京、平城京、
平安京の中では一番近い。

赤緯±90°線を取り除いた、1/2天恒星図
を、まるで地上に投影させている、かのようで
ある。

わざと、そうした

と当然私は考える。それは私の手元に有るのは、
webの情報程度だが、9路×9路を基本とし
て都の条坊を形成するものという、中国文献を

忠実になぞったものだからだ

と聞いている。長安にしても藤原京にしても、
平城京にしても、古来の方式は取り入れたが、

これほど囲碁盤そのものに、近くはしなかった

と私は認識する。藤原京と平城京については、
web上いろいろな所に、設計された街の道路
図が載っている。そしてそれらは、碁盤の目の
条房の有る街であるが、囲碁盤そのものの路数
に関連しない。更に、長安については、次のペー
ジのが判りやすい。

コトバンクの中のサブディレクトリ
旺文社世界史事典 三訂版
https://kotobank.jp/dictionary/obunshasekaishi/59/
ディレクトリ表示:
コトバンク>辞書一覧>旺文社世界史事典 三訂版

上記のページの下の方に出てくる一覧の中に、
唐代の都長安の街路図が有る。
 たとえば長安の都は、道路は碁盤の目だが、

囲碁盤と縦横の路数を、きっちりと合わせよう
とした形跡は無い。18×17(東西)のよう
にも見え、19路にきっちりとなっていない。

だいたいは古事に因んだが、都合で、道路を調
整して通しているだけである。
 それに対して京都は、1つ置きに道路を間引
きさせると、ほぼ几帳面に新旧囲碁盤である。
つまり世界の都の中で、条坊が

碁盤に最も似ている都は京都だと、日本では昔
からよく知られていて当然だったのではないか

と私は疑う。
 本ブログでは、17升目から19升目の駒数
多数将棋は、盤の外見に関して囲碁を模したも
のの一族だと見ている。だから、17升目から
19升目盤の駒数多数将棋はデザイナーにとり

成立が何時であろうと、京都の条坊に、より酷
似させるように調整してみるのも、自然の行為

であると考える。つまり、京都の街の条坊は、
碁盤に合わせたものであるから、碁盤型の遊戯
盤で行う駒数多数の将棋の一種族については、
京都の街の条坊に合わせて作成された遊戯盤で、
行えるように、

微調整しても良い物

と、ゲームデザイナーには容易に認識可能な物
だという意味である。
 よって、議論している西暦1672年成立の
”摩訶大将棊の図”の摩訶大将棋ないし
摩訶大大将棋自体が、

平安の都成立の時代から元禄時代の間のどこで
成立したとしても、平安京の道路条坊が、囲碁
盤に特に合わせたものであるという認識が不変
なら、何時の時代に成立していても同じ事

なのではないか。以上のように、本ブログでは
見ているのである。(2020/10/06)

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敵味方色不区別の日本の将棋駒は毒性が原因(長さん)

以前に同じ論題を掲げたが、今回は、具体的
に色料を特定した考察をする。すなわち、
ランプブラックつまり、墨汁以外の有彩色等
を、日本の将棋駒でゲーム中、先手・後手プ
レーヤーを表示する機能として、使用しなかっ
た理由を以下に議論する。ただし本ブログで
は前既に、毒か、高価かの何れかで、使用さ
れなかったという結論を導いている。ここで
は、色材の内容について、より

正確に踏み込む。

 以下の成書で、具体的に11世紀時点で、
日本の将棋駒を染める色材として、文面から
後述の物が存在したとして、名を挙げられる。
成書名:
「クロマトピア」、デヴット・コールズ著、
井原恵子訳、グラフィック社、2020年。
 日本に伝来して、その時点で存在した色材
の内容は以下の通りであると、今述べた成書
から読み取れる。
色名/顔料:
墨/ランプブラック(油煙)成分→炭素←こ
れのみ墨汁に加工して使用。
以下、将棋駒に使用実績ほぼ無し。
白/鉛白(日本名:銀白)。成分→炭酸鉛
(強い毒性有り。)
黄色/鶏冠石(日本名:雄黄・雌黄)成分→
二硫化砒素(猛毒)
橙/サフラン。成分→サフランの雄蕊
(製造に相当な手間が掛かる。日本に無し。)
赤/バーミリオン(朱)成分→硫化水銀←
(使用されたが、毒性強い。)
緑色/マラカイトグリーン(孔雀石)
(稀性鉱物。通常使用無理。)
緑色/緑青。成分→塩基性炭酸銅等。(色が
不安定。毒性もあり。)
青/ラピスラズリ(瑠璃)アフガニスタン産
(極めて高価。日本に鉱石無。通常使用無理。)

その他、着色力が無いが黄土(水和酸化鉄)、
茶色の弁柄(酸化鉄)は日本に、有ったと見
られる。
 以上の結果から極めて高価な青・緑と、製
造に手間が掛かって実用的でない橙は、富豪
が所々におり、需要がある程度見込めた中国・
インド・中央アジアは別だが、遊戯駒を染め
る色料として、日本の将棋駒に、適用はし辛
いと思われる。その他は、無理やり僅かに使
用例のある朱は使ったと見られるが、前に述
べたように毒が有る。つまり赤系統について、
茶色の弁柄(酸化鉄)等で代替して、ようや
く使用できたという程度であろう。
 なお、鳥獣戯画の通説将棋の図で、坊さん
が、自分の指かまたは、将棋の駒と見られる
遊戯駒を舐めているように描かれるが、この
事からも駒の色材に、当時から特に、毒性の
有る物は、使用されなかったようだと判る。
 すなわち少なくとも、出したい色の色材は、

強い毒性のあるものばかりで、遊びの為に
人命を削って色料を製造する事は、わが国の
庶民レベルでは、中世まで出来なかった。

だから、墨汁だけ使われた。
以上のように、考えられると私には思われた。
(2020/10/05)

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本ブログ版将棋の駒はなぜ五角形なのかの特徴(長さん)

”将棋の駒はなぜ五角形なのか”について、
今回は以下に議論する。
 本ブログでは、増川宏一著のものと人間の
文化史23-1、「将棋Ⅰ」法政大学出版局、
1977の結論である、

将棋の駒型は経帙牌から来る

との説を採る。そして更には進んで、
日本の将棋の将棋駒を発明した者が、経帙牌
の裏表に、ほぼ現在の駒名に対応する駒名を

墨書きして以降、全く無変化

との見方をする。今後、出土遺物に新しい
情報が無い限り、わが国に於いて

原始将棋時代に、経帙牌型駒以外の駒は無い

と見るのが、本ブログの独自見解である。
 しかしながら、その後多くの考察例が現わ
れた。すなわち史料としての根拠は、まだ発
見されてはいないものの解明『将棋伝来の謎』
で松岡信行氏が、また自身のブログで将棋駒
師の熊澤良尊氏が、「五角形駒の前に長方形
木駒が存在か?」とも述べておられる。
更に最近では”将棋の駒はなぜ五角形なのか”
という題名の成書(永松憲一著)も発行され
ている。更にはweb上では、木簡の形が元
との説もある。
 今回は、初めに答えを書いてしまったが、
本ブログの”無変化説”について、以下補足
を少し書く事にする。
 本ブログは基本的に、日本の将棋は外国産
との立場を取る。その必然的帰結として、

日本の将棋駒の発明は、伝来品一般の交易の
玄関口である太宰府か博多にほぼ限定される

と仮定されている。そして、次が重要だが、

将棋駒の最初の駒師は、輸入経文の全国配布
の配送担当者

とほぼ特定している事である。

ゲーム具と中国からの輸入経文が、交易船内
で混載されていたに違いない

と、輸入品の取り扱いを、常識的にそうでは
ないかと本ブログ見る。そのためその仮定か
ら、上陸時に、経文と日本への伝来ゲーム具
が続けざまに処理されたと見ているのである。

