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西暦1987年頃発掘清洲城下町飛車駒は卒塔婆(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒カタログに、
不明駒(”飛”か?)と載っている、愛知
県の清洲城下町遺跡出土遺物について、以下
に議論する。前記成書の戦国時代成立と表記
された、70ページ右上の出土物品のスケッ
チに関してである。実は発掘報告書がweb
上に有り、写真を見ると、

底面に切り跡のササクレがある。
梵字等が書かれた卒塔婆の頭の部分

を折り取ったもののようだ。
 では、説明を開始する。清洲城下町からは、
成り一文字今金歩兵駒も出土している。以下
のpdfファイルは、当時の発掘報告書で、
飛車駒かとされるものと並んで、本物とみら
れる、典型的な戦国時代から安土桃山時代に
かけての歩兵駒の出土も紹介されている。
1924_1_清洲城下町遺跡2.pdf
 前記の報告書に於いて、将棋駒では無いと
本ブログでは見る”飛”と読まれた遺物の、

写真の方が写った発掘報告書は別

で、以下のpdfファイルである。
1924_3_清洲城下町遺跡2.pdf
何れも元々は同じ報告書が、pdfファイル
の製作時に分割され別々になっただけであり、
元もとの発掘報告書の名称は、以下の通りで
ある。

愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第27集
清洲城下町遺跡(Ⅱ)、1992年
(財)愛知県埋蔵文化財センター
問題の遺物の写真の下部を示す。

清洲城下町飛.gif

上記は、発掘報告書の後ろの方、図版45、
出土遺物 木製品(2)として載っている。
 上記図のように、遺物の下部には切り跡が
有る。元々の物品は、もっと長い木製品の板
であり、それを切って、短い五角形にしたと
みられる事は明らかだ。なおこれを、例えば
卒塔婆の切れ端とみれば、文字は”飛”では
なくて、ある種の梵字のようである。またこ
れだけから見れば、飛と言う字と言うよりは
武士の花押の一種のようにも、私には見える。
 ちなみに、たまたまだと見られるが、天童
の将棋駒と全国遺跡出土駒には、スケッチし
か載っておらず、今述べた点が明確には判ら
ない。
 そもそも遺物は、将棋の駒としてしまうと、
平泉の中尊寺境内遺跡出土駒に近く、

形からは平安時代末期になってしまう。

実際には、城下町の歴史からみて、戦国時代
から安土桃山時代に掛けてが明らかだし、他
の将棋駒である歩兵駒を見ても、室町時代~
戦国時代のものであると明らかに判り、整合
していない。
 だからこの遺物は、恐らく将棋駒ではなく
て、やはりたとえば、何らかの理由で頭の部
分だけ切り取られた、卒塔婆の破片の類なの
ではないかと私は疑う。(2020/12/21)

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