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なぜ草戸千軒遺跡では将棋駒が出土しないか(長さん)

多くの、特に近世の地方の街場の遺跡で過去、
将棋具特に将棋駒がかなりの数出土している
事が知られている。ところが表題の、広島県
福山市、芦田川流域の草戸千軒遺跡からは、
闘茶札や聞香札はかなりの数出土しているに
も関わらず、同じ木札形の将棋駒の出土が
知られていない。なお、奈良文化財研究所の
発掘報告書データベース”全国遺跡報告総覧”
の中に収録されている、この遺跡の発掘報告
書はweb上で、pdfとして現在公開され
ていない。ので、私には見る事が出来ない。
だから、実際出土してい無いのかどうかは、
実の所私には、正確には確認できてはいない。
そこで以下は、たぶんそうだという事として、
今回は、ずばり将棋遺物が見つからない理由
を論題とする。回答から書く。

室町時代中期(戦国時代より前)が、メイン
の遺跡だから

である。では、説明を開始する。本ブログの
以前述べた論では、室町時代の前期から、
応仁の乱までの、以下”室町時代前中期”と、
成書にここでは合わせて、”戦国時代抜き”
型の表現をする時代については、鎌倉時代と、
戦国時代に比べて小将棋のプレーヤー数は、

相対的という意味でしか、実は無いのではあ
るが、やや少なかった

と見る。だから、その時代の遺物が最も多く
残った、広島県福山市の草戸千軒遺跡では、

将棋駒の出土確率が減少したのが原因

だろうと考える。
 ちなみに、この遺跡は鎌倉時代から有るが、
遺物の残りは室町時代前中期が最も多いとの
旨の説明は、たとえば以下の成書にある。
よみがえる中世【3】埋もれた港町草戸千軒・
鞆・尾道、松下正司編、平凡社、1994年。
 その、第2章のトップ、”町割の変遷”等
にその旨が、記載されていると私は認識する。
 他方、本ブログで過去に、沖縄の将棋史を
論じた際等に示唆したが。いわゆる室町時代
(足利氏統一期)は、平安小将棋の持駒有り
タイプのプレーヤー人口が、中将棋も含めた
将棋プレーヤー全体の中で最も多かったとは
みられるものの、成りが”敵陣突入時一発成”
に微調整される事により、

旦代の難点が、首の皮一枚で回避された状態

だったと考える。つまり、平安期と比べれば、
格段にゲーム性は上がったが、小将棋はゲー
ムとして、未完成である事には変わらなかっ
たとみられるという事である。そのため、

中将棋との間で勢力二分の分裂状態になって
いて、将棋人口を分けただけでなく、長期低
落傾向をも招いていた

とここでは考えている。ゲーマーなら有る程
度鍛錬すれば、事情は誰にも判ったであろう。
だから、草戸千軒遺跡に当時居た豪商などは、
行う遊戯として、闘茶や聞香を、優先させる
傾向があるのは、しかたがない事なのではな
いかと考えている。
 よって、数としての相対比較という意味で
あり、けして将棋が指されなかったという訳
ではないのだが。いわゆる全国統一政権が、
まだ有った頃の”室町時代”、本記事で言う

室町時代前期~中期を発掘遺物の成立の中心
とする町場遺跡では、他の町場遺跡に比べて、
将棋駒が少し出土しにくい傾向が有る

のではないかと私は疑う。
 当然だが、そこには飛車・角行が導入され
ていたのか否なのかという情報が、本来入っ
ているものなので。
 もし草戸千軒遺跡から将棋駒が発見された
とすれば、

相当に重要な史料になる事が、最初から約束
されている

のは確かだと、当然のごとくに考えられるの
である。(2020/12/02)

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