つまり、経文の説明を交易商人から聞いて、
牌に項目を記入して、ついで日本への伝来
将棋具(後一条天皇用)のルール説明を聞い
て、それも余った牌に、自分も後で楽しもう
としてメモした

という意味である。
 そして何度か述べたが11世紀当時、全国
配布する経文は経帙で束ねなれ、全国の寺院
ではその経文自体を使うか、または、更に写
経されたと考える。だから、

配送担当の所には、大量に経帙牌が有ったの
で、今述べたような事が出来たに違いない

と本ブログは見る。よって、

他に伝来将棋をする道具は、川に行けば小石
は有る等で考え付けたが、経帙牌に書いて、
やってみた事も有ったに違いない考える

のが本ブログ論である。そして本ブログでも、
絵馬の形が、富豪になりたい等の願望を叶え
る呪いの形であるために、平安末期に於いて、
五角形に字を書いた道具は、太宰府・博多に
於いて好まれたと、仮定している。その結果、

小石で行った、原始平安小将棋を道具の面で
駆逐

したと見るのに、さほどの不自然感が無いと
考えるのである。だから、

長方形駒の時代など無いと、ここでは見る

のである。つまり経文配送センターの下級僧
と、腕力で彼の道具を横取りできる、太宰府
の”やんごとなき”荒くれ武者が、武術とい
う彼らの仕事に絡めて、合戦の戦術練りの上
達を口実として、原始平安小将棋を指す程度
なら経帙牌駒で需要は足りたと見るのである。
 更に、

淘汰されて生き残った、五角形駒方式

は、近世になると、織田信長の楽市楽座令が、
五角形立て札で出されている事をも一例とし
て挙げられるように、

逆らうと怖い、強い者

とのイメージを持つようになって補強された。
また書き駒師の書く字体も進化して、反対側
から将棋駒を見ると、

怒って攻めているように、見えて来るよう書
体も、工夫が行き届いてきた。

そのため近世には、更に現行の五角形駒が、
不動の地位をわが国では占めるようになった。
以上のように、現代に至る高級将棋駒の
姿を見ても、特に矛盾は無いのではないか。
以上のように見る。
 本ブログでは、よって冒頭の結論”将棋駒
は経文束ね札の経帙牌が源であり、四角形駒
になった事など、基本的に一度も無い”を、
依然支持するという事である。(2020/10/04)

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将棋駒使用鳥羽院の覆物占い方法出所は長秋記(長さん)

だいぶ以前に述べたが、源師時の長秋記の
1129年5月20日の条に、鳥羽院の御前
で、12枚の将棋駒を使った占いの件につき、
太宰府の唐人よりの伝来であるとの旨の未確
認情報があるとの報告をした事が有った。
 その当時成立した、中国シャンチー駒が、
中国から日本の朝廷には、限定伝来していた
のではないかという疑いの、根拠になる旨述
べたが情報の出所が良く判らないままだった。
しかるに最近、”長秋記のその日の条の別の
所に、唐人の書物に基づき、太宰府から伝来
したやり方が、占いの方法との旨が、書いて
ある”と取れる情報があった。
情報源は、以下の通りである。
広報太宰府 西暦2009年1月1日。
”太宰府の文化財 285”
web上に、広報太宰府が10篇ほど収録
されたサイトがあり、そのページの中に、
上記情報が載っている。サイト名は以下の
通り。
エイチティティピー://www.city.dazaifu.lg.jp/material/files/group/3/24868894.pdf

言うまでも無く、24868894.pdfというファ
イル名で、ダウンロード出来るpdfファイ
ルが載っている。太宰府の朱雀3丁目出土
将棋駒名木簡との旨で、桂馬・香車・歩兵
木簡の写真が、右下に載っているファイルで
ある。蛇足だが本文中に、桂馬・香車・歩兵
木簡の、大きさ等の解説がある。
 以上の事から、依然私は未確認だがどうも、
西暦1129年の覆物占いのやり方が、中国
人実筆の書物起源という情報が、占いをした
史実を記した、源師時の長秋記の1129年
5月20日の条の中の、別箇所に載っている
ようである。(2020/10/03)

