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何故青森県旧市浦村十三湊遺跡に出土将棋駒が無い(長さん)

今回は、南北朝時代を中心とした青森県の
遺跡として著名な、十三湊遺跡から将棋駒が
出土したという情報を、本ブログの管理人が
持っていない理由について考察する。
 結論から述べる。

井戸跡遺跡の木製品の腐りが激しく、
南北朝時代前後の遺物が、残っていないため

と考える。つまり十三湊に於いて、

日本の南北朝時代頃に、将棋が行われなかっ
たとは考えにくい

と解釈するという事である。
 では説明を開始する。
 以下の成書に、概ね西暦2002年前後よ
り以前の、青森県の十三湊遺跡の発掘情報が
ある。
中世十三港の世界、
編集:青森県(北津軽郡)市浦村(当時。現
五所川原市)、新人物往来社、西暦2004。

 それによると十三湊の遺跡の遺物の中に、
室町時代前期の15世紀初の遺物は、大量に
含まれるが、

隆盛時代の中心点は、南北朝時代であり、

その前後の鎌倉時代後期と室町時代前期にも、
成立した遺物が、それには劣るが比較的多く
含まれる状況との旨の情報が、前記成書の、
以下の章に有る。つまり、この成書は、
発掘調査報告書の集成のような形態の書物で
ある。

109ページ以降の十三湊の都市構造と変遷,
発掘調査10年の成果から、榊原滋高
五 十三湊の発展、六 十三湊の最盛期

239ページ以降の十三湊遺跡 湾口部・
町屋地区・壇林寺の調査、鈴木和子
二 町屋地区の調査、三 壇林寺跡の調査

271ページ以降の推定家臣団屋敷地区の様
相、工藤忍(全編)

295ページ以降の唐用城跡の発掘調査、
前川要(全編)

室町時代前期が遺物の成立時期なのであれば、
小将棋+中将棋のプレーヤー人口は、南北朝
期の小将棋が比較的堅調な時代のプレーヤー
人口や、戦国時代の日本将棋勃興期のプレー
ヤーの人口よりも、少し少ないという事にな
る。だが実際には、

十三湊の遺物の成立期は南北朝時代が中心点

とされる。なので室町時代中期が中心点であ
るために将棋駒が出ないという広島県福山市
の草戸千軒遺跡のような理屈は成り立たない。
 だから、この遺跡では将棋駒だけでなく、
他の木製品も、少なくとも新人物往来社の成
書”中世十三港の世界”の、前記の記載の、
実質発掘報告を読む限りは、主要な出土物で
無いとみられる。その事から、

地下水が悪くて、廃棄された将棋駒が残らな
かった

と説明するしか無い。ようするに、小将棋を

安藤氏関連の武者は指したが皆腐って消えた

と、取るしか無いと言う意味である。
 なお、前記成書に石製品の記載も余り無く、
碁石の記載も無い。しかし、web上の、
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの
”全国遺跡報告総覧”の中に、十三湊遺跡の
発掘報告書で、web上で読めるものが有り、
それによると、僅かな数かつ、はっきりそう
だと言えないようだが、

十三湊遺跡で碁石らしきものは出土している

らしい。成書ではなくて、web上のその発
掘報告書に関しては、碁石の写真とスケッチ
が、両方私には、たまたま未確認である。
 碁石で間違いなければ富山県の石名田木舟
遺跡出土の黒碁石と同じく、国府跡以外の地
方出土碁石としては鎌倉時代後期~室町時代
中期以前成立の、賑わっているとは言え、
国家の中枢が在住しているとまでは言えない
港町とみられるため珍しいものだろう。
 以上のように残念ながら、北海道に、
平安小将棋が進出していたという手ががりは、
青森県の十三湊遺跡の発掘結果からは得られ
なかった。が単に遺物の持ちがここでたまた
ま悪かっただけで青森県だけでなく、北海道
にもひょっとして、平安小将棋が上陸してい
た疑いは充分有るのではないかとの心象を、
私は前記の書籍をチェックした結果、以上の
思考から、今回持つようになった。(2020/12/07)

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