SSブログ

大江匡房は大宰府権帥で九州に下向経験が有る(長さん)

本ブログでは白河院政期に藤原摂関、藤原師通・
藤原忠実を抑える院政政治に加担した大江匡房
自身が、江戸時代に残る言い伝えの通り
9升目36枚制平安小将棋の確立者であろうと
見る。そして本ブログの主題である平安大将棋
の作成は、9升目制の旦代難点を突いた仕返し
と言うべきものであり、藤原忠実の依頼を受け、
「大江匡房将棋」の権威を落とすために陰陽寮
や若手藤原氏を束ねて、前者の長の安倍泰長が、
自ら立案責任者となって、2~30年程度の間
を置いて作り上げたものであるとする。
 大江匡房に囲碁の才が在る事は記録に残って
おり、碁会を主催している。が、将棋を指した
という記述は、江戸期の伝承以外には残ってい
ない。従って、淡くても良いから別に証拠を示
す必要は有るとみられる。
 他方本ブログでは、将棋が伝来したのは西暦
1014年に焼けた御所の飾り付け用、および、
後一条天皇の玩具として必要だったからであり、
隆盛し始めたのは(水無瀬兼成等、兼成は養子
だが元々の水無瀬家の先祖の)藤原隆家が、
大宰府権帥であった時代にほぼ同時になりその
ときに刀伊の入寇が有って撃退できたのだが、
「戦闘作戦を練る為の軍事教練として(自らが)
習熟していた、8升目32枚制原始平安小将棋
が撃退に役立った」と表敬訪問した後一条天皇
御前で、西暦1020年に藤原隆家自身がヨイ
ショして、将棋を持ち上げてくれたのが、発端
要因であると見る。なお藤原隆家は、この時点
で「内裏への出入り禁止身分」の可能性がある。
 以上の事から、大江匡房に将棋を指した証拠
は、直接的には無いのだが。将棋に縁があった
から、

大宰府権帥を経験し、それも晩年にもう一回
やっている

という点が、大江匡房にも在るとしたら好都合
である。本ブログの管理人は実はうっかりして
いたのだが。実際に大江匡房にはそのような
経歴が在る事は、webのサイトで容易に確認
出来る。以上の事に管理人自体、最近になって
ようやく気がついた。
 例えば、wikipediaの大江匡房の項
には、以下の内容が記載されている。
 「大江匡房は白河院制期に議政官の傍らで、
式部大輔・勘解由長官を兼務する権力者となっ
ていた。が、西暦1097年に57才前後で

大宰権帥となり、翌年に九州へ下向している。

更に、最晩年66才の西暦1106年に、
権中納言を辞してから

再度大宰権帥になった。

この際は病気で在京し続けた。そのため大宰府
の治安が乱れて問題になった」との旨の情報源
となっている。
 最初の赴任が藤原隆家に比べると遅いが、
その他の点では良く似ている。別途推挙される
理由は有るとしても、

将棋の成立に、藤原隆家と同じく、深く影響し
ているという事実が存在して、そうなったとし
ても特に不思議は無い事

だと、少なくとも疑う程度の事が可能な一致点
だと考える。なお麒麟抄の伝作者と偽称されて
いる事で名高い藤原行成は、藤原隆家の次代の
大宰権帥である。それに関連して隆家の後釜の
立場として行成は京都の世尊寺で、将棋作駒を
実際に指導していた疑いを、本ブログの管理人
は依然として個人的には持っている。藤原隆家
と藤原行成の行動に関するこれらの、記録に残
らない事実については例えば、晩年の

水無瀬兼成の、尋常でない生き様に、色濃く映
し出されて、実存在を暗示している

という事なのではないかと、個人的には疑う。
本ブログの現時点での立場は、以上のような
内容と、なっているのである。(2022/06/15)

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー