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なぜ神鳥谷曲輪遺跡木製品に底板又は曲物が多い(長さん)

以前発掘報告書の読み込みを本ブログの管理人
が余りしていない時代、栃木県小山市神鳥谷
(北端)曲輪遺跡の成り一文字金角行駒につい
ては、その成立年代に関し、小山市作成の報告
書は信用できないとの旨を結論した。すなわち

遺物は近世の物

であり、南北朝時代の記憶を忠実に写した、
近世の寺の寺宝だとの旨を主張した。根拠は、
寺宝の廃棄場所とみられる、8号井戸を中心と
した、半径数メートルに、いわゆる生活用具が
異常集中しているという不自然さが、ここの遺
跡の遺物にあるからであった。その他の数十メー
トル領域には、大量のカワラケを中心とした、
南北朝時代の小山氏部族の遺跡には、他所にも
見かけられる物品が、大量出土していると、本
ブログでは認識している。
 本ブログの解釈では、広い範囲のカワラケ等、
形が似た物が大量に出土すると言う性質のマス
プロ遺物は南北朝時代のもので、8号井戸の一
角の、

将棋駒、下駄(女物)、櫛、三つ巴スタンプ火
鉢、組み立てられた曲物板、瓶は、江戸時代の
神鳥谷青蓮寺の寺宝とされたものや、生活用品
の一部である疑いが有る

という事だった。
 しかしながら栃木県小山市の神鳥谷曲輪遺跡
の、マスプロ型のバックグラウンド遺物の中に
も木製品があってそのうちの多数が、井戸に見
出され、その意味の把握が、私には個人的に出
来ていなかった。全国の遺跡の木製遺物を、当
時は調べ慣れていなかったからである。
 今回は、中世遺跡一般の中で、上記で述べた
カワラケと対をなしているような、数の多い遺
物の特徴を、再考してみる事にする。
結論から書く。

曲げ物の原材料かまたは、底板とされている木
切れが、木製品のうちのかなりの部分を占めて
いる遺跡は全国的には比較的稀。

以上のように、神鳥谷曲輪の井戸跡からは食に
関連した木製品ばかりが出てきている事から、

むしろ神鳥谷での”普通”が、日本全国レベル
で見ると異形。

そして、この遺跡の場所が何で有るかに関して
素直に見れば

”多人数用の食堂の場所”

と見るべきである。つまり結婚式の披露宴や、
葬式の宴会場、大勢の下級武士の食事所、
旅館の大宴会場。以上のような場所がイメージ
される。
 では論を続ける。
 以上で述べた情報は、小山市教育委員会が
西暦2010年に発表した(西暦2007年の)
神鳥谷曲輪跡の調査Ⅰに示されている。
web上でも、奈良奈良文化財研究所の
発掘報告書のデータベースの
”全国遺跡報告総覧”の中に収録されていて、
pdfファイル名で
23209_1_神鳥谷遺跡Ⅰ第1分冊.pdf
23209_2_神鳥谷遺跡Ⅰ第2分冊.pdf
で、見る事が出来る。
 カワラケが大量に出ているが、たくさん出る
遺跡は、全国的には別の遺跡にもあると見られ
る。箸も神鳥谷曲輪では数が多いが、全国の他
の遺跡にも箸に関しては、かなりの数、出土す
るケースがある。問題は木が腐らないので出土
するという原理で、木製遺物は井戸跡からしか
出土していないのだが、

井戸にもカワラケは落ちていて、そこには、
曲物ないし底板と、発掘報告書には表現された、
定型の木片が、多数出土して来ている

という点にある。カワラケは食器だから、
報告書に有るように、この木片を箸とカワラケ
の数に対応させて作成した、”曲物”用木板原
材料と見るのは、発掘報告書の通り、自然だと
私も思う。つまりこの遺跡の特徴は、

リビング用品でも建築資材でもなく、食器だけ
が大量に、しかも同じ形大きさのものばかり出
てくる

という点に、

他の全国遺跡には、余り見当たらない特徴が
ある。

明らかに、大きな会社の社員食堂の、大量の同
じ形の食器を、井戸に捨てたようなイメージで
ある。
 そもそも、具体的に井戸から出る木片は、
巾が数センチ・オーダーなのは、蒸し物の道具
として普通だとしても、

長さが十センチ強しかないのは特異

である。
つまり、蒸し物料理を作る曲輪だとしたら、
8号井戸の1個だけ出土している、完成品を見
ても判るように、

小籠包を1個ずつ蒸せるだけのような大きさ

である。日本の会席料理を金持ちのツアー客に、
地方の旅館が料理を入れて、出しているような
イメージが、私には思い浮かぶ。
 カワラケは、普通は酒を注ぐと聞いているが。
 このケースには特製小籠包を、一人一人の
下級武士に、殿様の奥方・女中が、カワラケに
乗せて1つずつ配る姿が連想される。つまり
その際に財力を見せるため、蒸し器の曲輪に乗
せているようなイメージだ。つまり殿様が何か、
お祝いで、家来を皆集めて料理を振舞うときに
出す道具が、大量に出土しているのかもしれな
いと、私は半ば空想して考えているという事で
ある。
 なお大量なカワラケが出る、小山氏一族の城
として、下野長沼氏の城が有ると聞いている。
木製遺物が腐らなかったとすれば、そこでも
小山氏本家の神鳥谷曲輪跡と、似たような曲輪
木片が大量出土したのかもしれないと私は思う。
 小山氏は他の武家と異なり、食事は全員が
集まってするような、共同生活を営む性質があっ
たのか。何れにしても、南北朝時代の遺物につ
いては、ここには他に余り見られない木製遺物
の特徴である。そのため、

むしろ8号井戸付近に局在化した、リビングや
玄関先の生活用品がイメージされる、将棋駒を
含む他の遺跡で、良く見かける出土遺物のパ
ターンが、かなり浮き出て見えている。

その証拠に、将棋駒以外には遊戯具があるとい
う気配が、この遺跡には”普通パターン”の領
域が余りにも小さすぎてほとんど感じられない。
 以上のような、木製遺物の出土パターンになっ
ていると、最近、他の遺跡の発掘報告書を、少
しずつ読むようになってから、私はこの遺跡を
見直して見て、特に感じるようになって来た。
(2020/12/19)

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