秋田県払田柵跡遺跡で9世紀の桂馬木簡か(長さん)
以下、平安時代の奥州の城柵跡として有名だ
と聞く、秋田県大仙市払田から仙北郡美郷町
本堂城回にまたがる、払田柵跡遺跡の木簡の
中に”桂馬”という字に、見えるものがある
という話題である。ただし、
桂の字が怪しく、官営の厩の目印が疑われる。
では論を開始する。
以下の発掘報告書に記載が有り、web上
で見る事が出来る。一乗谷朝倉氏遺跡の出土
将棋駒が発見されて、まもない頃の、かなり
以前の報告書である。
払田柵跡調査事務所年報1983
払田棚跡、第49次(2~3分冊)・53次・
54次発掘調査概要、
秋田県埋蔵文化財振興会、西暦1984年
web上では、本ブログでもたびたび出てきた
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
”全国遺跡報告総覧”に収録されていて、
pdfファイル名は、以下の通りである。
11708_1_払田柵跡第49_2-3・53・54次発掘調査概要.pdf
なお最近まで現地では、繰り返し発掘調査が
行われているようである。
報告書には”嘉祥二年(西暦849年)”
の年号が入った墨書遺物がこのときに共出土
した等記載されている。この事から、問題の
墨書木片は、9世紀前後の遺物のようであり、
1982年に、発掘発見されたものである。
その木簡の切れ端の遺物は以下のものである。
残念ながら、この木製品について、報告書に
詳しいコメントは無いようだ。当時は馬と書
いてある墨書遺物で片付けられたのであろう。
だがこのケース、馬の前の字は、はっきり
しないが、いっけん
”桂”のようでもある。
当然だが、9世紀中葉に、日本に将棋は見出
せ無いとの見方が、現時点では有力である。
ただし、官営跡なので駅馬が居たとみられ、
駅舎を示す何らかの目印が有って不思議ない
場所であったのが、残念だったと私は感じる。
何れにしても奥州の当時の北方異民族に対
する守りの城柵跡が、墨書木簡も認字層も、
有る程度居て出て来やすいため、
将棋遺物の有無を調べるキーポイント
である事が、よく判る例だと私は思う。
前に王将墨書土器を指摘した、福島県
会津若松駅の北方の遺跡も、その類だったし、
少なくとも私もこれで2例目に、ようやく、
たどり着いた事は、確かなように感じた。
(2020/12/24)
と聞く、秋田県大仙市払田から仙北郡美郷町
本堂城回にまたがる、払田柵跡遺跡の木簡の
中に”桂馬”という字に、見えるものがある
という話題である。ただし、
桂の字が怪しく、官営の厩の目印が疑われる。
では論を開始する。
以下の発掘報告書に記載が有り、web上
で見る事が出来る。一乗谷朝倉氏遺跡の出土
将棋駒が発見されて、まもない頃の、かなり
以前の報告書である。
払田柵跡調査事務所年報1983
払田棚跡、第49次(2~3分冊)・53次・
54次発掘調査概要、
秋田県埋蔵文化財振興会、西暦1984年
web上では、本ブログでもたびたび出てきた
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
”全国遺跡報告総覧”に収録されていて、
pdfファイル名は、以下の通りである。
11708_1_払田柵跡第49_2-3・53・54次発掘調査概要.pdf
なお最近まで現地では、繰り返し発掘調査が
行われているようである。
報告書には”嘉祥二年(西暦849年)”
の年号が入った墨書遺物がこのときに共出土
した等記載されている。この事から、問題の
墨書木片は、9世紀前後の遺物のようであり、
1982年に、発掘発見されたものである。
その木簡の切れ端の遺物は以下のものである。
残念ながら、この木製品について、報告書に
詳しいコメントは無いようだ。当時は馬と書
いてある墨書遺物で片付けられたのであろう。
だがこのケース、馬の前の字は、はっきり
しないが、いっけん
”桂”のようでもある。
当然だが、9世紀中葉に、日本に将棋は見出
せ無いとの見方が、現時点では有力である。
ただし、官営跡なので駅馬が居たとみられ、
駅舎を示す何らかの目印が有って不思議ない
場所であったのが、残念だったと私は感じる。
何れにしても奥州の当時の北方異民族に対
する守りの城柵跡が、墨書木簡も認字層も、
有る程度居て出て来やすいため、
将棋遺物の有無を調べるキーポイント
である事が、よく判る例だと私は思う。
前に王将墨書土器を指摘した、福島県
会津若松駅の北方の遺跡も、その類だったし、
少なくとも私もこれで2例目に、ようやく、
たどり着いた事は、確かなように感じた。
(2020/12/24)