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なぜ近代だけ将棋駒価値を数量化したのか(長さん)

以前、近年になって、将棋遊びの盗み将棋と
振り将棋を連結したゲームが、北関東から
東京下町にかけて行われているという紹介を
した事があった。ところが、この連結ゲーム
は、江戸時代の嬉遊笑覧等には記載が無い。
嬉遊笑覧の将棋遊びは、例えば古事類苑の
遊戯部30の将棋で紹介されているが、勝敗
を決める基準が、今より数量化されていない。
すなわち古事類苑には、嬉遊笑覧にある将棋
遊びとして
1.飛び将棋、2.回り将棋、3.盗み将棋
4.弾き将棋の4つが書かれ、1.の飛び将
棋は、部分紹介なため、ゲーム内容が良く判
らないが、2~4の3つのゲームについては
元々が短文なので、全文紹介されている。
 その内容を見ると、そもそも
a.振り将棋が無い。b.回り将棋の終局
条件が、単に先行する別プレーヤーの駒の追
い抜きになっているので、単純競争ゲーム化
していて異なる。c.盗み将棋も、何らかの
数値の比較ではなくて、音を立てずに動か
すのが困難な駒(群)の、個別の移動のうま
さで勝敗を付ける。以上のように、抽象的に
勝ち負けの基準が記載されている。4.の
弾き将棋だけは、今の残る通りである。
上記a、b、cは、駒種の数量化が江戸時代
にほぼ、無かった事から来るようである。
 回り将棋で、歩香桂銀角飛玉の順番で格が
上がるというふうに決めるのにも、玉は取ら
れると負けだから、最高の価値なのは当然と
して、その他は駒の数量的価値が、七国将棋
の駒の古文書記載のように、近似的にせよ認
識されていなければ、序列は決まらない。
 ではなぜ、日本将棋の駒には、駒の価値に
つき、駒種で点数付けが、江戸時代には無かっ
たのかを、以下考えてみる。回答を書く。

貨幣に準えようとして、金銭値の価で定義し
ようとしたが、江戸時代にはその体系が複雑
なため、それが、ネックになり進まなかった

とみられる。以下に、説明を続ける。
 明治時代になり、円を単位として完全に
10進法で貨幣の価値は表現されるようになっ
たので、点数でも円でも銭と円との組合せで
も、それを単位として将棋駒価値の数値化は
出来るようになった。だから、

将棋の駒を貨幣に準えるような習慣が、日本
でも、江戸時代には有った

と考えると、盗み将棋で、駒種で点数を合計
して勝敗を決めたり、回り将棋で駒の序列化
をすんなりしたりという事が、無かった理由
が説明出来る。つまり、
点数では表せたが、貨幣単位に準えようとす
ると、貨幣の価値を表す体系が、両が有り、
朱があり、文がある江戸時代は、ややこしい
との心象が生じた。そのため、

数値化する考察自体は、和算の発達した江戸
時代にも難なく出来たのだろうが、日本将棋
の将棋駒の価値の数量化は、たまたま江戸期
には流行らなかった

のではないかと、私は思う。そのため、
回り将棋は追い越しで勝負がつき、盗み将棋
は、取り難い駒群が、取れた人間を勝ちにし、
後で取った駒全体の、点数総計を出して勝敗
は決めなかったのであろう。更にはaのよう
に振り将棋つまり、お金将棋自体が、発生し
なかったのであろう。
 そして、そう考えて矛盾が起こらない事は、

明治時代が来て、日本の貨幣表現の体系が
変わると、とたんに振り将棋や、角升目で
昇格する回り将棋や、総計を金額換算して、
勝敗を決める盗み将棋が、現に発生した事で
証明されている。

以上のような事ではないかと、私には現時点
で疑われる。(2020/10/02)

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