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岩手県奥州市作屋敷遺跡で900年奔馬墨書土器(長さん)

今回は以前に「奉車と奉馬」5文字墨書遺物が
出土した、岩手県奥州市中半入遺跡の1km
圏内の遺跡で、成立時代は西暦900年前後と
見られる「奉馬」と書かれていると疑われる、
土器片出土の紹介である。奥州市の遺跡群の
付近に、対蝦夷戦争拠点となる城柵で、軍事用
に馬が飼われていた疑いが有りそうである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
12772_1_尼坂遺跡・牡丹野遺跡・作屋敷遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第569集
尼坂遺跡・牡丹野遺跡・作屋敷遺跡発掘調査報告書。
西暦2010年、岩手県県南広域振興局農林部農村整備室・
(財)岩手県文化振興事業団。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場所は、
岩手県奥州市胆沢区南都田字作屋敷487番地。
遺物が発掘されたのは、西暦2008年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第70ペー
ジの記載によると、第5号土坑で話題にする土
器片は出土したが、9世紀後半~10世紀前半
に成立したと見られているようである。なお、
以前紹介した中半入遺跡の「奉車と奉馬」墨書
土器の成立年代は、9世紀後半との事であった
から、ほぼ同じ頃のものと考えて良いだろう。
 遺物の写真は発掘報告書の、作屋敷遺跡の
写真図版43:”古代の土器(5)”の上から
2段目左に在り、遺物番号67番とナンバリン
グされている、甕型土器の破片とされていると、
前記発掘報告書の記載から、読取れる出土遺物
である。

作屋敷遺跡奔馬.gif

 上図のように、右上隅に、漢字の馬であると
言われれば、そのようにも見える黒い煤模様が
在り、その左に漢字の奉のようにも見える模様
がある。なお、左上に2つ黒い煤模様の塊があ
り、その右側はやや薄いが、それも奉のように
も見える。左端の煤の黒い塊状模様は、判然と
しないように思う。
 中半入遺跡の南西1km以内の地点での出土
の為、牧場地帯であって、柵で軍用にする馬が、
西暦900頃飼われていたと考えると、ツジツ
マが良く合うように私見する。そうすると、
以前中半入遺跡で出土したと紹介した杯型の出
土土器に書いてあった「奉車」は、お偉方用の
牛車の事なのであろうか。或いは悪路が多い為、
日本ではあまり普及し無かったと見られる、「
戦車」が、珍しくここには実際に有ったのか。
 何れにしても平安時代中期には柵に関連した
施設が有り、12世紀半ば頃には、奥州藤原氏
の居所でもあった、大和朝廷が軍事的に拠点と
して押さえていた一帯なのであろう。(2022/06/12)

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