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福岡県大刀洗町下高橋馬屋元遺跡で奈良期奔王墨書土器(長さん)

今回は、福岡県の遺跡で奈良時代の土器に、「
奉王」墨書の有る例を示す。

大和朝廷の時代になり、王や皇は洛陽では無く
て近畿地方に存在するようになっても、九州の
北部では、奉王墨書が土器に記され続けた

ようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
57558_1_下高橋馬屋元遺跡1.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
県道久留米・筑紫野線関係埋蔵文化財調査報告7
下高橋馬屋元遺跡(1)、1997年、
福岡県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所は、
福岡県三井郡大刀洗町下高橋。遺物が出土した
のは西暦1995年前後の事のように読取れる。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第39ページ
とその前後の記載により、竪穴住居跡1~4号
の何れかから出土したが、8世紀の奈良時代成
立であろうと取れる旨の記載が在る。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第44の、
下から2段目左側に在り、遺物番号で第10番
との旨、ナンバリングされている。甕型の土器
の破片のようである。

下高橋馬屋元奔王.gif

上図のように、写真の土器の左側の上から、縦
に、漢字で奉王と読めるような、煤模様がある。
弥生土器とされる為、弥生時代の奉王や奉馬墨
書の甕型土器と、形の上での、さほどの差は無
いように私には見える。
 近畿地方の奈良市に中央政権が出来ても、納
税の際の貢物の入れ方は、弥生時代に大陸や、
古墳時代に地元の有力者へ差し出す場合と、
福岡県近郊では、格別な差が無かったことを示
しているように私見される。奈良期の大和朝廷
と漢王朝とで、福岡県の下々の民には、大きな
差が在るようには、ひょっとして、見えなかっ
た事を示しているのではないかと、私は疑う。
少なくとも奈良時代に、遣唐使を派遣する効果
は有ったろう。(2022/06/28)

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