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なぜ北海道の勝山館から将棋駒は出ない(長さん)

北海道の戦国時代から安土桃山時代に
かけての城址で、蠣崎氏の本拠だったと
聞く表題の城の発掘調査が前世紀
1970年代から行われていて、碁石は
出土しているが、少なくとも前世紀の
発掘時点では、将棋駒出土の記録は無い
ようである。今回は、理由を論題にする。
回答から書く。北海道では

文字の普及度が全体として安土桃山時代
までは本州より低く、将棋のルールの伝
達が軟弱で、将棋棋士の人口が少ない為

とみられる。説明を加える。
成書「よみがえる中世4、北の中世津軽・
北海道」の第4章、”道南の和人の館”、
執筆者が松崎水穂の106ページから
124ページに、勝山館跡の発掘調査の
記載がある。
 私が今の所確認している、前世紀の
勝山館の発掘調査情報はこれだけである。
1970年代後期の発掘が主体であった
ように書いてある。
 侍館と本体の館に木製遺物が残ってい
たようである。

侍館からは、食事に使用する箸と漆器、
生活用品の下駄しか出ていない。

説明によると文字文化の無いアイヌ民族
が、16世紀の戦国時代~安土桃山時代
には、館の警護をしていたように読める。
 次に、城跡からも生活用品と食器以外
に木製品の出土は無いようである。特に、

城の中にも文字史料が、無地の木簡1枚
しか出ていない。

ただし硯は有ったようである。恐らく
勝山館の館内にも、筆不精しか、当時は
居無かったのであろう。
 木製品自体はそれなりに出ているし、
碁石も出土しているので、ボードゲーム
の類は行われたとみられる。しかし、
駒に駒名の字が書いてある将棋ゲームは、

文字を使用する頻度が蠣崎氏の間では
戦国時代には少なく、そのために勝山館
では、その普段の習慣の影響から将棋は、
大いに盛んという所までは行かなかった

のではないかとの印象である。
 松前城下が発展する江戸時代には、道
南で将棋は指されたに違いなかろうが。
安土桃山時代までの、北海道の将棋遺物
を探すのは、全体として多分少なすぎて、
かなり難しそうだとの印象を受ける内容
に、前記成書は読み取れた。(2020/12/11)

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