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宮城県亘理町椿貝塚遺跡で縄文後期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、宮城県の縄文後期遺跡から、無縄文
土器が出土し、漢字で奉馬と書いて在るよう
な煤模様が有り、草を入れていたのではない
かとされる、出土土器の紹介である。
 弥生時代に、有力者に馬を奉じる時に、飼
葉を入れていた器の疑いも有るように考える。

弥生土器がたまたま、混入している

のではないかという意味である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
10066_1_下草古城跡ほか.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
宮城県文化財調査報告書第146集
下草古城跡ほか、西暦1992年、
宮城県教育委員会。
 この発掘報告書には、8箇所の遺跡の
発掘報告結果が載っており、宮城県内で、
バラバラにいろいろな場所の発掘調査がこの
頃行われたことが判る。
 発掘報告書第3ページ表によると、今回話
題とする、遺物が出土した遺跡の場所は、
宮城県亘理郡亘理町逢隅上郡字椿。遺物が出
土したのは、発掘報告書の第129ページに
よると西暦1991年前後のように読取れる。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第148ペー
ジ(椿貝塚の)考察によると、縄文中期後半
から縄文時代後期であると読取れるが、発掘
報告書の第140ページによると、この土器
片等は無紋ないし縄文が消えている等であり、
縄文時代特有の文様が無い。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第5:
”下部貝層群出土遺物16~19層”の、
右下に在り、遺物番号(写真図版5の)19
番との旨、ナンバリングされている。深鉢土
器の下部と解釈されているようであるが、底
に鉢底穴が在るのかどうかは、報告書を読ん
でも良くわからない。

椿貝塚奔馬.gif

上記のように、左隅中央やや下に、漢字の奉、
右下に漢字の馬のような煤模様が在り、縄文
時代中期後半だとすると紀元前20世紀程度、
後期だとすると紀元前10世紀程度に、漢字
が伝来した事になってしまい、漢字成立前で
ある。以前に東北岩手県の、小出遺跡のとき
に論じたように東北では縄文時代が、西日本
の弥生時代の紀元前数世紀頃までは続いてい
たし、そもそも、この遺物に限っては、

縄文が検出できないので、縄文晩期やひょっ
とすると弥生時代のものである可能性も有る

と私見する。
 何れにしても、

奉の字の成立は、漢字の中でも飛びぬけて早
く、東北地方でも、紀元前後の頃には何者か
によって書かれ、

有力者に、飼い馬を献上する際等に、飼葉入
れに、奉馬と書いていた疑いが残るように、
私には疑われる。(2022/06/13)

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